第四日目 深仙宿〜弥山  62.5.2

 大峯の盟主・釈迦ケ岳
 昨夜の騒音で安眠が妨げられたためか寝過ごしてしまい、目が醒めたら外はもうすっかり明るくなっ
ていた。
 急いで朝食をすませて荷造りをする。少しでも荷物を軽くしたい私はまだ半分以上残っている日本
酒の五合パックもここに置いていこうと思ったのだが、それを聞きつけたテント組の若い男性が、置い
ていくのなら是非いただきたいと言うのであげると、思いもかけぬものを手に入れたと喜んでいた。
 彼らが向かう持経宿には酒は無いが、こちらは弥山小屋に着けば酒もビールもあるし(ただ山小屋
の常として、はなはだ値段ははるが)私には未練はなかった。
 一部始終を見ていた田中君が「モリさんが酒を手放すなんて、よっぽどきのうのザックの重さには懲
りたと見えるな」と田端君にささやいていたが、まさにそのとおりであったのである。
 荷造りも終り、掃除をしてテント組も外に出ていったあと、一夜の宿の感謝をするために灯明に火を
ともし、田端君と並んで壇の前に正座し、我々とテント組のこれからの道中の無事安全をもあわせ祈っ
て般若心経を二回唱える。
 そうしているところに昨日前鬼の宿坊で田端君らが出会った二人連れの登山者が到着し、「お堂で
過ごした一夜はどうでしたか」と聞かれる。言葉の裏に、神仏を祭るお堂の中に寝泊りして罰当たりで
はないかといった懸念の響きがあり、やはり普通の登山者は誰もがそういった抵抗感を感じるみたい
である。
 昨日田端君から聞いたそうで、私の熊野からの奥駈縦走のことを「すごいことをやりますね」と言わ
れるので照れてしまう。
 本宮から水も食料もすべてかかえて全くの自力だけでやってきたのなら、それは確かにすごいこと
かも知れないが、前二日間は新宮山彦グループの人たちのサポートを受けたので非常に楽だったこ
とを話す。それよりも彼らのほうこそ、今朝前鬼を出発して千メートルの標高差を登り、そのまま弥山
まで縦走するのだから、そのほうがずっとしんどいのではないかと思う。
 彼らが出発したあと我々も出発のために外へ出ると、我々が般若心経を唱えているあいだ外で待っ
ていた田中君が言うには、テント組の女性が私のことを行者かと尋ねたとのこと。私が心経を大声で
唱えているとき、彼らはトイレの用足しのためにまだ無人小屋のところにいたそうで、三日間も剃らな
い髭面に鉢巻姿が山伏に見えたのだろう。
 ちょっと遅くなったが午前九時二十分深仙宿を出発し、奥駈四日目の縦走に向かう。


 きょうは峰中屈指の大展望を誇る釈迦ケ岳、近畿地方の最高峰の八経ケ岳、天川弁財天の奥宮を
もつ弥山と奥駈中一番高い山々の並ぶ山域の縦走で、途中の景観も峰中第一という評価の高いとこ
ろだが、きょうも雨こそ降らないが天気は良く無く、景色を楽しむことはあまり望めぬようである。
 前鬼からと違って深仙からの釈迦ケ岳の登頂はさすがに楽で小一時間で山頂に着く。荷物も四キ
ロぐらいしか減っていないはずなのだがずいぶん軽くなったように感じる。
 先に出発した二人連れと若い青年の二人連れが頂上で休憩していた。
 思ったとおりのガスのために景色は何も見えず、青銅の釈迦像だけが唯一の観賞物で、私は快晴
の日に二度もこの頂上に来ているのでいいのだが、田端君は今回が初めてであり楽しみにしていた
だけに気の毒だった。


 二年前の秋、晴天の特異日として知られる十一月三日の文化の日に初めてこの頂きに立ち、素晴
らしく澄みきった快晴の下の広大なよも四方の景色に時間のたつのも忘れて見入ったときのことがい
つまでたっても忘れられない思い出として残っている。
 天気の良い日なら南に大日岳・天狗・転法輪・笠捨山等の奥駈の山々、そして玉置山の舟型のよ
うな山、その右手にいくつものピークのつらなる八人山の尾根が見え、北の方向に目を転ずると、す
ぐ向こうに孔雀・仏生の大きな奥駈の尾根というより山脈がつづいて明星ケ岳・八経ケ岳・弥山の山
々にいたり、その間からほんのわずか山上ケ岳が姿を現わし、西の方角に目を向けるともの凄い絶
壁の大嵒(巨大な崖岩のこと)を持つ七面山とそれに連なる魅力ある尾根があり、東は、北の大台ケ
原から続く山また山の重畳たる台高山系の向こうに太平洋の海が見え、昔は海上はるかに富士山
が見えたこともあったとか、ほぼ三百六十度の広大な展望がきくところである。
 [平成元年五月に前鬼で会った京都西陣の八人ぐらいの若い女性パーティが、前年十一月に弥山
に登った時に富士山を見たそうで、また、大台ケ原の大台山荘の食堂にも日出ケ岳から望遠レンズ
で写した富士山の写真が飾ってあるのだから現在でも条件に恵まれれば富士山を見ることは可能の
ようである。
 しかし、玉岡氏や山上氏、長田氏、平田氏、私のように何十回も大峯に来ている者たちが一度も見
たことがないのに、前述の女性パーティーのように初めて来たときに見ることができるとはなんという
幸運なことであろうか。]
 ただこの釈迦ケ岳の唯一の欠点は、ここから大普賢岳の特徴ある山が見えないことで、ちょうど仏
生ケ岳の大きな山塊が間にあって釈迦ケ岳と大普賢岳はどちらからもお互いを見ることができない
のである。
 晴れた日の大台ケ原の大蛇嵒、あるいは日出ケ岳に立つと、西の方角に大峯山脈が脈々と南北
に連なるのが見渡せてなかなか壮観な眺めなのだが、その中でも一番目立つピークが行者還岳と
この釈迦ケ岳で、脈々と続く尾根上に三角形の尖ったピークを天に向けて突き上げている感じは遠く
て小さいけれども印象深いもので、三年前初めてこの景色に接したときに大峯山系すべての山々に
対する深い興味がわき起こったのである。
 南部奥駈道に踏み入れる前に私が一番楽しみにしていたのが南方から見る釈迦ケ岳の姿で、三
角形のピークがスクッと天に向かってそびえる英姿を想像していたのだが、縦走路の尾根が東の方
にふっているために釈迦ケ岳は横に間延びして思ったほど迫力がなく、がっかりしたことを記憶してい
る。
 これは北の八経ケ岳から見たときも同様で、三角形の山形を見られるのは孔雀岳に至る尾根道か、
まだ登ったことの無い天竺山か石仏山しかないだろう。
 [奥駈縦走からほぼ一年後の昭和六十三年六月に、天竺山に登ったときに途中の尾根から痩せた
三角形の釈迦ケ岳を見ることができた]
 この釈迦ケ岳は、都はおろか吉野や熊野からもはるか遠く離れた辺鄙なところにあるにもかかわら
ず、古来、修験者以外の者にもよく知られていたようで、源平の昔、源義経が鎌倉の追討を逃れて
奥州に落ちていくときに山伏姿に変装するとき、もし途中で他の山伏に出会って山伏問答で葛城、山
上ケ岳、釈迦ケ岳の様子などを聞かれたらどう返事するのだ、と義経が心配するくだりが義経記にの
っているし、江戸時代の上田秋成の紀行文に、大峯詣でしたときに話に聞く釈迦ケ岳や三重の滝ま
でも分け入りたく思ったが一人では心細いのであきらめたと書いてあることが前登志夫氏の吉野紀
行に記されている。
 源義経と聞くと心がうずく私などは、このような心配までする義経に、タイムマシンでもあればすっ飛
んでいって教えてあげたいような心情にかられる。
 「九郎判官殿、それがしは河内の国は寝屋川の住人、森脇の某と申す者でござるが、大峯のことは
いささか存じそうらえば、御教え申さんと存ずる。左様、山上に立ちたるときに南に見える峰が弥山と
申して‥‥」

 怪力オニ雅のこと
 頂上に建つ釈迦ケ岳の銅像は台座だけで百三十キロの重さだそうだが、いくつかに解体して独りの
強力の肩によって何回かに分けて麓から運びあげられたもので、この大峯始まって以来の怪力の持
ち主といわれる「オニ雅」こと岡田雅行さんのことは前田良一氏の「大峯山秘録」に詳しくのっている。
 [この銅像の台座に施主や寄進者の名がたくさん彫りこまれているなかに、最大の功労者の岡田雅
行氏の名が無いことへの不満を林谷氏にこぼしたことがあるが、林谷氏は、奥駈のときに釈迦ケ岳を
通った際、台座を丹念にしらべて岡田雅行の名を見つけたのである。それを聞いて私も是非この目で
確かめたいと思ってその後に釈迦ケ岳に登ったときに台座を丹念にしらべたのにもかかわらず、その
ときはとうとう見つけることができなかったのだからよほど分かりにくい記入のされかただったのだろ
うと思う。
 「吉野群山」の著者の岸田日出男氏も大峯縦走のときに岡田雅行氏を強力として何度も雇っており、
そのときのいろいろなエピソードを「吉野群山」に書いているが、釈迦の銅像の荷揚げのことについては
一言もふれておらず、生涯、大峯に身も心もささげてきた同氏が知らないわけがなく、これは当時の
山伏や登山家がいかに強力を低く見ていた証左ではないかと思う。
 大峯山秘録によると岡田雅行氏の晩年は不遇だったらしく、酒を飲むといつも釈迦ケ岳に釈迦像を
運びあげたことを自慢にし、そして「強力ほど哀れで情けない稼業はない」ともこぼしていたそうである
が、釈迦像をかつぎあげたという自負心を持つ自分の名が、台座にちっぽけな名でしか記されなかっ
たことへの憤りをオニ雅は感じ続けていたのではないだろうか。
 でもオニ雅は世を去ってしまったが、釈迦像が建って半世紀近くにもなる平成の時代に、林谷氏の
ような山伏姿や私のような登山家スタイルの者が大釈迦像の台座に顔をくっつけんばかりにして他の
名には心も留めず、一心に岡田雅行の名を探し求めている姿を岡田雅行氏はあの世から多少なりと
も慰められる思いで眺めているのではないかと私は思うのである。]
 三十分休憩後、十時五十五分釈迦ケ岳をあとにする。


 釈迦ケ岳の北斜面は、最初滑りやすい急な坂を背の低い潅木をつかんでバランスを取りながら降り
ていき、僅かだが岩場の急なところを両手を使って降り、馬の背と呼ばれる、西側は足を踏み外せば
かなり下まで落下の予想されるたいへん狭い岩尾根を恐る恐る通過するといった多少の緊張を強い
られるところで、全奥駈道中、地蔵岳につぐ危険箇所である。


 もっとも山の危険の認識度というものは色々個人差があり、高所恐怖症気味の私は絶壁の上とか
いったところが苦手で、初めてここを通ったとき、這いつくばって通過する私を同行の友人らは笑って
平気でひょいひょいと渡っていくのだから人様々である。


 私の長男も、恐い所だという私の言葉に楽しみにしていたのが、さほどでもなかったのか、「これが
恐いって?あまりがっかりさせないでよ」とほざいたものだ。
 ここの岩場を過ぎるといったん稜線上にあがり、色々な呼び名のある岩稜を登ったり降りたりする。
まわりの岩々の姿も面白く、鎖場もあったりしてなかなか変化に富んだところだが危険さというのはほ
とんど無い。


 やがて岩稜帯を過ぎて普通の尾根道になったころ、孔雀覗きの絶景の地にさしかかる。道から東側
のほうにちょっとあがっていった崖の上なのだが、目立つ標識が無いために知らない人なんかうっか
り見過ごしていくこともあるようで、昨年秋にここを通って前鬼の宿坊で同宿の人とここのすばらしさを
語りあったとき、そんなところ知らずに通り過ぎてしまったと、しきりに悔しがる若い夫婦連れがいた。
 もっともきょうはガスのためにそこからの風景は何も見えず、この崖がすごい絶壁であることを同行
の友人たちに想像してもらうことしかできなかった。
 時刻は十二時二十分なのでここで昼食をとり、そしてもしかしたらガスが晴れるのではないかとはか
ない期待を抱きながら四十分ほど休憩する。しかしその望みも空しくガスのただようなか午後一時に
孔雀覗を出発する。

 孔雀岳・仏生岳の横巻き
 孔雀岳とその次の仏生ケ岳は山頂を踏まずに手前から西側の山腹を巻いていくようになっているが、
どちらも千八百メートル前後の遠くから眺めても実に堂々としていてしかも自然林の山なのだし、高度
差もそんなに大きくないのだから山道もこれは当然頂上を通って欲しいところである。山彦ぐるーぷが
刈り開けをやったのなら間違いなく頂上を通るところだ。
 一度も通ったことが無いから解らないが、もし見晴らしのきくところがあれば孔雀岳からの釈迦ケ岳
の姿は素晴らしいことだろうし、そこから北方に目を向ければ大普賢岳の特徴ある尾根も見えること
だろう。


 それと仏生ケ岳の頂上は、玉岡氏の登山記録を読むとたいへん雰囲気の良いところのようである。
 その手記のなかに、玉岡、山上、戸石の三氏が谷から息を切らせらながら仏生ケ岳の頂上にたどり
ついたときに、人の来る気配の無いこの山頂の樹木に、北方の行者還岳から弥山まで縦走した下山
様親子がわざわざ足をのばして置いていった一行へのメッセージと日本酒の一升びんがくくりつけて
あって一同あっと驚くといったことが記されてあり、私も同行の田中君がいなければ時間もあることだし、
頂上によって新宮山彦グループの野営のあとを見ておきたかった。しかし、歩くことは少なければ少な
いほどよろしい、と常々言っている田中君の手前、無理強いもできず、我々は巻き道を行くのである。
 このあたりはバイケイソウがまるで畑の中を行くかのように群生している。


 

 釈迦ケ岳を振り返ってみると、ガスが尾根の東側にだけまとわりついて西側は山肌をあらわにして
おり、趣があるながめだった。
 なお、この孔雀岳・仏生ケ岳のトラバースはたいへん長く、去年の五月、長男と吉野から前鬼まで
縦走したとき、小学校六年生の息子が、雨の中の単調な歩行が辛かったのか涙を流しながら黙々と
無言で歩いていたことを思い出す。
 息子は、体や精神を鍛えることになるからと大儀を振りかざして結局は自分の趣味に従わせるとい
う親のエゴの犠牲になったようなもので、思い出すたびに胸が痛む。その後も日本アルプスの白馬岳、
穂高と一緒に行ったが、結局息子は山嫌いの人間になった。
 ただ唯一の救いとでも言えるだろうか、息子は非常に名誉心の強い子で、縦走中、ときおり出会う
人々の息子への賞賛の言葉はたいへん彼の自尊心をくすぐったようであった。
 特に弥山小屋で働いていたアルバイトの青年たちが、息子が吉野からやってきたことを知ったとき
思わず息子の背中をどーんと叩いたときや、明星ケ岳の近くで出会った山仕事の人が、我々の歩い
てきた行程を聞いて息子のザック(十キロほどの重さだった)を背後から計るようにして持ち上げ、
「いやー、こんな少年がまだいるとは日本の将来も捨てたもんじゃないですな」と言われたときの息子
の何とも言えぬ誇らしげな表情は今もありありと思い出す。そして息子をほめてくれたこれらの人達へ
の感謝はいつまでも私の心のなかで消えることがない。
 きょうは雨も降らず、ガスも多少晴れてきて、一応、近くの山や谷が見えてきだしたのはうれしい兆
候である。
 楊子の森近くのなだらかな下り斜面で休憩をとる。ここから左側に谷を挟んで七面山の物凄い絶壁
の大嵒がよく見える。谷底から三百メートルの高度をもつ絶壁である。
 地図で見ると、奥駈の道から七面山まで踏み跡程度の道はあるが、ここを訪れた人の話によると、
頂上近くは長年降り積もった落葉で足を踏み入れるとずぼっと深く沈んでいくので危険で頂上まで近
寄れなかったとのことで、だれもが目を奪われる大峯らしい山である。
 しかし田中君がそろそろ山歩きに嫌気がさしてきたらしくあまりご機嫌がよろしくないようで「七面山
の大嵒は凄いだろう」と聞いても「別に」とか素っ気ない返事である。
 それでもこのあたりの楊子の森の疎林地帯の風景はいくらか気に入ってくれたのか珍しくカメラを
取り出して田端君にこれらの風景をバックに自分のスナップ写真を頼んでいたが、その言い草がふる
っていて、「絶対に大峯の山にいるといったことが解らないように写してくれよ、あたりの山蔭が入った
ら駄目だよ、ヨーロッパのどこかの森の中にいるような雰囲気を出してくれ」と言うのである。
 こんな辛い山登りに誘った私へのあてつけのようにも聞こえたが、彼が若いころはいざ知らず、現在
は山歩きそのものには少しも魅力を感じておらず、彼の好む北欧的なアルペンムードの山とはおおよ
そ縁の無い大峯の、それも決して楽ではないこの奥駈に、ためらうのをうまく言いくるめて誘った私に
も後ろめたさがあり、わが愛する大峯へのこのとても好意的とは言えない言い様にもあまり腹は立た
なかった。
 楊子の宿の鞍部を右手にほんのわずかに下ったところに無人小屋があるが、まあ大峯中随一の汚
い小屋だろう。こんなところで寝るくらいなら野宿したほうがましだと息子が言っていたが、どんなに汚
くとも雨の日や寒い日に屋根と囲いのある小屋の存在ほどありがたいものは無いものである。
 縦走路は、青々と苔むす大石の敷きつめられた自然の庭園とも言うべき山腹の道を巻いていき、た
いした高度差は無いが登ったり降りたりをしながら進んでいって船のタワに着く。尾根の真ん中が窪ん
でいてまるでカヌーの底を行くようで、まさにぴったりの命名である。
 やがて縦走路の行く手に高くそそりたった隆起があらわれ、たぶんこれが地図に記されている五胡
峰ではないかと思う。道は西側を巻くように続いている。
 道が山腹の西の斜面を登ったり降ったりするようになるところが禅師の森らしく、舟ノ川上流の地獄
谷の底が、所々の下まで通じているガラ場の涸れ沢を通してよく見える。七百メートルぐらいの標高差
がある割りにはすぐに下まで降りていけそうな近さを感じる。
 禅師の森は古書に峰中第一の悪所なりと書かれていることを解説書に記されているが、多少大きな
石がごろごろしているところもあるが、別にそんなに歩きにくい悪場でも何でもない。[後に竹林院の
行者から聞いた話だが、昔の奥駈道はこのあたりではもっと下方を通っていてかなり危険なところが
あったとのことである。
 そういえば写真では見たことがあるのに縦走中には一度も眼にしたことがない菊の窟の標柱もその
古い道に面しているのかも知れない。菊の窟は峰中第一の魔所として有名で、ここに入って生きて出
てきたものはいないと言伝えられてきており、地図には一応明星ケ岳のそばに場所が記されているが、
入るはおろか、近くで菊の窟を見たという人をも私は今までに会ったことも聞いたこともない。]
 やがて標識のある分岐点に来て、湯の又方面と記入されているので地図を見ると確かにその分岐
点が記されており、八経ケ岳までのコースタイムはあと半時間である。
 予想以上に早く目的地に近づいているのに我々は喜んで「八経ケ岳は射程距離に入ったぞ」と言い
ながら元気に出発する。
 ところがこれが私のとんでもない思い違いで、この後、予定時間を随分越えて歩いても八経ケ岳手
前の明星ケ岳のオオヤマレンゲ群生地にも到達せず、これはおかしいと思いだしてずいぶんたってか
ら二度目の湯の又方面の標識のある分岐に着き、これが地図に記されている分岐だと思い当る。
 そうがっかりもしなかったが、こういった見込み違いの後はよくばてることがあるから気をつけなくて
はと気を引き締めて出発する。

大峯の天女・オオヤマレンゲと近畿の最高峰・八経ケ岳
 明星ケ岳は急坂なのでピッチを落としてゆっくり登るように仲間に指示して、一歩一歩大地を確かめ
るようにして登っていく。
 この明星ケ岳の登りは覚悟していたのだが思ったほど辛くはなく、やがてオオヤマレンゲの群生地
に着く。高さ一・五メートルぐらいの葉をすっかり落としてしまった細い樹木がそこかしこに密生している。
 石楠花と共に大峯を代表する花で、明治時代、日本に調査に来たアメリカの植物学者によって、オ
オヤマレンゲの花は日本には存在しないと断定されていたのを、白井光太郎博士(1863〜1932)が
自ら大峯山中に分け入って探しまわり、明治二八年、ついに楊子の宿近くでその群生を発見したこと
からこの大峯の名にちなんでオオヤマレンゲと呼ばれるようになったそうだ。
 その時の印象を「山中で天女に遭遇したような気持ちだった」と博士はのべているそうだが、追い求
めてきたものを見つけたときのひたむきな学者の熱い感動が伝わるような表現である。このオオヤマ
レンゲの話は前田良一氏の「大峯山秘録」で知った。
 開花期は六月下旬から七月中旬とちょうど梅雨期にかかり、連日の雨と雷で山に近づきにくいときで、
石楠花に較べて一般の登山者にはなかなか見る機会の少ない花である。
 私も昨年七月の終わりころ、狼平から弥山への登路で一ヶ所、遅咲きのが二輪咲いているのに出会
ったことがあり、厚みのある白い花弁のその可憐な姿を見たときにこれが話に聞くオオヤマレンゲかと、
まるで有名な女優を目の前に見るかのような心のときめきを感じたものである。[昭和六十三年七月二
日、長田御夫妻と天川川合から弥山に登ったとき、頂仙岳を過ぎて狼平に下りていく途中の道にそって
群生する満開のオオヤマレンゲに出くわしたことがあるが、あんまり多すぎると感激も薄く、見た目も白
い球のようなものがやたらとそこかしこにぶらさがっているような感じであまり美しいとも思わず、前回の
二輪だけのときのほうがはるかに感動の度合は大きかった。
 橿原市の堂田弘文氏から聞いたのだが、なんと私が大峯で一番多く訪れている大普賢岳の頂上付
近にオオヤマレンゲの花が咲いていたそうで、その後私も行ってみたら、花はすでになかったが確か
にオオヤマレンゲの樹木があったのである。
 場所は和佐又山スキー場からの道が奥駈道と合流するところで、ここなら和佐又山ヒュッテから二時
間ほどで来れるので、大峯のオオヤマレンゲを見るための最短コースだと思う。六、七月には一度もこ
の峰には登ったことが無いために今まで気がつかなかったようだ。]
 「さあ、ここから八経ケ岳はすぐそこだよ」と言って元気を出して歩行を進めていくが、すぐそこと思った
のはまたもや私の錯覚で、前にここを二回逆行したときの八経ケ岳からこの群生地まではすぐのように
思っていたのだが、トウヒとシラベという高山針葉樹林のなかの道をどんどん行くのになかなか八経ケ
岳に着かず、こんなに距離があったかと驚かされた。
 明星ケ岳の急坂のことはよく覚えていたのに、人間の記憶とは偏った覚え方をしているものだと思う。
 八経ケ岳の頂上に着いたのは午後五時五十二分、あたりは薄暗くなりつつあった。標高一九一四メ
ートルは第一次世界大戦の勃発の年数なので覚えやすく、大峯はもちろんのこと近畿地方の最高峰
である。[新宮市の淵上良一氏に教えてもらったのだが、最近の測量によって八経ヶ岳の標高は平成
元年六月に一九五〇メートルに変更されたそうである]
 狭い山頂からのながめは素晴らしいのだがあいかわらずのガスのために視界はほとんどきかず、鞍
部を挟んで前方の弥山の大きな山塊がかすかにぼんやりと見えるだけである。
 [この弥山・八経ケ岳のあたりは、トウヒとシラベの純林におおわれており、大峯関係のガイドブックの
弥山・八経ケ岳の解説文にはかならずこれらの樹木にふれているのにこの二つの樹木の相違について
説明したものがまったく無いということはどうしたことだろう。
 ここに来る登山者のかなり多くの人たちが両者の違いを判別できぬまま漫然と樹木をながめているの
ではないかと思われるふしがあるので、お粗末だけども私の判別方を述べさせてもらう。
 樹肌が細かい燐片状のものがトウヒで、たとえがちょっと乱暴だがさくらや樺のように樹肌が横に筋が
走ってスベッとしたものがシラベと考えればほぼ間違いないと思う。もっともこの見分け方もトウヒとシラ
ベの純林の中だけに限ってであり、他のツガやモミ、イラモミなどが混ざってきたらまぎらわしくて決め手
とはならない。]
 五分ほどして遅れてついてきた田中君が到着。
 「君らね、こんなに一日中歩いていてほんとうに楽しいのか?いったい何のためにこんなに歩かなけれ
ばならないの?」と到着早々うんざりしたように彼が言ったが、本当に私も納得のいく返答に窮するくら
いで、「そこに山があるから」なんて言おうものなら張り飛ばされそうな雰囲気で、まったく、景色も楽しめ
ず黙々と一日歩き倒したきょうの山歩きは何だったのだろうかとも思う。田中君の恨めしそうな表情を見
ていると後ろめたく、詐欺師の心境とはこういうものかという気持ちになってくる。
 そこで十五分休憩して、きょうの宿泊地、弥山に向かう。
 六十メートルほどの高度差の鞍部にいったん降りてまた登りなおし、二十五分ほどで弥山小屋に着く。
 大きな山小屋で、宿泊者の寝る新小屋と、冬期に登山者に開放する小屋、それに食堂と従業員の起
居に使われる旧小屋の三つに別れており、食堂に行ってみると連休のせいか大勢の登山者が夕食をと
っている最中で、深仙で出会った二人連れもいて、「やあ着きましたね」と声をかけてくれる。ほとんど人
と会うことのない南部大峯とはえらい違いの賑やかさだ。
 ザックを寝所まで置きに行き、着替えをして再び食堂にもどって夕食をとる。
 ストーブには火が赤々と燃え、ビールや酒を飲んだりした直後はむしろ熱いくらいだったが、四日目も
こうして無事に終ってくつろぐことの快さにまわりの人たちとの話にも花が咲いて、食事が終ってもつい
長居していると、見かねたのか田端君がやってきて、寝所では満員の客が寝支度をしており、我々も
寝るスペースを確保しておかなければとせきたてる。
 昨年五月に弥山小屋に泊まったとき、ここの毛布は何枚かぶってもまったく暖かくならず、寒さに震え
ながら一晩を過ごしたのに懲りて以後シュラーフで寝ることにしており、今回もシュラーフにもぐりこむ。
 今回は小屋の中がほぼ満員状態だったせいかそう寒くはなかったようで、寒冷地用のシュラーフでは
やや暑苦しささえ感じた。
(続く)