第二日目  玉置山〜持経宿 62.4.29 (後編)

行仙岳と実利行者
 佐田辻は、手前三分のところで休憩したのでそのまま休まずに通過する。
 ここらあたりは木立に囲まれているが、尾根筋なので明るく、心が浮き立つようなよい雰囲気のとこ
ろである。
 道の右手のほうは、動物が侵入するのを防ぐための布製のネットが張りめぐらされているが、昨年
十一月新宮山彦グループが奥駈道開通記念縦走でここを通ったとき、一匹の鹿がこのネットにから
まって死んでいたそうで、山林に働く人たちには仕方のないものであろうが、何とも違和感を感じる代
物に思えた。
[現在、新宮山彦ぐるーぷがこの佐田辻に無人小屋を建設中である。玉置山と持経宿間のコースの
所要時間が十四時間もかかって一般むきでないことを青岸渡寺や三井寺の奥駈を手伝う度に痛感して
いた玉岡氏が佐田辻に無人小屋建設を思い立ったのである。
 玉岡氏は新宮山彦ぐるーぷの仲間達に呼びかける一方、大峯修験道に関係の深い三井寺・聖護院・
大峯山寺・金峰山寺・青岸渡寺(たいへん俗っぽい言い方になるが、青岸渡寺の副住職の高木亮英氏
に初っぱなにぽんと二百万円のお金をご寄付いただいたために以後のお寺での話がスムーズにいった
ことを同行した私は強く感じた)の諸寺にも勧進にまわってついに千四百万円の資金を集めるに至っ
た。
 そしてそれらと平行するように十津川村や下北山村、各営林署それに建築予定地の地主である建設
会社との交渉に飛び回り、昨年(平成元年)秋に着工にこぎつけた玉岡氏の苦労は並々ならぬものが
あったのである。この小屋は平成二年夏に完成し、行仙宿小屋と命名された。]
 前回のときもそうであったが、佐田辻から行仙岳へは何となく、あまり高度差無くスムーズに行け
るような錯覚を起こし、実際はなかなかの登り坂で急激に疲労感を感じだす。
 佐田辻から二十分で行仙岳頂上にたどり着くが、二日間を通じていちばん辛く感じた登りだった。
 前回の十一月のときにはここで完全にばててしまい、一時は持経宿行きを断念するところまで気持
ちを追い詰められた場所で、二度にもわたって苦しめられるとはなにか因縁めいたものを感じる。
 昨年の六月、本宮から吉野までの全奥駈道を四十八時間で走破したという超人のような八尾市の斉
藤正博氏の手記に、行仙岳で錆びたブリキ缶の中に溜まっている水を虫の死骸等を取り除きながら腹
一杯飲んだことが記述されている。そのブリキ缶が頂上直下の坂の右横にちゃんとあったので興味を
もってのぞいてみたが、缶の内部の錆と木屑、落葉にはては油まで浮いていて私にはとても飲める代
物ではなかった。
 行仙岳(1227m)着午後二時二十四分。
 私がまだこの大峯南部に行ったことがなかったころ、地図で南部の山々に親しんでいたときに一番
惹きつけられた山の名がこの行仙岳であった。
 この山名の漢字の語感も、ギョーセンという発音の響きも、いかにも人里離れた修行の山、聖なる
山といった雰囲気をもち、大峯らしい名前を持つ山だと思ったからだろう。 
 実際にもこの峰は、最後の捨身行者と言われた実利(じつかが)行者が修行した山としても由緒あ
るのである。もっとも私は、この捨身行者実利については玉岡氏からその本を見せてもらって初めて
知ったのだが、明治の初期に山岳修験道のあらゆる行を修め、明治政府の修験道禁止令にも屈せず、
牢獄につながれながらも初志を貫徹して最後は那智の滝から投身して自らの命を断ってその行を完成
させたといわれる荒行の修験者である。
修行のかたわら、実利を慕う下北山村の村民達を率いて、荒廃した南部大峯の奥駈の道の再興に尽力
し、時の皇族から、役ノ行者に比して「第二代行者」と尊称を奉られたという。 那智の滝から捨身
して息絶えた後に信者達が滝壷から亡骸を引き上げたとき、結跏趺坐の姿勢をくずさぬままの姿だっ
たそうで、最後までつきしたがってきた下北山村浦向のある信者は、実利死後五十年たった後にも何
かのことで師の名が話題に出てくるとき、いつも涙ぐんだといわれる。
 実利に魅せられたアンヌ・マリー・ブッシーというフランス人女性によってその伝記が書かれて本
になっているが、この本は、私も是非欲しいと思って書店に注文してみたが、わずか四年で絶版とな
っていた。
 一般的には売れにくい本であることから予想はしていたが、その後問い合せた大阪府立・京都府立
・奈良県立の各図書館、そしてこここそはと思った天理図書館のいずれにもその本が置いていないの
には驚いたものだ。
[新宮山彦ぐるーぷを率いて実利と同じように大峯南部奥駈道の復興に取り組んできた玉岡氏はこ
の実利行者を守護神として尊崇しており、行仙宿に山小屋を建設するに先だって、付近の山腹を水場
を求めて何日も探し回っても見つからなかったとき、いよいよもう駄目かと思ったころに、朝、出発
する前に実利に祈念して山入りしたその日についに四ノ川谷に面した険しい山腹に水場を見つけたの
である。平成二年、建設成った行仙宿小屋のすぐそばに行者堂も建てられ、その中に役ノ行者像(聖
護院所蔵の古い木彫り像を同寺院から寄贈された)とともに山彦ぐるーぷの注文で新宮市の仏師によ
って彫られた木彫りの実利行者像が祭られている。]
[後に読んだフランスの現代思想家モーリス・パンゲの「自死の日本史」(筑摩書房)のなかでも
この実利行者のことが取り上げられており、日本では一般はおろか修験道関係者のあいだでも知る人
のほとんどいない実利が、二人ものフランス知識人たちの深い関心を呼び起こしていることに興味深
いものを感じた。実利は現代の修験道の世界ではなにか異端視されているふしがあるが、マルキド・
サドやジョルジュ・バタイユのような異形の思想が育つフランス人の精神の根幹に同調するものが実
利行者の心身の行動のなかにあるのかもしれない。]
 しかし、聖なる山のイメージとは裏腹に、現在の行仙岳の頂上は電話局の無線塔やマイクロ反射板
が建ちならび、その現代的な建造物のためにどこから見てもすぐそれと解る皮肉な様相の山になって
いる。
 北部の視界は広く、釈迦ケ岳・孔雀岳もわりかし大きく見え、目の前に倶利迦羅岳や転法輪岳がそ
れこそ指呼の距離といった、たたずまいである。
 南部も視界はきくが樹木に邪魔されてもう一つすっきりせず、位置的には笠捨山・地蔵岳の絶好の
展望所となるべきところなのにまったくもって残念である。この次来るときは、ゆっくりと時間をと
って、コンクリート建造物の上にあがるか、あるいはどこか視界の開けるところを探して笠捨・地蔵
を谷底からの姿で見たいと思ったものだ。
 [その後(平成四年)、頂上直下の無線塔の建つ台地の樹木が切り払われ、笠捨・地蔵の山々の展
望が思うままに眺められるようになっている。]
 十分休憩後、行仙岳をめざすが、私の思惑に反して山上氏は登ってきた道とは反対の、つまり北西
のほうに向かって歩いていくのである。
 山と高原社の色刷りの地図には、行仙岳では奥駈の道は山腹を巻いており、頂上へは東部から往復
する道が記されているだけで、前回も巻き道まで戻って行仙岳の東の山腹を巻いていったのである。
 [この巻き道との分岐から水平道をしばらく佐田辻のほうへ行ったところの左手に岩峰が見える。奥駈
道からはそう高度差はないが、北側は断崖絶壁になっており、昭文社の地図に継窟としるされて
いるところで、吉野群山に岸田日出男氏が縦走の途中、この継窟を探検したことが記されている。
 断崖にロープを使って二十五メートル下った所に小さな足溜りがあり、その右方に窟の入口がある
そうで、窟は奥深くはないが湿気が少なく日当りもよさそうで入り口近くの天井に鍋を吊す鈎をひっかけ
たと思われる彫り込みもあり、言伝えにある継(つぐ)という山賊がすみかとしていたところであろうと書
き記してある。
 また下北山村村長・西尾為次郎氏の話として、継という男は前鬼の人で新宮藩に反抗し、西山村(南
牟婁郡)高取の城主に追われて継の窟に逃げ込んだものであるという話も記してある。
 前鬼の人でつぐ継とい名を聞くとすぐさま前鬼五家の一つ五鬼継を思い浮かべるが、ここの家の出な
のか興味があるところである。
 なお「吉野群山」にはまったく触れられていないが、実利行者もこの継窟で稗と粟だけを食べて山ご
もりの修行をしていたことが下北山村史にのっている。
 この継窟の真下の谷を走る林道を浦向行く途中に実利が修行したと言われる行者滝があり、林道か
ら歩いてすぐに行けるところだし、美しい滝なのでここを通りかかった人は是非見に行かれることをお薦
めする。そしてその際、林道から河原への下り口近くにある実利を祭る社に合掌していただけたらたい
へん結構なことだと思う。]
 これら南部奥駈道の整備をした新宮山彦グループはピークを忠実にたどっていくのをモットーとして
おり、
ここ行仙岳も従来からある巻き道を捨て、頂上から怒田宿(ぬたのしゅく)に一気に降りる道を開拓し
たわけで、笠捨山も同じグループが尾根道を作るまでは昔の巻き道のほうがよく通られたそうである。
前回歩いたとき、以後太古の辻まで数多くのピークの続く中、山腹を巻いているのはただ一ヶ所だけ
だったように記憶している。
 しかし行仙岳の北斜面はかなりの急坂で、木材で補強されたような段差がないので滑りやすく、非
常に降りにくいところで、雨の日なんか目もあてられないあり様ではないかと思った。
 後に玉岡氏にこの坂のことを話したら、この近辺には材料に使う適当な木が無く、気にはなっている
のだがなかなか手を付けかねているとのことであった。
 これも後日談だが、私の縦走の二十日後に雨天の中をこのコースを通った三井寺修験の方々にこ
の行仙岳の北斜面の感想を尋ねたら、皆さん異口同音に「いや、あそこは滑って滑ってまったくまいっ
た」と言っていたものである。
 この急坂を降りた鞍部のやや行仙岳よりが怒田宿跡である。樹木がまばらに繁る広場になってキャ
ンプ地にも適しており、当初、二日目の野営はこの地と予定されていたのだが、玉置山で駐車場から
頂上まで六十キロの荷物を運びあげたのが玉岡氏にはよほどこたえられたようで、林道がすぐ小屋の
前まで来ている持経宿に変更したのである。

転法輪岳での忘れ得ぬ思い出
 行仙岳から見る倶利迦羅岳はすごく間近に見え、たかだか三十分ぐらいの距離かと思いがちだが、
意外となかなかの距離がある。
 前回ここを通ったときはばてたあとでとぼとぼと歩いたとは言え二時間近くも要したところで、山上氏
も同様のことを言っており、この辺りのスズタケの苅開けが一番手間暇かかったそうで、行仙・倶利迦
羅岳の距離は多くの人が同じような錯覚を起こすようで、思惑がはずれてばてる原因にもなるので要
注意である。
 今回は、佐田辻から感じだした疲労感も、行仙岳の十分間の休憩で完全に回復し、山上氏はいつも
安定したピッチで歩かれるのでそう疲労も感じず、一時間足らずで倶利迦羅岳に到着することができ
た。
 頂上直下の急坂の手前に痩せ尾根があり、右側の岩場から向こうは奥地川谷にスパッと切れ落ちて
いてなかなか感じの良いところである。
 [この場所は私の記憶違いで、倶利迦羅岳頂上直下ではなく、もっと手前のピークであることをそ
の後にいってみて知った。]
 倶利迦羅岳で十分の休憩のあと出発。両方に岩場がせまった狭い斜面のくさり場を降りてすぐに右
側に巻いて行く。
 尾根は今度は北東の方角に向かって転法輪岳へと延びていく。
転法輪岳(左のピーク)

 この転法輪岳も前回の山行で忘れられない思い出のあるピークである。
と言っても別にこれといった出来事や不思議なことに出会ったといったエピソードのようなものでは
なく、私の心の大きな動きが今もって忘れられない印象を残しているのである。
 前回、つまり昨年十一月に浦向から初めて大峯南部の山に足を踏み入れて行仙岳の頂上で完全にば
ててしまったことは前述したが、このとき一時は持経宿まで行くのを断念して下の林道に降りようか
と思ったのである。
 しかし行仙岳頂上で休憩しながら迷いに迷ったうえ、途中の道が迷う心配の無いはっきりとした一
本道であることを前鬼の宿坊で同宿した信頼できそうな登山者から聞いていたこと、その日の気温が
非常に暖かく、持経宿小屋まで行き着けなくても途中、シュラーフとシュラーフカバーで野宿できる
こと、そしてヘッドランプの予備の電池をたくさん持っているので夜間歩行も心配無いことを考慮し
たうえ、予定どおり持経宿へ向かうことにした。
 昭文社の地図のコースタイムに倶利迦羅岳まで一時間、倶利迦羅岳から転法輪岳まで一時間、転法
輪岳から持経宿まで一時間十分と記されており、遅くとも七時までには持経宿に着けると思ったので
ある。
 ところが前述のように行仙から倶利迦羅に二時間近くもかかってしまってこの先のコースタイムも
まったくあてにならなくなり、すっかり意気沮喪しながら黙々と「二度とばてないように」と念じつ
つ亀のようにのろのろと転法輪岳に向かって歩行をすすめていったのだが、四十分ほどいって急な坂
を登りきるといきなり標識のあるピークに出て、なんと転法輪岳と名をうってあり、一本の金属性の
如意輪棒もたっているではないか。
 少なくとも一時間半はかかると思っていたために、予想もせぬ短時間で着いたこのときの喜びは大
げさなと思われるかもしれないが、それは歓喜の極致とでもいうべき感情であり、思わず神仏への感
謝の言葉が大声となって口をついて出てくるのである。
 あたりは日も落ちて薄暗くなってきており、ふりかえると笠捨らの山のシルエットが濃紺の色を帯
びて黄昏どきの空にくっきりと浮かび上がっており、それは何とも言えぬ神秘的で静かで、至福とい
ってもいいような心が浄化されるようなときであった。

転法輪岳から笠捨山(左端)
を。

 転法輪とは「法の輪を転ずる」といって釈尊の説法のことを指すのだが、私はこの頂で、心のなか
に転法輪を授かったような気がするくらいそれは崇高な体験であった。
 私はザックを下において如意輪棒に向かって合掌し、般若心経を二度唱えたが、この夕闇迫る人の
気配のない山の上で東の空にむかって大音声で唱えたときほど真剣に、また感謝の気持ちを持って般
若心経を唱えたことはなかった。いつまでもこの転法輪岳の一時のことは忘れられない思い出として
残ることだろう。
 持経宿小屋横の不動明王を祭るお堂の壁に前田勇一氏の写真が飾ってあるが、南奥駈再興を提唱し
、その運動を率先してやってこられ、その完成を見ずに物故された前田翁の一心に祈る合掌姿の写真
が、新宮山彦グループの戸石氏によって転法輪岳の頂上で撮影されたことを後日に知ったとき、前田
氏の真剣な表情に自分の体験がオーバーラップされ、深く感動したものである。
 今回は体調もよく、二十五分で転法輪岳に着き、日もうんと高いうちにこのピークを越えたわけで
、このように順調にいく場合は印象も薄いもので、転法輪岳については前回の山行が強烈に思い出さ
れるのである。
 この転法輪岳を過ぎればあとはそう険しい登りはなく歩行も楽となる。
 時刻は午後四時二十四分。玉置山を出発したのが朝の六時だから、十時間足らずの所用時間だ。地
図のコースタイムではあと一時間十分だから、このまま順調にいけば、新宮山彦グループの奥駈道完
成記念縦走時の十三時間を大幅に縮める時間で行けそうだと山上氏が言われる。
 平治の宿にはコースタイムの半分の十分で着く。私らが玉置山から歩いてくる間、車で先回りして
くれた玉岡氏がこの平治の宿で水場に降りていく道の段差づくりをしているはずなのだが、もう引き
揚げたと見え、道端にアリナミンドリンク二本と名刺に書かれた置き手紙が残されてあった。
 遠くからそれを目ざとく見つけた山上氏が「ほら、水筒を忘れていくとはたるんどる、と小言がか
いてあるに違いない」と、楽しくなるようなことを言い、わたしも、そうかも知れんなと思いつつ山
上氏のもつ名刺をのぞきこむと、有難や、どこにもお叱りの言葉はなく、「今日はまた暑くてたいへ
んだったでしょう云々」とねぎらいの言葉が書いてあった。感謝しながらドリンクを飲んで平治小屋
のなかをのぞいてみる。
 前回のときは真っ暗闇の中を懐中電灯で照らしただけなのでよく判らなかったが、平治小屋は床も
あり、作りもがっしりして素朴でいかにも昔ながらの山小屋らしい雰囲気の良い小屋である。囲炉裏
に火をくべて夜半に酒を飲めば、まさに十津川郷の昔話の世界の雰囲気であろう。
 平治小屋をあとにして先へ進むが、あと小一時間の距離で奥駈中最長時間のコースを終えるのであ
る。コースも終わりに近づくとついピッチが早くなりやすいものだが、山上氏は「まあ、あわてずに
ゆっくり行きましょうや」と言って、淡々とした歩行である。
 意識しているわけではないが、時間の記録更新のことが多少頭の中にあるのだろう、つい歩調が早
くなる私には意外であり物足りない感じだったが、しかし十里の道も九里をもって半ばとするという
格言どおり最後のつめをきちっとすることは大切なことで、これこそ転ばぬ先の杖であろう。私はま
だまだ未熟であることを感じた。
 道は長い下り坂となり、やがて右手に池郷川の谷間が見渡せるところに来る。「一に池郷、二に白
川又(しらこまた)といわれる大峯山系中屈指の峡谷で、「山と渓谷」誌一九八五年六月号に写真入
りで紹介されていたが、写真で見るかぎり実に素晴らしい谷で、将来、もし沢歩きの技術を身につけ
ることがあれば是非行ってみたいと思っている谷である。
池郷谷

 持経宿小屋はこの谷の、正確に言えば池郷谷の本谷から別れた支谷のケヤキ谷の源頭部(沢の最奥
部で流れの源となっているところ)にある。このケヤキ谷の谷間の所々に桜の花が咲いているが、遠
すぎるのとやや山陰になっているために暗く、かろうじてうす桃色をしているのが判るくらいで、近
くで見ることができれば、人目に触れることの無い山桜のたたずまいがさぞかし風情のあるのに見え
ることだろうにと思った。
 長い下り坂も終わり、林道に降りて左にカーブしたところを曲がると持経宿小屋が見える。到着は
午後五時二十分。
 玉置山から十一時間二十分の所用時間で、出迎えた玉岡氏から「早過ぎる」と言う言葉を頂戴する
。奥駈最長でもっとも困難なコースをそんなにあわてて来るものではない、との言外の響きあり。
 小屋の前には玉岡氏の車以外にもう一台とめてあったので今夜は相客がいるなと思ったら、愛知県
から来た単独の登山者ですでに北の方に向かって出発して行き、今夜は涅槃岳で野営するとのこと。
「何だか素人っぽいハイカーだ」と玉岡氏が言った。何も排他的になるつもりはないが、今夜で玉岡
氏や山上氏ともお別れであり、余人を交えずの宴ができると解って嬉しく思った。
 まずは小屋の中に上がり込んでビールで乾杯する。玉岡氏はさっき飲んだところだからと飲まなか
ったが、あとで解ったのだが、ビールの残りが少なかったので遠慮されたらしい。


 玉岡氏の話によると、平治の宿の水場は枯れていて、水受け場もコンクリートで補強しないと利用
価値がないかもしれないそうで、段差づくりも暑さで体の疲労が大きく、十一段でやめてしまったと
のこと。我々も道中の様子を報告しながらしばらく雑談した後、宴の準備に入る。新宮山彦グループ
の人達と一緒に山に行くようになって何が楽しいかと言って、山に登った後のこの山上の宴ほど楽し
いものはなく、「はい、生節をだして切り分けて」「はい、お湯をわかして」と玉岡氏の指図にいそ
いそと準備をし、テーブル代わりの長い部厚い一枚板の上に食器や酒・ビール・つまみなどと並べる
のである。そして今日までの天気に恵まれた二日間が終えたことを祝し、残り四日間の無事と奥駈の
成功を祈って乾杯していただいた。
 カツオの生節は、大阪の人はあまり食べないようだが、新宮山彦ぐるーぷの山行にはたいてい持参
され、細かく裂いて醤油に浸して酒の魚として食べるのである。ある程度の日持ちもし、乾燥食品で
はないので山での酒の肴としては最適で、日本酒党の私には有り難いご馳走である。
 この持経宿小屋と平治小屋は十津川村の所有だが、新宮山彦ぐるーぷが維持管理をしており、グル
ープの人達の自弁で定期的に手入れがされている。
 前回この持経宿に初めて訪れたときに前夜、前鬼宿坊で一緒になった年配の登山者から聞いた話だ
が、仲間十数人でここを利用したときに前もって玉岡氏に謝礼を送ったそうだが、行ってみると毛布
はクリーニングされ、水はポリ容器に入れてたくさん用意しておいてくれたそうでたいへん感激した
とのこと。ここの毛布は本当に暖かく清潔である。
 山上氏はビールしか飲まないそうで、ビールが品薄でお気の毒だった。玉岡氏はよく飲まれたよう
で、おおかたみんなの腹も満腹になったころ、火の燃える囲炉裏のそばに席を移し、玉岡氏の歌う歌
をいくつか聞かせてもらった。
 どれもなかなか良い歌で特に歌詞が良く、御子息の成人の日を記念して一緒に雪の北アルプスに出
かけ、吹雪の中の表銀座を縦走してやっとの思いで無人小屋にたどりついたときの思い出を語って歌
った歌なんかはとても情感がこもっていて、玉岡氏も本当に感受性の強いかただな、としみじみ思っ
たものである。
 昨年十一月三日、前鬼口のバス停で新宮山彦グループの小林氏・福井御夫妻とお知り合いになった
縁から半年後、こうやって玉岡氏・山上氏に奥駈の援助をしてもらうことになり、今宵、山奥深いこ
の持経宿でお酒を飲んで語りあうというこんな好運にめぐり会えてほんとうに有り難いことだと思う。
こうして持経宿の夜はふけていく。

(続く)