『日本人の誇り、佐久間艇長』
(佐久間艇長に関する修猷館高校学年同窓会ホームページにおけるやりとり)

#1268 ヒサオーモ・リワキーノさん  [ 2002/01/23 10:43:08]
メイン欄で小柳先生のメッセージを拝見し、久しぶりに胸の血潮が騒ぎました。

その中で触れられていた佐久間艇長のことが一般の人に知られるようになったのはここ十数年前く
らいのことです。
以下はうろ覚えに覚えている文藝春秋誌に書かれた佐久間艇長についてのエピソードです。
何の式典かは忘れましたが、それに参加するため来日した英国海軍の提督が日本人関係者や記者
団の前で開口一番に口にしたのが佐久間艇長の墓を見たい、彼の事跡を見たい、という希望でした。
居合わせた日本人の中で誰一人、佐久間艇長の名を知るものがなく、大慌てで調べた結果、潜水艇
事故で殉職した明治時代の海軍軍人のことが判明したそうです。
佐久間艇長は潜水艇が浮上せず、状況が絶望的と解った時点で事故原因解明の役に立つようにと
事故に至るまでの経過、その原因となりそうな諸観察を書きとどめ、最後に死んでいく10数人の部下
達の遺族への国家の保護を願う、といった内容の遺書を残したのが発見され、日本国民を感動させた
のでした。
そしてこの話が英国の海軍学校の教材に載って、多くの英国海軍軍人を感動させていたのでした。
誇り高き英国軍人にまで尊敬された沈着冷静で情誼に厚い日本人を我々戦後の日本は忘れてしま
っていたのです。
軍人であるという理由だけで、どれだけ多くの優れた日本人が戦後に忘却の彼方に追いやられたこ
とでしょう。彼らの無念さを思うとやりきれなさを感じずにはおれません。

#1270 ヒサオーモ・リワキーノさん  [ 2002/01/23 17:19:34]
インターネット検索で佐久間艇長のことが記されたHPが見つかりました。

解説
http://www.sun-inet.or.jp/~hba7615n/kaigun07.htm
遺書
http://www.hokuriku.ne.jp/montanyu/sakuma100.htm
肖像写真
http://www4.ocn.ne.jp/~yoshirin/sakuma/sakuma.html

3番目の肖像写真のHPは小学校の先生が作ったものでその冒頭は下記の書き出しになっておりま
す。

明治43年4月、広島湾で潜水艇が訓練中沈没した。
その潜水艇が引き揚げられたとき、13名の艇員は全て整然として部署についたまま絶命、艇長の佐
久間勉は事故が起きた午前10時から死に至る12時40分まで、司令塔から洩れる微かな光を頼り
に事故に至る詳細な経過を手帳の39頁にわたって記録。
当時、世界の人々を驚倒させた事件である。
今も世界各国の潜水学校で尊敬されている佐久間艇長と艇員の方々。
戦前にはこのような日本人がいたということを子供たちに知らせたいと願い、授業プランをつくった。

佐久間艇長遺言
 小官の不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死
ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ 我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト
雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ 以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フル
ニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ 希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発
展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ サスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ

沈没原因
 瓦素林潜航ノ際 過度深入セシ為「スルイス・バルブ」ヲ諦メントセシモ 途中
「チエン」キレ依ッテ手ニテ之シメタルモ後レ後部ニ満水 約廿五度ノ傾斜ニテ沈降
セリ

沈拒後ノ状況
一、傾斜約仰角十三度位
一、配電盤ツカリタル為電灯消エ 悪瓦斯ヲ発生呼吸ニ困難ヲ感ゼリ 十四日午前十
  時頃沈没ス 此ノ悪瓦斯ノ下ニ手動ポンプニテ排水ニ力ム
一、沈下ト共ニ「メンタンク」ヲ排水セリ 燈消エ ゲージ見エザレドモ「メンタン
  ク」ハ排水終レルモノト認ム 電流ハ全ク使用スル能ハズ 電液ハ溢ルモ少々 
  海水ハ入ラズ 「クロリン」ガス発生セズ残気ハ五00磅(ポンド)位ナリ 唯々頼ム所ハ
  手動ポンプアルノミ 「ツリム」ハ安全ノ為メ ヨビ浮量六00(モーターノト
  キハ二00位)トセリ (右十一時四十五分司令塔ノ明リニテ記ス)

溢入ノ水ニ溢サレ乗員大部衣湿フ寒冷ヲ感ズ 余ハ常ニ潜水艇員ハ沈着細心ノ注意ヲ
要スルト共ニ大胆ニ行動セザレバソノ発展ヲ望ム可カラズ 細心ノ余リ畏縮セザラン
事ヲ戒メタリ 世ノ人ハ此ノ失敗ヲ以テ或ハ嘲笑スルモノアラン サレド我レハ前言
ノ誤リナキヲ確信ス
 
一、司令塔ノ深度計ハ五十二ヲ示シ 排水ニ勉メドモ十二時迄ハ底止シテ動カズ 此
  ノ辺深度ハ八十尋位ナレバ正シキモノナラン
一、潜水艇員士卒ハ抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス カカルトキニ困ル故 幸ニ
  本艇員ハ皆ヨク其職ヲ尽セリ 満足ニ思フ 我レハ常ニ家ヲ出ヅレバ死ヲ期ス 
  サレバ遺言状ハ既ニ「カラサキ」引出シノ中ニアリ(之レ但私事ニ関スル事言フ
  必要ナシ田口浅見兄ヨ之レヲ愚父ニ致サレヨ)

公遺言
謹ンデ陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭
ニ懸ルモノ之レアルノミ

左ノ諸君ニ宜敷(順序不順)
一、斎藤大臣  一、島村中將  一、藤井中將  一、名和中將  一、山下少將
一、成田少將  一、(気圧高マリ鼓マクヲ破ラル如キ感アリ)  一、小栗大佐 
一、井手大佐  一、松村中佐(純一)  一、松村大佐(龍)  
一、松村小佐(菊)(小生ノ兄ナリ)  一、船越大佐   一、成田綱太郎先生 
一、生田小金次先生

十二時三十分呼吸非常ニクルシイ
瓦素林ヲブローアウトセシ積リナレドモ ガソリンニヨウタ

一、中野大佐

十二時四十分ナリ

ここで佐久間艇長は息絶えたのでしょう。
遺書文中の
「謹んで陛下に申す、我が部下の遺族をして窮するもの無からしめ給わらん事を、我が念頭に懸かる
ものこれあるのみ」
を読んで心を動かされない人は人間では無いでしょう。

#1275 woodmanさん  [ 2002/01/24 7:24:51]
リワーキ殿
大変貴重な資料有り難く拝見しました。
この話は全く初耳です。
感動と言うか胸が痛くなりました。もの凄い人物が我が国におられた事を誇りに思います。
プロジェクトXXXXXXX位で現在の日本人、特に政治屋、木っ端役人に見て欲しい。

#1283 駄才さん  [ 2002/01/27 14:39:07]
>メイン欄で小柳先生のメッセージを拝見し、久しぶりに胸の血潮が騒ぎました。
>その中で触れられていた佐久間艇長のことが一般の人に知られるようになった
>のはここ10数年前くらいのことです。

リワキーノさん、佐久間艇長の行動については聞いたことがありましたが、詳細は今回初めて知りま
した。御紹介有難うございます。関連のサイトも見ました。また、佐久間艇長の遺書に感動して漱石
が認めたと小柳先生が記されている評論「文芸とヒロイック」も読んでみました。

>何の式典かは忘れましたが、それに参加するため来日した英国海軍の提督が日本
>人関係者や記者団の前で開口一番に口にしたのが佐久間艇長の墓を見たい、彼の
>事跡を見たい、という希望でした。

小柳先生の講演の演題は「感動を奪われた子供たち」ですが、佐久間艇長の遺書が発見され、それ
が新聞に発表された時、日本中が感動したといいます。漱石だけではなく、与謝野晶子もそれに深く
感じいって歌を作ったとありました。そして、貴兄が紹介されているように、英国海軍がこの行為を教
訓としていることも知りました。
なぜ、佐久間艇長の行為は、日本人だけでなく英国人にまで感動を与えたのでしょうか?
この点について貴兄は次のように書いています。

>誇り高き英国軍人にまで尊敬された沈着冷静で情誼に厚い日本人を我々戦後の日本
>は忘れてしまっていたのです。

つまり、英国軍人が感動したのは、佐久間艇長の行為が「沈着冷静で情誼に厚かった」からだと。
この通りだと思いますが、漱石は、「文芸とヒロイック」の中で、英国海軍で起きた次のような事故を紹
介しています。
「往時英国の潜航艇に同様不幸のあった時、艇員は争って死を免れんとするの一念から、一所にか
たまって水明かりの洩れる窓の下に折り重なったまま死んでいたという。」
漱石は、これを「本能の如何に義務心より強いかを証明するに足るべき有力な出来事である。」と述
べ、佐久間艇長の行為が人間の強い本能に逆らって義務を遂行したことに感動の源泉を見出してい
ます。

私には佐久間艇長は、沈没する潜水艇の艇長として、きわめて合理的かつ積極的な行動をとったと
思われてなりません。まず事故に当って、部下と共にそれを修復すべく最大限の努力を行った。そし
て、最終的にそれが不可能と判断すると、助からない以上、事故の原因とそれに対する措置の報告
書を認めようとした。これは、艇長も書いている通り、今後の参考に処するためです。そのような方策
は、あるいは事故処理の規定にあったのかもしれません。しかし、云うや易く行うは難しで、実際には
なかなか取れるものではありません。
英国海軍をも感動させたこの「冷静沈着な」行為を佐久間艇長が取れたのは、おそらく日頃から軍人
として「死」に向かい合っていたからだと思います。「死の覚悟」と合理的・前向きな精神が、この困難
に処して、佐久間艇長をして「冷静沈着な」行動をとらしめた要因だろうと思います。

最後になりましたが、実は私がこの件で投稿したのは、上述のことを言うためではありません。リワキ
ーノさんにお伺いしたいことがあるのです。貴兄は、上の引用した文の後半で、次のように言われて
います。
「冷静沈着で情誼に厚い日本人を我々戦後の日本は忘れてしまっていた。」
リワキーノさん、なぜ戦後の日本人はこの漱石のいう「ヒロイックな」行為を、忘れたのでしょうか?あ
るいは忘れさせられたのでしょうか?私はこの点に深い関心があります。
それは、小柳先生の言われるなぜ子供たちは感動を奪われたのかという問いと関連があるように思
われるからです。貴兄はそれがどうしてだとお考えですか?もしもお考えがあれば、ご意見を聞かせ
ていただけないでしょうか。私も考えてみますので。

#1286 ヒサオーモ・リワキーノさん  [ 2002/01/29 16:03:19]
駄才さん

佐久間艇長が日本人だけでなく英国人まで深く感動させたことへの貴兄の論理的な分析を拝見して
さすが駄才さん、と思いました。見事なものです。
このような深い掘り下げをしていただいたことによってこの話題は一際精彩を放つかのように思われ、
投稿した私もとても嬉しいです。

>最後になりましたが、実は私がこの件で投稿したのは、上述のことを言うためではありま
>せん。リワキーノさんにお伺いしたいことがあるのです。貴兄は、上の引用した文の後半
>で、次のように言われています。
>「冷静沈着で情誼に厚い日本人を我々戦後の日本は忘れてしまっていた。」
>リワキーノさん、なぜ戦後の日本人はこの漱石のいう「ヒロイックな」行為を、忘れたの
>でしょうか?あるいは忘れさせられたのでしょうか?私はこの点に深い関心があります。
>それは、小柳先生の言われるなぜ子供たちは感動を奪われたのかという問いと関連がある
>ように思われるからです。貴兄はそれがどうしてだとお考えですか?もしもお考えがあれ
>ば、ご意見を聞かせていただけないでしょうか。私も考えてみますので。

真摯にお尋ねになる駄才さんの期待に添えるかどうか自信は無いのですが、私の考えを述べてみ
たいと思います。謙遜で言っているのではなく、私は論理的思考は苦手でございまして経験的、感
覚的に感じたことを記していくしかありませんので、それを駄才さんが分析し、あるいは反論、批判
し、形のある論議になるようまとめてくださったら大変有り難いです。

何故、日本人は戦後に漱石のいう「ヒロイックな」行為を忘れてしまったのか?
それはまず第一に戦争に負けたからだと思います。そして悪いことに、大東亜戦争に負けたとき、日
本が一方的に悪かったと国民の大多数が信じ込んだ(信じ込まされた)ことが大きな原因ではないで
しょうか。
人類の長い歴史の中には戦争に負けた国家なんてたくさんありますが、自国がすべて悪かったなん
て信じ込む国なんて日本ぐらいなものでしょう。
そんな自国が一方的に悪くて戦争を起こし、しかも負けてしまった、そんな風に国家の進路を誤った
方向に持っていったと信じ込まされて、戦前の指導者階級及びそれまでの価値観を国民が信用しな
くなったのでしょう。ついでに軍国主義がいけなかったということで(私はこの軍国主義という考え方が
イマイチよく解らないのですが)連合国の命じるままに軍隊を手放し、軍人、軍隊というものを何か不
当な存在、本来あってはならないものと日本国民が思いだしたことも戦前の価値観をかなり否定する
ことに走らせ、ヒロイックなものも忌まわしいものに感じさせたのだろうと思います。
これには日本を再びアメリカの強敵となるような状況だけには絶対にさせないというアメリカの占領政
策も大きく影響していると思います。
アメリカは最終的には圧勝というかたちで日本に勝利しましたが、大東亜戦争の死闘を通じて、日本
軍の死力を尽くして闘う敢闘精神にアメリカは心底恐怖したと聞いております。
二度とこのような恐るべき軍隊、死も恐れぬ軍人を作らせてはいけない、という教訓のもと、日本人の
精神の崇高さを高めるような教育、伝統行事、慣習といったものを厳しく制限したことも多くの日本人
が戦前の優れた人のことを忘れていく原因になったと思います。

次に、これは物議をかもす発言となるかもしれませんが、人命尊重を最大の優先事にしてしまって精
神の崇高さを二の次にしてしまったことも原因の一つにあるのではないでしょうか。
人の命は地球より重い、なんてキャッチコピーのようなフレーズを安易に振り回し、命よりも大切なもの
が人間の世界にはあるということを忘却してしまったことが諸悪の根元だと私は思っております。
責任感ゆえ、義務感ゆえ、信義ゆえ、正義ゆえ、などの大義の前には命も張ると言うような骨太な精
神は敬遠され、人命尊重主義に抵触しないほどほどの精神性を尊重する、そんな雰囲気が日本の戦
後を覆ったため、文化人、経済人、技術者の世界での無難なヒロイックな話題がもてはやされたので
はないでしょうか。
プロジェクトXを見るとそれも十分、日本人を感動させますが、軍人である佐久間艇長や広瀬中佐、乃
木将軍のような命を張った人たちのヒロイックなエピソードも一国の精神的教育には必要なのではと
思います。しかし悪しき軍国主義を連想させるそれら軍人のヒロイックな物語は論外だったのでしょう。

以上、多少はお答えになったでしょうか。
見当違いなことをいろいろ書いてしまったのかも知れませんが。

#1312 駄才さん  [ 2002/02/03 10:17:56]
>何故、日本人は戦後に漱石のいう「ヒロイックな」行為を忘れてしまったのか?

リワキーノさん、さっそくお返事有難うございます。たちどころに答えが返ってきて驚いています。

私が疑問だったのは、佐久間艇長の行為は、戦闘時における行動ではなく平時における事故に対す
る措置であったのに、なぜ日本人は忘れた(あるいは忘れさせられた)のだろうかということでした。
戦闘行為における「ヒロイックな」行動が忘れられたことは、あの負けいくさの記憶を忘れたい、あるい
は戦争そのものがいけなかったのだと思いたい(あるいはそう思わされた)日本人の心情から来てい
ると考えると理解できないわけではありません。
しかし、平時の事故処理であり、しかも「情誼に厚い」佐久間艇長の行為−それは外国人をも感動さ
せたように普遍的な価値を持っている−までをも忘れた(忘れさせられた)のはなぜでしょうか?
おそらく答えは、貴兄が指摘しているように、「軍国主義がいけなかった」として「軍人、軍隊というもの
を何か不当な存在」のように扱い、戦前の軍人や軍隊の行為を何から何まで−その中には素晴らし
い行為も含まれているのに−否定したことにあるのだと思います。そのような精神はやはり合理的で
健康的な精神とはいえません。
戦前の軍隊の非合理性や不健康さを非難する人は、佐久間艇長のような行為までも否定する戦後
の精神も同様に非難しなければならないはずです。しかし、それはなされませんでした。戦後はよくて
戦前は(特に軍隊に関するものは)悪いとする極端で単純な思考が支配的になりました。それは米国
の占領政策の成功であるのかもしれませんが、私にはいかにあの敗戦が日本人の心に大きな傷を
与えたかの証左だと思われるのです。

>これは物議をかもす発言となるかもしれませんが、人命尊重を最大の優先事にして
>しまって精神の崇高さを二の次にしてしまったことも原因の一つにあるのではないで
>しょうか。

この点はより深い問題を孕んでいると思われるので、次回に議論させて下さい。
とりあえず、今日のところはこれだけで。

#1319 ムー和尚さん  [ 2002/02/12 14:26:56]
>その中で触れられていた佐久間艇長のことが一般の人に知られるようになったのはここ10数年前
くらいのことです。

何処かで読んだ憶えがあって心に引っかかっていたのですが、やっと思いだしました。
昔、親父の書棚の中に「教養全集」なる本がありました。
逸話篇とか、哲学篇とか、落語篇なんてのもあって、古めかしい装幀の各巻が500ページ内外の、
全部で12,3巻ありました。
本文は旧かな、総ルビでしたから、少なくとも戦前、あるいは昭和初期のものかもしれません。
判りやすい内容のものだけ拾い読みしておりましたが、その逸話篇の中に佐久間艇長のことが書か
れていました。司令塔の薄明かりの中で遺書を書いている姿の挿し絵があったことも憶えています。
我が寺の第一次移転の際に処分したので、この全集がどの程度売れたか判りませんし、何時出版
されたのかも不明ですが、逸話として載せられているということは、あまり人口に膾炙されなくなって
いたということでしょうか?
であれば、
>軍人であるという理由だけで、どれだけ多くの優れた日本人が戦後に忘却の彼方に追いやられた
ことでしょう。
このことは既に、戦前にも兆候があったということでしょうか?
でも、文部省唱歌にもなってあまりに有名な、旅順口閉塞の折に逃げ遅れた部下の杉野兵曹を捜し
ていて自分も戦死した広瀬武夫中佐の逸話もありましたから、それなら当時は佐久間艇長のことも
一般にしられていたのでしょうか?
結局役立たずのおしゃべりになってしまいました。ごめんなさい。

#1323 ヒサオーモ・リワキーノさん  [ 2002/02/13 22:41:24]
和尚さん

>昔、親父の書棚の中に「教養全集」なる本がありました。
>逸話篇とか、哲学篇とか、落語篇なんてのもあって、古めかしい装幀の各巻が500ページ内外の、
全部で12,3巻ありました。
>本文は旧かな、総ルビでしたから、少なくとも戦前、あるいは昭和初期のものかもしれません。

その全集、人手に渡ったとは実に惜しいことですね。
私が知っていたら購入させてもらいましたものを。
我が家にも亡父が残してくれた『茶飲み話』という古い本があるのですが、現在の日本ではおよそ手
に入らないような珍しいエピソードがいろいろ載っているのです。

>判りやすい内容のものだけ拾い読みしておりましたが、その逸話篇の中に佐久間艇長のこ>とが書
かれていました。司令塔の薄明かりの中で遺書を書いている姿の挿し絵があったこ>とも憶えていま
す。

そのような逸話であふれかえっているような本なのでしょう。
お聞きしているとその本を読みたくて気持がウズウズしてきますね。
国会図書館を探せばあるのでしょうか。

>>軍人であるという理由だけで、どれだけ多くの優れた日本人が戦後に忘却の彼方に追い>>やられ
たことでしょう。
>このことは既に、戦前にも兆候があったということでしょうか?

いえ、戦後の現象だと思います。

>でも、文部省唱歌にもなってあまりに有名な、旅順口閉塞の折に逃げ遅れた部下の杉野兵>曹を捜
していて自分も戦死した広瀬武夫中佐の逸話もありましたから、それなら当時は佐>久間艇長のこと
も一般にしられていたのでしょうか?

広瀬中佐ほどの知られようでしたら戦後、来日した英国海軍武官が佐久間艇長のことを話題にしたとき、
知っていた日本人が誰かいたことでしょう。
どれかのHPに載っていた記事なのですが、事故当時、関係者はこの事故のことを故意に隠そうとした
ふしがあるそうです。
漱石が本に書き、与謝野晶子が歌に詠んだのですから、一般国民も知っていたことでしょうが、その後、
広瀬中佐や橘大佐のように美談として大々的に喧伝されなかったから忘れ去られたのではないか、と
思います。
明治天皇が崩御されたときに殉死した乃木大将夫妻のことも最初、関係者たちは公にすることを妨げよ
うとしたらしいですが、乃木大将を深く慕う周りの人たちの激しい反撥に遭って将軍夫妻自刃の事実は
余すところなく世間に公にされたようです。
広瀬中佐の死は戦場での出来事です。
乃木大将は明治天皇に対して個人的に忠義の臣を任じており、人生の後半に入った時点で明治帝に
殉じることを決意していたと言われてます。
それに対して佐久間艇長は平和な時代に起きた事故の中で、死を目前にしてあのような沈着にして
冷静、かつ理性的に人事の限りを尽くし、呼吸がもうこれ以上持たないと自覚した時点で筆致を早め
て少しでも多くのことを書き残そうとしながら、結果的に誤字脱字の無い見事な手記を潜水艇の中に
残したのです。
窒息死という苦しさの中で死を目前にしながら死の恐怖に支配されなかったこの軍人というよりも一
個の強固な克己心を持った人間の存在を知ったなら、ハンニバルやアレクサンダー大王、ユリウス・
カエサルのような世界史上の超一流の人物たちでも感動の思いを隠せなかっただろう、と私は確信
いたします。
このような希有の人物を我々日本人は忘れ果ててしまって外国人に指摘されるまで思い出しもしなか
ったこと、大いに恥じ入るべきだと思います。
ついでに言わせてもらえば、江戸時代に破産寸前の上杉藩藩財政を立て直した名君、上杉鷹山はケ
ネディー大統領が最も尊敬する日本人と発言したことから、日本のマスコミは「上杉鷹山って誰だ?」
と色めき立ったそうですね。
まあ、とにかく敗戦後は外国人の方が優れた日本人を良く知っていること!
どうしてこんなことになるんでしょうね?

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