第一日目   熊野本宮大社〜玉置神社 62.4.29

 大峯南端部・備崎からの入峰
朝、六時二十五分、本宮町の旅館「音無館」を出発する。
 これより持経の宿(じきょうしゅく)まで、新宮山彦ぐるーぷの山上晧一郎氏に同行してもらい、同グ
ループのリーダー玉岡憲明氏に車で水や食料その他の補給のサポートをしてもらうことになる。
 旅館近くの旧本宮大社に行き、奥駈の旅の無事を祈り、記念写真を写す。


 本宮大社跡は社殿は無く、背の高い欝蒼とした樹木に囲まれた広い敷地に石垣や石塔が残ってお
り、早朝のためかもともとあまり人も訪れぬのか、他に人影もなく静寂な雰囲気の漂うところである。
 ここは熊野三山の一つで、修験道の山、大峯山系に南北百キロにわたって点在する霊地、いわゆ
る奥駈の七十五靡(なびき)の第一になる。明治二十二年の十津川村の大洪水で社殿は壊滅し、
一キロほど北よりの高台の地に再建されて現在に至っている。
 この森からそのまま熊野川の河原に降りていき、小石でおおわれた広い河原を山上氏の後につい
て南の方に向かっていく。


 向こう岸は小高い丘陵がつづき、上の方は一部ガスがかかっているが起伏の少ないなだらかな尾
根である。
川を挟んだ左が旧本宮大社跡の大斎原(おおゆのはら)、右が備崎。奥が備崎から続く奥駈尾根。


なんの変哲もない丘のような山だが、これがこの先四十五キロのところでは二千メートル近くも標高
をあげてしまう大峯山系の最南端部、備崎(そなえざき)である。


 
 やがて川の真ん中からかなり向こう岸よりのところで流れが巾八メートルほどに狭くなっているとこ
ろに到達する。
 渇水期の折りは奥駈の行者はこの流れをわたるそうで、適当な渡渉点を探して河原を下って行き
靴をぬいで渡る。膝下までつかるくらいの深さで、意外に早い流れと河原の砂利石がすべって素早く
歩けず、水温の冷たさに流れの半分まで来ると足がしびれてくる。
 向こう岸にあがってタオルで足をよく拭き、靴下をはいて登山靴をはくとぽかぽかと暖かく、何とも気
持ちがよい。気分もしゃんとしてまことに奥駈出発のみそぎ代わりになるようなふさわしいスタートで
あった。
 河原にアンテナみたいなものがいくつか建ててあるところからコンクリートの堤防の階段を上がると
小高い森に登っていく細い小道があり、我々はここを登っていく。
 これが、吉野から熊野まで南北九十キロにわたる大峯山脈の南端、備崎(そなえざき)からの奥駈
の入峰である。熊野から吉野を目指すのを順峰(じゅんぶ)と言い、吉野から熊野を目指すのを逆峰
(ぎゃくぶ)
と言う。

 ついに念願の全奥駈道の縦走に取りかかったわけで、期待と不安の入り交じった何とも言えぬ気分
である。 
 思い返せば、四年前、会社の同僚に誘われて、女人禁制の山、山上ヶ岳に登ったのが、少年時代以
来、初めての山登りだった。それがきっかけで登山に熱中するようになり、登山用具一式をそろえて、
それまで好きだった麻雀も一切やめてしまって日曜日になると大阪近郊の低山をめぐりまわりだした。
 しかし一年もたたぬうちにハイキングコースの低い山に飽き足りないものを感じだしたころ、友人の
誘いで以前から話には聞いていた長くてハードなコースの吉野から大峯・山上ヶ岳への登山を誘わ
れてそれについて行き、このときに得た自信と、その直後に行った大台ヶ原から眺望した大峯山脈の
雄大さに魅せられたことがきっかけで私の大峯狂いは始まったのである。 それからというもの私が
目指す山は大峯山系のものだけに限られてき、しばらくしてテントを購入してからは泊まりがけの山行
がほとんどとなって、私は大峯山中を徘徊するようになった。
  凝り性の私は、山に行けぬ平日の仕事の間も背広の内ポケットに仲西政一郎著の大峯の地図と解
説書をふところし、電車に乗っているときや、喫茶店で昼食休憩をとるときにいつもそれらを取り出して
、コースの案内文を読んだり地形図を眺めては、次に目指すコースを選定したり、まだ足を踏み入れて
いない山域に思いを馳せたりしたもので、やがていつのまにかに大峯全域の名のある山々の位置関
係というものを頭のなかに描けるようになってきた。
 ただ元来、臆病な性質で山の初心者でもある私が一人で踏み込めるコースというものは限られてお
り、解説書に一般向きか、せいぜい健脚向きと記されている道ばかりを選ぶので、当然、登山者の多
い釈迦ヶ岳以北の大峯北部の山々ばかりに集中することになった。それはそれで山をよく知るために
もよいことなのだが、北部大峯の山々に慣れ親しんできた私はいつしか、道が随所において無くなって
踏み入る人も稀になっていると解説書に記されている南部大峯への強い憧れを抱くようになり、読図
力を身につけ、登山技術もみがいていつか南部大峯の山に行ってみたいと強く思うようになってきた
のである。
 街なかで大峯の地図に眺め入っているとき、笠捨山や石楠花岳、行仙岳の山名に心をときめかせ、
解説書にわずかしか掲載されていない写真からそれらの山々の形状やたたずまいをいろいろと想像
するのは楽しくもあったが、またやるせないものもあったのである。そのころ仲西政一郎著の解説書
に、道の荒廃した南部大峯の奥駈の道を和歌山の山グループが刈り拓けをしていることを記してある
箇所を読むたびに、十数人の人達が鎌やナタを手にして日の暮れなずむ山の尾根の上を草木を刈り
払いながら一列となって向こう側に遠ざかっていく姿を私はいつも脳裏にイメージし、いつかこのグル
ープの人達と知り合えたらなと思い続けていた。この山グループこそ、新宮山彦ぐるーぷであったので
ある。

 そして昭和六十一年十一月に偶然のことから生じたこの新宮山彦ぐるーぷとの出会いは私の登山
の趣味だけにとどまらず、私の人生でもまれに見る幸運なことだったことを今私はしみじみと思う。
同グループとの出会いのきっかけは昭和六十一年十一月に出かけていった天川川合から弥山、釈
迦ヶ岳を経て前鬼に至る山行のおりであった。
 最終地、前鬼の宿坊で知り合った山伏、浦地了寛氏の話で、南部大峯の刈り拓けを数年間にわた
って実施してきた新宮の山グループの団体が、刈り拓け行の満行を記念して南部大峯奥駈の縦走を
実施し、翌日、この前鬼に降りてくるということを知ったのである。また、同夜、宿坊で一緒した
年輩の登山者からも、新宮山彦ぐるーぷの建てた持経宿小屋の話などを聞いて、私は是が非とも同
グループの人達に会いたいという気持ちに襲われたが、翌日は日に二本しか運行していない大和上
市行きの最終のバスに乗るためには、同グループの下山を待っている余裕は無いと、その実現につ
いては断念していた。
 翌日昼ごろ、後ろ髪を引かれる思いで前鬼を出発し、二時間後に前鬼口のバス停についたとき、バ
ス停には十数名の登山者達がバスを待っていた。私もその列に並んでバスを待っていたときに、国
道を一台のワゴン車が南の方からやってきてバス停のところで停車し、中から年輩の二人の登山着
姿の男女がおりてきたのである。
いかにも温厚そうな品の良い人達で、ご婦人のほうが、しばらく我々バス待ちの一団を見つめていた
が、遠慮深げに「皆さんは釈迦ヶ岳から降りてこられたのですか?」と話しかけられてきた。すぐさま
答える人がいなかったので「ええ、そうです」と私が受け応えをし、彼らの車が南部のほうから来たこ
とに興味を覚えていたのですぐに「どちらの山へ行ってこられたのですか?」と尋ねた。もしかしたら
南部大峯の情報が得られるかもしれないと思ったのである。その婦人は、自分たちが山登りではなく、
きょう、大峯を縦走してきて前鬼に下山する仲間達を迎えに来たことを話し、私は、昨日聞いたばかり
の山伏の話から、この人達は新宮山彦ぐるーぷの人達に違いないと直感し、尋ねると、そうだとの答
えであった。 これが、私と新宮山彦ぐるーぷの運命的な出会いであった。私は、自分のこの幸運に
驚喜し、まず、南部大峯奥駈道の復興に尽力されたことへの賞賛の気持ちを表明し、私のかねがね
抱いていた南部大峯の山々に対する思いを伝えるとたいへん喜んでくれ、そのころにはもう一人の
男性(この二人の男女が福井ご夫妻だったのである)と、車を国道から引っ込んだ所に停めてきた
運転手の男性も話の輪に加わって、熱っぽい口調で異口同音に南部大峯の道が初心者でも迷うこ
となく安全に通行できることを話してくれたのである。そして、詳しいことは新宮山彦ぐるーぷのリーダ
ーに直接聞くのが良いということで、このとき初めて玉岡憲明氏の名前を知ったのである。
 玉岡氏はその人格高潔なる故にその後、私にとって単なる山でのお付き合いの間柄を越えて、人
生における私の敬愛し、頼りとする大先輩となるのだから、このときの出会いは、おおげさなと思われ
るかも知れないが、私にとっては運命的なものを感じるのである。それにしても、あのときバス停には
他にも大勢の登山者がいたのに、誰一人私らの談笑の輪に加わってこなかったのは不思議なもので、
こんなたぐい稀なグループと知り合うチャンスをものにしなかったのは本当にもったいないことだと思う。
余計なお世話だろうけれど。
 
 奥駈本文に戻す。
 登り道はすぐに終り水平道がつづく。左手に樹林の間より熊野川や旧本宮社の森が見え隠れするが
視界はよくない。
 やがて右手に海神社跡の標識のあるところに来る。


 ここから七越峰手前まではあまり起伏のない丘陵地形で、多少の登り降りはあるがほとんど平坦な
樹林の中の道である。
 空は曇天で、昨日の予報では晴れと告げていたのに約束が違うではないかと思ったりする。そのか
わり、野鳥のさえずる声が早朝の森の中の静けさを際立たせてくれてとても清々しい。
 私は野鳥にはうといが、ずいぶんいろいろな種類の鳴き声が聞こえてくることから察するにそうとう
な種類の小鳥がいるように思われる。さほど関心の無い私でもその鳴き声にこれだけ心惹かれるの
だから、昨年秋、和佐又山で出会った野鳥愛好会の人たちだったら狂喜するのではないかしらといっ
た想いが頭のなかを去来する。
 七時三十分、七越山に到着する。


標高三百メートルちょっとの低い山だが、歌人、西行の「たちのぼる 月の辺り雲消えて 光重ぬる七
越の峰」と山家集に歌われている山である。西行を深く敬愛する私の父がこの場にいたらさぞかし感
慨をもよおしながらあたりの景色を眺めることだろう。

 頂上はつつじが咲き乱れ、照明がついたような華やかさである。


今日は祭りがあるらしく、紅白の幕や旛が立てたり張られたりしており、その準備をしている峰園氏と
いう方に会う。
挨拶をかわし、行く先を聞かれたので玉置山までと答えるとびっくりしていた。山上氏が私を指して吉
野まで行くことを話すと、目をむいて「まあ、なんと大変なことを」と言い、お供えの紅白の餅をくださっ
た。おかげで七越山の神仏に供える餅を携えて奥駈に出向くという有り難いことになったのである。
峰園氏は、仏生ヶ岳の谷間で働いているとのこと。 記念写真をとり、ほこらに合掌しそこを出発する。
[この峰園氏とは平成元年九月に青岸渡寺の奥駈に同行したときにも同じこの場所で出会った]
 七越山を過ぎたころから空が明るくなってき、昨日の予報が正しかったことを実証してくれる。
 きょうのコースの山域は全くの初めて通るところなのでなによりも山の景色を楽しみたかった。後半
の大峯北部がすべて雨天でもよいからこの第一日目だけはなにとぞ晴天を、とひたすら望んでいただ
けに何とも言えぬ嬉しさが湧いてき、明るい尾根道を心も軽く歩いていく。


 鉄塔の建つ見晴らしの良い尾根に出るとそこが吹越峠である。南部の眺めが素晴らしく、尾根をは
さんで南西部に熊野川と本宮町、南東部に熊野の山々が見える。


なかでもひときわ目立つ山があるので一族山ではないかと山上氏に尋ねるが確定できないとのこと
で、二月に登った和気の森山も見えるはずだがどれだか解らない。写真に撮っておいて後日検討す
ることにし、休憩もとらずにそこを出発する。[この山は如法山であった]

 
しばらく明るい尾根道を歩いたあと坂を下っていき、うす暗い樹林のなかに入っていって第四靡吹越
宿
(ふきこしのしゅく)
に着く。わりあい広い窪地になっていてお堂が建っており、あたり一面雑草の茂
るなかに見覚えのある花が群生している。


 二年前、家族で大峯の大普賢岳に登った帰りに車で通りかかった車道脇に咲いていた花を、私が
反対するのを「絶対に枯れさせないから」と女房が取って持ち帰り、約束どおり枯らさずに今年も白い
花弁に紫色の模様の入ったなにやら複雑な形の花を我が家の玄関横で咲かせているその花である。
図鑑で調べたところ、多分シャガの花だと思う。
 花にははなはだ暗いことをコンプレックスに思っている私にとって、見知らぬ異郷で旧知の知人に
会ったような気がした。ただこのあたりは薄暗く、あまり長居する気にはなれないところである。
 吹越宿を過ぎてゆるやかな下りを十分ほど行き、ヘアピンカーブの道を少し登っていくとさんざい山
在峠である。


 ちょっとした台地で、地蔵を安置した石室を左右に従えて宝筺印塔(ほうきょういんとう)がひっそりと
建っている。東側に視界が開けた明るい静かなたたずまいの所で、前方にかぶともり甲森のドーム型
ピークを初めて望見する。
[現在、林道が山在峠すぐそばの尾根を乗り越えており、せっかくの静寂な雰囲気が台無しとなってい
る。]



ここからいよいよ本格的な登りとなるようで気を引き締めて出発し、東側の山腹の道を行く。やがて高
圧電線下をくぐり抜けたあたりからジグザグ道の急登がつづき、鉄塔の建つ尾根にふたたび達してそ
こから道はいくらかゆるやかになっていく。上空は雲ひとつない晴天で汗が吹きでるが、明るい空の
下、新緑の美しさがすべてを快適なものに変えてくれる。




 十時に初めてピークらしいピークの大黒天神岳(573.6m)に着く。ここは第五靡である。木立のあい
だに南部の方角が少し見えるくらいで視界は今ひとつだが、明るく乾いたところで日陰もあり休憩に
は良いところである。


 山上氏が「冷たい飲み物を作るから」と言って用意してくれたのは夏密柑の生ジュースに氷を入れ
たものだった。
氷は本宮の宿で手に入れて保温用の袋に入れて持ってきたそうで、まあよく溶けもせずにここまで
持ってこれたものであると驚かされた。私なんか考えもつかないことだけに、山慣れした人は違うな
と思ったものである。そのおいしいこと、ほんとうに山の上では色々なものがその持ち味を倍加させ
るものである。
  この時、初めてコップを忘れてきたことに気がつき、それではこの先長い道中で不便だろうからと
山上氏が持ち合わせの容器を貸してくださる。大がかりな縦走をやろうとする者にしてはお粗末な
話である。

 五大尊岳から果無山脈を望む

 十分休憩のあと山頂を出発して今度は坂道をどんどん下っていく。やがて下りきった鞍部が第六靡
の金剛多和の宿で、細い樹木が生い茂る木立に囲まれた狭いところである。


 ここから五大尊岳(825m)への登りはかなり手強いから、と言う山上氏の言葉に気持を引き締めて
地面を根子がはいまわる赤松の林の坂を登っていく。このあたりは草も生えておらず、赤松の落葉
が一面に積もっているために登路が不明瞭で、一人だったら不安に思うところである。
 今年の二月に和気の森頂上に登ったとき、北方の厚くたれこめた雲のなかに数々のコブを持って
除々に高度を上げていく五大尊岳の姿を眺めたことが印象深く記憶に残っているので、この知識が
ピークの頂上を迎えるたびに、本当の頂上はまだまだ先であるという心構えをつくってくれ、落胆もせ
ずに一定のピッチでそれほど疲労も感じずに登っていくことができた。しかし玉岡氏の手記にも記され
ていたが、けわしい急坂とやせ尾根の続くといったいかにも修験の山にふさわしい雰囲気の大峯らし
さを感じさせてくれる山域である。


 前方のこんもりとした森の向こうに青空を背景にしてまたピークが姿を現わしたとき、山上氏が「あれ
が最後のピークです」と言った。そしてそこに着いて本当にそれが最高点のピークであったのには、何
度も来ているとは言えその正確な判断に感心させられたものである。
 第七靡、五大尊の石仏が安置してあるところは最高点を通りすぎていったん下ったところにあり、す
でに山上氏は休憩をとっていた。


 時刻はちょうど十一時半。せまい岩稜の尾根であるが明るくてそよ風も吹いていて涼しく、背の低い
樹木が足もとにびっしりと茂っているが展望もまずまずで実に快適な気分にさせる所である。もっとも、
これらの樹木があるから平気で突っ立っておれるけれど、左右前後の地形から想像するにそうとうに
切り立ったやせ尾根である。 西北西の方角にこれから目指す大森山から西へ派生する尾根が、こ
こからは下方までは見えないが十津川に下降していき、その向こうの西側には同じように十津川に急
下降してくるはてなし果無山脈が見わたせる。蟻の熊野詣で有名な熊野古道は、田辺より内陸部に
入ってこの果無山脈の南麓沿いを通って本宮の地に入るのである。[ここから真西に一族山が見える。]

奥に果無山脈


 居心地の良さに十五分も休む。山上氏の良きリードのおかげで体調も絶好調のままきょうのコース
の半分を走破する。
 夏みかんを食べて元気に出発。しばらくは下り道ですぐに登りに向かい三十分足らずで切畑辻に出
る。分岐路になっており、さほど印象に残るところではなかったがここから登り一方なので十分間の休
憩をとる。


 これより今日の核心部、大森山への登りである。ここを登ればもうあとはたいしたところはないから
頂上に着いたらビールを飲もうとの山上氏の言葉に、私は半信半疑ながらも元気に出発する。
 大森山は私にとっては予想していたよりも楽な登りで、頂上に着いたときは、おや、もう着いたのか
という感じだった。
 なだらかな山頂は植林帯と雑木林の境目になっており、見晴らしはまったくきかないが明るくて広
々としており、昼食休憩にはもってこいのところである。「前に来たときにはもっと雰囲気がいいように
思ったのだが」と、案外であったというように山上氏が言われたが、私には十分満足できる山頂のた
たずまいであった。
 大森山と名はあまりぱっとしないが、昨日、十津川沿いに走るバスの窓から眺められたこの山の大
きさは圧倒的で、本当にあんなところを縦走していけるのだろうかといくぶん弱気な気持ちになるくら
いの見事な山塊といった印象を受けたものだが、今その山の上にいるのである。昨日、十津川村を
走るバスの車中で、五条から乗車した老夫婦の主人のほうが、「宮様はこんな深い山の中を落ち延
びて来られたんだな……」と、しみじみとした口調でつぶやいておられたことを思い出した。宮様とは
もちろん大塔宮護良親王のことで、このご老人がまるで、かって仕えた主のことを語るような口調が
印象深かった。
 山上氏が広々と敷いてくれたシートの上ににすわりビールで乾杯する。実にうまい。昔の山伏は、
この汗をかいたあとにビールを飲むときの至福の気持ちはご存じなかったわけである。旅館で用意し
てくれた弁当もたいへん美味だった。


 天気は良いし、食後ゴロッと横になって樹林のなかを渡ってくるさわやかなそよ風の愛撫を受けなが
ら休んでいると極楽のようである。
 山上氏が、ここまで来ればもうあとは楽なものであるとしきりに言われるが、本当かしらという思いが
ぬぐいきれない。
 山行前に地形図でいろいろ検討していたときに、きょうのコースで一番注意を引いたのが大森山と
玉置山の間の竹筒辻(たけとうつじ)の深い鞍部(山の尾根の窪んでいる所、コルともいう)で、それは
鞍部というよりはいったん山を降りて別の山に登りなおす地点といった感じで、しかもこれがきょうのコ
ースの一番最後にあるために疲れた体には相当こたえるのではないかと予想していたのである。しか
も昨日のバスの窓から眺められた大森山と玉置山の鞍部は深く切れこんでいた。まあ、こういった私
なりの予測もあって、何度もこのコースを歩いておられる山上氏の言葉とはいえ疑問を抱いたわけで
ある。
 昨年五月に吉野から前鬼に縦走したとき、二日目の山上ケ岳から長時間歩いてきた最後に「胸突き
八丁」といわれ聖宝の急坂を登ったときの地獄のような苦しさは今もって忘れられないものがある。[山
伏の林谷氏に聞いたのだが、修験者の間でも「大峯名物・聖宝の登りに前鬼の降り」と言われるくらい
この登りは有名だそうだが、昭和六十四年にジグザグ道の新道ができ、現在ではずいぶん楽になって
いる。]

 玉置山と十津川村の廃仏棄釈
 四十分休憩後に出発。
 大森山・大平太山・甲森と、奥駈道に通せんぼするかのように東西に広がる大きな山塊の北面の
山腹に付けられたゆるやかな坂道をどんどん下っていく。
 すぐに樹林帯を出て、谷をはさんで向こう側に玉置山・宝冠の森などの山を見晴らせるところに出
る。玉置山の向こうには笠捨山・地蔵岳などの山々も連なって見え、玉置山、笠捨山をこのように重
ねて眺めるのも初めての経験で、ちょうど十日前の笠捨山頂上の時と逆の位置にいるわけだ。


 そんなこと、ことさらに言うほどのものかと思われるかもしれないが、山好きな人間で、ある特定の
山域にこだわる者はこんなことにも並々ならぬ興趣を感じるものなのである。
 玉置山は指呼の距離のようにも思えるが、予想どおり間の谷間は深く、これをくだってまた向こうの
山頂に登るのが果たしてそんなに楽なものだろうかと山上氏の言を怪しむ気持ちがますます湧いて
くる。


 篠尾(ささび)辻はいつのまに通りすぎたのか認識の無いまま道は急坂となってどんどん高度を下げ
ていく。丈の低い草木地帯となったところで向かいの玉置山側の全貌が上下左右くまなく見わたせる
ようになりたいへん広々とした眺めとなる。しかしこの位置からみる山の形は凡庸で今一つパッとしな
く、おまけに山腹をナイフでひっかいたかのようにドライブウエイが左右を斜めに走っており、写真の被
写体としては台無しのありさまだ。
 水呑金剛(みずのみこんごう)の分岐で休憩する。斜面の下方十五分ほど下ったところが第九靡水
呑金剛だそうだが、一様に緑におおわれた斜面は上から見てもどこか判別つかない。
 そこから道をわずか下っていったところでいきなり林道に突き当たる。そしてそこにランドクルーザー
が一台駐車してあり、開け放してある後部ドアの中に猟犬用のものらしい鉄製の檻が、これまた入り
口を開かれたままにして置いてあった。ハンターがこのあたりの山に入っているようである。
 二月に和気の森山で、二組のハンターと猟犬に出会ったときに玉岡氏がひどく緊張したことを思い
出した。手負いの猪は狂暴になって人を襲ってくるそうでたいへん危険なのである。
 人の趣味をとやかく言いたくはないけれど、楽しみに動物を殺すのはどうしても好きになれない。「い
まは禁猟期のはずなのに」と山上氏が不満気につぶやいていた。
 このあと竹筒辻まで林道が続く。
 竹筒辻には午後二時五十五分到着。大森山より一時間で来れたわけだ。地図には本宮辻と記入さ
れているが、そもそも辻名というものは本道よりも支道の到達地名を冠するものであるから奥駈道の
発着点の本宮の名をつけるのは誤りである、という玉岡氏の主張に従い、私も竹筒辻で通している。


 立派な舗装道路と山道の交差するところに竹筒辻(文字としては本宮辻と記入してある)の標識と
真新しい木製の記念柱が建ててあり、それに「弘法大師建立塔」、右隣の面に「平家一門供養塔」
と筆太の文字が彫りこまれている。
「この塔は初めて見る」と山上氏が言っていたので、つい最近たてられたもののようである。


 この地域にゆかりの平家の武将といえば那智の海に入水自殺したといわれる平これもり維盛が有
名であるが、維盛は妻子家族すべてを都に残して熊野に逃れてきたのだから別の武将かもしれない。
平家の武将達には深い愛着をもつ私には興味深かったが詳しいことは何も記入されていなかった。
 ここで八分間休憩して、内心かなりつらい登りを覚悟していた玉置山頂への登りに向けて出発した。
本日最後の登りである。そして南紀だけでなく、大峯全域にわたって高名な玉置神社の鎮座する山
への初めての登山である。
 私が大阪で出会った何人かの十津川村や南紀出身の人たち皆がこの山を登った経験を持ってお
り、その印象を尋ねると皆さん口をそろえて「いい山ですよ」と言っていた。
 山道は広くてゆるやかで、杉の大木が欝蒼と繁って薄暗く、今までの山とはいささか様子の違う由
緒有りげな雰囲気である。
 そして意外と言おうか、ベテランの地元の人のおっしゃることは信頼すべきなのかいっこうに苦しく
ならないのである。
 本宮を朝の六時半に出発してすでに八時間も登ったり降りたりを繰り返しながらたどり着いた最後
の大きな登り、決して楽なはずがないのだが、ゆるやかな広い道を歩きながら少しも辛くなく、苦しい
どころか山上氏と雑談しながら登っていくありさまだった。去年の聖宝の登りのときのように、無言で、
もうだめだ、もうだめだと思いながらただただ地面を見つめながら一歩一歩ふらつくように登っていっ
たことを思うと雲泥の相違である。
 玉置神社には予想したよりも早く着いたような感じがした。


 神社は古色蒼然とした立派な社殿と古い杉の巨木がおいしげる広々とした境内を持つ実に堂々とし
たたたずまいで、千メートルの高さの山の上にあるとは思えないくらいである。
 全村に寺の無い十津川村の人々の信仰を一身に集める存在だとなにかの解説書に記されていた
が、日本一広いと言われる十津川村に寺が一つも無いとは異様だと思って下山後調べたら、明治元
年、神仏分離令が出されたときに全国的に起きたはいぶつきしゃく廃仏棄釈が十津川村では徹底的
に行なわれたらしく、その時に寺も仏像・仏具もすべてつぶされてしまったそうだ。
 十津川村国道沿いの喫茶店のママさんにお借りしてコピーさせてもらった廃仏棄釈の資料によると、
村内の寺は、どういう訳か曹洞宗のものがたいへん多かった。それまで神仏混交であった玉置神社
でもこのときに社内の僧侶達が全員追い払われ、突然のことで行くあて先もない彼らはたいへん難
儀な思いをしたらしい。
 十津川村の人々は十津川郷士という固有名詞で呼ばれるくらい誇り高く優秀な人が多いと聞いて
いるが、伝統的に南朝の皇国史観の強い土地柄とは言え極端な面もあるような気がする。
 玉置神社の売店で買い求めた「十津川郷の昔話」の本に、お釈迦さまがマムシに手を噛まれて腹
を立ててそのマムシをたたき殺す話などがあるが、このような仕業ほどおおよそ釈尊の実像にかけ
離れたものはなく、この話は、十津川村の人々の釈尊、ひいては仏教への深い反感のうえに成り立
っているかのように感じたものである。
 前述の喫茶店のママさんに聞いた話だが、十津川村を襲った有史始まって以来といわれる明治二
十二年の大水害は、六百数十所帯、二千六百余名が村を捨てて北海道に移住したくらいの壊滅的な
打撃を同村に与えたが、これは廃仏棄釈のたたりではないか、と村の人たちは当時から今に語り伝
えているそうである。
 それにしても由緒深げな神社で、面白かったのは、出雲大社の出張社のような建物があったことで、
大国主命も伯耆大山を越えてここまではるばるやってこられるのだろうか。
 水を補給し、十五分ほど休憩して丸木で作った階段のつづく道を山頂に向かう。
 頂上着は午後四時であった。奥駈第一日目を無事に、しかも快適に走破したわけだ。
 頂上には、車でサポートしてくれた玉岡氏が運びあげたテントと荷物が置いてあるだけで玉岡氏の
姿はなく、忘れ物を駐車場まで取りにいったのだろうと山上氏が言った。
 頂上は平坦なところで、南北の方角は樹木と地形の起伏で゛景色は見えないが東西に視界が開け、
東側にはこの玉置山と尾根続きの、修験道の重要な行場である宝冠の森などのピークが見え、右
方向には、大森山の尾根続きの甲森が、どこから見てもそれと解るドーム型のピークからのゆるや
かな裾野を下方に向かって広げており、実に絵になる良い風景であった。

玉置山頂から東側を望む。一番奥の右側にちょこっとのぞいているのが宝冠の森

 頂上は真ん中付近がほんのわずか窪んでおり、人工的に植えたのか石南花の低い樹木が群生し
ている。のどかな感じで、ピクニックに来て昼食休憩などするにはよいところだがいささか人工的庭園
の雰囲気があり、なにか興醒めしないでもない。
 やがて玉岡氏が姿を現わした。やはり忘れ物があって駐車場まで行ってこられたとのこと。テントを
初め、水や食糧、それに今夜の野営に必要なもの全部を一度に担いで持ってきたそうだが、ものす
ごい重さのために五分ごと休憩しながらやっとの思いでここまで運びあげたとのこと。ほんとうに私の
ために難儀な思いをされて申し訳ないやらありがたいやら感謝と恐縮の気持ちでいっぱいである。
 第一日目が無事に終了したことを祝ってビールで乾杯する。そして夕食の用意をしてくれているあい
だに私はあたりを散策し、何枚かの写真を写す。
 料理はすき焼きで、テントの中でいただくすき焼き鍋はたいへんおいしく、酒も度を過ごさない程度
にかなり飲んだ。
 食事のあと薄暗くなってきた外で焚火をする。
 山彦ぐるーぷの人達はこの焚火が大好きと見えて、今まで同行させていただいた五回の山行です
べて焚火をしていた。
なかでも一番印象に残ったのは、玉岡氏と二人だけで登った二月の和気の森山上で、霧雨の中、風
よけのためにシートで幕を張り、濡れた小枝を寄せ集めて(地面に落ちているものは燃えにくいので、
木についている枯れかけたものばかり)苦心して火を点じ、やがて赤々と燃えだした火に暖まりながら
なまぶし生節と酒を飲食した思い出は、煙の目に染みいる痛さとともに忘れられないものがある。
(続く)