第五日目 弥山〜山上ヶ岳 62.5.3(前編)
弥山小屋における友人たちのいさかい
五時半起床。きょうも天気が悪く、小雨が降っている。
昨夜も田中君と話したのだが、二日間の縦走でかなり嫌気のさしてきている彼を、この悪天のなか、
今日も九時間もかかる山上ケ岳までの縦走を付き合わせるのはどうも気が引け、気の毒のような気
もするので、泊まり客の大部分が降りていく天川川合に彼だけ下山してもらおうかと思って彼に言う
と、最初は彼もその気になったのである。
ところがそれを知った田端君が反対し、せっかくここまで一緒に頑張ってきたのに、やりかけた奥駈
を断念するのは口惜しいではないかと、彼にしては珍しく熱をこめてしきりに田中君を励まして、今度
は彼が田中君を説き伏せるという好ましい事態になって、結局田中君も山上ケ岳に行く気になったの
である。
ところが朝食を終えて荷造りをしている最中に、些細なことから田中、田端の両君が感情的な言葉
のやりとりをやりだし、腹を立てた田中君が「もう、やっぱり僕は山を降りる」と言い出す始末で、今度
は、すっかり三人で山上ケ岳に行けることになっていい気分になっていた私をあわてさせたが、それ
でも田中君は感情的になりながらも「おい、もりさんよ、じっと見てないで早く仲裁してくれよ」と言って
妙に冷静なところも見せてくれ、なんとかこの喧嘩はおさまったのである。
しかし些細なことにもカリカリするほど皆の疲労もたまっているようで、山の好きな私でも四日間の疲
れは蓄積していると見え、今日もまた湿った登山シャツに着替え、重たいザックを背負ってこの雨のな
かを行くのかと思うと何か気の滅入るような重苦しい気持ちで、初めて山歩きを倦む気持ちが生じてき
たものだ。
それでもちゃんと装備をして山小屋を発ち、聖宝(しょうぼう)の急坂を降りだす頃には気持ちもしゃん
としてき、やはり山歩きはいいなと思いながら下っていくのである。
この聖宝の坂は、斜面が急なだけでなく距離も長いので、降りるのもなかなかたいへんである。これ
を山上ケ岳から来る場合、八時間も登り降りをやってきたあげくにこの三百メートルの高度差を直登す
るのだからもう苦行以外の何ものでもない。
私が今回の奥駈の縦走をやるのに熊野から出発したのは、玉岡氏たちの御都合と、食料と水を自
給しなければならない南部を先にという主要な理由の他に、この聖宝の登りの苦しさはもう一回で御
免だという気持ちも大きく働いていた。
NHKテレビで奥駈の特集番組をやっていたなかで、ナレーターが、聖宝の坂を千メートルの高さの
急坂と言っていたが、日本アルプスでも千メートルの一気の直登の坂はそうざらにはなく、これは誇
張であるが、まあそのぐらいたいへんな思いをする坂なのである。
[前のほうで述べたように今はジグザグ道に変わっているのでずいぶん楽である]
この坂を降りきったところが聖宝の森で、大峯修験道当山派の中興の祖、理源太師聖宝の銅像が
道脇の奥まったところに建っている。
倒木に腰掛けて十分間休憩する。
弥山から奥駈道は東西に走る尾根を東に向かっていく。尾根道は自然のままのブナ林で、ブナ林の
常として密に繁っていないため明るく、風情のある眺めが続く尾根である。
石休宿のピークを越えて下っていくと左への降路が見える。行者還トンネル西口に通ずる道で私も
一度通ったことがあるが、いくらか急ではあるけれどもガイドブックに記されているほど険しいものでは
なく、道もしっかりしていて危険性はまったく無い良い道である。(むしろ天川辻から降りる道のほうが
険しく、雨の日なんかかなり滑りやすいようである。)
トンネル西口まで車で来れば、この道を往復して大阪方面からの弥山・八経ケ岳の日帰り登山が可
能である。
梅雨期間のつかのまの晴天の日に、急遽思い立ってオオヤマレンゲなどを見に来るときなどには便
利なルートだが、弥山・八経ケ岳は、一度は天川川合か坪内から長駆登ってきて欲しい山で、陣の峰
あたりから見る稲村ケ岳、バリゴヤの頭、行者還岳の山々の姿も迫力あるし、頂仙岳から狼平に至る
湿地帯の台地もたいへん雰囲気の良いところで、ここから振り返って見る、背後にそびえる頂仙岳の
烏帽子のような姿は、初めて見たときからこの山の大ファンになるくらい深い感銘を受けたものである。
仲西政一郎氏の大峯案内には、頂仙岳は「朝鮮岳」とも記されたそうで、朝に鮮やかという意味を付
記されているが、私は、これは昔、朝鮮半島の三国時代末期に滅亡して日本に亡命してきた百済の
人達がこの山に登り、西の方角を望みながら故国朝鮮への望郷の想いに涙を流したのではないかと
勝手に想像しているのである。その時代に奥駈がなされていたかどうかは定かではないが、その方が
情緒的で私は楽しい。ちなみに山の高度は一七一七メートルで私は「今は、朝鮮の人達はいないな」
と語呂合わせで覚えている。
[行者還トンネル口に面した谷を小壷谷というが、「大峯山脈と其渓谷」にこの谷に伝わる九人ふ臥
せりという伝説のことが記されている。
昔、この小壷谷の奥に十人の杣人(そまびと・山から木を切りだす人、きこり)が小屋を建てて暮らし
ていたが、ある夜、若い者たち九人が寝入ってしまったあとに老人が一人起きていて斧を研いでいた
ところへ一人の若い女が小屋の中に入ってき、寝ている若者らに次々と顔を近づけていってやがて
老人のところにもたれかかってきたので、持っている斧で切ろうとしたら女は小屋の外に逃げていっ
た。そのあと若者たちをよく見ると、すべて舌を喰い切られて死んでおり、それからはその地を九人臥
せりと呼ぶようになったそうである。
この行者還トンネル口付近では二回野営(一度はテント、もう一度は車の中、いずれも連れがいた)
したことがあるが、今後一人で野営するときは思い出したくない伝説ではある。]
[昭文社の地図に頂仙岳の近くに高崎横手の文字の記入があり、長いこと高崎が何を意味するの
か解らなかったが、「大峯山脈と其渓谷」によると、それは篠原(船ノ川ぞいに古くからある木地師の
村)で呼ぶ明星ケ岳以南の大峯山脈主稜一帯の名称で、また天川川合では特に頂仙岳を指す名だ
そうである。]
このトンネル西口分岐を過ぎてからしばらく行くと、笹が一面に茂る尾根道になる。多少の登降はあ
るものほぼ水平道で、小雨の降るなか、合羽を着ているにもかかわらずそう汗もかかずに順調に進ん
でいき、予定よりも少し早く一の峠に着く。ここには無人の避難小屋がある。休まずに先を急ぎ、笹が
おい茂って道もときどき解らなくなるくらいだが、尾根道なので道に迷う心配もなく、割りかし気楽に笹
をかきわけてただ前進する。
一の峠の手前から道は北の方角に向かっていく。そのためか急に風が強く吹きつけるようになり、
雨はさほどひどくないが、風の音や樹木や笹のざわめく音があたりを騒がせ、いかにも悪天のなかの
山行といった感じである。
初めて出会う奥駈行者とマナーの悪いパーティー
やがて前方に、道をふさぐようにしてドーム型テントが張られているのが目に入り、えらいところに張
っているものだなと思って近づいてみると、中から話し声が聞こえてくる。
テントの前を道が左のほうに折れてやや下り気味になっているが、トンネル西口の標識が立ってお
り、本道でないことはすぐに解ったので笹の中に入っていってテントの裏側に回ってみると、かすかに
踏み跡程度の道が見えたのでまた歩きだす。田端君も田中君も無言だったが、あまり感心できない
野営の仕方だなと感じたのではあるまいか。
道は水平道でそうつらくはないのだが、笹の道があまりに延々と続くのでうんざりしてくる。笹が足に
あたるのが長時間の歩行となると、気分的に負担に感じてくるのである。
道が尾根の東側におりてよく踏まれた道を歩くようになってやれやれと思ったとき、前方にカーブした
道を数人の行者達がやってくるのが見え、仲間に停止を言って待つ。今回初めて見る山伏姿である。
今朝未明の山上ケ岳の戸開式に参加し、その足で奥駈に向かっている行者達に違いあるまい。合掌
して彼らが通りすぎるのを待つ。
その一行に少し遅れて二人の行者がやってきたので「どちらまでいらっしゃるのですか?」と尋ねる
と、「本宮の予定なんだが、ばててしまって多分駄目だろうと思います」と答え、崩れるようにしゃがみ
こみ、それを見た先に行きかけたもう一人もやれやれというように道の土手に腰かけた。
後者は疲労の色が濃く、杖をついてただうつむきながら肩を大きく上下させて苦しそうに息をしていた
が、この様子では弥山まで行くのも容易ではあるまいと思われ、この調子であの聖宝の胸突き八丁坂
を登るのかと思うと気の毒でならなかった。
山歩きが好きでやってきた我々と違って、山歩きに慣れていないのに修行のためにこの苦しい山行
をする彼らとでは辛さがまったく違うはずで、九十九パーセントの行者が洞川から登り洞川へ降りてい
くというどちらかといえばハイキングのような登山をするなかで、ここまでやってきた彼らに痛ましさと深
い敬意を感じずにはおれない。
天川辻に着いたのが十時三十分。右は上北山村の天ケ瀬、左は天川村の川迫川(こうせいがわ
)渓谷を通って川合に続く。
天ケ瀬は、和佐又山でスキー場とヒュッテを経営している天ケ瀬組の在所の古い村で、平家の落人
の住みついたところと言われている。
去年の九月、この天川辻から、小雨のなかを難儀して天ケ瀬へ降りていったずぶぬれの我々五人
(今回同行の田中、田端両君を含む)を、村のとある一軒家の奥さんが親切に家の中に入れてくれ、
着替えをさせてもらって、電話でタクシーも呼んでくれ、タクシーが来るまでコーヒーやお茶の接待まで
してもらったことがあり、そのご親切がたいへん身に染みたものである。この家のご主人が和佐又山ヒ
ュッテの主人の兄上であったということも奇遇であった。
天川辻から五分もせぬうちに行者還小屋に着く。行者還岳の肩の明るい開けた台地に建つなかな
か良い無人小屋である。中に入ると、七、八人の先客が焚き火をしており、例の二人連れも床に腰か
けていた。
雨宿りができるので、コーヒーでも作ろうといって田中君がコンロとパーコレーターを取り出して準備
をする間、焚き火のまわりにいる人たちの雑談に加わる。
あのトンネル降り口分岐にあったテントのことを話題にしているようで、一人の年配の方が、分岐点
とは知らずに一本道と思い込んでトンネル西口の降路をだいぶん下まで降りていったそうで、まった
く非常識だと憤慨しており、他の人たちもうなずいていた。
コーヒーが出来上がる頃には小屋の中には我々以外には例の二人連れと単独行の人だけになり、
田中君は、「さあ、コーヒーが好きな人は飲んでください」とみんなに勧めてまわる。
煙草を吸っていた二人連れの一方の男性は、「まさかこんなところで熱いコーヒーが飲めるとは思い
もしなかった」と大喜びの様子で、アルコールが駄目で大のコーヒー党だと言いながらおいしそうに飲
まれる。
田中君のこうしたその場に居合わせる人に別け隔てをしない態度は本当に素晴らしいことで、いつ
も感心させられる。
パーコレーターで作るコーヒーの味はいまひとつだが、こうやって大量にできることと熱いままの状
態で飲めることが一番の長点であろう。それとパーコレーターの煮たつぐつぐつといった音を聞きなが
らコーヒーのできるのを待つのもなかなかいいもので、複数の人数で山へいくときは、これを一つ持っ
ていけばちょっとした彩りを山行にそえてくれる。
コーヒーがだいぶ余ったのを知った例のコーヒー党の人がもう一杯所望して幸福そうに飲んでいる
のをみるとほほえましい。田中君が「よかったら残ったのも持っていきますか?」と言うと、その人は即
座に自分の水筒の水をあけてコーヒーを入れる素振りを見せたので、水を捨てるのはもったいない、
と田中君がかわりにその水をもらい受けた。
二人連れのもう一方の人が、みんなで記念写真を撮ろうといってストロボつきのカメラで写してくれ
る。ストロボをザックの奥深くしまいこんでいた我々にとって、貴重な行者還小屋内の写真が得られる
わけだ。住所をメモして、後日郵送するからと言って彼らは先に出発していった。
[このかたは大和郡山市の関口清氏というお名前で後日、写真を送っていただき、同行のもう一人
のコーヒー党のかたとは、我が田中君がその後大阪の地下鉄でばったり出会ったことがある。]
行者還小屋の居心地の良さについのんびりし過ぎて、四十五分もの予定外のコーヒータイムになっ
てしまい、我々もあとかたづけをして出発する。
雨はいっこうにやまず、ひどくはないが絶え間なく降りそそぐなかを、ふたたび笹のなかを歩いて行
者還岳の東側を巻いていく。
行者還岳は、大台ケ原から見わたせる大峯山系の南北に連なる長い山並みのなかでも一際目立
つ鋭鋒で、千五百四十六メートルと高度はさほどでないのに、南側がスパッとそぎ落とされたような
山容は、傾いたピラミッド、あるいはおうむのくちばしのような一種の不安定な感じを見る人に与える
異形の魅力といったものを持つために、山好きの人間なら一見しただけで忘れられない印象を残す
山である。ただこの魅力的な姿は縦走中には見られず、この先二キロほど離れた七曜岳頂上からは
すぐ目の前に見えるのだが、そこから見る行者還岳は丸い平凡な形の山で何の変哲も無い。
道はすぐに水場のある崖下にたどりつき、太い丸太で作られた頑丈な二段がまえのはしご段を登っ
ていく。慎重に登れば何の難しさもないはしご場だが、丸木だけにきょうのような雨のなか、油断して
足を滑らせて転落しようものなら重大なことになりかねない高度差のある崖である。
そこを登りきって山腹の斜面を笹におおわれた細い道を十分ほど進むと、行者還岳頂上からの道
と合流する。余裕があれば、まだ行ったことの無い頂上もきわめておきたかったのだが、田中君の手
前とても言い出せなかった。
解説書には、樹木におおわれて見晴らしがまったくきかないとあるが、去年縦走の時に出会った和
歌山のハイカーの話によると、一ヶ所崖下をのぞくことのできる箇所があるとのことで、本当なら是非
一見したいものと思ったのである。
因みに山名は、役ノ行者があまりの険しさにここから回れ右して引き返したところからついたとのこ
とで、この伝説から察すると、役の行者は初めてのときは南の方から来たことと思われる。
千四百八十五メートルピークを越えたところで休憩していると、後から六人ほどの重装備をした若者
のパーティーがやってきた。弥山泊した山上ケ岳行きの登山客のなかでは我々が最後のしんがりと
思っていたのに、この山慣れした雰囲気のパーティのにわかの出現は意外で、「夕べ弥山小屋に泊
まった方達ですか?」と尋ねると、「ええ、まあ‥‥」とか「似たようなもので」とか何かはっきりしない
返事の仕方で、山男らしくない応対だなと内心思ったとき、その気配を察してか一番後の男性が「トン
ネル西口分岐からです」と、はっきりとした口調で答えた。それで、さてはトンネル分岐上にテントを張
っていたグループだなと思って尋ねると、そうだとのことである。
「あれは君達まずかったね。間違えてトンネル西口への道を降りていきそうになった人もいて、行者
還岳小屋に居合わせた人たちは怒っていましたよ」と穏やかに注意すると、そのグループの面々は一
瞬無言のまま、中には「なにを」といった表情をするものもいたが、多分リーダーだろう、くだんの若者
が「すみません、皆さんに迷惑をかけて申し訳なく思っています。反省しています」と言って、そのグル
ープは先に出発していった。
彼らの姿が見えなくなると、それまで黙っていた田中君が田端君に、「もりさんも随分とはっきりもの
を言うな」と余計なことをする、といった口調で吐き捨てるように言ったので、反論して「あれは当然言
うべきことだと思う。彼らは若いし、我々は年齢もずっと上だし、それに彼らを叱ったのではなくて事実
を知らせてやったのだから」と言ったが、彼はそれ以上何も言わずに口をつぐんでしまった。
たしかに、人から色々指図されるのを嫌う故に、他人にも要らぬお節介をしない信条の田中君から見
れば、私の態度は、相手が若いとはいえ一人前の大人に対して差し出がましいものに映り、不快だっ
たかも知れない。私も自分が正しいとはいいきれないものは感じる。
七曜岳と岩稜尾根
ここから次の目標は七曜岳である。上行下行はあるがおおむね登りなのでゆっくりと行く。笹は無く
なり、尾根も狭くなって岩稜帯の修験の山らしい雰囲気になってくる。
[このあたりも平成2年、東側の水太谷の林道が尾根近くまで延びてきて和佐又山の尾根の稜線近
くまで来ており、奥駈尾根の崖っぷちから山肌をけずって蛇のようにくねくねと続く地肌むき出しの林
道が間近に見えて深山の趣も大幅に減退するという状況になっている。林道の延長工事はここだけ
では無く、大峯全域にわたってじわじわと進められており、吉野道では百丁茶屋付近で林道が奥駈
の尾根を横切ることも決定しているのである。
このような自然破壊に対して、多くの登山家や自然保護団体が様々な反対運動を展開しているよう
だが、こういった運動も慎重を期して国政の段階にまで持ち込んで日本国民の共有の問題として対
策を画策しないと、ただ地元の山村の人達や自治体の利益の犠牲のみによってしか自然は守れな
くなる結果しか招かず、ときたまレジャーでしか山村に来ない都会人のエゴと言われかねなく、「登山
者のための生態学」の著者、渡辺弘之氏が言っているように「都会の人間は物質文明の恩恵を受け
ながら、山村の者には不自由な生活をしのべとでも言うのだろうか」と言われないためにもことは慎
重を要すると思うのである。事実、少数の人達の犠牲のために多数派の利益の実現を正当化するこ
とは正義とは言えないと思う。
また登山家の中には、どこまで自然を破壊すれば気が済むのだと感情的に口走る人がいるが、大自
然の中で働く人達がどうしてその慣れ親しんだ自然を破壊していくのに無感動にやっていると思える
だろうか。みんな生活のためにやっていることなのである。ひと頃、自然保護のためにと割り箸を使わ
ない運動が全国的に活発になったことがあるが、確かに外国産の材木をつかっての割り箸制作もあ
るだろうけれど大半は、国内で伐採された樹木の本来破棄されるべき余材を使って作られているので
あり、吉野で代々箸制作、あるいはその関連の仕事に従事している人達の心をいかに傷つけたことか
を知っている私は、著名人がいとも軽率にあのような運動をリードしていったことに大変疑問を感じる。]
やがて東側の谷底の無双洞に降りていく道との分岐に着き、七曜岳が間近なことが解る。解説書に
は、この無双洞への降路がすごい難路のように記述しているが、和佐又山小屋の主人の努力のおか
げで、急坂ではあるがしっかりとした道がつけられており、十分注意すれば一般の者でも安全に降り
ていける。
[無双洞は入口こそ這いつくばって入るような狭さで、たいていの人がその狭さに辟易して中に入り
たがらないのではないかと思うが、ちょっと中の方に行くとしゃがんだ状態で歩くことができ、意外と奥
深く枝道などもあってけっこう面白いので、子供連れの方は是非入られるとよい。]
ここでは年配の夫婦連れに出会い、石楠花の小さな品種が岩稜に咲いているのを教えてもらう。
十分後の十二時十五分、七曜岳(1655m) の頂上にたどり着く。悪天のため景色は何も見えないが、
晴天の日におけるこの痩せた狭い岩稜ピークからの眺めは素晴らしく、北東部に大普賢岳、小普賢
岳、日本岳の尾根が間近に見え、南西部に弥山から天川川合へ続く大きな山塊が見渡せ、そして特
筆すべきは西側の神童子(じんどうじ)谷とそれをはさんで指呼の距離にそびえたつバリゴヤの頭の
険しい山容で、とくに七曜の岩場から足元さえぎるもの無しに神童子谷を見渡せる絶景は、孔雀覗に
勝るとも劣らぬ迫力である。
名前もどんないわれからついたのか知らないが、七曜岳なんてどこにでもざらにある山名では無く、
異色の魅力的な響きを持つ名ではないだろうか。
[中国の長江(揚子江)の三峡(長江が四川省と湖北省の間にある巫山山脈を侵食してつくった長さ
二百四キロに及ぶ大峡谷で、瞿塘峡(くとうきょう)、巫峡、西陵峡の三つの峡谷の総称)の中に七曜
の名の山があることを何かの本で読んだ記憶があるのだが、今のところ確認できないでいる。]
何の関連性も無いが、中村元(はじめ)訳の原始仏典、スッタニパータを読んだとき、雪山にすむ夜叉
と七岳という夜叉が、釈尊に関して対話をする章があるが、詩のような韻を含んだ両者のやりとりに静
かな浄化された雰囲気があり、わたしはこの章を読んだとき、七岳という文字に何となく夕暮せまる七
曜岳の情景を連想したのである。因みに雪山というのは、仏典ではヒマラヤのことをさすそうである。
この七曜岳については、いつか気候の良いころの晴天の日に頂上にツエルト(簡易テントのこと)を
張って一人で野営し、未明から早朝のあたりの景色を楽しみたいものだと念願している。
[この念願は昭和六十三年の秋に実現したのである。
山の秋も深まる十月九日、和佐又山ヒュテから大普賢岳を経て七曜岳まで行き、頂上の片隅にツェ
ルトを張ってねぐらの用意をし、持ってきた食糧や五合パックの酒を広げて、陽の明るい午後三時ごろ
から独りだけの宴会を始めたのであるが、このときの大峯の山々や谷を眺めながらの宴は生涯忘れ
ことのできないだろうと思うほど印象深いものであった。
登山客ももう来ないだろうと思われた四時過ぎごろから酒の酔いもまわってきたのか、興が高じて
きて何か歌いたくなり、「荒城の月」や「黒田武士」に「五木の子守歌」、「里の秋」に「もみじ」と貧弱な
我がレパートリーを総動員して何度も繰り返して大きな声で朗々と歌ったのである。
そしてこのとき、この大峯山中で朗々となにかを歌うならそれは漢詩が一番ぴったりと雰囲気にあう
のではないかと思い、それからというものは下山後、漢詩を読むことに熱中しだし、必然的に中国の
歴史、文学へと広範囲にわたる中国文化への傾倒へと発展していったのである。
陶渕明、李白、杜甫、白居易のようによく知られた詩人以外に蘇軾(蘇東坡)、王安石、文天祥のよ
うな偉大な文人を知り得たことは望外の喜びで、これもすべてきっかけを作ってくれた大峯のおかげ
だと思っている。
李商隠の「夕陽無限に好し 只だ是れ黄昏に近づけれども」の詩句は、七曜岳の宴のときにはまだ
知らなかったが、そのとき頂仙岳の方向に落ちていく夕陽を酒を飲みながら眺めた私の気持ちにぴっ
たりの詩句である。
七曜岳を知っている人なら誰もが、あの狭い岩稜の上によくツエルトが張れたなと思われるかもしれ
ないが、もちろんまともに張れるわけはなく、隅っこの岩の窪んだところをツエルトつきのフライシートで
覆い、細引きひもを岩角や木の枝にしばって固定し、しぼんだツエルトの中にシュラーフを突っ込み、そ
の中にもぐりこんで、膝を折り曲げればやっと横になれるような空間を確保するのである。
酒にすっかり酔っ払って、まだ多少明るさの残るうちからねぐらのなかのシュラーフに身体を横たえ、
風の音を聞きながらうとうとする気分はなんとも言えぬ浮き世離れしたものでまさに仙人の心境をかい
ま見る思いであった。]
雨が降っているが、時刻も正午過ぎなのでここで昼食をすることにする。ビニールシートを細引きひも
で枯れ木やとがった岩の先っぽ、密生した石楠花の木に引っかけて雨しのぎとし、その狭い屋根の下
に三人身を寄せあって弥山小屋で用意してくれた弁当を食べる。このときの写真をあとで見ると、我々
の姿は難民かルンペンの風情そのままに映っていた。
午後一時二十分、七曜岳を出発し、鎖のついた北東部の岩稜の坂を降りる。これはたいしたことはな
く、降りたあと岩稜と樹木に囲われた羊歯類の植物の茂る道を、左右に細かくくねくねと曲がりながら
進んでいく。
多少の登り降りはあるが、大普賢岳までは二百メートルの高度差を登ることになる。
途中、解説書や地図上にも色々名称の記されたところが多い山域だが、標識が無く(それらしきもの
があっても古くて文字なども消えている)、一つ一つ確かめることはできないが、尾根上に噴火口の跡
のようにうがたれている深い窪地などは「鎌ケ淵」、岩壁に固定された鎖を持ってトラバースする屏風
岩は「七曜の屏風横駈け」であろうか。大きな枯れ木の洞の中をくぐり抜けて登る急坂なども多分いず
れかの名称を持った地点だろうと推定される。
中でも「内侍落とし」の地名は異様で、内侍とは昔、宮中に仕えた女性の官職名で、女人禁制の奥駈
に女性を伴っていったりしたのだろうかといぶかしく思う。
昔、修験道が盛んで、修行も掟も厳しかったころ、奥駈の行中、病気や怪我で一行についていけな
くなったものは、谷行(たにこう)といって崖の上から突き落として殺したと言い伝えられているが、前
述の内侍落としの地名などが残っているのは、行者が慰みものとして連れていった女性などがもう動
けなくなったとき、泣く泣く谷底に突き落とした事実などがあったのかしらと想像すると無惨な感じで、
千三百年の修験道の歴史を持つ大峯山の中もずいぶんもの凄い人間の葛藤の歴史があったように
感じられる。
そんなことを妄想しながら歩いていると、あちらの谷、こちらの谷、前後の苔むす地面のなかに、道中
非業の死を遂げたものたちの怨霊が潜んでいるような錯覚さえ起こす。
わたしは大峯山中を一人で歩くことが多く、夜間の一人歩きも何度か経験しており、怖いと思ったこと
はほとんど無いのだが、ただ一度だけ、柏木道の伯母谷覗きの近くで野営したときには並々ならぬ恐
怖に襲われたことがある。
そのときは明るいうちは何とも思わなかったのだが、日の暮れてくるとともに何か得体の知れぬ不気
味な気配というものが周囲から潮が満ちて来るようにひたひたと押し寄せてき、他に二人の仲間(一人
は田端君)が居たのだが彼らも同じ不気味さを感じ、早々とテントの中に入ってしまったのだがその恐
怖感がどうしても追い払われなかったのである。他の二人も同様の思いだったそうで、ほんのわずか
離れた草むらに小用を足しに行くのにも三人連れだって行ったものだが、そのときの恐怖感があまり
にも大きかったので、こんな経験をした後では大峯では一人で野営することができなくなるのではな
いかと心配したが、その後は一度もそんな思いをしたことはなかった。
これは、すぐそばに谷行に絶好の伯母谷覗きの深い谷があり、そのころは谷行のことなど知らなか
ったのだが、今思えば何らかの霊気が漂っていて、我々を脅かしたのかも知れない。
[平田氏にこの話をしたところ、彼も同じような体験をしており、やはり伯母谷覗きのキャンプ地は無気
味な感じがするそうである。
「大峯山脈と其渓谷」にのっていた話だが、山上ケ岳のお花畑の端にある日本岩は昔は山上ケ岳の
墓所といわれたところで、山上の宿坊で死亡した僧はこの崖からカワセ谷に投げ落としたそうである。
大峯は岩盤でできた山なので地面を掘って死体を埋めるわけにもいかず、こんな遺体の処理の仕
方になったのだろう。カワセ谷は山上ケ岳と稲村ケ岳の鞍部レンゲ辻から洞川に通じるレンゲ谷の
支谷だが、こんな話を知ると、とてもこのカワセ谷は遡行する気にはならなくなる。]
このあたり一帯の各ピークを総称して国見岳と呼ぶらしいが、名前とはうらはらにすべて樹木が茂っ
て視界はきかず、印象の薄いまま登り降りを繰り返してミヤコ笹の茂る平坦な尾根に出る。
昨年、田中君や田端君と彼らの友人を誘ってここを通ったとき、その田中君の友人が「日本アルプス
に較べてすかみたいな山だ」と言ってみんなが笑ったことがある。彼はその一月前に田中君と木曽駒
ケ岳に行ってきたところで、山の手強さとかスケールのことを言ったのだろうが、私は黙っていたけれ
ど内心穏やかではなく、我が子をけなされたような気がし、こんな値打ちの判らん連中は二度と大峯に
連れてくるまいと心に誓ったことを思い出す。
もっとも、私は腹を立てるのも早いが、忘れるのも早く、かつ大峯に同行してくれる人はなかなか見つ
かるものではないので、節操の無いことに結局は彼らを拝み倒してその後もたびたび一緒についてき
てもらっているのである。それにしても我が愛する大峯を、言うにことかいて「すかみたいな山」とはあん
まりではなかろうか。
[平成元年秋、長田氏に誘われて初めて中央アルプスの空木岳から南駒ヶ岳、越百山と縦走してきた
のだが、このとき田中君の友人が大峯を「すかみたいな山」と言った気持ちも解るような気がした。
麓の欝蒼とした樹林帯を抜け、明るいダケカンバの林を通り、トウヒ、シラベ、オオシラビソの樹林帯に
至り、そこからハイマツと雪におおわれた高い稜線の尾根が紺碧の青空をバックに延々と連なるのを目
にしたとき、このようなスケールの大きな風景を前にしたら、大峯の景色は確かに見劣りすると私も感じ
たのである。
二千メートルに充たない大峯の山々をこの近辺にもってきても鼻もひっかけてもらえないだろう。山の
高度、山の形の風格、周囲の眺望が所詮勝負にならないのである。
しかしである。中央アルプスから帰ってきた私の大峯に対する愛着はいささかでも衰えたかというと、
断じて否なのである。
このあと大峯に入ったとき、もう中央アルプスのことはきれいに私の頭のなかから消え去り、大峯のこと
のみ考えてしまうのである。これは決して突っ張っているわけではなく、こだわっているわけでもない。自
然とそのようになるのである。白馬岳、奥穂高、針ノ木岳などに行って帰ってきたときもいつもそうなった
のである。これはこの手記の冒頭で述べたように大峯が修験道によって千三百年間人間がかかわずら
ってきた山であり、山域全体が他の山々よりも強い生命体の息吹を感じとれるということが私を引きつけ
るからだと思うのである。]
(続く)