第六日 弥山〜山上ヶ岳 62.5.3 (後編)
笙ノ窟に篭る行者達と大普賢岳
やがて水太覗(みずぶとのぞき)のところに近づくと大普賢岳も眼と鼻の先である。
水太覗きは、水太谷を源頭の崖淵から見下ろすなかなかの眺望のところだが、雨天のためもちろ
ん何も見えない。雨はさほどではないが風が強く吹きだし、ゴーゴーという音が何か心をせき立てる
ようである。
大普賢岳の急坂をゆっくり登りながら、吹く風の強さに、「こんな強い風だと頂上はそうとう吹き荒れ
ているのではないかしら」と田端君が気にしていたが、風は尾根筋、それも鞍部のところが強く、頂
上は比較的弱いものである、と玉岡氏から聞いていたので、そう心配はしなかった。
十五分で頂上着、時刻は午後三時十八分。思ったとおり頂上では風はそう強くなかった。小普賢
岳、日本岳、千五百メートルの無名ピークと、ラクダのこぶのように従属する尾根を従えた大普賢岳
(1779.9m)の姿は大峯でも独特で、北アルプスの前穂高の北尾根に少しその姿が似ている。
このいわゆる笙ノ窟尾根は、大普賢岳から東に派生して台高山系につながり、紀伊半島を南北に
平行に走る大峯山脈と台高山脈が唯一尾根でつながっているところで、新宮から熊野灘に流れこむ
熊野川の上流北山川はこの尾根の南部で消え、和歌山から紀伊水道に流れる紀ノ川の上流吉野川
はこの尾根の北部を大台が原の方へと消えていくという紀伊半島の代表的な二大河川の分水嶺であ
る。
この尾根の名となった笙ノ窟は、頂上から和佐又山スキー場への降路を一時間足らずほどおりた途
中にある巨岩の崖下に穿たれた窟で、古来、修験道の高僧達が多く冬篭もりをした行場として大峯で
も特に有名なところである。
百人一首の中にある「もろともに あはれと思え山桜 花より他に知る人もなし」の歌は、平等院の
僧正行尊が大峯修行のときに詠んだ歌だが、この行尊も笙ノ窟で修行をしており、行尊没後、数十年
たって西行が笙ノ窟を訪れて、行尊のことに心を思いめぐらしたそうで、前登志夫氏の吉野紀行でこの
ことを知った。
[実利行者がここで千日行をされたらしいが、一度も下山せずに間断無しに続けるのはちょっと無理
なように思え、多分何回かに分けてやられたのだと思う。
現代では吉野の喜蔵院の住職、中井教善師と成就院の住職、柳沢真悟師のお二人が百日行をやっ
ておられ、柳沢師の場合はつい昨年(平成元年九月満行)のことで、私も笙ノ窟の中で静かに誦経さ
れているお姿を拝見したことがある。
柳沢真悟師は吉野から山上ケ岳の本堂への千日の日参行をもしたかたで、昭和五十三年から昭
和六十年ごろにかけて吉野の蔵王堂から金峰神社にかけての道で柳沢師の姿を見かけた人は多い
のではないだろうか。
満行の日、多くの人が出迎える蔵王堂にもどって来た柳沢師にテレビ局の取材者が「この行はあな
たにとってどんな意義がありましたか、またどのような心境の変化がありましたか」と、質問したのに対
して同師が困惑したような表情で「自分は、意義とかいったようなものについては考えたこともなかっ
たし、また今こうやって行をなし終えたあとも特に心境が深まったとも思えないし、行の最中もいつも迷
いばかりを感じていた」と答えておられたのがたいへん印象深く残っている。このときの柳沢師の印象
が、後にこの方にまつわる話を見聞したときにいつも理屈抜きに信頼できるものを私に感じさせるのか
もしれない。
中井師については、玉岡氏が行仙宿小屋建設資金の勧進に喜蔵院に伺ったときに私も同行して笙
ノ窟の百日行の様子を直にお聞きしたことがあるが、このような行をやっているときの心境はことばで
説明できるものでは無く、経験したものでないと解り得ない、というようなことを言っておられた。
山で知り合った若き友人の橿原市の堂田弘文氏は、中井師の笙ノ窟篭もりのとき、食料などの物資
を窟のところまで運びあげるアルバイトをハイティーンの時代にやったことがある。
その彼から聞いた話だが、笙ノ窟の篭もり行は毎日、笙ノ窟から山上ケ岳の本堂までの日参行を課
せられているが、途中の奥駈の道などで登山者とも結構出会うらしく、中井師はこのことにずいぶん気
を使われたらしいのである。なぜかと言えば、中井師は元来眼光鋭い精悍な風貌の持ち主なのに、
篭もり行のために体は痩せて頬はこけ、髭は延び放題で眼だけがぎょろぎょろし、身につけているもの
といえば着たきりの薄汚れた白装束にわらじに金剛杖だけの姿なのだが、欝蒼とした山林の中でこん
な風体の人と出会ったら誰だってギョッとするに違い無く、しかも急坂のところで出会ったりすると登って
くる登山者は直前まで気がつかないわけだから、それはのけぞらんばかりに驚くのも無理からぬ話で、
無言の行中の中井師は何かの物音を発して前もって知らせることに苦心されたとのことである。]
[平成二年、林谷諦心氏もこの笙ノ窟で一ヶ月の篭り行をしており、行中に大型の台風が襲来したおり
に、吹く強風によって笙ノ窟がヒューヒューと和楽器の笙の音色に似たもの凄い音をたて、これが笙ノ
窟の名の起こりかと思ったそうである。]
[笙ノ窟に祀ってある仏像は不動明王で鎌倉時代に寄進されたもので台座はその当時のものだそ
うである。
「大峯山脈と其渓谷」には鎌倉二代将軍源頼家の寄進と記してあるが、台座の銘文に「征夷大将軍
右大臣家」とあるのだから、これは頼家の弟の実朝のはずだがと思って調べたら、宮家準氏の「大峯
修験道の研究」(佼成出版社)に源実朝の発願によると記されていた。]
大普賢岳は私がもっとも足繁く訪れた山で、二度の縦走の途中や、柏木道から、あるいは和佐又山
スキー場からの往復など前後十数回にもなるのではないかしら。私にとっては大峯の中でも特に思い
入れの深い山である。
和佐又山スキー場から笙ノ窟、鷲ノ窟、石の鼻の素晴らしい展望台などの岩場を経て、小普賢岳の
急坂を登ってくるコースはたいへん変化に富んでいて何度来ても飽きさせず、ある期間このコースに
御無沙汰すると、そろそろまた行きたいな、という気持ちに駆りたてられる山である。
それは、標高千メートルのスキー場まで車で来られて手軽に登れ、大峯らしさを満喫できることと、
和佐又山山小屋の快適さが大きく影響している。ここの山小屋というよりもヒュッテは、大きくて清潔で、
山菜料理がおいしく、鹿の刺身なども食べられ、木作りの大きな風呂や清潔で暖かい夜具と、実に快
適な山の一夜を保証してくれる。主人である岩本御夫妻も人柄が良く、客の少ないときなどは夜遅くま
でいろいろな山の話を聞かせてくれる。
大普賢岳で八分の休憩後出発する。ここを越えればあとはたいした登りもなく、今日のコースの山も
越えたようなもので、また明日の吉野道はほとんど下り道であるから、全奥駈の山もこのとき越えたこ
とになる。何かにつけ感慨深い大普賢岳の頂であった。
北面の坂を下って和佐又山の分岐を過ぎ、小普賢岳(小普賢岳の名のピークは二つあり、このほう
は奥駈道上にある)のちょっとした突起を登り、樹林のなかの長い坂を降りていく。ここらあたりの鬱蒼
とした原生林のようなたたずまいは、全奥駈道上でも特に素晴らしいもののように思われる。
前述の堂田氏や芦屋の越知真弓さんのように、このあたりのたたずまいに多大な感銘を受けた人は
その後、山にのめりこんでいくタイプが多い。このどちらの方にも大普賢岳で出会ったのである。
もっとも大峯にもいろいろな人がやってくるもので、一度熟年の団体登山の人達とここで出会ったとき、
「あんた、こんな薄気味の悪いところをラジオもつけずによく一人で歩きますなあ」と変人のように言わ
れたことがある。
この小普賢岳の下り斜面の右方向のどこかに役の行者が法華経を納めたという経箱石があるそうだ
が、一度寄ってみたいと思いながらも、何度ここを通ってもなかなか寄れないもので、今回も素通りで
ある。
[昭和六十三年秋、前述の七曜岳で野営した翌日、念願の経箱石を見に行くことができた。
場所は小普賢岳の下り坂がやや緩やかになったところの右手に木の札がたくさん打ち付けられた樹
木があるので、そこからかすかな踏みあとをたどって右手の方角に六、七分ほど行くと急激な坂となり、
木の根っ子をつかんで降りていくと左手の方に行く踏みあとがあり、すぐに経箱石のところに着く。
急傾斜した山腹の一部が高さ二.五メートル横三・五メートルほどの白っぽい滑らかな岩壁になって
いて、その上部のところにレンガの寸法をひとまわり大きくしたような方形の穴がくりぬかれている。
役の行者が法華経を納めたが竜神に持ち去られたという伝説の石である。]
樹林帯の山腹を降りきると、東側が崖谷になった一面に笹の茂る尾根にでる。一部、道が崖そばぎ
りぎりのところを通っており、夜間の歩行は注意が必要である。
天気が良ければ、大普賢岳に連なる尾根の急峻な北面の崖が間近に見られるところである。崖の
下部のところに細く立ち上がった岩峰が見えるが、友人の奥さんが表現したように聖母マリアが祈祷
している後ろ姿のような形をしている。
比較的ゆるやかな下り坂をだらだらと降りていき、大きな岩(この大きな岩の上部に金属製のプレー
トがはめこまれているが、ここで遭難した桜井高校の丸山先生の追悼碑である)のところを右側に回
るとそこが脇ノ宿である。
巨木が立ち並ぶ広い台地で、キャンプサイドに格好の地である。中央の巨木に木の札がいくつも打
ちつけてあるのは各行場でよく見るお馴染みの風景だ。
阿弥陀森の女人結界門
ここで七分休憩し、ここから登りとなって十分足らず行ったところで阿弥陀森の女人結界門に到着す
る。ここから先は女性は入れず、山上ケ岳の女人禁制を守るため、大峯の四ヶ所に設けられた結界
門の一つである。
他は吉野道の五番の関と洞川の大峯大橋を渡った登山口、そして稲村小屋のある山上辻の方角か
ら来る者を止める蓮華辻の結界門で、いずれも番人がいるわけではないが、全国でも唯一のこの女
人禁制は厳然として守られており、これらの域内で女性の姿を見かけたことは一度も無い。
「今の男女平等の世の中にどうしてそんなことが許されているのか」と私の姪が憤然とした口調で言
っていたように、おおむね女性には不評のようで、戦後の間もない頃、米軍占領司令部の許可証を盾
にして一人の男性に率いられた米国婦人一人を含む多数の女性パーティが柏木道を登ってきて、急
を聞いて駆けつけてきた洞川の若い衆たちとすったもんだしたあげく、結局断念して下山していったこ
とも前田良一氏の「大峯山秘録」にのっている。そのとき対決した場所がこの阿弥陀森の結界門から
一キロ以上行ったところにある小笹ノ宿である。
新宮山彦グループにしても、本宮から前鬼までの南部奥駈道の縦走を昨年果たしており、玉岡氏の
意向では、将来、前鬼から吉野までの北部奥駈縦走もやりたいとのことであるが、この女人禁制のた
めに、女性たちをどのようにして連れていくかが大きな悩みの種ではなかろうか。
阿弥陀森の女人結界からノウナシ谷を降りて蓮華辻に上がり、川瀬谷に降りてゲマタ谷から五番の
関に出れば、山上ケ岳を迂回して吉野に向かえるのだが、今のところノウナシ谷は素人のハイカーの
通行できるような沢ではないそうだ。
しかし全国で唯一の女人禁制を守っていることが、全国から毎年大勢の山伏(そのほとんどが別に
職業を持った人たち)がときには家族を連れてやってくる大きな理由になっているようで、女人禁制を
解けば、山上ケ岳の大峯山寺の門前町として成り立っている洞川の町の死活問題にもかかわること
なので、簡単に是非を論ずることはできないと思う。
私は、戸閉め式(九月二十二日)のあとの秋の一定期間だけ、女人禁制を一時的に解くようにして
はどうだろうかと思う。
山が汚れると言う方もいるかも知れないが、仏教の本家本元のお釈迦さまは、女性は修行の妨げ
になるとおっしゃって、最初、女性の出家を認められなかったが、汚れになるとは一言もおっしゃって
いないようで、やがては女性の出家をもお認めになってらっしゃるし、道元禅師は、女性によって男性
が汚れると思うのは間違った考え方で、女によって男が堕落することはあるが、それは女も男によっ
て堕落させられ、お互い様のことであると、正法眼蔵のなかでおっしゃっているそうだ。
この結界門は柏木からの登路との合流点でもあり、柏木道は吉野道と共に古くから栄えた大峯詣で
の道で、吉野道の二十四キロに較べて八キロ(山上ケ岳までは十四キロだが、阿弥陀森からは平坦
な道になる)余りの距離を標高差千三百メートルを登るのだから楽ではなく、初めて柏木から山上ケ
岳を目指したときはたいへん辛かったことを記憶している。
このコースを結界から二十分ほど行ったところにあるワサビ谷を一望に見下ろす伯母谷覗きの景観
は圧倒的で、私は孔雀覗き、七曜岳の岩稜と共に大峯を代表する絶壁からの眺めだと思う。
女人結界を通る人は、天気が良く、時間の余裕があれば、いや無くても是非とも寄り道して欲しい
場所
だ。往復四十分の時間をかけるだけの値打ちはおつりが来るくらいである。
女人結界門に入ってから山上ケ岳までの道中は、どういう訳かひどく印象が薄い。
ここを通るときは、夕暮間近か早朝のときが多いいせいか、それとも道が良く整備されていて平坦な
せいか、とにかく何度も通っているのに、あまり周囲の景色が記憶に残っていないのである。
今回の奥駈で、初日の本宮から葛川辻までのコースは、初めて通ってそれきりなのに何ヵ月たった
今も印象はありありと鮮やかで、これは多分、明るい陽光の下を歩いて気持ちもはずみ、写真もふん
だんに写して、しょっちゅうそれらの写真を眺めて記憶を新たにしているからだろう。
田中君との宗教論争
道もよく踏まれていて歩きやすく、雨もようやく止み、山上ケ岳も射程距離に入ったという安堵感か
ら我々も多弁になってき、和気あいあいと談笑しているうちに、田中君が「伝教大師ほど頭の良い天
才はいなかった」と言い出したことから話はおかしくなりだし、それから田中君と私の大論争が始まる
のである。
私は最初、弘法大師の言い間違いではなかろうかと思って聞き返したのだが、そうでは無く、しか
も彼は弘法大師のことをずいぶん悪し様にけなすのである。
彼の属する宗教団体、創価学会は日蓮正宗を奉じ、祖師日蓮上人が天台宗から出たことからその
祖師伝教大師を崇め、教学上の立場からも念仏無間、禅天魔、真言亡国と他宗を激しく排撃しており、
真言宗の開祖空海を否定する気持ちも解らないでは無い。しかし、宗教人としての両者の比較論議
はともかく置くとして、人間の持つ様々な能力の優劣といったものの比較では、空海のほうが優れて
いるのではないだろうか。
二人だけの比較でなく、世界の歴史上の人物のなかでも、弘法大師ほど種々の、それも各領域に
おいて図抜けた天才的とも言える能力を発揮した人は類が無く、よくレオナルド・ダビンチに比肩され
るが、スケールがまるで違うように私には思われる。
なにしろ宗教家としても際立って偉大な存在なのに、芸術家としても三筆の一人に数えられるくらい
書画にすぐれ、学者としても天才的な語学力、記憶力、洞察力の持ち主で、彼の書いた三教指帰
(さんごうしいき)という書物は、道教、儒教、仏教を比較論議して仏教が優れていることを証し、彼が
仏道を志す決意をのべた戯曲形式の書だが、私は現代語訳しか読めないが、原文は四六駢儷体
(しろくべんれいたい)といって当時、唐の時代に広く流行した修辞性の強く、格調高いスタイルの漢
文で書かれているそうである。
その中で引用されている詩句、語句は厖大な中国の史書、文学書に広く通じていなければとうて
い書けず、しかもこれが入唐前の、国内でしか勉強できなかった二十四才の青年の作なのである。
他にもこれによく似た、空海の天才性を伝える話はいくらでもある。
創価学会の人たちが自分らの信仰を他に教え広めていくのはまったくの自由だけれど、内部の論理
一点張りばかりで客観的事実も確かめず、他宗派や他の祖師を誹謗して論議しても、それは外部の
人間を説得することはできない、と批判した私の言葉に、「それなら何が客観的事実といえるのか」と
いう彼の反論に対して私は、司馬遼太郎、梅原猛その他の色々な立場にある学者・文学者、あらゆる
宗派の僧侶らの空海と最澄論を読めば、ある程度すべての人に共通した最澄観と空海観が見えてく
るはずで、それが少なくとも創価学会内部だけで教えられていることよりもずっと客観的事実に近い
のではないか、と声高に論じているうちに、いつのまにか我々は小笹ノ宿にたどりついた。
小笹ノ宿は、大峯でも数少ない稜線上に水場のある地で、多くのテントが張ってあったが、夕方の
静寂のなか、突然襲来したこの宗派論争にも似た騒ぎに、テント内の登山者達は、どこの坊主どもが
やってきたのだろうと思ったことだろう。
田端君はうんざりした様子で見守るだけで、田中君もやがて口を閉ざしてしまって我々の議論も止ん
だ。
私は、仏教者としての最澄と空海の優劣を論じたのでは無く、あくまで人間のもつ能力といった見地
から述べたに過ぎないのであって、この二人の偉大なる高僧の価値などは、我々凡人の論じられる
ものでは無いと思っている。
この大峯の修験道も、天台系(本山派)と真言系(当山派)の二つの派があって、どちらもうまく協調
してやっているようである。
ただ仏教の宗教改革ともいえる鎌倉仏教のすべての祖師、つまり法燃、栄西、道元、親鸞、日蓮な
どはみな、最澄の天台系から出ているのは興味深いことだが、このために、空海より最澄の方が偉い
のだという論法はまったくの的はずれの解釈で、これは二人の偉大な祖師が、ともに中国から持ち帰
ってきた天台思想と密教の教学的な違いが大きく影響しているためだと思う。
それに最澄は、中国に渡ったとき、主に天台法華学を学ばれたのだが、他にも密教や禅、戒律など、
あまり表現は適切ではないが、手当たり次第にいろいろな経典や論書を持ち帰り、帰国後、比叡山に
天台宗を開かれたのちも敵対する奈良六宗との論争に明け暮れて、これら中国から持ち帰った経典
や論書の研究もろくすっぽできぬまま世を去られたのである。
その後、弟子や孫弟子たちが各分野の専門的な研究を深めていってやがて花開いたのが鎌倉仏
教なのだと思う。
その点、弘法大師空海は、高野山というとんでもない辺鄙なところに引き篭もられて、密教の研究と
修行に打ち込まれ、もって生まれた天才的な諸能力を駆使して、真言密教を完璧なまでに集大成化し、
以後、余人の新たに研究する余地をほとんど無くしてしまったため、高野山からは以後、新しい宗派の
祖師が出なかったのではないだろうか。
宮家準氏の「修験道」によると、小笹ノ宿は、深仙ノ宿と同じく、昔は山上ケ岳よりも重要な聖地とし
て賑わった宿所であったらしく、深仙が本山派の重要な霊場であれば、小笹は当山派の峰中最大の
霊場とされていた。
上田秋成の「み嶽そうじ」という秋成自身の大峯詣での紀行文にも、この小笹ノ宿のにぎわいぶりが
生き生きと記されているが、狭い宿坊でおしあいへしあいして一夜を過ごし、泊まり客の所持品がどこ
かに紛れ込んで大騒ぎをするという昔も今も変わらぬ山のねぐらの状況をよく伝えている。
現在でもこの地の石仏、建立塔、板碑等の造築物は、他所にみられぬほど数が多い。
ここを出発したのが午後五時十八分。一路山上ケ岳を目指す。コースタイムからみても暗くなる前に
着くことができるだろう。
三人とも比較的元気良く、よく踏まれた道をリズムよく進んでいく。途中の景色もあまり心に残らず、
心は早、宿坊の暖かい風呂に馳せている。
四十分ほど歩いてちょっとした坂を登りきると、大峯山寺の本堂前の広場に出た。時計はちょうど午
後六時を指していた。
誰もいないたそがれどきのガスの漂う薄闇のなかに、広場のいくつかの灯篭の明かりが、ぼやっとし
た柔らかい光を発して幻想的な風景を作り出している。たいへん美しく静かな雰囲気で、大峯詣での
終着にふさわしい情景を作ってくれたものだと感謝の気持ちが湧いてくる。
ついに到達したのだ。
吉野、洞川、柏木、前鬼といくつかある大峯詣での出発点のなかでも、一際遠い熊野の本宮から五日
間、山道を駆けてこの大峯山寺にたどり着いたのである。
昭和の大修理を終えて姿を現わした本堂の戸は閉まっていたので、お参りは翌日にすることにし、合
掌だけして宿坊に向かう。
山上ケ岳の宿坊は、洞川の竜泉寺と吉野の四つの寺(東南院、桜本坊、喜蔵院、竹林院)の宿坊が
あるが、定宿にしている竜泉寺に予約しているのでそちらに行く。
宿坊について投宿手続きを済ませて、指定された部屋に荷物を置きに行くとさっそく、田中、田端両
君に入浴を進め、私は宿坊の公衆電話から新宮の玉岡氏、山上氏、それに寝屋川の我が家、奥駈の
縦走の無事を祈ってくれている福岡の父母と、順次電話を入れる。
玉岡氏は弾んだ声で「山上ケ岳まで行けば九割方成功したようなもの。おめでとう」と祝いの言葉を
言われて、ご褒美だといわんばかりに「あすは良い天気になりますよ」と力強く付け加えてくれ、山上氏
は北アルプスに出掛けていて留守で、奥様が「まあ、無事に着かれましたか、おめでとうございます」と
言われた。ご両人の声色から大峯奥駈の意義をよく承知のうえで喜んでくださる気持ちが伝わってき、
私もこの時初めて心のなかに熱い感動と喜びの気持ちが湧き上がってきたのである。
寝屋川の我が家は留守だったので、福岡の母に伝言を頼んだ。母はあまり心配していなかったと言
ってくれたが、後で聞くところによると、私の縦走中、父母はずいぶん心配したそうで、本当で無いこと
を言うなと、母は父に叱られたそうである。
それらの連絡を済ませて待望の風呂に入ると、狭い風呂のなかは田中君と田端君だけで、湯も前回
のときよりもきれいで、五衛門風呂の中にどっぷりとつかると、もう極楽以外の何物でもない。本宮の旅
館で入浴して以来五日ぶりなのだから並みの入浴とは快感の度合いがまるで違う。本当に日常のなん
でもない習慣が、山上ではなんとめりはりのきいた喜びにあふれたものと化すことであろう。
入浴後、不動明王の祭られた大きな祭壇のある食堂で夕食をとる。ビールで乾杯し、私は日本酒を注
文する。宿坊の食事は、動物性蛋白質無しの精進料理であるが、たいへんおいしくいただく。
明日の吉野までの距離は長いが、平坦な下り一方の楽な道で、蛇腹の岩場を過ぎれば神経を使う箇
所もなく、そういったことから、もう奥駈の山は越してしまったという安心感が我々の気持ちを和やかに
するのか、三人とも食事のあと部屋に戻っても何かはしゃいだ気分が支配し、田中君が押入の中にあ
る古ぼけた行李をひっぱり出してきて、その中の古い着物などを取り出して我々にも着るように促し、
三人で記念写真を写したりして旅篭に泊まる昔の旅人のような雰囲気を楽しんだ。
夜が更けてくるにつれて冷込みが厳しくなり、窓が一ヶ所、ガラス戸がなくて雨戸だけというところが
あって、寒気がどんどん室内に入ってくるようで寒さが我慢しきれなくなり、眠くはなかったが、それぞれ
シュラーフをとりだしてその中にもぐりこんで語りあい、やがていつのまにか眠ってしまう。
(続く)