オーナーの葭谷ご夫妻が大歓迎してくださり、蕎麦とうどんの両方のメニューを注文した
若い二人は「美味しい!」の連発。
アイスコーヒまでサービスしてくださって有り難いことでした。
後は熊野街道をひたすら南進し、大台ヶ原との分岐になる伯母谷トンネルをくぐり抜けた
出口すぐを右折して和佐又山ヒュッテを目指して山道を登っていきます。
「このトンネルはね。7、8年前にKO−BUNさんと一緒に真夜中に通ったとき、亡霊を見
てね・・・」と私が語り出すと、「リワさん、やめて!私、怖い話、絶対に駄目なのです!夜、
思い出すとトイレにも行けなくなります!」とミホさんが叫び声をあげます。
もちろん、すぐに私はお口にチャック。
確かに夜一人でいるときに「リンク」とか「ネジの回転」の映画のシーンを思い出すと、相当
怖いですもんねぇ。
この話はまた、別の機会に紹介いたしましょう。
和佐又山ヒュッテに着いたのは午後2時半。標高千メートルのところにあるヒュッテです。
冬はスキー場となります。
ヒュッテオーナーの岩本さんとはもう20年近くのお付き合いになりますが、いつも変わらぬ
暖かく、穏やかな表情で迎えて下さいます。70才目前とは思えないようなお若さです。
今日は奥様がお留守とかでお会いできなかったのが残念でした。代わりにお嬢さんがま
かないをされておりました。
お嬢さんもなかなかの美人なのですが、写真撮影は大の苦手とか。ご紹介できないのが
残念です。
挨拶を済ませると、大普賢岳への登山コースの途上にある笙ノ窟に向かって私たちは出
かけていきます。和佐又山ヒュッテの飼い犬「和佐又号」(私が命名した名前です。初めて
ここに来たときから何代目かになっているはず)が私たちを案内するかのように前を歩い
ていきます。私たちが道草を食うとさりげない風で先のほうで待ち、常に一定距離をもって
私たちをリードしてくれます。後で岩本さんにお聞きした話では、ザックやリュックを背負っ
た人がゲレンデにいると必ず、その前を先導するとか。
和佐又山ヒュッテから笙ノ窟までの緩やかな尾根はブナやヒメシャラの宝庫なのですが、
嬉しかったのがハヤト君がこれらの樹木だけでなく、他にも地上では珍しい高山にしか植
生しない樹木がたくさんある、とこの山域の樹木の種類の豊富さに賛嘆の声を挙げたこと
でした。
ハヤト君は京都での造園修行に励んでいるとき、ほとんどの時間が樹上だったと言うので
すが、それがうなづけるくらい木登りが上手で、アッという間にこのように高い木に登って
いきます。
ハヤト君は京都で樹木の診断なども勉強したそうで、尾根に生える一見何も異常の見受
けられないようなブナや山桜の木でも害虫に犯されていることを見破るのでした。右側の
写真の穴が害虫が進入していった痕跡だそうで、この程度の段階なら手当が早ければ樹
木は救える可能性があるとのことでした。
プロムナード的な緩やかな尾根が終わってやや道が急になってくると巨岩の壁が続く大峯
らしい岩場尾根となってきます。
千数百年前から修験者たちが籠もり行をやってきた大峯屈指の名高い行場、笙ノ窟に到着。
まだまだこの先、見せ場が連続するのですが、体長が万全でない私はここで彼らに引き
返すことを伝えました。
ヒュッテに帰り着くと、岩本さんが谷で収集してこられたのでしょう、たくさんのワサビがテ
ーブルの上に置いてありました。
和和又山ヒュッテはこの近辺の村の廃屋小学校の校舎を解体して山上に運び上げ、組み
立てたそうです。
4つの大部屋で成り立つ小屋の中の一つの部屋に我々は入りましたが、木製の風呂でゆ
っくり浸かってきたハヤト君も清潔感溢れる小屋の内部の雰囲気に大満足の気味でした。
部屋の仕切り戸に張られた注意書きに私は目を釘つけにされました。
以前、吉野生まれで吉野育ちのKO−BUNさんに吉野地方の方言の特徴として、「だ」行
と「ざ」行の発音の区別がつかないことを教えてもらったことがあり、たとえば「蔵王堂(ざ
おうどう)」だったら「だおうどう」と発音し、「金沢」だったら「かなだわ」となるそうなのですが
、その実例を目の当たりに見る思いでした。
張り紙にはこう記してあるのです。
「お客様へ お部屋の使用は午後4時から午前10時”まぜ”です。」
ここでは「だ」行が「ざ」行に変換されていますね。
さあ、夕食です。今日はヒュッテ泊まりの客は私たちだけ。こんなことはここを利用するよう
になって20年来、初めてのことです。
料理はイノシシ鍋で、美味しかったですね。
こうして第一日目は過ぎて行きました。
(続く)