大峰奥駈道縦走記(1962年4月29日〜5月4日)  by リワキーノ 



 この大峯奥駈道縦走記は、原文は昭和六十二年に縦走した記録を六十三年秋に書き記したものだ
が、その後、大峯に何度も行くうちに私の記録の思い違いによる間違いを発見した
り、新しく知った大峯のコースや知識がふえてきたりなどして原文を訂正したり新たな記事を附加した
くなりなどし、ワープロを購入して原文を校正したものである。
 ただ原文のセンテンスのおかしいものや誤字、表現の稚拙なものは書きなおしたが、思い違いや間
違った記録はそのままにし、その訂正記事は前後を[ ]印でくくってのせるようにした。その後に新しく
仕入れた大峯の知識を書き加える場合も同様にしている。
 この新しい大峯の知識については、新宮山彦ぐるーぷのリーダー、玉岡憲明氏の紹介で知り合った
芦屋市の長田正氏と豊中市の平田保氏、それに前鬼で知り合った堺市在住の山伏、林谷諦心氏らの
おかげによるところが多大である。
 長田氏と一緒するようになってからは、ひとりでは行けなかったところもずいぶん行けるようになり、
読書家で記憶力の抜群によい長田氏の博識のおかげで、山行中多くの勉強になる話を聞かせても
らった。特に草花と野鳥の知識の該博なのには驚くほどで、山中を歩いているときに耳にする野鳥の
声だけでその鳥の名を言いあて、「あの鳥が鳴くと、今度はこれこれしかじかの鳥が鳴く」と予告し、
その通りに別の野鳥が鳴きだすのだから呆れる思いである。この方と一緒するようになって私は野
鳥の声に心惹かれるようになったのである。
 平田氏とは知りあってからまだ間がないが、この方は古書に対する動物的嗅覚でも持っているのか、
大峯関係のめずらしい本を何冊か古書店で見付けて所蔵しており、それらはいずれも大峯に関心のあ
る人にとって垂涎のまととなるような貴重な本なのだが、気前よくコピー
させてもらった。おかげで私は豊富な大峯の知識を身につけることができ、この記録文にそれらを付け
加えることができるようになったのである。文中によく引用している《大峯山
脈と其渓谷》(中川秀次、富川清太郎著)と《吉野群山》(岸田日出男著)の本は平田氏所蔵のもので
ある。
 
 さて、私は大峯を深く愛している。
 いきなり唐突にこんなことを書くと、この手記を読む人は戸惑うに違いない。何々を愛するという言葉
をそう軽々しく使うものではないが、この場合私は確信を持ってそう言える。
 人は誰でもわが子を愛さない人はいないと思う。わが子を誉められれば我がこと以上に嬉しいし、また
けなされれば悲しく心傷つくものである。私にとって大峯はまさにそのような存在なのである。山登りを
始めてまる六年、登る対象のほとんどが大峯の山々であり、私の大峯に対す
る思いはますます強まる一方である。
 大峯に入り浸ることによって私はこの山々からどれだけ多くの影響を受けたことか計り知れないもの
がある。大峯を通じて多くの優れた人たちと知りあい、いろんなことへの興味をかきたてられて多くの本
を読み、いろんなことを勉強して、私の人生観、宗教観、物の価値観まで大きく変わることになったので
ある。
 思うに幼いころから馴染んできたキリスト教信仰への青年時代の挫折を経て、人間の自由精神に
憧れてギリシヤ・ローマの古典やいくらか実存主義的な文学に傾倒した三十代の半ば、親友の妻が
癌で若くして亡くなるという経験をした頃に、ふと触れ得た仏教の教えに強く惹かれだした時期に登山
の趣味を覚え、修験道の大峯を知ったことがこれだけ私が大峯から多大な精神的影響を受けることに
なったのだと思う。 
 私の宗教観が変わったことについて言えば、私は大峯に入り浸ることによって仏教というものにたい
へんのめり込んでいくようになった。大峯は修験道の山だが、修験そのものにも関心は抱くけれども私
がたいへんひかれていったのは根本仏教の教えで、以後私なりにいろいろな仏教関係の本を読んだ
が、いつも私の仏教観の原点になるのは、パーリー五部(南伝仏教・日本で謂われるところの小乗仏
教の経典)あるいは中国で翻訳されたあごん阿含経典に代表される原初仏教の教えであり、釈尊とい
う人類史上類い稀なるかたが二千五百年前にこの世に実在したことが私の心の支えとなっている。
 私は、極楽地獄やあの世があるのか、肉体と魂は別の物なのか、あるいは死後も霊魂は残るのかと
いったことはまったく解らず、安易にそのようなことがらを信じることはできなかったのだが、釈尊の教え
は深く心に染み入り、そういった人間にはうかがい知ることのできないものへの私の不安感、恐れとい
ったものをずいぶんとやわらげてくれたように思う。
 
世間では大峯山というと、女人禁制で山頂に立派な寺があり、参詣にきた者の体をロープで縛って逆
さ吊りにして懺悔を強いる山と思っている人が多いが、それは山上ケ岳という山で紀伊半島を南北に
走る大峯山脈の一峰にすぎず、大峯山という名の山は存在しない。 大峯山脈は、北は奈良県吉野
川の河畔から桜の吉野山を経て南へ走り、和歌山県熊野の本宮町に至り、本宮大社の旧社殿地と
熊野川を挟んだ対岸までつづく山並みを言い、南北九十キロにわたってなんなんとする大山脈であり、
紀伊山地の背骨とでも言うべき存在である。 その間主稜上の山だけでも四十いくつもの名のあるピ
ークがあり、最高点は山脈のまん中よりやや北によった地点にある八経ケ岳(1914・9m)で近畿地方
における最高峰である。他にも大普賢岳、みせん弥山、釈迦ケ岳、かさすてやま笠捨山、玉置山、そ
れに主稜から外れてはいるが稲村ケ岳等が有名であり、笠捨山を除けばすべて大峯山脈の中では
比較的登山客の多い山である。これらすべての山々を一括して大峯山と言う。大雪山、阿蘇山、霧島
山等と同じような類の呼称である。
 山脈の南端部を紀伊山地最大の川、熊野川が二つに分かれ、山脈の東側を北山川、西側を十津川
となって流れており、これらから派生する数多くの支流が多量の雨水を集めてこの山脈に深い枝谷を
作り、これが断崖絶壁が随所に見られる大峯特有の深山幽谷の美しさを作り出している。
 このため古くから山岳修験道が発達し、八世紀の頃の文献にすでに大峯の修験道のことが記載さ
れており、続日本紀にその記事がのっている大和葛城の人、えんのおずぬ役小角がその開祖とさ
れている。役小角はえん役ノ行者という名のほうがよく知られ、山伏たちの深い尊崇の対象となって
いるが、続日本紀の数行の記述しか実録はなく、その伝承も伝説的要素の濃いものばかりである。
 しかしこの役の行者に始まったといわれる大峯の修験道は千三百年にわたって綿々として続き、現
在に至っているのである。もっとも現在の修験道は北部大峯、それも山上ケ岳の周囲にだけにかたよ
っていて、現代の山伏たちも最短距離のどろがわ洞川から山上ケ岳への往復登山をするだけで、奥駈
と称される弥山より南への縦走を試みるものは少なく、吉野の東南院と京都の聖護院が吉野から前鬼
あるいは玉置山までの奥駈をやるときと、また、大津の三井寺が本宮から前鬼までの奥駈をときおり実
施するとき以外は大普賢岳以南では山伏の姿を見ることはほとんど無い。

 奥駈とは大雑把にいえば、大峯山脈を峰通しに歩いて南北九十キロにわたって散在する数多くの行
場、霊場を巡拝する修行のことである。吉野や洞川から山上ケ岳に参るのは奥駈とは言わず山上ケ
岳以南に足を踏み入れるのを奥駈という説もあれば、本来大峯修験道の発生の地である熊野からみ
た北部の釈迦ケ岳・大普賢岳・山上ケ岳を目指すのを指すとか、本宮から吉野までいっきに縦走する
のが正しいとかいろいろ説があるようだが確定した定義というものはないらしい。
 現在では吉野あるいはどろがわ洞川から前鬼もしくは玉置山までか、その逆コースを目指すパター
ンが多く、前者のように北から南を目指すのを逆峰(ぎゃくぶ)と言い、後者のように南から北を目指すの
を巡峰(じゅんぶ)と言う。
 歴史的由緒から天台系の寺(三井寺)は巡峰をやり、真言系の寺(吉野の東南院)は逆峰をやるが、
京都の聖護院は天台系だが逆峰をやっている。熊野の本宮から吉野まであるいはその逆の全部の奥
駈をやる寺は現在のところ無いようである。東南院が一応定期的に吉野から熊野三山(本宮大社・那
智大社・新宮速玉大社)まで行ってはいるが、前鬼から佐田辻にかけてはいったん峰を離れてバスで
迂回し、うらむかい浦向から佐田辻に登って玉置山まで行くとそこからは峰通しに行くのはやめて、玉
置山頂上から再びバスに乗りこんで本宮まで行ってしまうので完全なる全部の奥駈とは言い難い。
 持経宿小屋備え付けのノートを読んだり、玉置山神社の社務所の人の話などを聞くと、単独行で全奥
駈をやる行者は時折いるようで、私が前鬼で知りあって以来親しくさせてもらっている山伏の林谷諦心
氏も単独行ではないが個人的な全奥駈をやっており、このような少数の山伏の活躍によって辛うじて
今も大峯全域が修験道の山と言うことができるのである。昔のテレビのコマーシャルに「クリープの無い
コーヒーなんて」というせりふがあったが、私にとって山伏のいない大峯なんて虚しい感じがする。

 千三百年続いた修験道の痕跡は有形無形の行場、霊場、宿跡として今も全大峯にわたって残って
おりこれらをなびき靡といって奥駈の行をする山伏はひとつひとつ巡拝していくのである。古くは百二
十箇所もあったといわれているが、平安末期に編纂された「諸山縁起集」によれば当時既に七十八箇
所しか確認できなかったらしく、室町時代から現在の七十五靡が定着したらしい。
熊野本宮のしょうじょうでん証誠殿を第一靡、そして吉野の柳の宿が第七十五靡とされており、これが
大峯の七十五靡としてつとに有名である。このうち一から三まではいわゆる熊野三山で大峯山域外
にあり、別格である。
 この聖なる山々にかかわってきた歴史上の有名な人物も多く、弘法大師空海、御堂関白藤原道長、
白河上皇、源義経、西行、おおとうのみやもりよししんのう大塔宮護良親王、上田秋成、本居宣長な
ど、それぞれが自身大峯山中で詠んだ歌が残ったり、この山中に逃げてきてその事実を物語りや歴
史書に記されたりして大峯の山に彩りを添えてくれ、この山域を単なるスポーツ登山の対象としてだ
けではなく、もっと深みのある千三百年の人間の歴史の重みを持つ山としての味わいのある山行が
楽しめる存在としている。これが私が深く大峯に惹かれる大きな理由である。

 大峯の自然もまた欠かすことのできない魅力の一つで、この山域に群生する樹木や草花、そしてこ
こに生息する動物の形態も多彩で豊富である。日本各地の山の例に漏れず、大峯も植林や伐採とそ
れにともなう林道の増設にダムの建設などによってずいぶんと自然破壊が広がっているが、尾根沿
いはまだ大半のところが自然のままの樹林帯が残つており、奥駈の道を行くかぎりトウヒやシラベ、
コメツガにブナや、ヒメシャラ、シャクナゲなどの都会近郊の野山ではお目にかかることのできない樹
木を見ることができ、奥山らしい雰囲気を味わうことができる。
 特にシラベ、トウヒの植生は西日本ではこの大峯と大台ケ原だけで、これらの樹木が混じる林だけ
に発生する一斉立ち枯れ(縞枯れ)現象によって独特の装いをする弥山、八経ケ岳、頂仙岳、釈迦
ケ岳の山肌のもようは、近畿の他の山では見られないものである。北八ケ岳の縞枯山の規則正し
い縞模様で有名なこの縞枯れ現象は北アルプスではまったく見られず、中央アルプスでもわずかで
あり、そして亜高山針葉樹林の広く分布する北海道や東北地方の山地にもほとんど見られなく、二千
メートル以下の標高で植生しているのは大峯だけだそうで、いくつかの条件が揃わないと発生しない
そうである。
 野草については私は残念ながらたいへんに疎く、山登りを始める前には自信をもって名を言える花
はチューリップとヒマワリに朝顔と桜、それになぜかカンナといった妙な取り合せのお話にならないほ
どのわずかな数しか知らないので大峯の草花を云々する資格はまったく無く、ましてや自分が見分け
もつかない野草の名を解説書の手を借りてずらずら記す気にはなれないが、リンドウ、トリカブト、ク
ルマユリ、ガクアジサイ、ホタルブクロ、ドクダミ、シャガ、ウツボグサ、バイケイソウ等の草花はいちお
う見分けがついて名も言えるし頻繁に見かける花なので記しておく。もっともドクダミやシャガは平地
か山辺に咲く花で、こんな貧弱な知識を得意げに披露する私は、草花に詳しいかたから見れば噴飯
ものであろうが、山に入る以前の私に比べたらたいした進歩なのである。
 草花ではないが、オオヤマレンゲとシャクナゲの花は大峯を代表する花で、特にオオヤマレンゲは
高い深山にしか自生せず、名前も大峯で初めて発見されたことから「大山蓮華」とつけられたのであっ
て、大峯に来たことの無い人は天然のオオヤマレンゲの群生は見たことがないのではないだろうか。
シャクナゲは他の山でも、たとえば奈良県の室生寺などのシャクナゲを名物にしているところでも見れ
るが、大峯の痩せた岩尾根に群生するのは質量とも素晴らしいもので、よく町中の工場地帯でキョウ
チクトウの樹木の垣根に赤い花が咲いているのを見かけるが、ちょうどあのような感じで群生している
のである。
 ただシャクナゲの開花は年によって当たり外れがあるようで、いつも豪華な様が見られるわけでは
なく、石楠花観察が目的の場合、四月か五月の初めくらいに下見にきてつぼみ蕾があるかどうかを
確かめておいたほうがよい。大勢引率してやってきて尾根を行けども行けども石楠花の樹木ばかりで
花はわずか二、三輪ということだって大いにあり得るのだ。
 大峯に生息する動物は昭文社の地図の解説によるとツキノワグマ、カモシカ、シカ、ニホンザル、イ
ノシシ、シカ、タヌキ、アナグマ、ウサギ、ムササビ、モグラ、テン、リス等がいるらしいが、私が目撃した
ことがあるのはカモシカとシカ、イノシシ、テンだけである。
テンは旭の川ぞいの中谷という集落の道路上でみかけたもので、餌あてに人里に棲みついたものら
しい。
鳥類は種類が多く、私にとって草花と同じように疎いのでその名をあげることは省くが、山のなかでテ
ントを張って寝たとき、夜明け前に目覚めるときの薄ぼんやりとした意識のなかで野鳥の鳴く声を聞く
のは何ともいえずよいもので、いつかは長田氏のように鳴き声だけで野鳥の種類が聞き分けるように
なりたいものだと思っている。

 そして大峯のもうひとつの魅力としてあげられるのがこの山域の静寂さである。シーズン中(五月三
日〜九月二十二日)の山上ケ岳、連休のときの弥山・釈迦ケ岳を除けばこの山域に来る登山者は少
なく、特に南部大峯など一日歩いても人に会わないことも珍しくない。これはやはり交通の便が悪くて
日帰り登山が難しいことと(南部など二泊三日も必要とするところが多い)、修験道の山というイメージ
が登山家に敬遠されていることが大きな理由のようである。
 大峯山系の峰や岩場その他のいろいろの地点の名はほとんどが仏教に関係するものが多く、信州
の山のように「美しが原」とか「ギリシャ庭園」のような西欧風ロマンチックな名の地は皆無に近い。
この抹香臭さが嫌で大峯には行く気がしないという人もけっこういるようで(特に女性に)、大峯を深く
愛する私としてはいささか淋しい気もするけれど、おかげでゴミで山が汚れることも無く、人にも滅多に
会うことが無いので、単独での山行のときなど山のなかに深く溶けこんでいくような自然との一体感
ををしみじみと感じれるだけの静寂さが保たれている。
 長田氏や平田氏のように日本アルプスや北海道の山々のような華やかな山を知っている人たちが、
私のように修験道に興味があるわけでもなく、また車が無いのにわざわざ手間暇かけて大峯のような
地味な山にやってくるのはこの静寂さを愛するからである。

 現在の奥駈縦走の全コースを大雑把に記す。
 初日は本宮から玉置山までである。金剛多和までは楽であるが、五大尊岳の登りはかなりの急坂
とアップダウンが続き手強い。大森山から玉置山にかけては間の鞍部がけっこう深くて、いったん下
山して別の山に登りなおす感じだが、見た目よりは楽に登れる。水場は金剛多和から西に続く枝道
をわずか行ったところと玉置神社にある。このコースには山小屋は無く、玉置神社も表向きは登山客
を泊めないことになっている。
 二日目は玉置山から持経宿までで全コース中もっともハードなコースである。距離は山上ケ岳、吉
野間のほうが長いかもしれないが、コースの全般にわたってアップダウンが多く、地蔵岳のところなど
は急なやせ尾根なので注意を要する。笠捨山は南から行くときはそうでもないが、北から来る場合か
なりの距離を登るので辛い登りになる。行仙岳から倶利迦羅岳は見た目よりもかなり長い距離である。
地図には無いが、行仙岳の東肩から白谷林道に関電の巡視路がついており三十分で下りれる。水
場は地蔵岳すぐそばの南斜面にあり、奥駈道に立つ水場の標識から往復十五分で行ける。この他に
は葛川辻から北斜面を下りたところ(往復三十分ぐらいかかる)、平治宿の西斜面(枯れることが多い)、
持経宿前の林道を北に向かって三百メートルほどいったところなどにある。このコースの所要時間は
十二時間〜十四時間ぐらいとかなりの長丁場になるので、これを緩和するため現在、新宮山彦グル
ープが佐田辻に山小屋を建設中で今年(平成二年)の五月に完成の予定である。この他に平治宿、
持経宿に山小屋がある。[平成二年七月に五十人収容の行仙宿小屋が完成。水場は小屋南側の
急斜面をくだったところで往復四十分かかる]
  三日目は持経宿から深仙宿(じんぜんしゅく)までで全コース中一番短い距離である。そう急な坂は
無いがアップダウンがたいへん多い。南から行くときは問題ないが、北から来るときに奥守岳のところ
で道を間違えやすく、奥駈路は左に行く。このコースには終着点のじんぜん深仙にしか水場は無く、
ここも秋の渇水期には渇れる。釈迦ケ岳から十津川村のほうに延びる天竺尾根上の千丈平の水場
は、昭文社の地図上の位置よりもずっと釈迦ケ岳寄りで、地図上に記入してある「大峯第40行所」の
「0」の文字のところにあり、釈迦ケ岳頂上から五分ほどで行ける。小屋は深仙に無人小屋があるが同
じところにある深仙潅頂堂に泊まるほうが快適である。なお大峯修験道で重要な行場の前鬼の裏行
場がある前鬼は太古の辻から一時間三十分下ったところにあり、奥駈の意義から言えば、吉野、熊野
どちらから来るにしてもいったん前鬼に下りてもう一度登り返してくるのが本筋かもしれないが、太古ノ
辻、前鬼間は大峯でも有数の急坂で、たいへんな労力である。林谷諦心氏が全奥駈(平成元年六月)
をやったときはこのコースを忠実に歩いている。
 四日目は深仙から弥山までで、釈迦ケ岳の北斜面の一部とそれに続くやせ尾根の岩場に一寸注意
を必要とするが、一八〇〇m級のピークが並ぶコースのわりには緩やかな巻き道が多く、アップダウン
もそう急ではなく比較的楽である。全コース中一番景観がよいといわれているが人によっては異論も
あると思う。しかし孔雀岳手前の孔雀のぞき覗きの眺めはまさしく絶景である。水場は弥山小屋に行く
までは無い。小屋はようじ楊子ノ宿に無人のがあるがかなり汚い。 弥山小屋は冬期を除けば管理人
が在住しており食事もだしてくれる。奥駈道上で食事ができるのは弥山と山上ケ岳だけである。 
 五日目は弥山から山上ケ岳までで玉置山、持経宿間につぐハードなコースである。ぎょうじゃがけり
だけ行者還岳から弥勒岳までが痩せ尾根のため通過に時間を食うが他はおおむねよい道である。
水場は行者還岳のハシゴ場のところ(渇れることもあるらしい)とおざさ小笹ノ宿で、小屋は一ノタワと
行者還岳の肩に無人小屋があり、行者還岳のは立派な小屋である。
 六日目は山上ケ岳から吉野までで、どろつじ洞辻先のじゃばら蛇腹までは急坂が続くが以後は緩や
かな下り道で下り一方の身にはたいへん楽である。ただこのコースはさんどう桟道(切り立った山腹や
崖などに沿って、木材で棚のように張りだして設けた道)が多く、雨の日にはスリップしやすいので注
意を要する。水場は五番関と百丁茶屋の中間地点にある。小屋は洞辻を出ると吉野まで無い。[平成
四年、吉野蔵王堂の修行僧や関係者の方々の力によって五番関からカクレ平での大天井岳・四寸岩
山(しすんいわやま)の尾根通しに行く古道が復元された。桟道が無いので安全であるが、二つのかな
り大きな山を乗り越えるので巻道に比べたらそうとうな労苦を覚悟しなければならず、しかも四寸岩山
の北斜面の下りはかなりの急坂なので足や膝を痛めた人は避けたほうが無難である。そのかわり植
林帯を行く巻道と違って自然林の中を行く快適さがあり、途中のあしずりちゃや足摺茶屋跡などは雰囲
気の大変よいところである。]

 最後に奥駈縦走をやる場合、順峰(熊野から吉野へ)で行くのと逆峰(吉野から熊野へ)とではどちら
がよいかということについて修行の意義ということを度外視して私見を述べれば、順峰のほうが有利な
ように思える。私は順峰しか経験がないので正確な判断はできないが、初日と最終日にあたる吉野道
(吉野〜山上ケ岳)と本宮、玉置山間(そういう言い方はしないが、これを仮に本宮道とする)をくらべた
とき、だらだら坂がコース全般にわたって続く吉野道は登り降りどちらでもよいように思えるが、本宮道
の場合、五大尊岳の険しい坂道はたいへんではあるけれども絶対に登りにするべきで、五日間も山歩
きをしてきて疲労のたまった足腰でこの急坂を降りるのはかなりの危険を伴うこと(逆峰をやった林谷
氏はこの急坂でふんばりがきかなくなって滑りだし、制御ができなかったのを持っていた金剛杖が偶然
樹木にひっかかりやっと止まることができたそうである)。所要時間の一番かかる玉置山、持経宿間に
ついてはわたしは南北両方からを経験しているが、笠捨山越えは北部から来たほうがはるかに辛いこ
と。二年前にジグザグ道ができてずいぶん楽にはなったが、弥山の聖宝(しょうぼう)の急坂は北部から来
るとコースの最終段階で登らなければならないこと。北部から行くと無人小屋しか無い南部に備えて食
料を全コース担いでいかなければならないこと。順峰だったら四日めから食料の重さから開放される。
これらが私が順峰のほうが有利とする根拠である。
 さて本文中に奥駈の文字が頻繁にでてくるが、私のこの大峯縦走はあくまで大峯奥駈道を縦走したの
であって奥駈そのものはやったとは言えず、修験者のように様々な行をやりながら峰をとおしていく奥駈
はもっとたいへんなものなのである。しかし本文の一番最後にもふれているが、私のこの大峯奥駈縦走
も、新宮山彦ぐるーぷの玉岡憲明氏と山上晧一郎氏の御協力がなかったら実現しなかったし、また無事
にやりとげることもできなかったであろう。ふとしたことから知りあってまだ数ケ月しかならない者のため
に貴重なゴールデンウイークのさなかにサポートと案内をしてくださった御両者に深い感謝を表明したい。            
                                                     (平成二年三月)