寝屋川市出身の大関豪栄道が初優勝!

  投稿者:リワキーノ  投稿日:2016年 9月24日(土)21時50分22秒
  何度も何度もファンの期待を裏切り、寝屋川市在住の私の顧客からも多く不満の声を
聞かされ続けてきた豪栄道が優勝!

私は今場所の豪栄道の快進撃にも、「今に転ける、今に転ける、決して期待してはい
けない」と思い続け、いつも6時以降にスマホで大相撲の結果を恐る恐る見ていたもの
ですが、何と昨日13連勝までこぎ着けたのです。

今日仕事から帰ってきたのが午後5時25分。
優勝の決まる一番が間近に迫っているのに私はテレビをつける勇気が出てきません。
今場所、一度も豪栄道の取り組みを見なかった私がこの場に及んでなまじっか見たり
したら豪栄道は負けるのでは、という思いが生じるのです。

でも私は勇気を振り絞ってテレビをつけました。
何と、豪栄道と玉鷲の取り組みの場面でした。

制限時間いっぱいで綺麗に立ち上がった豪栄道に対して玉鷲は待ったをかけた。
「ああ、これで豪栄道は負ける」と私は観念したのです。

ところが豪栄道は勝ちました。それも文句のつけようのない無い見事な正攻法の相撲で。

寝屋川市出身の関取の優勝が初めてなのは勿論ですが、大阪府出身の関取の優勝は何と
86年ぶり。一場所15日間制となってからは初めてです。

NHKのアナウンサーは「来場所優勝すれば横綱も」と言っておりましたが、私はそんな
本人にプレッシャーをかけるようなことは望んでおりません。

寝屋川市出身の関取が大関となり、そして優勝を成し遂げた、というその偉業のみで大
満足なのであります。

嬉しいなぁ。今日は酒が本当に美味しい。

そこで私の唯一の不満を述べさせてもらいましょう。
豪栄道というしこ名、とっても立派です。
でも私はできたら、寝屋川というしこ名にしてもらえたらどんなに嬉しかったでしょうか。

川の名の付いたしこ名は昔の横綱にもいました。
綾川、小野川、境川、男女ノ川。
寝屋川は出身地がすぐさま判る素晴らしいしこ名だと思うのですが・・・

「西がた、大関寝屋川。大阪府寝屋川市出身。境川部屋」
というアナウンスが毎場所流される情景をよく夢想します。
 


>Re; 堀川 続き 2

  投稿者:ムー  投稿日:2016年 9月 4日(日)16時17分40秒
  船岡山は、  堀川 続き 2 の古図では拡大して頂けば読み取れると思ったもんですから。
続き3の方では外れていますが、いずれにしても、自分が知悉しているもので、他人さまも
そうだという思い込みをやってしまったようです。失礼しました。
源為義のことは知りませんでした。ご教授感謝!です。

堀川通りは、測量部地図の真ん中辺りの「本法寺」あたりまでです。
現在の鞍馬口通りあたりです。
大徳寺の下(南)の境界に、北大路が沿うことになります。
この測量部図は明治30年ころのもので、このあとも
20年位ごとの変化を見ることができて、また新しいことが判るのですが、
これについてはまた後で書きたいと思っています。
 


Re; 堀川 続き 2

  投稿者:リワキーノ  投稿日:2016年 9月 4日(日)12時15分9秒
  堀川の記事、コメントが遅くなりました。
地図と照らし合わせながら内容を把握するのに少し時間が要りました。
大徳寺の文字は読み取れるのですが、船岡山は山らしき図絵から見当つきますが文字は
とても読み取れません。

大徳寺に沿って残る溝が堀川に繋がると知ってムー殿もさぞかし驚かれたでしょう。

「京の五条の橋の上~」のエピソード、記述する前によくぞウィキペディアで調べたこ
とでしたね。
冷や汗をかかれたのでは。
義経と言えば祖父の源為義は保元の乱で上皇方について敗れ、その子らと一緒に船岡山
で処刑されますが、大徳寺のすぐ側にあるのですね。
大徳寺には何度も行っているのに船岡山を意識して見たことがありませんでした。

添付絵図では堀川通りは北大路までしか無かったのですね。
 


堀川 続き 3 訂正

  投稿者:ムー  投稿日:2016年 9月 1日(木)08時45分8秒
  招善寺は現存していないと書きましたが間違いでした。
りっぱに今も同じ所にあります。
謹んで訂正いたします。
 


堀川 続き 3

  投稿者:ムー  投稿日:2016年 9月 1日(木)00時14分55秒
  古地図の更に北の部分です。
大徳寺外郭から2本の溝川が北にのびているのが読み取れます。
左のは今宮社の東をかすめて北西に走りちいさな池に至り、
池の名は、拡大するとどうやら「池(ノ)谷」で、
東側に招善寺なる寺がありますが、この寺は現在はありません。
この辺りは鷹ヶ峯の尾根筋の東麓になります。
図の左上隅辺りに「常照講寺」とありこれは「常照寺」として現存します。
その左から大徳寺外郭の西側まで伸びる街道がありまが、これは「鷹峯街道」として
観光番組で近頃取り上げられたりして知る人ぞ知るスポットになっています。
この街道は北大路から下は千本通りになります。
もう一筋の右の筋は、芳春院の辺りから北西に伸びる道筋にそって北上しています。
この道は上野(街)道といって現在では、寸断されてはいますが一部が残っています。
そして、大文字焼の五山の一つ船形山の西麓の萩野(おぎの)辺りで消えています。
それからこの図の一番左端にチラッと見えている川があって、
これは鷹峯の西麓に端を発し、金閣寺の東から北野天満宮の西に接して、
西大路の少し東側を流れる天神川です。
これで、天保、慶応版の古図から読み解けることは終りです。

さて、最近面白いサイトを見つけまして、そこでは現在の国土地理院と
その前身の陸地測量部の古い地図を見る事ができます。
そこでコピーしたのが、2番目の図です。
これについては次回にします。