あとがき

 大峯奥駈道のほば全縦走を成し遂げることができて、山登りを始めてから四年このかた何か一区切
りのついたような気持である。
 熊野本宮から吉野蔵王堂までの全奥駈道の縦走というハイカーや山伏でもあまりやることの無いこ
とをやりとげたという、そう言った喜びとか誇りとかいったものを感じるからでは無く、私の愛してやまぬ
大峯のメインルートのすべての山を見てきたという充足感が私の心を満ち足りたものにしてくれたとい
った感じである。
 今後も事情が許せばまたやってみたいと思っている。一気の縦走が無理なら何回かに分けて行なう、
これなら何度もやる機会があるだろうと思う。
 しかし、縦走中はさほど思わなかったけれど、六日間の山歩きはさすがに身体にこたえ、普通、日帰
りや二泊三日ぐらいの山行だったら、降りてきた翌日はむしろ体がしゃんとしたものだったが、今回の
縦走後では、翌日を休養日にとっておいたけれども疲労の回復は遅く、一週間近く全身がだるかったり
して体調が思わしくなかった。
 大峯全縦走などは生半可な気持でできるものではない、と言われた玉岡氏の言葉が下山後実感と
して解る思いである。
 山彦グループのメンバーでも全縦走をやったのは、戸石氏と下山氏のたったの二人だけと聞いてい
るが、この方々は南部の道が復興される以前の話だから、それは格段にきびしい状況下で通行したの
で私なんかとは比較にはならない。私の場合、南部の道の復興がなされていなかったらとても不可能
だったし、またその気にもなれなかっただろう。
 全行程で一番辛かったのは、玉岡氏らと別れて、一挙に重いザックを背負って雨の中を歩いた三日
目の持経宿から深仙のコースで、距離は一番短いのに、他の日に較べて図抜けてしんどく、重い荷物
が相当負担になることを改めて思い知らされる思いだった。このことを考えてみても、玉岡氏、山上氏
の援助無しで、本宮から水や食糧を持って出発していたら(最初はそのつもりでいたのである)多分、
中途で挫折したのではないだろうか。本当にこのお二方に対しては感謝の気持でいっぱいである。
 反対に一番楽しかったと言うか、良き思い出となっているのが、山上氏と共に軽いザックで身も心も
軽々と歩いた初日と二日の日で、今この手記を書いている半年後に、初日の本宮から玉置山へのコー
スのことが、一番なつかしく印象深げに思い出される。
そして何故か、玉置山の素晴らしかった雲海よりも、五大尊岳山頂でさわやかな風に吹かれて、あたり
の山々の美しい緑色と青空の色が光り輝くように見渡せたときといった、山においてはどちらかというと
平凡な情景のほうが印象深く思い出されるのである。初めて通るコースといったことも影響しているのだ
ろうが、近いうちにもう一度あのコースを歩いてみたいと心が希求しているのである。
 登山ガイドブックや地図の解説書、それに大峯山秘録のような大峯に関する書物には、大小の差こそ
あれ、南部奥駈道は随所において道が消滅して、足を踏み入れる者のほとんど無い忘れられた山域と
して記述されているものばかりだが、昭和五十九年三月から六十一年十一月にかけての新宮山彦ぐる
ーぷのあしかけ二年半にわたる文字どおりの刈峰行のおかげで、今や、北部奥駈道に較べて何ら遜色
の無い立派な縦走路として見事によみがえっている。
 自然のままの野趣をそぐようなことをして、と批判的な意見の登山者もなかにはいるそうだが、そんな
方の気持も解らぬでもないが、道の無い山はこの近畿にでも無数にあるし、修験道の山として名高いこ
の大峯に深い憧れを抱く私のような素人のハイカーが、道の整備されたことによって、夢の中に描いて
いた山域に足を踏み入れることのできた喜びを持つ者のいることも知って欲しいと思う。
 しかし山道は、人が通らなければ自然に消えていくものであり、山彦ぐるーぷの人たちがせっかくよみ
がえらせた道がふたたび消えたりすることがないように、少しでも多くの人々に利用してもらうために、私
も微力ながらお手伝いをしたいものだと思っている。
 それと、山登りの同好会など大阪にいくらでもあるだろうに、寝屋川市在住の者が、何でまた新宮のよ
うな遠いところのグループに入ったのだとよく聞かれるが、当初のきっかけは、単に同グループが、我が
愛する大峯に深く関与していることにひきつけられただけのことなのだが、このグループの方々と何度も
山行をともにしているうちに、このグループが単なる山を登るためだけの会ではないことに気づいたので
ある。
 それは、幼いこどもから老人にいたるまで、少しでも多くの人に山登りの魅力を知ってもらうために初
心者向きの団体登山を定期的に実施し、来る者は拒まず、去る者はおわずの開かれた自由な雰囲気
をつくって、私のような県外の人間も暖かく迎え入れる度量の大きい会の雰囲気を持っていること、こ
れら登山を通じて集まってきた大勢の人の力を利用して、使用済みの古切手を回収してユニセフなどの
難民救済機関に資金を作っては定期的に送り続けていること、関西の陸の孤島と言われる熊野の地の
発展を宿願として、それに役立ちそうな企画や催しごとにはあらゆる努力を惜しまぬなどの社会性の高
さを内飽していることである。
 それを一時的なものではなく継続的に実践されていく玉岡憲明氏を初めグループの主だった人たちの
行動力と人柄に個人的に深くひかれていくようになり、今では私にとって、これがこのグループの最大の
魅力であると思うようになった。
 新宮山彦グループの人たちと知りあうまでは、新宮や熊野の地は私には馴染みうすいところであった
が、今では、テレビなどでこの地のことが紹介されると第二の故郷のようになつかしい気持がわいてき
て画面に釘付けとなり、同グループとの山行も、山に登る楽しみよりも山彦のメンバーの人たちとお会い
できる楽しみのほうが大きいという有様である。
 新宮山彦ぐるーぷとはそういったグループなのである。
 
                                               昭和63年秋  森脇久雄


岳友 森脇久雄君をサポート
  ・・・大峯全縦走の壮挙に夢を託して・・・
                                             新宮山彦ぐるーぷ世話役代表
                                                          玉岡憲明

 この友との出会いの端緒は、大峯南奥駈の刈峰行である。足かけ三年、四十五名の仲間がこの行
に投じた日数は三百十五日。漸くにして四十五キロ行程のうち、荒れ果てた二十四キロの径のりを刈
り拓いて、その記念山行を三日間に亘って実施したのは、六十一年十一月一日から三日であった。
その最終日、弥山から前鬼を経て前鬼口に下山した友が、福井かよ子さんと交わした会話から、彼は
我が新宮山彦グループの仲間入りしたのである。
 大阪・寝屋川市から夜行列車で二度、自家用車を駆って二度、はるばると行事に駆けつけて参加し
てくれた。並の人ではないことはもう既に充分証明されている。その友は、大峯にはなみなみならぬ
情熱というか、信仰みたいなものを抱いているようで、何度か北奥駈の道を歩き、南へも足を踏み入
れて、今回一気に全縦走をということに相成った次第だ。
だが、老いたる親父様はこの三十九才の息子を心配して、未知の山を一人では心もとなく、しきりに
引き留めるという。無理からぬことだ。ここはひとつ我々が人肌脱がねばと山上晧一郎氏と図り、彼の
壮挙に協力することとしたのである。
 一口に大峯の全縦走と言うが、役の行者が初めて開いた修験道の根本道場として、千二百年の歴
史を有する大峯には七十五靡という行場をはじめ、宗教、文学、戦史等枚挙に暇ない程包含されて
いて、とても一口には悟れないところとされている。この行場も通しで、いわゆる山林抖した修験者
も希であり、又、全縦走を記録した登山者も極めて少なく、我々の周囲を見わたしてもほんの二名しか
いない。私自身も通して歩いたことはなく、これからもおそらく出来ないであろう。
   四月二十八日
 山上氏を送って本宮、音無館へ。森脇君はこの朝、自宅を発って午後四時過ぎに着いたとのことで
ある。夕食を御馳走になって、三人で入山と成功の前祝いに乾杯する。そして、二人の宿泊用の荷物
を我が車に積み引き揚げる。
   四月二十九日
 新宮を十三時に出て、十四時半玉置山駐車場に着いた。
背負子に全装備をつけると、まるで荷物に押しつぶされそう。僅か二十分の行程のところを、三回にわ
けて運べば楽であるのを不精したばかりに、五十キロ余となったのであろうか、俺ももう体力も担荷力
も落ちたものよと情けなくなる。曾ては三十八キロのキスリングをかついで冬の八ケ岳へ行ったことも
あり、春の徳本峠には四十キロ余りで登ったこともあった。これももう一昔前のことである。
 本宮から佐田ノ辻までの間は初めての森脇君は、この山頂もいたく気に入って、眺める山々に一々
感嘆の声をあげる。こんなに喜んでくれる人と一緒に山を歩くのは楽しいし張合いがある。
 夕食はスタミナをつけるために上等の牛肉でスキヤキ。肉に目のない山上さんの瞳も輝く。ビールも
うまいし、酒も可成り飲んだ。
   四月三十日
 真夜中に仰いだサソリ座を中心とした星座の輝き、そして夜が明けての光景。それは北山川を埋め
つくした雲海と熊野の山なみの雄大な眺めに息を呑む。
 この山頂から随分とながめたものだが、今朝の眺めは最高。遠く信州の山の景にも決して劣るもの
ではない。
 山頂に塒(ねぐら)を構えた者のみに許される特権であって、吉野まで歩き通そうという友への何より
の贈り物となる。美的感覚の高い友の目は貪欲なまでにランランと輝いている。荷物を優先してカメラを
置いて来たことが悔やまれるが、サポートに撤することも大事とあきらめる。
 四時半に起きて、三人の食事一切を作って食べ、二人はサブザックで六時、テントをあとにして持経
宿山小屋へ向けて、林に姿を消して行った。あとの始末一切をやり、テントをたたんで背負子にくくりつ
けたところ、水八リットルと食料が減った筈なのに、昨日とあまり重量が変わっていない。それもその筈、
ゴミを焼却するときに拾った銅線が十キロ程の目方となって載っているからである。
 北側の雲海も又すばらしい。彼ら二人はこの雲海の上を歩いているのだ。それはまるで雲の上のジュ
ータンに乗った気持ではあるまいか。こちらは車で下るに従いガスの中に入って霧よけランプを点して
、一旦国道一六八号に出て、滝より三九九号に入り白谷(芦廼瀬川)に沿った山腹道を走る。
 行仙隧道への道を右に見送って営林署専用林道に入ったところ、悪い予感が的中(?)して、ゲートが
閉ざされている。これはえらいことになった。隧道を抜け浦向、池原を迂回して若し、池郷林道も閉められ
ていたならば、この重荷をわけて二往復せねばならぬ。一往復に三時間として、六時間もかかる大変な
サポートとなると頭の中で計算する。反転を前にして確かめようと車をゲートに寄せると、なんと嬉しや
鍵がかけられていない。助かったと思った。外して車を中に入れ、再び閉ざして一気に走り、持経小屋
着十時。
 谷から水を補給して来て、少し早めの昼食をとり、スモールザックに鋸、鉈、鎌の道具を入れて平治
小屋へと向う。ムラサキヤシオの花がまだ残っていて目を楽しませてくれる。  平治小屋の水場一帯
は昨年伐採されてしまって、ここの水場も涸れがちとなる。数年内、いや、二、三年以内にはこの小屋
を建て替えたいと思っているが、先ずこの水場の整備が先決問題で、岩の凹地にコンクリートを打って、
常時十から二十リットルの水がたたえられているようにしておかなければならない。十一年前、新宮の
山仲間達が力を併せて、屋根の雨漏れや、床張り、腐った柱の取替え、窓作りなどして再生させたもの
の、元々堀立式の仮小屋であったから老朽化は早く、早晩改築をせまられているところである。南奥
駈の道を整備した今日、人の足は急速に多くなるのは確かで、持経小屋だけでは収容し切れない時
が来るであろう。又、我々自身が動ける今をおいて改築することは出来ないのではなかろうか。
 鎌で水場への道を刈り、ガラ場の下部に伐採されて放置された木を切って担ぎ上げては段差作りの
材料にする。足場が悪く、ゆがんだ木をたばねて持ち上げるのも一苦労。喉がカラカラにかわいて、水
場に水を求めるも、晴天続きともあって皆無の状態。僅かに伝う湿り気をすすって僅かにかわきをい
やす。段差は十一段作って投げ出した。だが僅かに十一段とはいえども、一人で三時間程で木を伐り、
運び、杭を打ち込む工程は、過日の五人半で一日がかりの八十八段をつくったのと較べても豪も遜色
はない。
 外に出して陽にあてていたシートを取り込み、小屋の周りの笹を刈り払い、小屋を掃き清め、便所を
洗い流しして午後四時引き揚げる。路上にメモして、何時頃やって来るであろうか二人の友に、アリ
ナミンドリンクを置く。帰りは下りであるのに体がだるく、二度も休憩をとって、五時前に帰着。そろそ
ろ炊事にとりかかろうとしていた五時十五分、意外に早く二人は元気に到着した。
 何と十一時間十五分の好タイムである。全行程のうちでも最難所をかくして片付けたことは、もう目
的を半ば成就したも同然である。おめでとう!ごくろうさん!と互いに固い握手をかわす。
 まずビールで喉のかわきをいやし、生節を肴に一杯傾けながら、エンドウ豆入りの飯を炊き、今日の
歩みに花を咲かす。
   五月一日
 折り悪しく今日は雨になった。友は今夜の泊り場、深仙の宿址に向けて一人で、小雨煙る尾根道に
わけ入って行った。コールを送ると彼も答えを返してくる。又コールをかけると彼も応える。更にコール
を届ける。吉野まで無事に辿り着くことを念じて、我々が果たし得なかった大峯全縦走を、この森脇久
雄君に託したようなものである。              (一九八七)