光厳院(こうごんいん)のこと。   by リワキーノ 2006.04.20

14世紀の初めに鎌倉幕府を倒そうとして兵を挙げた後醍醐天皇がもろくも破れて捕らえられて
隠岐の島に流された後、幕府によって天皇にさせられたのが光厳天皇です。

後醍醐天皇は退位を拒否し、やがて隠岐の島から脱出して倒幕の兵を挙げて各地に転戦した
ため、これ以降、後醍醐天皇の系列を南朝、光厳天皇の系列を北朝とする、日本の歴史上初
めて二つの皇統が並立するといういわゆる南北朝時代が始まるのです。
後醍醐天皇に味方した足利尊氏や新田義貞によって鎌倉幕府が滅ばされた後、光厳天皇とそ
の皇子たちは捕らえられ、光厳天皇の処遇は「天皇として即位はしていないが特例として上皇
待遇とする」とされることになったのです。

後に後醍醐天皇の建武の新政が失敗し、足利尊氏を筆頭とする武家集団が叛旗を翻し、尊氏
によって光厳上皇の弟の光明天皇が皇位につけられると後醍醐天皇ら南朝方は吉野に逃げ去
って南朝を開き、ここから歴史上正式に南北朝の並立が始まるのです。

ところが今度は足利尊氏と弟の直義が不仲となり、その内紛につけこんで吉野から京都に攻め
込んできた南朝軍(このときは後醍醐天皇は死んでいて息子の後村上天皇となっている)によっ
て足利軍は破られて京都から追われ、置き去りにされた光厳上皇、光明天皇らは南朝の捕虜と
なってしまい、やがて勢いを取り戻した足利軍が京都に攻め込んできたとき、南朝軍は吉野に撤
退するとき、光厳上皇、光明上皇、崇光天皇らを連れ去り、3人の北朝の上皇、天皇らは10年
以上も吉野の賀名生に軟禁されるのです。

やがて南北朝の融和政策が推し進められるなか、軟禁されていた北朝の天皇、上皇らも京都に
帰ることができたのですが、すっかり世の中の無常に心をいたされた光厳院は仏門に入り修行と
詩歌を読まれる生活に入られたのです。そして50歳を迎えられたときに一介の放浪僧としてただ
一人の従者だけを伴って南北朝の戦乱で死んでいった戦死者の追悼を兼ねた行脚の旅に出る
のです。

その放浪の旅の途中、紀ノ川の狭い橋を渡るときにもたもたする上皇を荒くれ武士二人が突き
飛ばして川にはまられるという難儀にも遭いながらも吉野の後村上天皇の元にも訪れ、お互い
涙を流し合うという感動の再会を果たし、父祖以来の南北朝の対立の怨恨を解消させるのです。
ちなみに乱暴な二人の武士は後に自分が突き落とした相手が光厳院であったことを知って、ひど
くその罪障の重さに恐れおののき、出家して上皇を追っかけてきてお伴をさせてくれと懇願する
のを上皇はなんとか言いくるめて諦めさせるのです。

この行脚の旅のあと光厳院は丹波の山国に常照皇寺を建立され、ここでひっそりと篭もられてや
がて穏やかな生涯を終えられたのです。
「光厳院御集全釈」(岩佐美代子著)の光厳院の生涯の記述の最後に院の遺言として下記のよ
うに記されてます。

1.私の死後、世間並みの葬儀に人手を煩わしてはならぬ。そっと山の麓に埋めよ。その塚の上
に松や柏が自然に生え、風や雲が折々行き交うなら、それこそ私のよき友だ。もし山民村童が手
すさびに小塔でも建ててくれるなら、それもまたよい。このように言うのは、ただ皆の労力を省くた
めだ。その意味では、火葬にするもよい。一切の法事は不要である。
1.中陰の間、一箇所に籠もって特別な仏事を行うにも及ばぬ。専心に仏道修行を行う場は、どこ
であれ私の追福の場である。堅く仏戒を守る人は、誰であれ私を追福する人である。檀家の志に
よって当寺に僧侶を止住させるなら、一人二人でも閑居に耐えて座禅誦経せよ。一定の忌日の供
物読経以外、大袈裟な法要はいらない。私に報恩の志ある人が、安らかに静かな日常の中で修
行に励む事こそ望ましく、すべての供養はこれで足る。いやしくも仏道に真に参入しようとする者な
ら、このように誡めるにも及ぶまい。もし檀家から布施があれば、作法通り仏・僧に施し、もし余れ
ば寺の経営の補いにせよ。これは住僧を保護するためであるから、これをもって私のために志を
養ってほしい。沢山の供物をする事で私の追福報恩をしたと誤解してはならぬ。よくこれを理解し、
仏道に勉めよ。


光厳院は生まれながらにして、この国の天皇たるべく教育され、不幸にも土崩瓦解の乱世の中に
立って、誠実にその天命を果たさんとし、類い希な流離と幽囚を味わい、最後に民の不幸を我が
責任として戦死者の慰霊贖罪を果たした上、身分も愛憎もすべてを捨て去って、山寺の一老僧と
して生涯を閉じた。我が国歴代中、自らの地位に対して明白に責任を取ることを、身をもって実現
した天皇は、光厳院一人であったと言っても過言ではない。
(岩佐美代子氏の「光厳院御集全釈」から)

参考資料
「光厳院御集全釈」(岩佐 美代子著 風間書房)
「地獄を二度も見た天皇 光厳院」 (飯倉 晴武著 歴史文化ライブラリー)

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