第六日目  山上ケ岳〜吉野  62.5.4(前編)

白銀におおわれた女人禁制の山
 朝、目が醒めたとき、張りつめたような冷気を感じた。まるで空気が凍りついたようである。
 夜中に一度手洗いに起きたときもたいへんな冷えこみを感じ、私の極寒用のシュラーフでも寒いの
で夜具を一枚重ねたくらいなのだが、外に出たとき、一瞬にしてその冷え込みが納得できた。宿坊の
前の樹林や地面に生える草木が霧氷で真っ白なのである。
 便所と宿坊の隙間から崖渕に行ってみると、谷のまわりの山々もすべて霧氷で真っ白になって雪
山のようである。


 すっかり興奮した私は、田中君らを呼びに行き、カメラを持って宿坊のまわりの霧氷を見てまわる。
どこもかしこも白く、宿坊の建物が無ければクリスマスカードの挿絵のようである。


 有頂天になった我々は、この様子から想像される頂上の見晴らしの素晴らしさに心を馳せ、早いと
こ身仕度をして頂上に行こうではないかということになって、宿坊に戻り、朝食を済ませて荷造りをし、
ザックは宿坊に置いて頂上に向かう。


 頂上のお花畑の霧氷の有様と前面の山々の景色は素晴らしいものであった。弥山の頂上が粉をふ
りかけたようにうっすらと白くなっており、目の前の稲村ケ岳、大日山は全体的に白く、晴れた陽光を
いっぱいに受けて輝くように美しい。


 何回カメラのシャッターを押したことだろうか。奥駈最終日にこんな素晴らしい自然の贈り物を受けよ
うとは思いもしなかったので、ただただ感謝の念しか心にはなかった。


 思えばきょうまでの五日間、快晴のなかを本宮を出発し、玉置山で経験したことも無いような大雲海
にめぐりあい、途中、三日間は雨に降られたが、最終日は再び快晴の下、霧氷の演じる美に出会うこ
のなりゆきに、音楽における緩急、デッサンにおける明暗、舞踊における静と動のごとく、我々の奥駈
を何か人の力を越えた天の意志とでも言うべきものが演出しているように思えてならない、つまり、私
の大峯に対する執着とも言える愛情に大峯の霊が応えてくれたように思えてならないのである。


 大修理が終わった本堂に参詣し、きょうまでの無事を感謝し、残る吉野までの道中の安全を祈る。


 四年前、初めてここを訪れたときにすでに大修理に入っていて、本堂はおおいに隠されていたので、
以後何度も来ているのだが、内部を見るのは今回が初めてである。千七百メートルの山の頂上にあ
るとは思えぬほど立派ながっしりした造りの本堂で、日本一高いところにある国の重要文化財だそう
である。


 再び宿坊に戻り、ザックを背負って、午前八時二十二分出発する。山上詣でを記念した全国各地の
講の板碑がずらっと立ち並ぶ広い平坦な道をどんどん行く。
 やがて左手、樹木のまばらに繁るところに、西の覗の小高い岩稜が見えてくる。 西の覗きの行とし
て、テレビや写真週刊誌に盛んに取り上げられて、広く世間に知れわたっている有名な行場である。
 太いロープで体を確保してもらい、二人の行者に左右の足を持ってもらい、谷の方に傾斜した小さな
滑り台のような岩の上をずるずると滑らされて、身体のへその下のところまで絶壁の谷間にさらし、先
達の詰問に答えるのだ。私も一度やったことがあるが、この時のすさまじい恐怖感は、やったものでな
いと絶対に解らない。
 「親孝行するか!奥さんを泣かさないか!」と先達は気楽に怒鳴るが、吊された方は必死の思いで、
「はい!」と答える声は悲鳴に近く、私などは「はい、解りました、もういたしません!」と、まるで女房を
泣かしたかのように言わんでもいいことまで叫んでしまったものである。
 しかも最後に駄目を押すようにロープをふわっと緩めるので、体が谷のほうに向かってずるっと滑り、
このときほとんどの人が「わあー」と悲鳴をあげる。
 私の息子も奥駈のとき、これをやるのを楽しみにしていたのだが、ロープをつけて勇んで崖の先っち
ょに行って谷をのぞきこんだとたん、金縛りにあったように動けなくなり、とうとう行を拒否する始末で、
また、私の友人のこういったことが比較的苦手な男は、引っ張りあげられたとき、よだれを垂らして眼
はとろーんとし、失神一歩手前の状態だったそうである。笠捨山のところで触れたオペレーションロー
リー一行の英国人の青年も、この行をやったときに「私の人生で最悪の経験だった」とコメントしていた
のをテレビで見て私も心から共感したものである。
 今回、我々はここに立ち寄らずに行く。ここを過ぎてすぐのところの左手の谷に鷹の巣という垂直に
屹立した二つの岩峰が見える。どちらも頂きに樹木がちょぼちょぼと生え、南側は断崖絶壁の、いかに
も山水画そのままの風景で、手前の霧氷におおわれた樹木越しに見る対比の美しさは見事なもので
あった。


 [「大峯山脈と其渓谷」にはこの岩峰のことを鷲ノ岩、蛙岩と呼んで昔の西の覗きであったことを記し
ている。「古此処にて覗かせしに諸人多く死したる事三百人に余るを以て、此覗きをやめ今の覗きに替
えたり(吉野群山記)」だそうである。]
 やがて鐘掛岩の行場に来て、日も高くなってきてだいぶ暖かくなり、足場もよいのでここでコーヒータ
イムをとることにし、通路から少しはずれた平坦な岩場でザックを降ろす。


 田中君がコーヒーの用意をしている間に、田端君と鐘掛岩に登ってくる。鐘掛岩は十メートルの高さ
の巨岩で、本当は、垂直に近い壁面を先達の指示にしたがってよじ登っていくのであるが、我々は裏
手のハシゴを簡単に登っていく。
 岩の上の見晴らしは良く、南部に山上ケ岳と大日山、西の方向に洞川の町、北西に大天井岳と四寸
岩山の吉野道の尾根が見渡せ、このときは雲がかかっていて見えなかったが、北東部には、台高山
系の名峰、白鬚岳が見えるのである。


 田中君の沸かすコーヒーの香りがあたりに広がるのか、行きかう行者や登山者が羨ましそうに(?)
視線を投げかける。
 明るい青空の下で白く輝く霧氷の木々に囲まれていただくコーヒーとクッキーのおいしさは格別である。
天気が良いとこうも人間の心は浮き浮きするものであろうか。田中君は昨日とは打って変わって陽気
で、はしゃいで話が弾む。


 ちょっと長居しすぎて、さあ出発しなければと荷造りしているところに、プロの写真家のようなカメラマ
ンスタイルの登山家がやってきて挨拶をかわしたことから、この人との話が弾むのである。五十歳前
ぐらいの物腰のていねいな人で、なんと先達クラスの山伏だとのこと。大峯には何十回と来ているそ
うで、まったく外見からは想像もつかないが、加藤さんといって、大阪の南でスナックを経営していると
かで、大峯の色々な話をしてくれる。
 なかでも三大魔窟のことは初耳で、竜ケ岳の北面の阿古滝そばのメノウの窟と明星ケ岳西の菊の
窟、あとひとつは残念ながら忘れてしまったが、そのうちのメノウ窟(多分、宝石の瑪瑙という漢字をあ
てるのだと思う)は、そこへの探索を何度試みても事故や怪我などの支障で現場まで行くことができ
ないというミステリアスな話は興味深かった。私だったらそんな不吉なところには近づかないがと内心
思いもしたけれど。
 店にも来て欲しいと名刺をいただいたが、いつか行くと約束しながら未だ果たせずにいる。
 一時間もの大休止になってしまったので、我々は先に出発して洞辻に向かう。
 鐘掛岩の横から木の階段がいくつも重なって険しい崖坂を降りていく。この階段はつなぎ目のところ
で右に左にと屈折しているのでよいが、一直線につながっていて下まで見通せたら、かなりの恐怖感
を味わうのではなかろうか。
 洞辻茶屋に着いたのは十時二十分。山上ケ岳を出発してもう二時間も費やしているのだ。ちょっとゆ
っくりし過ぎだが、吉野の金峰神社に明るいうちに着けば、あとは吉野の町まで車道になっており、夜
間の歩行に何の危険も無いので、我々もあまり焦ることなく、この洞辻茶屋で名物のうどんと葛湯を注
文する。


 洞辻茶屋の葛湯は有名だが、ここの細身のうどんもたいへんおいしく、ここを通るときはいつも必ずこ
のうどんを注文している。 
 私を初めて本格的な吉野からの縦走に連れていってくれた篠原氏は、毎年五月の連休に、三人の
息子や親類の子、はては近所の子など七人前後の少年を引き連れて吉野から長駆、山上ケ岳を目
指すのを年中行事としているが、この先の五番の関を過ぎてからの急登で苦難を強いられる少年達
を叱咤激励するのに、「洞辻茶屋のうどんが待っているぞ」と言って励ますのだ。
 また少年達もこのうどんが楽しみで、大峯詣でにも力が入ると言っており、私の長男も去年、雨の中
をここにたどりついて、冷えた体に熱いうどんを食べたときのおいしさは忘れがたかったようで、後々
語りぐさにしていた。
 「今朝のような強い寒風に吹きつけられて、枝の片側だけについた霧氷は、二十年この小屋をやっ
ているが初めて見た」と小屋の主人が山伏と話しているのを聞いて、記録的な玉置山の雲海と共に
類い稀な状況でこの両者を見ることのできた私の好運を改めて思った。
 洞辻は文字どおり洞川と吉野の分岐で、大多数の山伏、登山者は洞川から登ってき、洞川へと降り
ていく。
 洞川道の夏の混雑ぶりはたいへんなもので、道中登る者と降りる者とがすれ違うとき、「よう、お参り」
と声を掛け合う慣習があるが、あんまり人が多いといちいち声をかけるのも煩わしくなるくらいである。
 十時三十五分洞辻を出発する。ここからの、多少の起伏はあるがおおむね水平道の続く尾根道の
歩行は快適で、両側にまばらに立つ樹木の霧氷が陽光に輝いて美しく、ときおり解けた霧氷がばらば
らと落ちてき、それがまた陽光によってキラキラと輝き、まことにもって素晴らしい演出をしてくれるもの
だ。
 東側はあまり視界がきかないが、西側は左手の山の中腹に洞川道が見え、谷を挟んだ右手には大
天井岳(1438.7m )の尖った山容が望める。大天井の手前の鞍部が、これから目指す吉野道の女人
結界のある五番関である。
 やがて東側にも展望の望めるところに来て、大木の間から台形の形をした山上ケ岳の迫力ある姿が
見える。


 山上ケ岳は、このあたりから見る姿がいちばん立派である。未だに頂上あたりは真っ白である。多勢
の参詣者で混雑するので何かと敬遠しがちな山だが、やはり、見事な山容の現代の大峯の盟主たる
にふさわしい山である。
 やがて吉野道唯一の岩場である蛇腹に到着。
 蛇腹とは、岩の形状が蛇の腹のように縞模様の節理状をなしている岩場のことらしく、大峯には他に
もこういった地名のところがある。
 岩場そのものはそう通行の難しいところではないが、岩場の通路が右に曲がっているところがあり、
上のほうで滑り落ちていったらそのまま真っすぐに谷間に落ちそうで、きょうのように分厚い霜がシャー
ベット状になって岩にこびりついて滑りやすいときは緊張する。
 下から登ってくるスキーのストックを持った初老の登山者をやり過ごして、まず私が降り、安全地点で
田端君、田中君と降りてくるのを見守る。
 一人のときにはそんなに怖いところとは思わなかったが、仲間がいる今回は何か神経過敏になった。
人間って、自分自身のことは大丈夫と思っても、他人の仕草は何か危なっかしく見えて心配するもの
とみえる。ここは登りより下りのほうが緊張するようだ。
 ここを過ぎれば、もう吉野まで危険箇所は皆無といってよく、ほとんど水平道の今宿までの道を鼻歌
まじりに歩を進めていく。
 今宿跡は、何度もここを通りながら、いつもその地点を確認せずに通過してしまい、今回も注意してい
たのにいつのまにか通りすぎたようで、下り坂になったときに初めてそのことに気がつく。このあたりで
中学生ぐらいの子を連れた親子連れが追いついてき、追い越していく。
 
大天井岳の巻道で旧知に出会う
 道は小天井の尾根から東側にはずれて山腹を下りていき、鍋かつぎ行者の祠のそばを通るころに
は次第に平坦になってきて、やがて大天井との鞍部の五番の関に着く。広くは無いが野営にも良い
平坦なところで、女人結界門が建っている。
 この分岐を左へとれば洞川に、正面は大天井への登路で、昔の吉野道はこの大天井の頂上を越
えていったらしく、「大峯山秘録」の本の表紙にのっている大峯の古絵図に道がそのように描かれて
いる。現在の吉野道は、右側の樹木の繁る中に下りていく。
 そして十分ほど下っていったところで少年達のざわめく声が聞こえてき、やがて前方の坂道がカーブ
しているところから、中学生から高校生ぐらいの少年の一団が姿を現わした。
 道を譲るために脇によって彼らの登ってくるのをながめているときに、見たことのある顔がいるなと思
った瞬間、なんと知人の篠原氏の息子さんだと気がつき、びっくりして声をかけると彼もすぐに私に気
がつき、帽子を取って挨拶をした。
 三年前、私もこの少年達のグループに混じって初めて吉野から山上ケ岳に行ったのである。
 「お父さんは?」と聞くと、後から来ているとの答えに、なんとまあ奇遇なことよ、と思いながら待つこ
とわずかにして列の一番最後に篠原氏が姿を現わした。「おや、まあこれは妙なところでお会いするも
のだな」と満面、笑みを浮かべながら帽子を取り、少年達に「休憩」と号令をかけて一同そこに腰掛ける。


 篠原氏とは長いこと会っていなかったので、今回の奥駈のことは話していなかったのだが、考えてみ
れば、五月の連休の吉野からの大峯登山は彼らの恒例の行事なので、道は一本道だし、彼らは途中、
百丁茶屋で一泊するので吉野道を二日にわたって歩行するため、出会う確率は十分に高かったので
ある。しかし、私の頭の中には、そのような可能性についてはほとんど考えてもいなかったので、実に
驚くべきことのように思えた。
 彼の三人の子息と二人の甥に友人らも加わっていて十人の大人数で、仕事もたいへん忙しい身な
のに篠原氏もよくやるものだと感心する。
 今ではご子息達が大きくなって十五キロや二十キロぐらいの荷物を平気で担ぐので篠原氏も随分
楽になっただろうが、私が参加したときは、末の息子さんが体調を崩し、その十キロのザックもあわせ
て三十数キロの荷物を篠原氏が担いでいったのだが、さすがに辛そうであったことが印象深く今でも
覚えている。
 私が熊野から出発したことを話すと、彼も若い頃、まだ道の整備されていなかったときに十日間ほ
どかけて一人で縦走した経験を持っているので、驚いた様子だが、新宮山彦グループの手によって
立派な道ができたこと、グループの人達の補佐で、水と食料その外をサポートしてもらったことを話す
と、なるほどと納得したようにうなずいていた。
 三年前、彼によって初めて本格的な大峯登山を教えてもらい、その後私はこの大峯の魅力にのめ
り込んでいき、二十数回と大峯の山々に入り浸ってついに奥駈の縦走をやるまでにいたったが、彼は
十年来毎年のごとく吉野から山上ケ岳への登山を墨守している。少しでも多くの少年達に山登りの良
さを教えようとして、安全性を考慮して同じルートを飽くことなく登り続ける彼に敬意を感じる。
 霧氷のことを話すと、彼らもそれらを下のほうから望見していて、てっきり、まだ桜の花が残っている
と思っていたそうで、こういうことには人一倍目の無い篠原氏は、それなら霧氷が消えないうちにと、一
同をうながし、近いうちに再会を約束して早々と出立していった。
 涸れることが多い第一の沢を過ぎ、第二の水量の多い沢のところに着いたのが十二時五十分。この
大天井岳から湧いて流れてくる水は涸れることが無いらしく、先ほどの篠原氏一行も百丁茶屋で野営
するとき、往復一時間もかけてここまで水を取りに来るのを常としている。
 ここで昼食にすることにし、宿坊で用意してくれた弁当を食べる。
 樹木の繁る山腹に深く食い込んだ沢だが、ちょうど日の差し込む方向に面していて明るく、気持ちは
よい。


 食後もゆっくり休憩を取り、午後一時三十分にここを出発する。
 ここからしばらくは登りで、杉の大木の植林された山腹の道を登っていく。
 登りつめたところから今度は丈の低い雑木林の中を、わずかな坂を上がったり下りたりしながら水平
に行き、わりかし急な下り坂をどんどん降りていくと、尾根の線と交わるようになった四寸岩山との鞍
部の直前のところに位置する百丁茶屋跡に出る。
 尾根の上といっても道の両側は背丈以上の雑木が繁茂し、視界はあまりきかない。ちょっとした広
さがあり、数年前までは小屋の建物の残骸が辛うじて建ったまま残っていたそうだが、三年前に初め
て来たときはすでに倒壊したあとで、その後、焚火のまき代わりに使われるのだろう、残骸も三年前
に比べて著しく減っていた。

四寸岩山
 ここを出発して、両側を丈の高い笹や立ち木におおわれてよく踏まれた水平道をどんどん進んでいく。
 この百丁茶屋から四寸岩山分岐までの間に、どこか東の方角に開けたところがあり、白鬚岳が見え
るはずだが、と思って、常に注意して歩いたのだが、とうとうそれらしきところに出くわさないままに四寸
岩山分岐に着いてしまう。
 昔は、この大きな四寸岩山(1235.6m) の頂上を越えて奥駈道は吉野に至るのだが、現在は山の西
側を延々と巻いていくので登降の無い楽な道中となっている。
 つまり、奥駈道は、大天井、四寸岩山と南北に長く延びて連なる二つの山の山腹を、百丁茶屋の鞍
部を境に前者は東側、後者は西側を巻いているわけで、これがもし、昔のように忠実に尾根を伝って
いくのなら、二十四キロもの道程のある吉野道は決して楽な行程ではない。
 [序のところで記したように、吉野蔵王堂の修行僧や関係者の方達の奉仕活動によって、吉野道は
全道、古道が再興され、現在、奥駈道は大天井岳、四寸岩山の尾根上を通っている。]
 四寸岩山の名は、山頂近くの登路に二つの岩が四寸の隙間を残して対峙していることからついた名
で、奥駈前の三月にこの頂上へ登ったとき、たしかにそれらしき岩を見つけたが、想像していたような
大きなものではなく、庭石のような可愛らしいものであった。
 四寸岩山の頂上は立ち木がおおっていて視界はあまりきかないが、自然のままの林で明るく気持ち
のよいところである。
 それにしても、この四寸岩山の巻き道に入ってしまうと、物理的にも山の影になって東側の景色が
見えなくなり、白鬚岳が見えるはずはないわけで、私は、三年前この吉野道を通ったとき、いったいど
こで白鬚岳を見たのだろうかと不思議に思ってしまうのである。
 三年前、つまり篠原氏一行に参加して初めて吉野道を通ったとき、このコースのどこからか東方に
白鬚岳らしき山を見たときの印象はまことに忘れ難きものがあり、写真は無いのだがその時の景色は
脳裏の内に深く刻みこまれている。
 白鬚岳は、京大名誉教授で生態・人類学の学者として文化勲章を受け、また著名な登山家でもある
今西錦司博士が千五百回目登山の記念すべき山に選んで、一昨年の十一月三日に登った山で、この
時の模様をテレビや新聞などが報道したため、急速に多くの登山者が訪れるようになり、我が友、田中
君もこの時はすぐに電話してき、「おい、もりさんよ、大峯ばかり行かんと、今度は白鬚岳に行こうよ」と
言ってきたものである。
 彼に言われるまでもなく、この白鬚岳は、前述のように遠望して印象深い思い出もあるので、かねが
ね行ってみたいと思っていた山なのだが、登山路がいまひとつ明確でない様子が解説書に記されてい
ることから、なかなか実行に移しかねていた。
しかし、この今西博士の記念登山のおかげで、かねて博士と親交の深かった玉岡氏が山彦ぐるーぷを
率いて、調査も含めると延べ六日間にわたってこの白鬚岳北方尾根に新しいルートを整備し、誰もが
道に迷わずに行けるような山としたため、私たちも田中君の電話からそう日にちをおかずして白鬚登山
を果たすことができたのである。
 この新宮山彦グループの六日間の登山路作りの記録文はたいへん興味深く、銭勘定抜きで手弁当
で集まってきた民間人の力がどんなに大きいものであるかを思い知らされるもので、山を愛する人々の
活動の貴重な記録として、山と渓谷などの雑誌に掲載されて広く世の登山家に知ってほしい記録文で
ある。
 今回の奥駈で玉置山頂で野営したときの大型ドーム式テントは、第二回今西賞として、今西博士から
新宮山彦グループに送られたものである。
 奥駈後の今年九月、田中、田端、横田、その他一名の各氏と共に、念願の白鬚岳山頂を踏み、頂上
で野営したが、素晴らしいの一言につきる、玉岡氏いわゆる大峯・台高山系の大関クラスの山であった。
 特に、柏木から伯母谷覗きに至る大峯の枝尾根の立体的なながめは感銘深く、山というものは眺める
角度を変えると、こうも様々な美しさを新たに見せてくれるものかと思ったものである。
 百丁茶屋から新茶屋までのコースタイムが一時間となっているので、次の休憩地は新茶屋と決めて、
なだらかな水平道に近い下りなのでかなりピッチをあげて歩く。
 このあたりの歩行は、街中を大股で急ぎ足で歩くのと何ら変わりなく、ずいぶん時間を稼いでいるつも
りなのだが、なかなか新茶屋跡に着かず、途中十分ほど休憩して、山腹のひだをぬうようにうねうねと
続く水平道をうんざりするほど歩いたすえ、薄暗い林のなかの新茶屋跡に着いたのは一時間四十分後
のことであった。
 あまりの時間のかかりすぎに、もう一度地図を確かめてみると、地図には上り(山上ケ岳に向かって)
一時間三十分、下りは一時間と記入してあるが、百丁茶屋と新茶屋の間はほとんど高度差の無い水平
道で、上り下りのコースタイムにそんな差があるわけがなく、これは明らかに作者か印刷のミスである。
 ここでは休憩せずに、十五分ほど行った山腹が細く張りだしていて、道がヘアピン状にカーブする見晴
らしのよいところで休憩する。
(続く)