ペリュリュー島の日本兵と島民

昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まりました。
日本はこの年の翌年早々にはパラオ南部のペリリュー島に、1,200メートルの滑走路2本を持つ
飛行場を完成させています。
パラオは、開戦した日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の太平洋
防衛圏上の、重要な拠点となったのです。
日本にとって、防衛上重要拠点であるということは、敵対する米軍にとっては、脅威です。
なぜならフィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、パラオ・ペリリュー島の日本軍基地は後背
部を脅かす存在だからです。
昭和18(1943)年、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍
の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を
計画しました。

当時、ペリリュー島には、899名の島民がいました。
米軍は、刻一刻と迫ってきます。
島民たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験しています。
日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、集会を開きました。
そして全会一致で彼らは、大人も子供も一緒になって日本軍とともに「戦おう」と決めました。
こうした村人の会議という制度は、パラオ古来の慣習です。
いまでもパラオではこうした会議が行われ、そこには村人全員が参加します、全員です。
そして話し合いは、全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。
議場に籠って話し合い続けるのです。
そうして、みんなの意思を固める。
全員一致で「日本軍とともに戦う」と決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向か
いました。

当時のペリュリューの守備隊長は、中川州男(なかがわくにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。
日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんだったそうです。
中川大佐がパラオ、ペリュリュー島に赴任したのは、昭和18(1943)年6月のことでした。
家を出る時、奥さんから「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、
にっこり笑って「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。
「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。
温厚で、日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体でわかるものです。
そしてそういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み、一緒に戦うことをきっと喜
んで受け入れてくれるに違いない。
だって、ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。
ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。
そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」
中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそ
うです。
一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。
しばしの沈黙のあとです。
中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合です。
村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。
耳を疑った。(俺たちのことを「土人」と言った?)
そのときは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。
断られたからではありません。
土人と呼ばれたことがショックでした。
怒りではありません。
あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。
日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、
俺たちは対等だと言ってくれていたのに。
それが「土人?」
信じていたのに。
それはみせかけだったの?
集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。
ただただ悲しくて、悔しくて。
みんな泣いてしまいました。

何日がが経ちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。
港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。
島民たちは、悄然として船に乗り込みます。

島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思い
が、ただただ悲しかったのです。
汽笛が鳴りました。
船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。

次の瞬間です。
島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。
島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたの
です。
そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。
船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげ
ながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。
船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。
誰もが笑っています。
歌声が聞こえます。

そこには中川隊長の姿もありました。
他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。
素敵な笑顔だったそうです。
当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。

昭和19(1944)年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたが切って落されました。
島に立てこもる日本軍10,500名。
対する米軍は、総員48,740人です。
火力に勝る米軍は、その日から、航空機と艦砲射撃によって、すでに補給を断たれた日本軍の
数百倍の火力を小さなペリュリュー島に投下しました。
最初に米軍は、艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼
き払いました。
海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊しました。
そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28,
000人が島に上陸を開始しました。
米軍の上陸用舟艇が、続々とやってくる。
島はじっと沈黙したままです。
米軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らしました。
そのときです。
突然の集中砲火が、米軍の上陸部隊を襲ったのです。
それまで、地中深くに穴を掘り、じっと時を待っていた日本軍が、満を持して反撃を開始したの
です。
水際での戦闘は凄惨を極めました。
米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却をしています。
この戦闘で、米軍の血で海岸が赤く染まりました。
いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。

10月30日には米軍第1海兵師団が全滅しました。
米海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病して後方に送られています。
将官が倒れるほど、それほどまでに、すさまじい戦いだったということです。
この時点で3日で終わるとされた戦いは、なんと1ヶ月半も継続していました。
けれど、日本軍には、補給が一切ありません。
食料も水もない。
夜陰に紛れて、せめて怪我をした仲間のためにと水を汲みに行って米軍の猛火に遭います。
だから水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていました。
日本軍の抵抗は次第に衰えを見せはじめます。
米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきます。
11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定します。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決を遂げます。

その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られました。
そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行しました。
こうして11月27日、ペリリュー島は、ついに陥落したのです。
米軍の上陸開始から2ヵ月半が経過していました。

戦闘が終結したあと、米軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、そのまま放置していました。
米兵の遺体はきちんと埋葬しても、日本兵の遺体は、ほったらかしだったのです。
戦闘終結からしばらくたって、島民たちが島に戻ってきました。
彼らは、島中に散らばる日本兵の遺体をひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれました。

戦後、パラオは、米国の信託統治領となります。
けれど、米国は、島民たちへの教育はおろか、島のインフラ整備にも消極的でした。
島民たちは、パラオ本島と一緒になり、独立運動を開始します。
そして、ようやく戦争から36年目の昭和56(1981)年、パラオは自治政府の「パラオ共和国」と
なりました。
そのパラオが米国の信託統治を外れて、名実共に独立国となったのは、なんと平成6(1994)年
のことです。
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