第三日目 持経宿〜深仙宿 62.5.1
野生動物の宝庫・奥守岳近辺
昨夜はずいぶん飲み、疲労も相当あったはずなのにあまり熟睡できず、しょっちゅう目が醒めた。
夜半すぎから雨が降りだしたようで、やがて風も出てき、ときおり風雨の音が強くなったりしてきょう
の悪天候は間違いのないように思われた。
今日は、山上氏と別れて一人で行き、玉岡氏のサポートもなくなるのですべての荷物を持たなけれ
ばならず、この雨のなか雨合羽を着て重い荷物を背負うのかと思うと少し憂欝になったが、二日間も
あんな好天に恵まれたのであるしと思い、雨の日があることは当然承知のうえでのこの奥駈なのだ
と自分に言いきかせる。
夜が明けても雨は止まず、食事をすませコーヒーを飲んだあと出発の用意をする。
この奥駈のために購入した五十リットルのザックがはちきれんばかりの有様になったのだからその
重いこと、山上氏が持ちあげて「これは重い!なんでこんなに重いのだ」と驚くので、日本酒の五合
パックやその他の食料のことを話すと山上氏は呆れて、日本酒なんか置いていけと言うが、次の泊ま
るところも無人小屋で酒などあるわけがないから酒だけは絶対手放せないと思ってしまう。
雨合羽を着て、ふらつきながらよいしょとでっかいザックを背負った私を見守る玉岡氏と山上氏の目
つきは心もと無さそうで、特に山上氏は、初日はコップを忘れ、二日目は水筒を忘れ、今日はこんな重
たい荷物を背負ってこの雨の中をほんとうに深仙まで行けるのだろうか、といった不安そうな表情をし
ていると思うのは私のひがめ僻目かしら。
雨が降りしきるなか、窓から身を乗り出して手を振ってくれるお二人に見送られて、午前六時五十分、
私はまさに万感の思いを胸に抱いて持経宿小屋を出発した。
「重さが堪え難くなって何かを捨てるときは酒を捨てるんだよ。水は絶対に捨てるなよ」と山上氏に念
を押される。この飲み助、酒よりも水を捨てかねないと思われたらしい。
小屋前からすぐに始まる阿須迦利岳の登りはかなりの急登で、初っぱなからの急坂を一歩一歩ゆっ
くりと登って行くが、ザックの重さがずっしりと背中から腰、膝まで圧迫する。
五分ぐらいあえぎながら登ってもう小屋も見えなくなったころ、「森脇さ〜ん」と大声で呼ぶ声が聞こ
え、続けて「頑張れよ〜」というかん高い声が風雨をついて聞こえてきた。思わず胸をこみあげてくるも
のがあり、「有難うございました〜」「さようなら〜」とこちらも大声で呼び掛けた。目頭が熱くなる思いで、
このお二人のご恩は決して忘れられないと思った。
阿須迦利岳の急坂がかなり長くて出発早々汗が吹きだし、暑さがたまらなくなって袖を両方ともたくし
あげてしまう。やっとの思いで登った阿須迦利岳の頂上を越えるとすぐに急な下りであるがこれは短く、
狭い鞍部をはさんでとさか尾根への急激な登りとなる。とさか尾根はちょっとした岩場だが、鎖もついて
いるのでたいしたことはないが、荷物の重たいのが急な上昇や下降時にはこたえる。ちょっとでも体が
傾いたりのけぞったりするとザックの重さで体が引っ張られ、バランスを失いそうになるのだ。
ここを越えてすぐに持経宿前にとめてあった名古屋ナンバーの車の持ち主とすれ違う。昨夜は雨の
なか、涅槃岳でビバークしたとのこと。玉岡氏が素人っぽいハイカーだと言っていたが、ザックの外に
脹らんだビニール袋やその他色々なものをぶらさげて、なるほどと思わせるスタイルだった。私も外
観はともかく中身は似たようなものだが。
証誠無漏岳(しょうじょうむろだけ)に登り着くころには、きょうのこの重たいザックにもだいぶん慣
れてきて最初のときのような重圧感は薄らいでき、気持ちもいくらか軽くなってきた。
証誠無漏岳は八人山の支稜との分岐になり、昔は八人山への道のほうが立派だったそうで、北部
から来る登山者がそちらに迷いこまないように、と古い案内書には注意をうながしている。今では、
新宮山彦ぐるーぷのおかげで間違えるはずもない立派な道が持経宿の方に向かっている。
ここから次のピークは般若岳なのだが、般若岳には標識が無いようで、標識目当てに頑張ったため
にいつのまにか一時間半も歩きとおしてしまい、もう次のピークでは標識があろうとなかろうととにかく
休憩にしようと思っていたらやっと標識のあるピークに着き、なんと地蔵岳(大峯には地蔵岳の名のピ
ークが二つある)まで来てしまっていることが判明した。
途中、剣光門の標識のある鞍部を通ったときに地図を確認すれば、般若岳が目の前のピークである
ことが解ったはずなのだが、風雨が強く、休憩しないかぎり地図を取り出すのが面倒だった。
[剣光門の手前の涅槃岳についての記述が抜けており、深仙で書いたメモにも記入していなかった
ために奥駈縦走のときのこのピークの印象はほとんど記憶にないのだが、この二十日後に三井寺修
験に同行したとき、新緑の下草におおわれた山腹に疎らに樹木が生える様はのどかでとても気分よく
歩いたことを覚えている。]
ここでは十五分休憩し、あんぱんとコーヒーで間食をとる。潅木のそばにすわって、片手で傘とコーヒ
ーを入れたポリ容器を持ち、片手でパンを持って飲食するが何ともわびしい光景だ。
しかし元気もでてきて再び出発。頑張ったおかげで地蔵岳まで来ればきょうのコースは半分稼いだ
ことになり、あと三時間も歩けばきょうの目的地、深仙(じんぜん)の宿に着くのである。
一昨日の九時間半、昨日の十一時間二十分に比べればなんと早いことよ、と思ったが、きょうはザ
ックの重さが今までよりも四倍ぐらいになっているので歩行そのものは決して楽でなく、今日はハイキ
ング気分ではなくていかにも行をやっているような実感がする。おまけにこの風雨である。雨脚は強く
ないけれど風があるためにむきだしの両腕がなにか冷たくなっていくようなので早々と袖はおろした。
道はよく整備されていて雨中でもたいへん歩きやすい。
そして歩きながら、ふと、本宮を出発して今まで山の中を歩き続けてきてまだ一度も滑って尻もちを
ついたりこけたりしたことが無いのに思い当り、よしよし、この調子で吉野まで転ばぬように行って、
玉岡氏に峰中一度も転びませんでした、と報告してやろうと考えた瞬間である、ものの見事に滑って
尻もちをついたのである。無心に歩いておればよいものを余計なつまらぬ欲心を起こすとまったくろく
なことは無いと実感した。
それにしても山の神様がわたしの心を見透かしたかのような絶妙なタイミングで滑ったので薄気味
悪くなったくらいだ。
奥守岳の手前で動物の泣き声らしいものがしたので、はっと前方を見ると、前方のもやの漂う小高い
なだらかな起伏のうえに三匹の鹿が立ってこちらを見ており、私が彼らに気づくのを待っていたかのよ
うに、さっと一斉に右手の斜面を駆けおりていってあっと言うまに姿を消してしまった。
一瞬のできごとだったが、鹿たちとの出会いは雨中の長時間の歩行で単調になりがちな私の心を随
分とはずませ、和ませてくれたものである。
しかしなぜ、あの鹿たちは私の姿を見つけたときにすぐに逃げずに鳴いて注意を引きつけたのだろう
と不思議に思った。わたしのことを熊とでも思ったのだろうか。
このあたりは前述の「山と渓谷」誌で紹介された池郷川の谷を遡行したグループが稜線に登る途中
熊に出会ったところの近くでもある。野性の動物が多く棲息している地域なのでもあろう。
大峯山系の熊は月の輪熊で、滅多に人間を襲うことはないらしいが、いきなり鉢合わせに出会うの
は危険なので、ときどき大声をだしたり手をたたいたりして歩く。
西行の「いかにして こずえの隙も求め得て 小池に今宵月のすむらん」の歌の小池の宿はこの奥
守岳の東側の山腹の二百五十メートルほど下方にあったらしいが現在は所在不明である。道は奥守
岳と地蔵岳の鞍部、嫁越峠からあるようだが、現在訪れる人はほとんど無いのではあるまいか。
この嫁越峠が、十津川村から下北山村前鬼に嫁ぐ花嫁一行が通ったところなのである。今は通る
人もなく、前鬼は住む人もいない村となっている。
[奥守岳付近は花瀬のほんみち教の修行地に下りていく道の分岐があり、南から縦走してくる場合
は問題ないが、北からのときに花瀬への道に入りこみやすいそうで注意を要する。
平田氏も林谷氏も迷いこんだことがあり、平田氏の話によれば、ほんみち教の修業者たちが定期
的に奥守岳に登山に来るそうで、人の滅多に通らない奥駈道よりもよく踏み込まれたりっぱな道がで
きるためにこちらのほうが本道に見えるらしい。
ほんみち教とは天理教の国家神道に従属する姿勢を批判して分派した教団で、戦前から天皇制を
否定していたそうで多くの受難の歴史を持つ。
この教団は証誠無漏岳から奥守岳にかけての大峯の主稜から西の山麓にかけての広大な土地を
所有しており、おかげでこのあたり一帯の山は乱伐を免れ、昔ながらの自然が残っているそうで、こ
こに迷いこんで花瀬に下りていった平田氏はこのあたり一帯の景色のよいことを言っており、とくにほ
んみち教の集落近くの沢は素晴らしいものだったと印象をのべている。
ただ平田氏が集落のなかに入ったとき、ここで修養のために野外作業をやっているほんみち教の
人たちは、二年間も外界から遮断されているために外部の人間が珍しく懐かしいのか、極度にこのち
ん入者に興味を示し、ザックを持ってやるとか食事をしていけとかいろいろ好意を行き会う人ごとに熱
心に示してくれ、先を急ぐ身としてそれを謝絶していくのに難儀したそうである。]
奥守岳、天狗岳と順調に行くのだが、左足が痛みだし、多少びっこを引くような感じで、先ほど滑っ
て尻もちをついたときに左足に無理な力がかかったのではないかという気がするが、まだ三日も長丁
場を残しているのにいささか気になる。
天狗岳は、奥駈の尾根よりほんのわずか張りだしているような可愛いピークで、釈迦ケ岳と大日岳
の眺めが良いところなのだがきようの悪天では何も見えない。
持経宿を出発してからここまで、カメラはザックの中にしまいこんで写真は一枚もとらなかったが、今
回の奥駈は新宮山彦ぐるーぷの人たちの支援を得て行なっているのであるから、たとえこの風雨のな
かでも奥駈の記録の一貫としてコースの主要なところは撮影しておくべきだという気持ちが強くなって
き、ここでカメラを取り出して合羽の懐に首から吊るして入れ、傘も手に携行して写すときは傘をさして
とることにした。
思えば前回のときもこの持経宿から太古の辻まで雨に降られて景色が何も見えず、大峯中、いちば
ん変化に乏しいコースだなと思ったりしたが、それは雨でまわりの景色が何も見えないためであって、
二十日後の晴れた日に三井寺修験の人たちとこのコースを歩いたとき、どこにもひけをとらない風光
明媚のコースであることを知った。しかしそれは後日のことである。
蘇莫岳の不気味さ
雨はさほどひどくないが風は強く、重いザックを背負って絶えず歩いているために体がぬくもって寒く
はないけれど手が冷たくしびれる感じである。
それにしても南部大峯の奥駈の道は、まあよくも忠実に一つ一つピークと鞍部を変わりばんこにたど
って作られたものである。あたかも数学の正弦曲線をたどって上がったり下ったりしている感じで、高度
差がそうひどくないからなんとかついていけるものの楽ではなく、しまいにはいい加減にせいとぼやき
たくなってくる。
石楠花岳(1472m)は、岩稜に石楠花の群生が急に増えてくることによってそのピークが近づいたこ
とが解る。
やせた岩稜の尾根で、周囲の植物はほとんどが石楠花の木でたくさんのつぼみをつけた葉が一杯
茂っている。二十日後に三井寺一行についてここを通ったときはこの時のつぼみが一面に満開の花を
咲かせていて実に見事であった。
石楠花岳を過ぎ、少し下って次の蘇莫岳への登りとなる。
背丈ほどもある笹(すずたけ)がびっしり茂ったところを切り開いており、まるで塹壕の中を行くよう
で坂も急であり、ザックの重さをひしひしと感じながらあえぎあえぎ登っていく。
予想したよりもはるかに長い坂のように感じ、前に来たときにはこんなきつい坂があったことは印象
になかったので心構えができていないためかたいへん辛かった。
まもなくあたりにイギリスのストーンヘンジの石のような大きな石がにょきにょきと露出した蘇莫岳独
特のたたずまいのところに来て、登りももう終わりに近いと我が身を励ます。
蘇莫岳
蘇莫岳は何となく薄気味の悪いところである。尾根に大きな石が意味ありげに立ち並んでいるところ
を少し下った山腹の道を行くためになにか威圧感を感じるのかもしれないが、以前読んだ梅原猛氏の
「隠された十字架」という本の影響も相当あるように思える。
この本の内容を、ごく大雑把に述べると以下のようになる。
聖徳太子の死後、蘇我入鹿を巧妙に利用して太子の子の山背大兄とその一族を攻め滅ぼさせて太
子の子孫を抹殺し、後に蘇我氏をも滅ぼして権力を一手に握ることになった藤原氏と皇極女帝の子孫
たちが、聖徳太子の怨霊の祟りを恐れて太子一族の霊を沈めるために建てた祟り封じの寺が法隆寺
である。
これが、世間に大きな波紋を投げかけた梅原猛氏独自の法隆寺論なのだが、この法隆寺で行なわ
れる精霊会という聖徳太子の御忌会に、蘇莫者の踊りというのが出てくる。この蘇莫者というのが蘇の
莫きもの、つまり蘇我氏の亡霊であり、それは他でもない蘇我氏の血を引く聖徳太子その人を指し、しか
もこの蘇莫者の被る面はまさに化物の面、つまり怨霊の面であるから、それを鎮める儀式が聖霊会に存
在すること自体、法隆寺が怨霊封じの寺である証拠の一つであると梅原氏は指摘されている。
この蘇莫者のくだりを読んだとき、大峯の蘇莫岳もこのような意味合いと何か関係があるのかなと思っ
たことが、この雨の中の通過中、不吉な気分に捕らわれる要因になったのかもしれない。
なお、大峯の蘇莫岳は普通の音読みだったらソバクダケあるいはソマクダケと呼ぶべきなのに、一般
にはソマクサダケと呼ばれており、法隆寺の蘇莫者に通じるものがあるようには思えないだろうか。
亡霊がいるわけではないだろうけれど、私はここで初めて道に迷うのである。
それは蘇莫岳からの下りにかかるところで、降りていくうちに今まではっきりしていた踏みあとが急に
定かでなくなってきて、やがて道らしいものが完全に無くなってしまった。
あたりをきょろきょろ見まわし、左右に動いてみるがそれらしきものが無く、風雨の中、ザワザワとざ
わめく樹林の中で心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。その時、ザックを背負ったままうろうろして
いたのに気づき、焦ってはいけないとまずはザックをその場におろし、ちょうど尿意ももよおしていたの
で用を足し、腰をおろして休憩をとる。
一休みしたあと、こうしたときにとる行動の原則としてもと来た方角に向かって空身で引き返していく。
もちろん置いてきたザックを見失わないようにしながらだが、これは無闇やたらに動きまわったら、最
初に自分が迷った地点も解らなくなり完全に方角を見失うからである。
すぐによく踏まれた道に戻り、そのあたりを見回すと、右手に回るように赤いペンキで石にはっきりと
矢印がつけてあるのを見つけることができ、やれやれと思ってザックを取りに戻る。
矢印の方向に行ってみると、間違った方角と直角の方向に樹木の入り交じった坂があり、所々に赤
いペンキの矢印が印されて降路を示していた。赤いペンキの矢印が出てくるのは初めてなので、やは
り間違いやすいところなのだろう。
それにしても赤い色を見落とすとは疲労のために注意が散漫になっていたようである。そこからすぐ
になだらかな下り坂になり、色々な標識の立ち並ぶ太古の辻が見えてき、すぐそこに降りたつ。到着は
午後一時二十五分である。
千年の歴史を有する山伏の里・前鬼
大日岳と蘇莫岳の鞍部、太古の辻は、吉野から熊野への大峯山系のほぼ中間地点に位置し、奥
駈も半分のところまでやってきたのである。
奥駈の行をやる山伏・登山者のほとんどが吉野からやってきてこの太古の辻から前鬼に降りるが、
私ははるか遠く熊野本宮からここまで来て、吉野を目指すのである。
ゴールデンウイークのさなかなのに雨天のためか誰一人人影のない太古の辻にひときわ立派に建
つ新宮山彦グループの標識を中心にして写真をとる。
一昨年秋、初めて釈迦ケ岳に登って降りるとき、この太古の辻で南の方に続く道を見て、いつの日
にかこの道を通って熊野から吉野への全縦走をやってみたいものだと夢見たものだが、まさかこんな
に早く実現するとは思わなかった。
本当の奥駈の道を忠実にたどるのなら、ここから前鬼までいったん降り、前鬼の裏行場をも一巡し
て再びここまで登ってくるべきなのだが、それはまる一日分の行程になり、現時点でのわたしには体
力的にも無理であった。
前鬼は、大峯修験道を開いたといわれる役ノ行者の従者の前鬼という鬼の子孫が五家に分かれて
千三百年にわたって住み続けたといわれる山里である。
山伏たちの利用する宿坊が並び建ち、大峯修験道の村として栄えたそうだが、明治時代になって
修験道の衰退とともに急速にさびれていき、最後まで残った小仲坊の五鬼助義价(ごきじょよしとも)
氏の死去により三年前から住む人もいなくなっている。
[前鬼の五家とは、役の行者の弟子義覚、義賢の夫婦の間に生まれた五人の子の子孫がそれぞ
れ五鬼上、五鬼継、五鬼助、五鬼熊、五鬼童と名のって千二百年にわたって前鬼に住み続けてきた
五つの家のことで、「大峯山脈とその渓谷」(昭和八年刊)によると、明治以降も残った五鬼助(六十
代)と五鬼継(五十九代)のようにその血統が全然切れずに続いているのは我が国の民間ではこの
二家だけだそうである。
また同書に、前鬼五家は極端に血統を重んじて代々この五家の間で血族結婚を行なってきて絶対
に他と交わることがなかったと記されているが、千年以上もそんな血の濃い血族結婚を続けてきてま
ともな血統が続くものだろうかといった疑念も感じる。
五鬼継の家に生まれて幼少時代を前鬼で過ごしたことがあるという五十代の婦人を、新宮で玉岡
氏に紹介してもらったことがあるが、そのかたのどこか憂いを含んだ物静かな雰囲気が、いかにも古
い家系につながるものを感じさせた。
前鬼最後の住人、五鬼助義价氏のことについては大峯について書かれた書物にはよく言及されて
おり、そうとう風変わりな方だったらしいが、下北山村史の「前鬼のごろーさん」の章を読むと、感受性
が強く束縛を嫌い、結婚もせずに人里を遠く離れた前鬼での気ままな生き方を好む反面、人寂しがり
屋で世の中の出来事にもたいへん関心を示し、よくふらっと前鬼を留守して都会に遊びにいくことが
あったそうで、まったくの世捨て人ではなかったようである。
新宮山彦ぐるーぷの戸石氏が話してくれたのだが、よく突然ごろーさん(五鬼助義价氏の愛称)から
電話がかかってきて、今、新宮のどこそこの酒場にいるから出てきてつきあえ、と呼び出しを受けて
否も応もなく引っ張りだされてよく一緒に飲んだそうで、それを語る戸石氏の懐かしそうな口調が印象
深かった。
前述の「前鬼のごろーさん」に記されていたなかに、「寒い日は目が醒めても九時ごろまで布団のな
かでぼんやりしていることもあれば、だれも訪れない冬の一日には風の音や鹿や猪の息づかいに耳
を傾けながら、つくねんと囲炉裏端に座っていることもある」という表現が私達都会の雑踏のなかに住
む者に郷愁に似た気持ちを抱かせる。]
しかし、小仲坊は現在再び復興した本山派や当山派の奥駈修行には無くてはならない宿坊のため、
現在は五鬼助義价氏の甥になるかたが、必要とされるときに奈良市からやってきて宿坊を開いている。
小仲坊は古色蒼然とした建物で、初めて泊まったときの夜半に目が醒めたとき、障子越しに月の光
がこうこうと部屋の中を照らしていた様子は今もって忘れられない印象深いものだった。
離れの家屋は無人の時に登山者に開放されており、ちゃんとした夜具も用意されている。ただし、こ
こでも持経宿小屋でも山小屋の維持にはお金が要るのであり、利用する人は最低決められた料金だ
けは置いていくことを切に願う。
山小屋というのは通常採算を度外視して経営されているところが多く、金銭的なうるおいがあるだけ
でなく、料金箱に志しが入っているときのほのぼのとした暖かい思いは何よりも管理する人の気持ちを
励ますものだ。無人小屋は誰のためでもなく我々登山者が恩恵をこうむり、また無くなれば我々が不
自由するのである。
前鬼の有名な裏行場は、今の小仲坊の主人が道を整備し、道標も設置しているので三重の滝のと
ころまでは案内人無しで行くことができる。
昨年の十一月、小仲坊で一緒した和歌山市の浦地寛氏という大先達の山伏とその一行の御好意で
一緒に連れていってもらったことがあり、音に聞く裏行場の行の一部を経験させてもらうことができた。
私の経験では、千手の滝奥の垂直にそそり立つ屏風岩の鎖場の登りは、鎖そのものの安全度にも
問題があり、ぶらさがる格好で登っていくので山上ケ岳の西の覗や大日岳の鎖場よりもはるかに危険
な感じで、安易に試みるべきではないと思う。[平成六年に行ったおりには鎖は新しいものにつけかえ
られていた。]
落差の大きい滝が次々と三つ重なっている三重の滝は実に大きなもので、西行が歌ったり上田秋成
が言及している大峯の三重の滝とは、那智の滝ではなく多分この前鬼の滝ではないかと思う。
三重の滝は大きすぎて裏行場の巡回路からは二つ以上の滝を一度に見ることはできず、いつかは
三つの滝を同時に見ることのできる場所を探したいと思っている。[「大峯山脈と其渓谷」には三つの
滝が同時に見れる東の覗きというやせ尾根のことがのっている。その説明文から察するに、三重の
滝の真ん中の千手の滝に降りていく急坂の右手にあるにわとりのとさかのような尾根のことと思うが、
私もそこに行ったことがあるが、そこからは千手の滝しか見えない。
この尾根の行き止まりのところに一本の卒塔婆が立っているが、裏行場で道に迷って抜けだすこと
ができず、ここで自害した一人の行者のためのものだそうで、この裏行場に来るたびにこの卒塔婆を
供養されるという山伏の浦地寛氏からお聞きした話である。
林谷夫妻をここに案内したとき、林谷氏を先頭に尾根の先端に近づいていったときに林谷氏は急に
妖気を感じ取ったのか、まわれ右をして無言で我々をうながして一緒にあともどりし、私はこのとき背
筋がゾーとしたのだが、読経と印呪を済ませた後、「もう大丈夫です」と言って再び卒塔婆の傍に近づ
いていったものである。
このような話をまったく気にしない人も多いだろうが、この卒塔婆がある先端は三方がオーバーハン
グ気味の急峻な崖坂になっている人一人がやっと立てる狭いところで、しかもこの場所からの千手の
滝の眺めは素晴らしく、それに心を奪われすぎて足を踏み外したらそれこそ一巻の終わりというような
危険な所なのである。
私が滝の写真を撮影するあいだ、林谷氏が私の体をしっかりとつかまえていたことを、ここを訪れる
人は心に留めて注意してほしいものである。]
滝といえば、前鬼から下山して前鬼口に行く林道の途中から見られる不動七重の大滝はこれはまた
見事なもので、昨年五月、長男と共に吉野からの縦走を終えて、雨の降るなかを前鬼口に向かって林
道を歩いていたおりにもやの煙る中に不動の大滝を見つけたときの感動は異様なものだった。
何しろ平坦な林道を黙々と歩いていてトンネルをくぐり抜けたらいきなり左側から大きな音が聞こえ
てき、そちらを見ると谷は急に深くなっていて、よく見ると、大きな滝がその谷に注ぎこんでいるでは
ないか。
それだけでも迫力のある眺めだが、すぐ次に続くトンネルを抜けて山陰をぐんと左に回り、ちょうど滝
の真正面に位置する対岸の上に立ったとき、かなりの距離を置くためにその滝の全貌が眺められ、
雨に煙るもやの中にその不動の滝はまさに虚空に浮かぶかのように姿を現わしているのである。
その厳かさは思わず威儀を正したくなるようなもので、私は、滝が信仰の対象となりやすいことをこ
のとき心底理解できた。
西行をしのぶ深仙宿
休憩の後、きょう最後の登りとなる深仙の宿に向かって出発する。
思いザックと雨中のひとり歩きのせいか疲労は確実に身体中に行き渡っているようで、この最後の
登りはほんとうに苦しかった。
しかも大日岳分岐のところまでの所要時間二十分の地図の表示を深仙宿までと勘違いして、三十
分になってもなかなか到着しないいらだちと疲労感の苦しさのあまりに「何が二十分なものか、いい
加減なコースタイムを書いて!」と呪詛の文句を心の中でうめく始末で、私の疲労も堪え難いものに
なってきた。奥駈中、この時が一番苦しかったときである。
やっと下りになり、すぐに深仙の無人小屋の屋根が見えたときは思わず、「ああ、着いた!」と大声
を出してしまう。いや、ほんとうに大声をあげてしまうのだ。
時刻は午後二時だった。時間的にも距離的にも三日間で一番の短いコースだが、ザックの重さが
強烈な負担となって、疲労と苦痛の度合はずば抜けて一番だった。
深仙の宿は広々とした鞍部で、西側は背の低い土手のように隆起して笹が茂り、芝生状の台地は
東側に緩やかに傾斜していてキャンプサイドにも適したところで、お堂が鞍部の中央西側によったと
ころに建ち、無人小屋は大日岳側のふもとにたっている。
雨が降ったらお堂に泊まるようにと玉岡氏らに言われていたが、一応無人小屋の方も中をのぞいて
みると暗くて床は無く、むきだしの地面もゴミなどが散らかっており、とても泊まる気がしなく、お堂に
入ってみると文句なしにこちらの方が素晴らしかった。広さは十六畳ぐらいで広々とし、高床式のため
に外は風雨にもかかわらず乾いていていかにも快適そうであった。
このお堂は、本山派(天台寺門派の三井寺や聖護院)修験道の峰中最大の秘儀深仙潅頂の行な
われるところで、そのような聖なる場所に寝起きしていいものか多少ためらわれたが、十分に礼をつく
して泊まれば神仏もお許しあるだろうと思い、ここに泊まることに決めた。
ザックからビニールシートを取り出して堂内の入口近くにそれらを広げて床が濡れないようにし、合
羽と登山靴を脱いでザックと一緒にその上に並べ、濡れた靴下も脱ぎ、堂内の板壁にちょうど具合よ
く打ち込んである釘を利用して細引き紐をかけ渡し、湿ったシャツや網目状の肌着も脱いで濡れたも
のすべてをそこに吊す。
着替えの肌着にシャツ・セーターを着、換えの靴下を履くとそれらは乾いていてほかほかと暖かくさ
え感じられ、まるで風呂あがりのようなさっぱりした気分になり、何とも言えぬ安堵感と幸福な気分が
体中にあふれてくる。
今朝、大阪を発った田中、田端の両君が前鬼から登ってきてここで落ち合うことになっているが、
彼らが到着するのは早くとも四時半頃になるだろうし、それまでの時間を利用してきょうまでの奥駈の
三日間の行動を記録しておこうと思って手帳を取出し、腹ばいになって各地点の風景のスケッチ、印
象深かったことや心に感じたことなどを順次思いだしてメモする。
あとで奥駈の記録文を書くときにこのときのメモがたいへん役に立ち、様々なことを思い出す大きな
助けとなった。
しかしメモをしているうちにだんだんと風雨が強くなってきて、雨がお堂を打つ音や風でざわつく樹木
の音も激しくなってき、この天候で田中君らは果たして登ってくるのだろうかと考えだし、そもそもきょ
うのこの悪天では彼らは最初から断念して大阪を出発しなかったのではないかとさえ思いだした。
その場合、この風雨のなかをお堂のなかで一人寝て、明日は弥山に向かって悪天かも知れない中
を一人行かなければならないのかと考えだすと急に心細くなり、なんとも気が滅入ってきたのでメモす
るのをやめて堂のなかに造られた祭壇の前に正座して、備えつけの灯明に火をともし、これも備えつ
けの山伏たちが使う輪の大きな数珠を手にとって般若心経を唱えることにしたのである。
般若心経は、まだ登山を始める前に父が、覚えておいて淋しいところや暗い道で不安を覚えたときに
この経を唱えると心が落ち着くことがあるからとすすめてくれたことから私も覚えたのだが、確かにこの
経を大きな声で唱えると不思議と心も落ちついてき、お堂のなかはよく響くので自分の唱えるお経が
いかにもありがたげに聞こえ、風雨のなか、山奥深きお堂のなかで般若心経を唱える自分が山伏で
もなったような気分である。
幼児期、キリスト教の幼稚園に入園した縁から、高校を卒業して故郷、福岡を離れるまで、毎週日曜
日には教会に通い続けるという熱心なクリスチャンであった私のこの今の姿を、かつての教会の人達
が見たら何と思うだろうという想念も頭の中を去来する。
風雨のなかを登ってくる二人の友人の道中の無事を祈り、たいへんお世話になった玉岡・山上両氏
への感謝、家族や九州の父母・姉達の家族のこと、そして明日の山行の無事、そういった感謝と祈願
をごちゃ混ぜに念じながら何度も心経を唱えるのだった。
再び記録をメモしながらすごしていると、四時頃、外で「お〜い」と男の呼ぶ声がするので、さては来
たか、と思って戸をあけて外を見ると見知らぬ男が立っていた。
前鬼から登ってきたとのことで無人小屋に泊まるつもりだと言うので、お堂のほうが居心地が良いか
ら是非こちらに泊まるようすすめると、堂の中をのぞいてみて先方もその気になったらしく、仲間を呼ん
でくるといって無人小屋のほうに去っていった。
やれやれこれで田中君らが来なくても今夜は淋しくないぞ、それに明日の同行者もできるかもしれな
いと内心喜んだが、彼が連れて戻ってきた仲間は初老の男性と若い女性の二人で、女性がいたこと
は私の予想外のことであった。
昨秋、前鬼の宿坊で前述の浦地寛氏らの山伏が祈祷するためにお堂のなかに入っていったとき、
一行のなかに交じっていた奥さんがたも続けて入っていこうとしたのを小仲坊の主人が厳しく制止して
女性は外で祈祷させられたことを思い出し、一瞬この女性を潅頂堂のなかに入れていいものかと戸惑
ったが、修験道に関係のない私がそんなことを言うのもためらわれ、黙って女性が入ってくるのを眺め
ていた。
山上ケ岳の戸開け式前だから山伏たちがきょうここまで来ることはあるまいが、もし来て、女性がこ
のお堂に入っているのを見たら一悶着起きるだろうなと思った。修験道の世界のけじめは非常に厳し
いものがある。
そのあたりに広げた私の荷物をまとめて堂のなかの半分のスペースを彼らに譲ると、意外なことに
彼らは堂の中にドーム式のテントを組み立てだし、今夜はその中で寝るつもりのようである。
それはテントの中は暖かく、女性がいるから着替えの場所のいることも解らぬではないが、一晩、
縁あって同宿するのに、それぞれ着替えをすませて自分たちだけテントの中に入って和気あいあいと
団欒しているのを見ると一人仲間外れにされたようでどうも釈然としない気持ちになった。
しかしテントから出てきた若い男の人に話しかけてみると別に私を仲間外れにするつもりでは無いら
しく、こちらの尋ねることにていねいに答えてくれ、前鬼口でバスを降りて、予約しておいた池原のタク
シーで前鬼の林道詰めまで来たこと、タクシーの運転手が、次のバスで大阪から来るもう二人の客を
同じように前鬼林道詰めまで運ぶ予約をしていることを聞いたという話はすっかり私を元気づけてくれ、
彼らに対する先程の不快感などどこかにふっ飛んでしまった。まったく現金なものである。
私が奥駈のために先に大阪を発つ前に、三日後に深仙で落ち合うことにしていた田端君らのために
私自身が池原タクシーを予約しておき、もし彼らが山行を中止する場合、かならずタクシー会社にキャ
ンセルの連絡を入れるように電話番号も教えておいたのだが、今の話で、そのタクシーの迎えにいく
バスが時間的にも(大和上市から来て前鬼口を通るバスは一日二本しかない)二人の乗る予定のバ
スだったので、几帳面な田端君が断りの電話を入れていない以上ほぼ間違いなく彼らは大阪を出発
しているものと考えられるわけで、暗雲の隙間から青空がぽっかりと姿を現わしたかのように私の心
は明るくなったのである。
考えてみれば、何度も山行を共にした仲なのに、いったん約束した彼らがそれを破って来ないことを
考えた自分が恥ずかしくなった。
しかし時計が五時になり、五時半になってやがて六時になっても彼らは到着せず、私は今度は別の
ことで不安を感じ、気をもまずにはおれなくなった。
彼らは、前鬼からこの深仙まで登ってくるのは初めてであり、途中の前鬼から太古の辻までの登りは
大峯でも屈指の急坂で道も迷いやすく、しかもこの風雨である。何か事故でも起きたのではないかと
案じられ、同宿の男の人も「ちょっと遅いですね」と気遣ってくれるころになると彼らを誘ったことを後
悔しだし、もし彼らの身に何かあったら自分はどうやって田端君の年老いた母上にお詫びをしたらいいの
だろうかと思いだすにいたったとき、お堂の戸をコツ、コツとノックする音がしたのである。
その控えめなノックの仕方が、直観的に、慎みやかな性格の田端君に違いないと思ってすっ飛んで
いって戸を開けると、ああ嬉しや、外には我が僚友田端君が、カッパから雨しずくをたらしながらつっ立
って微笑んでおり、「田中君は?」と尋ねて彼の指差す方向を見ると、無人小屋の中を覗き込んでいる
もっさりとした懐かしき田中君の後姿が見えるではないか。
この時ほど彼らに深い友情を覚えたことは無かったし、約束を守ってこの悪天の中を登ってきてくれた
ことへの感謝の気持ちは言葉には言い現わされれないものがあった。
前鬼から吉野への奥駈縦走に魅力を感じてやってきた田端君はともかくとして、日蓮正宗の熱心な信
者である田中君などは修験道や奥駈などさらさらに関心はなく、むしろ邪宗に属す忌むべきものとして
みており、単なる我々へのつき合いとして参加してくれただけにひとしお感謝の念を感じる。
お堂の中に入って着替えてもらい、向こうのテント組に拮抗するようなにぎやかな雰囲気のなかで夕
食の準備にかかる。
持経宿を出るときに玉岡氏にいただいた生節をナイフで細かく切りわけ、これを肴にビールで乾杯する。
生節は好評で、残るかなと思ったのにあっという間に無くなり、缶詰を開けて肴とする。きょうの歩行で
重たい荷物に懲り懲りした私は、少しでも重さを軽くしたく、まだ片付けるものはないかとザックの中を
ひっかきまわし、七越山でもらった紅白の餅を見つけてコッヘルで煮て食べるとなかなかおいしく、腹も
膨れて田中・田端両君も満足してくれた。
酒を飲みながら彼らの話を聞くと、タクシーはきちんと待っていてくれ、私が電話で聞いたときは料金
は五千円ぐらいと言っていたのに実際は三千円だったそうで、五千円の心積もりだった田端君はそのまま
五千円を渡して釣を取らなかったところ、とても喜んでくれたとのこと。前鬼の小仲坊で二人連れの登山
客と喋ったりして長めに休憩したので時間が遅れたこと、太古の辻に出るまで小雨は降っていたが風ほ
とんど無かったとのことその他で私が想像するほど難儀はしなかったらしい。
ただ残念なのは、彼らが不動の大滝のところで車を下りずに窓から眺めただけで素通りしたことで、出
発前に、不動の滝は下車して崖のところまで行って見るようにくれぐれも念を押しておいたのだが、雨も
降っていて運転手にも気を使ったのだろう。雨が降っているときこそ余計、不動の大滝は魅力的な姿を
見せてくれるのだが。もっとも私がわいわい騒ぐほど他人が感動してくれるかは解らず、感動の押しつけ
は慎まなければならない。
食事も終え、テント組も早々と寝てしまったので、我々も寝袋を出して祭壇の横手に枕を並べて横になる。
堂内は予想外に暖かく寝心地もよかったが、物音がよく反響し、いびきの音の凄さには驚かされた。
我が田中君も相当の轟音を発するが、テントの中から聞こえてくるのは人間の喉の発する音声とはお
およそ考えられないくらいのもの凄さで、ギャオーン、ギャオーンとまるでゴジラかアンギラスといった
怪獣の咆哮、あるいは離陸直前のジェット機の爆音といった感じで何度も目が醒めるのである。
高床式の木造のお堂全体が共鳴箱になっているようで、誰が発したか、おならまで地響きをたてて振
動が伝わってくるのである。とにかく後々まで田端君との間でしばしば話題に上るくらい凄まじい騒音の
一夜ではあった。
この深仙宿で、西行は三種の歌を読んでいるが、「月澄めば 谷にぞ雲はしずむめる 峰吹きはらふ風
に敷かれて」の歌は、私にも解りやすい歌で、この歌の出来不出来は知らないが好きである。「深き山に
すみける月を見ざりせば 思い出もなきわが身ならまし」の歌は、今宵こんな美しい月を見ることが無
かったなら、生涯たいした思い出も無いまま終っていただろう、という意味だそうだが、さぞかし情趣豊
かな月夜を深仙で経験されたのだろうと思う
それにしても、いびきやおならの騒音に悩まされた我らに較べてなんという風情の違いであろうか。
(続く)