難攻不落の天下の名城、小田原城
※このレポートは9年前に、修験僧で大乗院の住職でもある役さんとそのお弟子さんたちに招かれて
小田原に行ったときのレポートの一部です。
この小田原の人たちとの出会いについては私の拙記「大峯におけるある行者の死」で紹介しておりま
す。
http://www13.ocn.ne.jp/~hmpiano/subsab1995oomine_danzikigyo.html
1997年2月17日
前日、東京の旧友宅に泊まった私は、そこの最寄りの私鉄が小田急線であったことから朝、友人に
車で千歳船橋の駅まで送ってもらい、初めて訪れる小田原に向かった。
歴史好きな私にとって小田原という地は少年時代から一種の憧れの地であった。少年から青年時
代に戦国時代に熱中していたころ繰り返し読みふけた菊池寛国 語訳の「名将言行録」や海音寺潮
五郎の「武将列伝」で知った多くの戦国武将やその一族の興亡に私は心を躍らせ、深い思い入れを
もっていたが、その中でも特 に後北条氏五代の盛衰とその最後を飾る小田原城攻防戦の話は印象
深く私の心のなかに残っていたのである。
鎌倉時代の北条氏とこの小田原北条氏とはつながりはなく、歴史学上両者を区別するために後者
を後北条氏と呼ぶが、ここでは小田原北条氏を単に北条氏と記す。
北条氏は始祖早雲を初め優れた武将を生んだ大名家だった。特に第三代氏康は、菊池寛に言わせ
れば「戦国時代屈指の名将であり、西の毛利元就に対抗し得る 人物で、恐らく天下取りの素質があっ
た一人」と評価される傑物であり、治世家としても文人としての素養も優れた非常にバランスのとれた
武将だったことから 小早川隆景(毛利元就の子)とともに私のもっとも好む戦国武将であった。
また戦国時代には無数の攻城戦がくりひろげられたが、もっとも規模の大きなものは徳川家康によ
る大阪城攻めと豊臣秀吉による小田原城攻めである。どちら も天下の趨勢が決まった後の圧倒的多
数の軍勢の大包囲網のなかで孤立無援で戦い、ついに落城した点では共通しているが、大阪城は最
後は力づくで攻め落とさ れて多くの殺戮が行われたのにくらべ、小田原城は数人の首脳の自害以外
は無血で降服開城したところが決定的に違っていた。これらのことが小田原の名を私の なかできわめ
て重みのあるものにしたのだと思う。
まあ、こうした私の思い入れがあるものだから、小田急電車が東京都を出、神奈川県下を走り続け、
やがて役師からかねてお聞きしていた酒匂川を通過する時点になると「もうすぐ小田原なのだ」という
何か胸がドキドキするようなときめきが起きてくるのである。
小田原駅着は午前10時ちょっと前であった。関西から来る小田さんと佐々木さんの乗る新幹線は10
時23分着なので、待ち合わせ場所の新幹線改札口に 行ってみてもまだ小田原の方々は誰も来ていな
かったので改札を出ると、すぐ横手の喫茶室で役師と佐藤さんがコーヒを飲んでおり、すぐに私も合流する。
役師とは昨年十一月の三井寺でお会いしており、佐藤さんも十二月のアルバトロスクラブ忘年会で会
ったばかりでそれほど久しぶりではないのだが、心の通う 人達との再会はいつも心が躍るものであった。
役師と佐藤さんは初対面だが、そこはそれぞれ何事にもひたむきな性格の人柄ゆえに私が行くまでに
すっかり親し い間柄になっておられた。
役師のお話によると、小田さんが京都駅で新幹線に乗り遅れて一時間ほど遅れるとの連絡が入ったそ
うで、まあ、小田さんらしくもないチョンボをやったもの だなと思ったが、次に、検査入院中のため今回の
親睦会には参加できないことを聞いていたミヅホさんが、主治医に頼み込んで一日早く退院させてもら
うことに なったために明日の箱根のホテルの夕食会には駆けつけられるという話は、この美しく気だて
の良いお嬢さんとまたご一緒にお酒が飲めるのかと私をすっかりい い気分にさせ、小田さんの一時間の
遅れくらいたいしたこと無いさ、と思ってしまうのであるからまったく人間て現金なものである。
そのうちに青木さんや佐野さんがやってき、やがて佐々木さんも到着した。いつも山中でしか会わない
ので、佐野さんが深紅のコートを着てドレスアップした 姿を拝見するとどぎまぎしてしてしまい、そのことを
口にすると、佐々木さんから「あんただって背広姿を見るのは初めてだからこちらもびっくりしたよ」と言
われてしまった。佐々木さんが到着したら先に小田原城を見学に行こうという話になっていたのだが、コー
ヒでも一杯、とやっているうちにみんな話が弾んで、 気がついたらもう半時間も過ぎ去ってしまっており、
小田原城見学は小田さんが着いてからということになったのである。
面目なしといった表情で小田さんが到着した後、駅を出て、役師の車に一同乗り込み、役師ご推薦の
キジ丼の店にご案内いただき、そこで豪勢な昼食をご馳走 になった後、駅すぐそばの小田原城に向かう。
小田原城の城郭は天守閣を含む本丸周囲の城壁とその外周に城壁の一部が残っているだけで、豊臣
秀吉25万の 軍勢に囲まれて百日間籠城したかつての巨大な城のイメージはなかったが、本丸の広場
からすぐ側に白亜の天守閣を仰ぎ見るとき、北条氏五代の盛衰と小田原籠 城のことがらがいろいろイメ
ージされ、ああ、昔から憧れてきた歴史上高名な名城にきたのだという感慨にひたされる。
昭和35年に再建された天守閣の中は資料展示場になっており、一階から順次、ゆっくりと見学して行く
が、私はそのほとんどが江戸時代のものである甲冑や刀剣、古文書、装飾品などにはあまり関心無く、
もっぱら北条氏の関連資料類にどうしても目が集中していくのである。
北条氏五代の歴代の肖像絵が展示されていたが、始祖、早雲は一介の素浪人から二百五十万石の
大大名に成り上がっただけに表情は鋭く、なかなかのしたたか な人物といった感じがする。しかし、同
じようなタイプの大名であった斉藤道三のような悪人面ではなく、ある種の風格と知性を感じさせるもの
があった。
早雲の肖像は昔から知っていたが、私の好きな第三代、北条氏康のものは初めて見るものであり、
実に柔和で知性的などちらかというと優形の表情をしてお り、主将としては珍しいくらい体に七箇所の刀
傷を持つほど勇猛な、いわゆる「氏康傷」の名称をもつ武将のものとは思えないものであった。五代のう
ち、群を 抜いて優れた風貌をもつ人である。戦国時代の数え切れぬ程いる武将の中で私が特に惹かれ
るのが、氏康以外に前出の小早川隆景と他に織田信長の娘婿であり信 長がもっとも高く評価し、後には
秀吉に恐れられた蒲生氏郷がいるが、この両者が共に氏康と同じような知性的な優男風の好男子であ
ることを思いだし、非常に 感銘を受けた。
これは小田原から帰ってきて、昔、読みふけた名将言行録をあらためて読み直して解ったのだが、頼
山陽が、わずかな兵力で圧倒的な敵を打ち負かした戦国時 代の三大戦のなかに毛利元就の厳島合戦、
織田信長の桶狭間の戦と並べてこの北条氏康の川越の夜戦を数えているそうである。
氏康はただ戦うだけの武将ではなく、当時の戦国大名達に鬼神のごとく恐れられた不敗神話の上杉謙
信が小田原に攻めてきたときは、謙信の熱しやすく醒めや すい気性を看過して、城を固く守って一切相
手にせず、謙信とその配下が長期の包囲戦に嫌気さして当初の勇猛心も醒めて越後に引き返すところ
を突如打って出 て謙信の軍勢に一矢報いていることからも推察される氏康の武将としての非凡さ、そし
て軍事面だけではなく政治家としても超一流であったことと、また、和歌 や漢詩を詠み、読書にふけって
その所蔵していた書物は数千百巻を数えたという記述は、氏康が実にバランスのとれた知勇兼備の名将
であったことが容易に想像 され、私はこれらのことを読み続けていたためその詳しいことは忘れてしまっ
ても北条氏康への特別な畏敬感だけは抱きつづけていたのだろうと思う。
秀吉の小田原城攻めの大きな包囲網図が壁一面に掲げられているところがあるが、これは圧巻であり、
初めて小田原攻防戦の実感がわかった図面であった。
なにしろ、当時の小田原城は東は市のはずれである酒匂川を外堀とし、西は箱根の近く、現在の小田
原市の外になるところまで城郭を張り巡らし、現代の小田 原市がすっぽりと入るくらいの規模になってお
り、これを二十五万の大軍でびっしりと囲んだのである。しかもその包囲する各地点に配属された武将は、
徳川家 康、蒲生氏郷、小早川隆景などの綺羅星のごとくの戦上手の名将たちであり、海上には、毛利、
九鬼、松浦の水軍の軍船がびっしりと浮かんで海上補給を封鎖し ているのだから、攻める方も守る方も
とにかくその壮大さに圧倒されてしまう。小田さんも呆れて、「まあ、よくこれだけの広がった軍勢を電話も
無線もなかっ た時代に軍令伝達を迅速にやれたものですね」と言ったが、まさしく同感で秀吉もすごい男
だと思ってしまったのである。
それでいながら小田原城は百日間持ち、それも秀吉は力攻めではついに落とすことができず、持久戦
に持ち込んで北条方の内部籠絡を働きかけて徐々に志気を おとしめていき、やがて城主、氏直をして降
服開城に踏み切らせたのであるから、小田原城は物理的には落城した城ではないのである。
この小田原城攻防戦に参戦した大名たちはそれぞれの居城に小田原城を手本とした根本的な大改築
工事を決行し、日本の城郭史上の画期的な変革になったそうであり、不落の天下の名城として長く後世
にまで称えられ続けたのはこのゆえんであるそうだ。
「後北条氏百年の善政」という言い方は歴史好きの人間だったら誰でも聞いたことがあると思うが、戦
国時代には六公四民、ひどいところは七公三民という年 貢の取り立てをしていたのを北条氏は早雲以
来代々四公六民をつらぬきとおして領民を非常に愛撫したそうである。この善政があったからこそ、武人
も民間人も 強く団結して小田原城は百日間持ちこたえたのだろう。
役師が「小田原評定という言葉は、揶揄的な悪い意味で使われますが、合議制を重んじたその行政制
度は民主主義に非常に近く、近年は再評価するむきも出てきているのです」と仰られていたが、本当に
そうだろうと思う。
開城後、主戦を主張した氏政(当主、氏直の父)とその弟が責任をとらされて秀吉の命で切腹し、氏直
は高野山におもむいて小田原北条氏は滅びるのだが、切 腹した氏政は古来から現在に至るまで、早雲
以来、名君ぞろいの北条氏の中で唯一暗愚であったため、天下の趨勢も秀吉の器量も見抜けず北条の
家を破滅に追い やったと酷評されているが、私にはこの氏政だってそんなに暗愚な人とは思えない。
かたくななところがあったかも知れないが、最後の最後まで降服に反対した のだから武人としての強い
信念を持っていたのだと思う。要するに父親や祖父、曾祖父がみな偉すぎたのであり、特に父親と曾祖
父は並はずれた偉さであったた め、普通の能力を持っていても後世から見ればひどく見劣りしたのだろう。
秀吉の籠絡作戦に乗って北条氏に反逆したのは歴代の重臣では松田将監ただ一人であり、氏直が高
野山に追放されるとき、命令に反しても氏直に従おうとした 将兵が多かった事実は、甲斐の武田家が信
玄の子の勝頼の代で滅亡するとき、歴代の重臣も一族の者も皆裏切り、勝頼が自害するときに付き従っ
てきたのは女子 供や無名の兵士だけだったという事実とくらべるとき、つくづく後北条氏百年の善政とい
う言葉を実感する。
解説文を読み、その壮大な包囲網図をながめた後にその場を離れるとき、私の心のなかで北条氏への
深い追悼の気持ちがわき起ってくるのをどうしようもな かった。民衆にとっては酷薄無惨なあの戦国時代
のほぼ初めから終わりまで、小田原城下を一度も敵軍の蹂躙に任せることを許さず善政で領民を守った
後北条氏 への深い敬意と、小田原城落城と共に四散していった北条一族とその家臣たちのその後の苦
難への哀悼の気持ちがそうさせるのだろう。私はこのようなことにた いへんオセンチなのである。
この私のやるせない気持ちを代弁してくれる適切な漢詩はないかと思ったが、そのようなたぐいのものは
覚えていなかった。私が小田原の地に若き日から惹か れ続けてきたのはこのようなことをかつて書物で
読んで得た印象が私の心の内部で醸成され沈殿していたからなのだろうとこの小田原城を訪ねてみて初
めて解っ たのである。
天守閣最上階に登ったとき、役師と佐々木さんが休憩所で談笑していたが、「いや、皆さんの勉強熱心な
のには驚いた」と佐々木さんが言われたが、確かに私だ けではなく、みんな随分熱心に展示物を観察され
ているようで、小田さんも青木さん、佐野さんもまだ姿を現していなかった。まあ、それだけ小田原城は感銘
深 いものを訪れる人に与えるのであろう。小田原城を去るとき、訪れることができて本当に良かったという
深い満足感と、よりいっそうの後北条氏と小田原城への 愛着を感じたものである。