6/20 2007掲載

想い出の映画スター
 
エバ・ガードナー   Part1
 
1950年代にハリウッド随一の美女とうたわれ、エリザベス・
テイラーと美しさを競っていたエバ・ガードナーをご存知で
しょうか。
 
「ハリウッドスター神話」と言われますが、星の数ほど居る
ハリウッドのスターの中で、エバ・ガードナーほど伝説的な
女優は珍しいのではないでしょうか。背が高く、黒に近い
ブルーネットの髪、鋭い切れ長のグリーンの瞳、
しなやかな肢体で全身から発する強烈で野性的な魅力は、
男女を問わず見る人の心を捉えました。
アメリカ南部の田舎町出身のエバ・ガードナーは姉の夫が
送った写真がきっかけとなり、MGMのスカウトの目に
とまり映画入りをします。
 
 
 
170cmの長身に、見る者の心を奪うその美貌とうらはらに、
内面の未熟さや南部なまりに、長いこと劣等感に苦しめられ
ました。MGMと契約した後、1年間は標準語の練習と演技を
磨くことになりましたが、強い南部なまりの影響で仕事といえば
ピンナップの写真ばかりでした。
 
 
 
 
映画デビューよりも早く、当時MGMのドル箱スターだった
ミッキー・ルーニと、会社の反対を押し切って結婚して名前が
知られるようになりました。身長(ミッキー・ルーニは小男)
も性格も対照的だった二人の結婚生活は、わずか1年半で
破局を迎えましたが、まもなく当時の人気バンドリーダーの
アーティ・ショウと恋に落ち再婚します。
 
 
 
アーティ・ショウとの再婚は、エバ・ガードナーの知的向上に
プラスになりましたが、趣味も性格も違うため長続きはせず2年後に
離婚にいたります。この間、映画には出演していましたが、セリフの
少ない端役やエキストラばかりでした。
 
1946年アーネスト・ヘミングウエイの短編を映画化した、「殺人者」に
バート・ランカスターと共演。男を破滅に追い込む悪女を熱演して大きな
注目を集めました。
 
 
 
1951年ブロードウエイのヒットミュージカル「ショーボート」に
黒人と白人の混血女性を演じ、歌は吹き替えでしたが、他の出演者を
圧倒する迫真の演技で、スターの座を不動のものにしました。私生活
では妻のある歌手で俳優でもあるフランク・シナトラとの恋が進行し
ていて、その不倫劇は社会の注目を集めましたが、紆余曲折の末、
二人の結婚が実現しました。
 
 
 
 
私生活の落ち着きとともに演技にも磨きがかかり、ヘミングウエイの
「キリマンジャロの雪」の後、当時ハリウッドのキングと言われて
いたクラーク・ゲイブルと共演した「モガンボ」(1953年)では、
初めてアカデミー賞の主演女優賞の候補になりました。
 
 
 
翌1954年にハンフリ・ボガードと共演した「裸足の伯爵夫人」では
その熱演によって再度アカデミー賞の主演女優賞の候補になります。
この作品の撮影地スペインが気に入り、やがて移り住むことになります。
 
あれだけ世間を騒がせて結婚した二人でしたが、気性が激しく、独占欲の
強いために口論が絶えず、やがて別居して離婚してしまいます。
スペインに居を移して、「ボワニー分岐点」(56年)「陽はまた昇る」
(57年)「渚にて」(59年)と次々と出演しますが、次第に人気も
陰っていきました。
 
 
 
1955年来日しましたが、当時、名実ともに世界第一級のスターであり、
ハリウッド一の美女としてそのグラマーぶりを謳われたエバ・ガードナーが、
レセプション会場に現われた時は、満場は一瞬息をのんだような静けさに
包まれたと言われています。
 
絶えずスターを鋳型にはめようととするハリウッドの上層部の意向を意にも
介せず、たびたび給料停止処分を受けても納得のいかない作品は拒否して
きました。スターの地位に執着しないでマイペースで生きるエバ・ガードナーは
やがてハリウッドの俳優を消耗品扱いするスターシステムからはみ出して
しまいました。
 
 
 
全盛期のエバ・ガードナーへのインタビューで「女優としての人気や
名声のほかに人生に求めるものは?」に「一日も早く女優をやめること」
と答えています。アメリカ南部のなまりの強い素朴な一人の女性が、
自分の意思とはかかわりなく、ハリウッドという虚構の世界に投げ込まれ、
もがきながら大スターになっていったエバ・ガードナー。
 
女優生活に執着も未練も持たず、自分の心のおもむくままに生きた彼女に
今も私は魅力を感じています。子どもが好きで落着いた家庭を持つことを
願いながら、1990年孤独の中で世をさりました。

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