第六日目 山上ケ岳〜吉野 62.5.4(後編)
源平時代の武将への想い
ここから百貝岳から青根ケ峰にかけての大峯前衛の山々が見わたせるが、六日間、数々の大峯の名
峰を眺めてきた目には、これらの高度の低く、植林にびっしりおおわれた山はさすがに見劣りがし、さほど
感激しない。これらもわが愛する大峯の一部なのだから、このような目で見たくないのだが、心の受ける
感動というものはどうしようもない。
仏教における無我という言葉の中には「我がもので無し」といって、わが心の動きでさえ意志のままに
ならぬのにそれを我がものと言えるか、といった意味合いも含まれているそうだが、人間の好き嫌い、喜
怒哀楽の感情は意志の力の外に生起するものだと思う。
それにしても、大森山、笠捨山、山上ケ岳の見事さが今さらのように思い出される。高度だけの問題で
はなく、山のたたずまいの有様も大きく関係しているのだろう。同じような高度でも、斧山(よきやま)、小
原峰などのように、低いながらも切り立った山容で魅力的なたたずまいを見せる山々が熊野には多かっ
たことを思い出す。
大峯山系ではないが、二月に玉岡氏に連れていってもらった和気の森山も八百メートルの高度だが、
熊野川河床からそそりたつように険しくそびえ、しかも谷間が深く刻みこまれた彫りの深い山容は実に印
象深いもので、紀南の地でなく、大阪、京都の近くに存在しておれば間違いなく京阪神の岳人、趣味人の
間で名高い山となっただろうと思う。
しかし、私も大峯の山々を日本アルプスの山々と比較して優劣を云々されると実に嫌な気持ちになるの
だから、これら私にとって身内同様の大峯の前衛の山々をけなすことは決してしてはなるまい。
五十丁茶屋を過ぎ、四寸岩山頂上からの道と合流する足摺り茶屋を過ぎ、やがて吉野の入り口とも
言えるカクレ平に到着する。
カクレ平がどのあたりを指すのか不明だが、源義経の一行が鎌倉の追求を逃れて落ち延びてきた
吉野の地である、地名から察するに、義経たちが一時期隠れ住んでいたところかもしれない。
鎌倉幕府の公記録とも言える吾妻鏡によれば、有名な静御前が蔵王堂で捕らえられたことから義
経主従が吉野に隠れ潜んでいることがわかったわけだが、以後、奥州の平泉に姿を現わすまで義経
の確実な消息といったものは全くつかめなかったそうである。
義経主従の山伏姿が巧妙であったことや、幕府の厳しい追求にもかかわらず、吉野から平泉までの
長い道中、行く先々で多くの人の助けを受けたに違いなく、当時でも義経に対する民衆の同情がいか
に強かったかが想像される。
親子兄弟一族間同志の争いや殺しあいが極端に多い源氏に較べて、私は平家一族の武将のほう
にはるかに親近感を抱くけれども、この源義経については、幼い頃からの敬愛の念は少しも変わらな
い。日本の歴史上の人物のなかでもひときわ私の日本人としての心のふるさととなる存在で、源義経
という名を思い浮かべるだけでも心の中が波立つのである。俗に言う判官びいきなのだろう、理屈抜
きなのである。
他の源氏の武将として度合いは随分と違うが、木曽義仲も好きで、この二人の、源平の争いの中で
の数奇な生い立ちと目覚ましい活躍、そして急激なる身の破滅が私らの心に大きな感銘を与えるの
だろうが、なんといってもこの二人の周囲の者に対する熱い情愛が私の心をとらえて離さない。
鎌倉から派遣された義経、範頼の軍勢との合戦に破れ、我が運命もはやこれまでと悟った義仲が、
こうなると解っていたら、乳人兄弟の今井兼平を別の戦場に向かわせることをしなかったのにと悔やみ、
死ぬ前にいま一度乳人兄弟の顔を見たいと願って、京より瀬田に向かってわずかの家来とともに走り、
一方、今井兼平も同じ思いで瀬田より京に向かって上がってくるところを二人は大津で行きあうことが
できて、この地で揃って討ち死にするこのあたりの平家物語の描写はまことに感動的である。
俳人芭蕉が、この義仲を深く愛していたことを知ったとき、私は俳句はあまり解らないが、以来芭蕉
に親近感を感じるようになったものだ。
義経は政治的素養に欠け、常識人としての世故における判断力も劣るのに独断専行で我が強く、
とうてい人の上に立つ器量人ではなかったと、判官びいきのいき過ぎを戒める学者や文学者が多いが、
私は彼らの主張に本当にそうだっただろうかという思いを持っている。
義経が都を落ちていくとき、やけっぱちになって平家都落ちのときのように屋敷に火を放ったり、義仲
のように御所に攻めてきたりして市中で狼藉を働くのではないかと、後白河法皇を初め、宮中人が戦
々競々としていたのに、予想に反して、宿舎内をきれいに片づけ、家来一党とともに静かに都を出てい
ったので、都人がたいへん感銘を受け、義人なりと誉めていることが鎌倉びいきといわれる九条兼実
の日記「玉葉」に記されているそうだから、少なくとも人柄はまともだったのではないかと思う。
奥駈の紀行文にはまったく関係のない話になってしまったが、ついでに平家の武将に対する私の思
いも述べさせていただきたいと思うので、歴史に興味の無いかたはここからしばらくは読み飛ばしてい
ただきたい。
さて、平家の武将には人間的魅力にあふれた人が多かったように思う。
平清盛は、平家物語のおかげで随分わがままな専横非道の権力者のように描かれているが、人間
的にはなかなか心の暖かい持ち主だったようである。
平治の乱で滅ぼした敵将源義朝が一番可愛がった息子頼朝を後難を恐れて絶対に殺すつもりでい
たのに、死んだ子に頼朝がよく似ているので助けてほしいと義理の母の池禅尼にしつこく泣き付かれ
るのに閉口して、とうとう命を助けてしまうことなんか武門の長としてあるまじきことかも知れないが、義
理の母親にこんな気を使う人に冷酷な悪人がいるだろうか。
源氏の武将、源三位頼政が「登るべき頼りなければ木のもとに 椎(四位にかけている)を拾いて世
を渡るかな」と詠んだ歌をみて気の毒に思い、朝廷に願いでてそれまで四位の位だった頼政を三位に
上げることに尽力する話などは、当時、辛うじて生き残った源氏の老武将の弱い立場を思えば、清盛の
好意は、打算よりも思いやりによるところが多かったと思うし、天皇の妃になった娘の建礼門院徳子の
お産がたいへんな難産になったときは、清盛は奥方の時子とともに「どうしよう、どうしよう」とおろおろす
るばかりで「戦のときでもこんなに怯えたことはないのに」と言ってうろたえまわり、やがて無事男の子
が生まれると嬉しさのあまり大声をあげて泣いたと平家物語にあるところをみると、そうとう人間くさい好
人物だったように思われる。
また、海音寺潮五郎の武将列伝・平清盛に引用されていたのだが、十訓抄(じゅっきんしょう・鎌倉時
代成立の説話集)に、「福原の大相国禅門(清盛のこと)はいみじき性質の人であった。人が自分の機
嫌をとるためにしたことは、おりにあわない苦々しいことであっても、またおもしろくないことであっても、
機嫌よく笑ってみせた。人があやまちをし、つまらないことをしても、荒い声で叱りつけるようなこともな
かった。寒い季節には小侍共を自分の着物の裾に寝させた。こんな時、早く目ざめると、彼らを十分に
寝させるためにそっと起きた。家来とも言えないほどに下々の者でも、他人のいる前では一人前の家
来としてあつかってやったので、その者共は面目として、心にしみてありがたがった」とあるそうで、こ
のような人柄だったからこそ、亡くなったときに一門の者が身分の上下を問わず嘆き悲しんだのだと
思う。
他にも薩摩守忠度や新中納言知盛、能登守教経のように個性豊かな武将がいるが、私がたいへん
ひいきにする武将に三位中将重衡がいる。
この人は南都の興福寺、東大寺などを焼き払った張本人として、仏敵の極悪人のようなイメージが一
般にあるようだが、角田文衛氏の「平家後抄」という本を読んでみると、決してそんな人ではないことが
よく理解できる。古典の平家物語も注意深く読めば、重衡の人柄については前述のことが憶測のでき、
調べれば調べるほど、今までに放映された平家物語に関連する歴史ドラマで、なぜ重衡のことをもっと
大きくクローズアップしないのだろうかと不思議に思うくらい魅力的な人だったようである。
奈良の大寺の焼き討ちについては、戦のならいとして相手方の陣営に火をかけるのは当たり前のこ
とで、保元の乱も源義朝が火を放って上皇方の陣営に大混乱を起こさせたことから天皇方に勝利が傾
いたことだし、まさか寺を焼き払ったりすることはあるまいと高をくくって、寺院に篭もって敵対した僧兵
たちの方が甘かったわけで、しかも重衡は夜になって明かり代わりのために民家に火をつけさせたのが
おりからの風にのって寺に燃え移ったのであって、最初から東大寺や興福寺を焼くつもりはなかったの
である。
もとはと言えば、南都の寺の叛乱を穏便に解決しようとして、僧兵が狼藉を働いても手向かってはな
らぬと言い含めて送った使者たちの首を、南都の僧兵どもが次々とはねてしまったがために、激怒した
清盛が配下に命じて攻めさせたのである。僧侶にあるまじき行いをする暴徒に重衡が火攻めをしたと
て、武将として命令どおり果敢な働きをしたまでであって何ら非難される筋合いではないと思う。
重衡を魅力的な人だったと思うのは、重衡に接した多くの人が重衡に引きつけられ、強く魅せられた
形跡が色々残っているためである。
まず、美男の多かった平家の公達の中でもなかなかの美男だったようで、(これは女性からみれば
特に欠かせざるところではなかろうか)、それにもかかわらず、他人への思いやりが深かったらしく、些
細なことでも相手の都合のよいように気を使う人柄であったことが、当時の高名な女流歌人の建礼門
院右京太夫が歌集のなかに書き残しており(彼女は平家一門の資盛の恋人で一門の者とは親しく接
していた)、また壇の浦で平家一族が滅んだ十年後に書かれたといわれる「平家公達草紙」にも重衡
のことを「幸運に恵まれた生い立ちで、よく冗談を言って人を笑わせ、悩みなどないかのように見える
が、人が嘆くことがあると一生懸命に慰めるので多くの人達に感謝されていた」としるされている。
子を一番よく知る親の清盛夫妻も深くこの末の息子を愛していたようで、重衡が捕らえられて都に連
れてこられたとき、「多くの平家の公達がいるのに、清盛夫妻にことの他可愛がられた重衡だけが捕
らえられるとは」と都人たちが言ったことが平家物語にあるし、後に鎌倉に送られたとき、その悪びれ
ない立ち居振る舞いに頼朝を初め鎌倉の御家人一同が感銘を受けており、義経を讒言したことでとに
かく評判の悪いあの梶原景時が「あっぱれな大将軍ぶりかな」と涙を流して感動したという。
特に頼朝は強く惹きつけられたようで、一人の女性を側にはべらせて身のまわりの世話をさせ、家
来を通じて酒や果物を運ばせて、重衡の横笛にあわせて鼓や琵琶を奏でて楽を楽しませる接待など
をして優遇し、戻ってきた家来からその場の優雅な状況をきいて「世間体が許すものなら自分もその
場にいたかった」と嘆くくらいの惹きつけられようである。
このとき頼朝の直々の命で重衡に仕えた女性が、平家物語に出てくる千手ノ前で、わずかのあい
だ接しただけだが深く重衡に恋心を抱くようになり、後に重衡が京都に戻されて木津川の畔で首を切
られた後、急に病を得てすぐに死んでしまっている。当時の人は皆、これは重衡への恋心のためにな
ったのだと言ったそうで、これはすべて吾妻鏡に記載されている事実なのである。簡潔な吾妻鏡の
記述の行間から、この女性の純愛に心を打たれた記者の感動が伝わってくる。
重衡の妻は大納言典侍輔子(だいなごんのすけしげこ)というが、重衡がいよいよ殺されるために奈
良に下る途中、醍醐寺の近くに潜んでいて重衡との最後の別れをするのだが、ここらあたりの平家物
語の描写は、数ある男女の別れの物語のなかでもとりわけ痛切なもので、涙なくしては読めないとこ
ろである。
重衡の来訪を告げられた輔子が「どこ!どこ!」と奥からころげるように飛びだしてきたとか、尽きせ
ぬ名残を無理やり終わらされて重衡が護送の者と輔子の住まいを後にしたとき、輔子の号泣が塀の外
まで聞こえてきたなどの表現は胸がしめつけられるような迫真性があり、平家物語が古来、多くの人に
愛され、日本人の国民的財産となっていることがよく納得できる。
この輔子には重衡の忘れ形見となるべき子もいないため、余計その心情が哀れであり、彼女は重衡
の斬られた後、遺骸を引き取って葬り、出家するのである。
重衡にはもう一人左衛門佐(さえもんのすけ)という内裏に仕える恋人がいたが、この女性も重衡の
処刑の報を聞くや否や出家し、後には難波の海に身投げしたという言い伝えがある。
武将としても一軍を任されるほど信任され、また果敢な決断力を持ち、九条兼実の日記「玉葉」にも
武勇の器と記された武人であり、音楽への深いたしなみもあり、性は快活で他人への細やかな気配り
もできてしかも美男とくれば、当然魅力的な存在であったことは想像に難くなく、その死の報を聞いて
三人の女性が死んだり世を捨てているのだし、弟や伯父を殺して平然としていた頼朝が、できれば命
を助けたいと思ったらしいふしもあるほどの引きつけられようを思えば、重衡という武将は尋常の人の
ようには思えない。私が重衡に深く関心を抱くのは、こういったことのためである。
歌書よりも軍書に悲し吉野山
話が奥駈紀行とはまるで関係ない方向に脱線してしまったが、再び奥駈に話しを戻すと、このあたり
で、四寸岩山と柏原山の東西に連なった山塊と、百貝岳、青根ケ峰の吉野の山塊とがちょうど渡り廊
下ともいうべき細い尾根でつながっているのである。
この尾根の西側は伐採されてはるか下まで遮るものが無く、東側は樹木が繁っているがやはり谷に
なっていて、その上の細い尾根道を歩くのである。並木道みたいに間をおいて木が生えているが、ま
るでダムの堤防の上を行くかのようである。
田端君がこのたたずまいにいたく心を引かれたようで、「ここまでジョギングをやりにきたいな」と嘆声
をあげていた。彼は登山を含め、体を鍛えるものは何にでも興味を示すが、マラソンがいちばん好きな
のである。
ここを通りすぎ、山腹を東の方に登っていくと高圧電線用鉄塔の建つ広い台地に出、ここからは林道
に入るのである。
林道を十分ほど歩くと青根ケ峰の側の台地に着く。ここから林道を離れて左側の山道に入っていけ
ば十五分ほどで奥千本の金峰神社に至り、後は車道を延々とおりて吉野の町に入るだけで、ここで実
質上の山道は終ったのである。ここまで来れば、大峯奥駈の縦走は無事に終ったと言ってもよく、我々
は台地の上にあがって、午後遅くの太陽の日が照らす東方の景色をゆっくりと眺めた。
田中君が石の上にどかっと腰をおろし、木の枝を拾って、ぼんやりと地面に何かを書いている。「いい
景色だな」「やっと終わったね」と田端君と言葉少なにやりとりするが、田中君は無言で、何か物思い
にふけているようでもあった。
「ついにやったぞ」といったような大げさな感慨のようなものは何も感じず、今朝、山上ケ岳を出発し
てここ吉野にもう着いたのだなといった淡々とした気持ちである。五日前に本宮を出発して、玉岡氏、
山上氏とともに南部大峯で過ごした二日間は、ずっと過去の出来事のように思えるような不思議な気
持ちにさえなる。
十分休憩してここを出発し、金峰神社に着いたのは午後五時二十五分。
吉野奥千本の由緒あるこの神社で奥駈の無事終了したことを田端君とともに感謝する。田中君は
例のごとく信仰上の理由から階下で待っている。
ここで神主の奥様らしき方に会い、我々の風体を見て「あなたがたは山上ケ岳から来られたのです
か」と聞かれたので、そうです、と答え、三日前に前鬼を出発して縦走してきたことを話すと、感に堪え
ないといった表情をされていた。一種の気恥ずかしさから、本宮からきたことは言わなったが、それを
知ったらさぞかし驚かれたことだろう。
吉野の町中で、値段も手頃で気のきいた料理屋をご存じないか尋ねると、親切に教えていただき、
自らその店に電話して、我々がそちらにおもむく旨を連絡してくださった。電話代も取られず、我々は
そのご親切に深く感謝してそこを出発する。「賽銭をもっとたくさんしておけばよかった」と田端君にささ
やくと彼も深くうなずいていた。わずかな電話代であるが、見知らぬ者へ示される好意がたいへん有
り難く、私も他人にはいつもこのようにありたいものだと思う。
金峰神社から吉野の町までの舗装された車道は結構急坂で、長駆してきた登山靴を履く身にはなか
なか応える。特に田中君のは冬山用の重登山靴なので、固いコンクリートの道はたいそう膝にひびく
ようで、水分神社を過ぎた九十九折(つづらおれ)あたりから、たまりかねたのか、田端君が止めるの
もかまわず、靴を脱いで裸足で歩きだした。
このあたりから吉野の町が広く見わたせるようになる。夕方の横日に照らされて、後方の金剛、葛城
の山を背景にかすみを帯びた吉野の風景はたいそう美しい。さくらのシーズンでなくとも十分絵になる
風景である。
桜の吉野山のポスター写真はこのあたりから写したものが多く、私も二度ほど桜のシーズンにここか
ら眺めたことがあるが、ピンク色に染まった吉野全域の風景はそれはそれは素晴らしいものであった。
日本全国に桜の名所は数知れずあるだろうが、規模の大きさと歴史的由緒の古さにおいても吉野は
もっとも有名なところではなかろうか。
「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と詠まれているように、古来、幾たびかの歴史的争乱の舞台となった
ところで、古くは壬申の乱のときの大海医皇子(後の天武天皇)の旗揚げの地であり、源平時代には
源頼朝に追われた源義経がこの地に逃れてきて、愛妾、靜御前や忠臣佐藤忠信らと生き別れて大峯
山中に姿を消したところである。
そして何よりも多くの悲話をこの地に残した南北朝の争乱では、幕府に攻めたてられた大塔宮護良
親王の身代りとなって村上義光(よしてる)が蔵王堂で壮烈な切腹をし、足利尊氏と対立した後醍醐天
皇と朝臣たちがこの吉野に逃れて南朝をうちたて、楠木正成や新田義貞らの将を失ってから凋落いち
じるしい南朝の人たちの輿望を一身に背負った正成の嫡子、楠木正行(まさつら)がこの地から河内
国四条畷における最後の戦いに出かけて行ったのである。
正行は出発のとき、如意輪寺のお堂の戸に「返らじとかねて思えば梓弓、なき数にいる名をぞとど
むる」と詠じた歌を矢尻で刻んで壁に一族の名を書き連ね、全員髪を切ってお堂のなかに放りこみ
絶望的な戦に向かったそうで、この時、正行は二十二才だったという。
四条畷の戦いで打ち取ったと思った敵将、高師直(こうのもろなお)の首が影武者のものと判って怒っ
て放り投げた正行を、忠義の士を侮辱するべきではないと諌めた弟の正時は何才だったのだろうか。
共に若き命である。母親の正成夫人はどのような気持ちであっただろう。
このような歴史的背景が、吉野山の桜をきわめて重みのあるものに感じさせるのだろう。
九十九折の坂を降りきったところから、田端君もコンクリートの急坂が堪え難くなったと見えて、道路
の端から端へとジグザグに下りていく歩行に変え、私もその真似をして、我々は敗残兵のようにとぼと
ぼと下りていくのである。
やがて吉野の町中に入り、竹林院のそばを通って、紹介してもらった勝手神社前の静亭に着いたの
は午後六時四十六分だった。
桜のシーズンを終えて客の一人もいない座敷にあがり、幕の内定食を注文してビールで乾杯する。
金峰神社の御内議の推奨されるだけあっておいしい料理であった。ゆっくりくつろいで食し終わった後、
静亭を出発したのはもう八時前だった。
人通りの途絶えた真っ暗な町中を急ぎ足で行き、途中寄った蔵王堂は本堂の扉も閉じられており、
賽銭箱も中にしまわれていたので、祭壇のようなもののうえに五百円硬貨を二つ供えて、田端君と一
緒に奥駈が無事終了したお礼の気持ちをこめて合掌する。
山上ケ岳の本堂に対して、蔵王堂は大峯山寺の山下の本堂になり、奈良の東大寺の大仏殿につぐ
規模の国宝の大伽藍である。大阪に生まれ、大阪に育った田端君が、この蔵王堂に来るのは初めて
だというから驚きだ。そうと知っていたらもっと明るいうちにここに到着できるように急いだのだが。
特急電車の出発時刻までの余裕がほとんど無いので、そこから吉野駅まで早足の歩行で進む。下
千本の橋の手前から車道を離れて近道の急坂を降りていったが、今から思えば、疲労した体にアル
コールが入り、しかもライトもつけずによくあの暗い急坂を降りていったものだと思う。事故が無かった
からよいようなもの、思慮の無いことをしたもので、玉岡氏、山上氏に知れたらきっとお叱りを受けたこ
とだろう。
近鉄特急出発一分前に駅に着き、滑り込みで乗り込むことができた。車内はがら空きで、ザックをま
とめて置き、各々どかっと腰をおろし、改めてワンカップの日本酒とビールで乾杯する。
田中君と田端君が車内にあったスポーツ新聞を見ながら談笑するのを眺めながら、しみじみと私は
酒を飲む。窓の外を見ても真っ暗で、景色は何も見えない。笠捨山も深仙の宿も、そして玉岡氏や山
上氏、西行も義経もすべて暗闇のなかに消えていった幻のようである。これで本当に大峯奥駈の縦走
も終わったということを実感した。
(了)