ピアノ調律師の雑話 B   by リワキーノ


 今回から、演奏会において私がピアノ調律師として経験してきた様々なエピソードをご紹介した
いと思います。
 コンサートチューナーとしての私が演奏会でまず最初に確認するのは演奏される曲目であること
は雑話@でも述べましたが、その次に非常に気にかかるのはどのようなピアニストが出演するか、
ということで、これも場合によっては演奏曲目よりもひどく私の心にプレッシャーを与えることがら
なのです。

 何ヶ月も練習して準備してきた努力の結晶を一晩のたかだか1時間半くらいの間で出し切って
しまう、いわばやり直しのきかない一発勝負をするのがコンサートピアニストなのですからその
プレッシャーは大変なものがあり、芸術家肌の人が多いピアニストたちは演奏直前は凄まじい
ほどの神経過敏症に侵されていると言っても過言ではないのです。

 ある新人演奏会に出演した音楽大学出たてのピアニストなんか、演奏が終わって万雷の拍手
のもと、悠然と引き上げてきたのですが、ステージそでのカーテン内に入るや否や、ヘタヘタとし
ゃがみ込んで両手を床につけハー、ハーとあえぐように息をしながらしばらく動けないような状況
になったところを目撃しました。

 あるピアニストはステージに出る前に私のところにつかつかと寄ってきて後ろ向きになり「腰のと
ころを叩いて下さい」と言うので、背中がむき出しの若い女性の肌を目の前にしてドギマギする私
が軽くポンとさわったら「もっと強く」と言われ、パンと叩くと「遠慮いりませんからもっと強く、ど突く
ように!」と言われ、思わずバーンと相手がよろめくくらいに叩いたことがありました。調律師は色
々なことをやらなければならないのです。
(誰ですか?それくらいだったら僕もやりたい、なんて言うのは)

 また、あるピアニスト、この女性は私の顧客の友人で面識もあり普段は柔和でチャーミングな表
情の持ち主なのですが、リハーサル中にある箇所で納得のいく演奏ができないらしく、その箇所
を何度も何度も繰り返すのですが思うようにならないのか、だんだんと顔の表情が険しくなるの
です。苛立つさまが手に取るように判ってきたとき、突如演奏をやめてチラッと観客席の方を見
やったときの目つきといったらそれは般若か蛇女のものとでも言ったような恐ろしいものでした。
「何をいらついているのよ!」と友人が厳しく声をかけるとハッとしたように彼女は冷静さを取り戻
して再び練習に励みましたが。

 とまあ、こんな風に演奏前のピアニストというのは凄まじいプレッシャーの真っ直中にいるのでし
て、ピアノが気に入らないときはピアノへの不満、調律師への過度な要求となってぶつけられる
ので、調律師も随分とプレッシャーを感じるのです。
 それが気むずかしいということで評判高いピアニストが出演予定ということが判ると、その日か
ら私達調律師も何とも言えぬ緊張感に支配されて毎日を送るということになり、演奏会直前には
場合によっては敵前逃亡したくなるような衝動に駆られるときもあります。

 私の15年間に渡るコンサートチューナー生活のなかでもっとも緊張を強いられた演奏会という
のは担当するホールが出来てから間もないころに行われたピアノリサイタルでした。
 このときの演奏会は緊張感だけでなく、そのピアニストのことがとても印象深く思い出として残
り、15年経った今も細かい部分のことまで良く覚えているのです。
 ピアニストはT・E(日本人です)という女性で今はあまり名前を聞かなくなりましたが、当時はコ
ーヒメーカーのテレビコマーシャルに出演したりしていて割と知られたピアニストでした。
 当日、調律をやっているところにマネージメントの人がやってきまして「彼女は気が強く、大変神
経質なので、極力彼女の言葉に逆らわず、できるだけその注文に応じて欲しい」と楽しくなるよう
なことを言ってくれるのです。
 そのホールで初めて迎える有名人ピアニストでしたからただでさえこちらも緊張しているのに、
そのマネージメントの言葉は調律師をもひどく神経質にさせるものでした。
 しかし演奏者がどのように気が強かろうと神経質であろうとも調律師に出来るのは調律を正確
に合わせ、ピアノを最良のコンディションに持って行く作業しかできないのですから私は黙々と
調律をやり、メカニックの部分を一番スタンダードな動きにするよう励むだけです。

 リハーサルは午後からでしたが調律を午前中に終えた私は早めに昼食をすませ、ホールに戻
ってきますと、舞台の仕込みをやっている者達や照明係も時間前だというのにみんな楽屋裏に
集合しております。みんなもテレビでよく見る美人ピアニストに強い関心を持っているようで、気
楽な冗談を言い合っており、いいなあ、あいつら呑気で、と羨ましく思いながら私は客席の中央
付近に腰を落ち着け、ピアニストの現れるのを待つことにしました。

 そしてやがてそのピアニストが舞台に現れたのですが、今でもその時の光景が目に浮かびま
すね。黒い皮製のミニスカートに長いブーツ、東京から新幹線で駆けつけてそのまま舞台に登
場したようなスタイルでして、カッ、カッ、カッと靴音を響かせながら脇目も振らずにピアノの前に
進んでいくとさっと腰掛け、いきなりバラバラと弾き出すのです。マネージメントの人が注いでくれ
た予備知識のイメージどおりの何か傲岸さを感じさせるような雰囲気でしたが、実にカッコ良か
ったですね。
 しばらく弾き続けていたと思ったらいきなり演奏を中断し、スクッと立ち上がって叫ぶのです。
「調律師さんはどこ?」
 背中を冷たい汗が流れるような思いを感じましたね。

 「ここにおります。私ですが」と立ち上がって名乗り、私は舞台の方へと歩んでいきました。
 明るい舞台からは薄暗い観客席が見分け突きにくいのかじっとこちらを伺うように眺めており
ましたが、私が舞台に上がると、「このピアノはいつ整音をやったの?」と彼女は高飛車に言い
ます。
 「音質をそろえる意味である程度針刺しはやっておりますが」と私が答えるのに「違うの。そう
いうのではなくて、全体的にキチッとした整音はいつやったの、と尋ねているの」とたたみかける
ように言います。
 ほう、噂通り相当に勝ち気そうな女だな、と内心思いながら「全体的整音は当ホールに入荷し
た直後にやったきりで、それ以来はしておりません」と私が正直に答えると彼女は「何て言う調
律師さんがやったの?大阪なら○○さんかしら?」と尋ねてきます。○○さんはスタインウエイ代
理店の高名な調律師なのです。「いえ、私どもの調律師がやりましたがお気にいらなかったでし
ょうか」と言う私の言葉に彼女はニコリともせず、いきなり鍵盤の次高音部(旋律ラインを一番弾
くところ)を立ったまま軽くパラパラと弾き、次にアクセントをつけるように強いタッチで一つ一つを
打鍵し、「音がこもっているじゃないの。強弱の差も出にくい。しかもまるで鳴らないわ。何とかな
らないの」と無表情に言います。
 彼女が指摘したところは当たっており、それを何とか改善して欲しいというのは正当な要求なの
ですが、ところがこれが何ともならないのです。

 ピアノという楽器は張った鋼鉄線を固く圧縮したフェルトのハンマーで打弦して音を発する構造
なのですが、工場を出荷したばかりであまり弾きこまれていないピアノは弦に当たるフェルトの
部分が十分に硬質化しておらず、こもったような音を出すのです。ある期間弾きこまれてくるこ
とによって弦に接するフェルト部が固くなってき、それによって音が硬質化、シャープ化して良く
響きわたる芯のある音となるのですが、そうなるためにはそのピアノをとにかく弾きこむ以外方
法は無く、従って新しいピアノはほとんど例外なくこもった音がするのです。

 グランドピアノの左ペダルを踏んで打鍵すると柔らかくこもった音になることにお気づきの方は
多いと思いますが、あれが新しいピアノの音に近い音質で、左ペダルを踏むと鍵盤全体が右側
に3ミリほど移動し、普段打弦しないフェルト部が弦に当たるのでこもった柔らかい音になるの
です。逆にあまりにも長い年月弾きこまれ過ぎたピアノはフェルトの硬質化が進みすぎて固く鋭
い音になり、極端な場合、チャン、チャンとチェンバロのような音になることもあります。こういう
場合はフェルトに針を刺したりしてほぐし、ある程度柔らかさを取り戻すことができるのですが、
新しいピアノの柔らかい音を固い音にするのは弾きこむしか方法はありません。

 「ホールが開設されてから日にちも浅く、まだ十分に弾きこまれていないために本来の音が
出ないのです」と言うと、先ほどの言葉の端々からもさすがにピアノを良く知っていると思われ
る女性だけに、理性的にはそれを理解したようで、「そうなの。そんなにこのホールは新しいの」
とつぶやくのです。最初の高飛車な態度に比べてずいぶんトーンダウンしたその様子は私に
とって意外なものでした。

 「でもこれをもう少し、ましな状態にする方法はないものかしら。曲を弾いていても何だか砂を
噛むような無機質さを感じて全然気持ちが乗らないのよ」と情けなさそうに言う彼女の言葉に、
危惧していたヒステリックな状況に彼女がならなかったことに対して好感を抱いた私は、「お気
持ちはよく解ります。音質をはなはだしく変えることは不可能ですが、とにかく色々な方法を試し
てみて少しでも改善するよう努力してみます」と言うと、彼女は気持ちが少し柔らいだのか、「ユ
ニゾンを甘くすることによって多少変わらないかしら?」と穏やかに提案しました。
 ユニゾンとは同じ高さの音、という意味で、ピアノは一つのキーに弦が3本割り当てられており
(低音部では2本か1本)、その3本を同じ音高に合わせることを「ユニゾンを合わせる」と言いま
す。それを甘くするということは3本の弦を微妙なところで少しずらせる、つまり少し狂わせるわけ
ですが、それによって音に広がりを持たせる効果を期待できる面があるのです。

 良く知っているな、と私は思いながらも「もちろん、それもやりますが、今からリハーサルを続け
られればユニゾンは自然と多少甘くなってくるでしょうからその後でまたご感想を聞くこととして、
メカニックの部分の動きも若干変えてみようと思いますので、10分ほど時間をいただき、その
調整をさせてもらった後に試し弾きをしていただけますか」と提案すると彼女はコックリとうなず
き、ピアノから離れたのでした。
 そして私はすぐにグランドピアノの鍵盤とくっついているメカニックの部分(アクションと言います)
を外に出し、先ほどピアニストがこだわった次高音部の1オクターブのメカニックな動きの調整に
入ったのです。

 それはどういう調整かということを説明する前にピアノのフェルトハンマーの打弦仕組みを説明
させていただきます。鍵盤をそーろっと押していくとこのハンマーは静止位置から動き出し(グラ
ンドピアノだと上に向かって上がっていく)、張られた弦に接近していきます。そしてそのまま鍵
盤を押し続けていくとハンマーは弦の手前2.5〜3ミリのところで停止しますが、なおも鍵盤を押
し続けていくとそこからハンマーは弦から遠ざかるように下がって弦から4〜5ミリのところで静
止するのです。
 そーろっと鍵盤を押していくとハンマーが弦に触れずに直前でわずか後戻りして止まってしまう、
これがピアノの打弦仕組みであり、このハンマーの動きが弦直前でエスケープするのを我々調
律師はハンマーの接近と戻りと言うのです。こういう仕組みですので鍵盤をある一定以上の強
さで叩くと、ハンマーはもの凄い速さで動き、勢いで3ミリのところを飛び越えて弦に衝突し、弦
振動、つまりピアノの音が出るのです。このハンマーが打弦するときのスピードの速さ、つまり
ピアニストの打鍵の強弱によってピアノの音量が変わり、音質もハンマーが弦の直前で停止す
る弦との距離によって若干変わるのです。
 私はまずこの接近の距離を変えようとしたわけです。
 この状況、つまり音質をもう少しシャープな硬質なものにするには接近をスタンダードな3ミリ
から狭くしなければなりません。
 そして次に、これはベーゼンドルファー社というウイーンのピアノメーカーの技術講習会で講師
の技術者がある細工をすることによって著しく音質が変わるのを目前に聴いたことがあり、それ
を試してみようと思ったわけなのですが、これがどのようなものかというのを理解いただくには、
グランドピアノのアクション構造を細部に渡って説明しないと不可能なので省きます。

 私はピアニストやマネージメントの人、舞台係りの人たちが見守る前でこれらの作業をし、接
近は半分の1.5ミリに調整しました。そしてアクションをピアノの中に戻し、ピアニストに再び弾い
てもらいました。
 彼女はしばらく弾き続けていましたが何度か首を傾げるばかりで特に気に入ってくれたようす
を見せてくれませんでした。だが、そこは私も心得ており、この調整による音質の違いはかなり
離れたところで聴かないことにはその効果がはっきりしないことを言い、ピアニストに客席に行っ
てくれるよう頼みました。
 彼女とマネージメントの人が言われるままに客席に着いたところで私は調整した箇所の前後の
オクターブを強いタッチで弾き、「これが調整していないところです」と言って次に、接近を狭くし、
調整したオクターブのところを同じく強いタッチで弾いて「どうです?」と客席のピアニストに尋ね
ました。

 するとどうでしょう、彼女は「確かに音質が変わっている。前後のオクターブとハッキリ違うのが
解るわ。明らかに硬くなっている」と言うのです。彼女はいそいそと舞台に戻ってき、「この全体
の調整にどのくらい時間がかかります?」と尋ねるので私はしてやったり!という思いで「40分
ほどでできます」と答えると、「先にその調整をしてちょうだい。リハーサルはその後からにします」
と言って彼女はそのまますたすたと舞台裏に去っていったのでした。

 この調整は全ての鍵盤に施す必要はなく、一番旋律ラインを浮かび上がらせなければならない
次高音部、高音部にやればよいので、残りの時間をそれらのパートのユニゾンを多少甘くする調
律もし、そしてピアニストに調整が終わったことを告げに行ったのです。
 再びピアノを弾き出した彼女の様子は最初のときと比べて明らかな変化を遂げておりました。
何も言わず、その日の演奏曲をしばらくの間、黙々と弾き続けましたが、やがて手を膝の上に置
いて「だいぶ弾きやすくなったわ。有り難う」と言うのです。初めて彼女の口から優しい言葉をも
らえたわけでして、こういうときこそコンサートチューナーをやっていることに喜びを感じる一瞬な
のでした。

 リハーサル後の調律にどのくらい時間が必要かと聞くので、1時間くらいあれば、と答えますと彼
女はキチッとその時間になると練習をやめましたが、驚いたことに「もう、ピアノをこのままにして
おいてちょうだい。調律もしなくてもいいです。何も触れないで欲しい」と言うのです。
 プロのピアニストがいくつかの大曲を弾けば調律はどうしても狂ってくるのですが、彼女にとって
は長時間弾き続けてきてやっと馴染んだピアノは、たとえ少しの調律の狂いが生じていようとも
それら全体から感じ取れる感触を持続させておきたかったのでしょう。
 彼女が何とか満足してくれていることがその声音からも察せられ、私は嬉しい気持ちで楽屋裏
に去っていく彼女の姿を見送ったのです。

 やがてホールの開場の時間がやってき、お客さんがパラパラと入ってくるのが舞台そでの客
席を写すモニターテレビに映ります。私の担当するホールはだいたい開場直後の人の入り方で
その日の聴衆の多寡が見当つくところでして、この日はまた異様に入りが少なく、恐らく4分の
1にも満たないような様子でした。これでは半分も埋まったら御の字だろうな、と思いながらもい
ささか辛い気持ちになりました。
 最初出会ったときは、なんと生意気で傲慢な女だろう、とピアニストのことを印象づけられたも
のでしたが、その後接しているうちに以外と繊細な面(そりゃ、芸術家ですから当然ですが)を感
じ取り、物事の道理もわきまえている結構いい女性ではないか、と思いだしておりましたので、
何となく彼女の演奏会に聴衆の入りが悪いのに気をもんでしまうのでしょうね。

 「少ないわね〜」と突如後ろで女性の声がしたのでギョッとして振り返るとピアニストが私のすぐ
背後からモニターを見上げているのです。足音もたてずに近づいて来るのですから本当にビック
リさせられます。もうどんな色だったかも覚えておりませんがそのときの舞台衣装を身につけた
彼女の姿は本当に美しく、薄暗い所だったにもかかわらずまぶしかったのです。
 私は何と言って良いのか慰めの言葉も出なかったのですが、彼女は薄ら笑いを浮かべながら「し
ょうがないわね」と言い、「でも私はいい演奏するわよ」と悪戯っぽい目配せをして私にささやくの
です。その時私はゾクッとするようなものを感じましたね。

 本番が始まっても客席は半分ほどの入りでしたが、彼女の演奏は堂々としていて、さすがに舞
台慣れしたものであり、観客に対する舞台での態度も立派なものでした。
 曲の合間に舞台そでに戻ってくるとき、カーテン裏すぐそばで拍手する私に例の悪戯っぽそうな
目配せを見せたとき、私は心底この女性に深い親愛の情を感じたものでした。
 演奏会が終わって最後のアンコール曲も終えて舞台に彼女が引き下がってきたとき、やはりど
こにも熱心なファンがいるのですね、手に手に花束を持った男女が彼女を取り囲みます。
 それらの人たちににこやかに応対する彼女を遠くから眺めながら私はお別れの挨拶もできない
のを残念に思いつつ舞台を去ったのでした。
 駐車場に行き、車に乗り込むとタバコに火をつけ、しばし私は呆然と彼女のことを思います。それ
は恋に似たような感情でした。