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稀勢の里の優勝はまったくの予想外の出来事でした。 久しぶりの日本人横綱の誕生に春場所の全日程のチケットは完売、明治神宮、そして 春場所直前の大阪住吉大社での土俵入りと、稀勢の里が赴くところはどこでも黒山の 人だかりという、大変な期待を背負ったゆえに私はその重圧につぶされるのでは無い かと心配したのですが、蓋を開けたら破竹の12連勝。
自分が実況中継を見ると稀勢の里は負けるのではないかと思い、私は12日間、相撲中 継は見ませんでした。終了後にスマホで取り組みの速報を見て稀勢の里の勝ちを確認 して、午後7時のNHKニュースや9時からのスポーツニュースで実際の勝負を見届けた ものでした。 13日目の日馬富士との一戦で負けて怪我をしたのに休場せずに翌日も出て、鶴竜に一 方的相撲で負けても浪速のファンたちのため、横綱の責任感のため千秋楽にも出場す る稀勢の里の心意気に深く感銘を受け、私はその負け戦を見届けようと千秋楽の大相 撲中継を見たのです。 それが、舞の海や北の富士などの親方衆が絶対に勝ちは無いと言っていた照ノ富士と の2番を制して優勝したとき、鳥肌が立つ思いでした。 大相撲の永い歴史の中でも特筆され、永く語り継がれる千秋楽となることでしょう。
でも、私は稀勢の里の優勝を心から喜び、賞賛しますが、一方、観衆のほとんどを敵 に回しながら、誰もが優勝は間違いないと思われていた照ノ富士が2番負けて優勝を 逃したことにも胸の痛みを感じざるを得ませんでした。 照ノ富士も千秋楽を迎える頃には痛めていた膝の調子が悪化していたために踏ん張り のきかない相撲を取らざるを得なかったのだと思います。 怪我をするまでは、全盛期の白鵬に互角に戦える唯一の関取だった照ノ富士が角番の 場所で優勝まであと一歩と言うところで敗退したこと。 敵役として激しいブッシングを浴びる辛い立場で優勝を狙いながら、それが叶わなか ったときの花道を引きあげて行く時の心境はどんなものだったことでしょう。 そのときの照ノ富士の思いを伺い知れる記事がネットに載っていました。
大関照ノ富士(25=伊勢ケ浜)は、15年夏場所以来の賜杯を逃した。手負いの稀 勢の里に本割と優勝決定戦で連敗。2度の好機をものにできなかった。
相手は大きなケガを負っていた。やりづらさについて聞かれると「特になかった。 自分の問題です」と言い訳はしなかった。自身4度目のかど番を自己最速の9日目に 脱出。力強い相撲が戻り、左膝の故障から復活したように見えた。しかし13日目の 鶴竜戦で負傷。それからは稽古も思うようにできず、治療に専念していた。
流れも悪かった。14日目の琴奨菊戦で変化して勝った影響が残った。観客からは、 この日も厳しい声を浴びせられた。連日の異様な雰囲気に「目に見えるつらさと目に 見えないつらさがあるんだよね。それを表に出すか出さないかです」とたまっていた 気持ちをはき出すように話し「やっと終わった」とつぶやいて支度部屋を後にした。
5年春場所以来、自己最多タイの13勝を挙げ、優勝次点で幕を閉じた春場所。しか し、審判部などから来場所での綱とりの声は上がらなかった。ここ1年で4度のかど 番と、14日目の変化が印象を悪くした。平成生まれ初の横綱への挑戦は、一からの スタートとなった。
私は照ノ富士も稀勢の里に次いで大阪場所を大きく盛り上げた功労者だと思います。 |
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