熊野修験・大峯奥駈修行秋の峯入りのサポート(3)   by リワキーノ  2010.09.09〜12

(3)は赤井さんから画像を提供してもらったので綺麗な画像を掲載することができました。
赤井さん、有難うございます。

大普賢岳から張り出した岩場の上に乗って奥駈隊の到着を待つ私たち。(赤井氏撮影)


大普賢岳に登る途中の笙の窟付近で最初に法螺貝の音を聞いたときは頂上着40分前。
そして頂上で法螺貝を聞いてからも待つこと1時間20分ほどしてやっと奥駈隊が到着。
六根清浄!のかけ声を上げながら大普賢岳の短いけれども急な登りを上がってきます。


2番手は高橋さん。初めての装束姿での奥駈なのに着付けが乱れておりません。
8時間も登ったり降りたり、またいだり、はいずったりの歩行が続いた上でのこれですから立派な着こな
しです。


昨夜弥山小屋でひどい下痢に苦しめられ、今日は食欲がほとんど無かったと聞いていた高木導師も
到着。気力でたどり着いたようなものです。


続々と登ってきますが、良すぎる天気に皆さん、かなり消耗している感じです。


怪物藤本さんは余裕綽々。ごっつい一眼レフのデジカメを持って隊列の前後を行ったり来たりしながら
みんなの写真を撮り続けてきてのこの元気さです。御年68歳。


休憩に入る前に頂上で勤行です。


そして荷揚げした水を銘々水筒に入れてもらい、お茶、バナナ、ブドウなどを召し上がってもらいます。

この晴天下、多くの人の水筒が空になっており(ここでの補給を知っているので全部消費してくる人も
います)、20リットルのお茶は全部片付きました。
一番好評だったのが水のペットボトルを氷らせてもってきたもの。みんな、一口だけでもと群がって数
本の氷水を回し飲みします。高木導師までが「ああ、美味しい!」と感に堪えぬような声を出されます。
今日のかんかん照りが余程皆さんには堪えたようです。

女性陣。

この先、女人禁制の山上ヶ岳に向かうのにその手前の阿弥陀の森の女人結界門からは女性は入れ
ないので女性陣はここで隊列を離れ、和佐又山に降りるのです。

奥駈本隊が出発するのを見送って私たちは女性陣を連れて下山します。下山は私が先頭に立ちます。

先頭のウハラさんは山口県下関市からの参加。
50代半ばに登山の魅力に目覚め、日本各地の山に登るようになり、やがては北アルプスの大キレット
の縦走から奥穂高から西穂高へのジャンダルム越えの縦走なんて凄いこともやってきた女性ですが、
宇江利勝さんの「熊野修験の森・大峯山脈奥駈け記」を読んでから大峯山系への深い憧れを抱くように
なり、那智山青岸渡寺に直接電話してきて熊野修験団の奥駈に参加することになったそうです。


既に本宮〜玉置山、玉置山〜前鬼までの工程をこなしており、今回の奥駈で全大峯奥駈修行の満行
となります。
「本を通じて馴染んでいたリワキーノさんが修験団を引退したとお聞きしていたのでもっとお年寄りかと
思ったのですが昨日釈迦ヶ岳の登山口でお会いして若々しいのにビックリしました」と言われます。
これには私も驚き、「3カ所にしか登場しない、それも数行の記述なのによく私の名前を覚えておられ
ましたね」と言うと、本を何回も繰り返し読んだとのこと。私のことを記憶しておいてくれたことも有り難い
と思いましたが、大峯に対する関心が並々ならぬものであることに私は感銘を受けました。
私に触れた箇所についてご興味のある方は下記の画像をクリックしてください。


女性の奥駈別働隊が目指す和佐又山への道は急な降りの連続であり、大普賢岳以降では本隊よりも
険しいコースと云えます。




同じところを上から赤井さんが撮った写真


このコース唯一の登りとなる小普賢岳肩への登り。


これも下から赤井さんが写すとこのように。

赤井さんの写真は画像が鮮明でワイドであり、提供していただいて本当に有り難かったです。
小普賢岳の肩で休憩。


やがてこのコースで一番見晴らしのきく岩ノ鼻にやってきました。(赤井さん撮影)


女性達が立っている向こう側は崖になっており、和佐又山方面から右手の景色が広大に広がって見
えます。
小普賢岳の急峻な山腹から鼻のように出っ張った岩場から岩ノ鼻と呼ばれるようになったようです。

岩ノ鼻からの眺め(過去の写真2001.10.31)
左手の黒々したピーク(日本岳)の向こう側の三角錐の山が和佐又山。ヒュッテはその左側山腹の台
地に建つ。

小普賢岳と日本岳の鞍部に到着。ここまで来るともう危険なハシゴ場とかクサリ場とかは無いのでや
れやれの気分になるのです。ここはいつも風が通り抜け、涼しいことこの上なしです。(赤井氏撮影)


リワサイドからはかくのように。


ところで赤井さんの写した下記の写真に映った私を見てください。


どう見ても大峯の大普賢岳に登る格好ではありません。
服装の軽いのはまだ許されるとして、靴がタウンシューズなのです。
実は登山靴を忘れてきたのです。こんな軽佻浮薄とでも言うべきスタイルでこの厳しいコースを登った
ことについて他の登山者の顰蹙を買ったことは必定と思いました。

やがて笙ノ窟に到着。

ここでは生熊さんの指示に従い、女性の今西さんが勤行の先導を勤めます。
今日の奥駈行者は彼女たちなのですから。
今西さんの錫杖の振り方も堂に入ったもので、なかなかの先導ぶりでした。

そして和佐又山との鞍部に着きました。正面は和佐又山、左手に降りていくと和佐又山ヒュッテは目と
鼻の先。


一同、心からくつろぎます。


和佐又山ヒュッテ到着は午後4時半。
女湯は既に沸いているとのことで女性陣に入ってもらいます。
一昨日以来女性たちは風呂に入っておらず、二日間延べ18時間の山歩きをしてきた身には和佐又山
ヒュッテの風呂は最高のご馳走だったことでしょう。
しかも今日は我々以外は男性客一人だけしか泊まりはいないそうで、女湯のお湯はまっさらなのです。
男湯も沸いて私は良さん、Shibataさんと一緒に入ったのですが、3人で木製の浴槽に浸かってあれこれ
のんびりと語り合う心地よさ。これだから奥駈サポートはやめられない、と感じる瞬間なのです。

夕食です。


今回のヒュッテ泊まりは厳格な生熊奉行(写真左手前)がいるので行者たちには禁酒を言うだろうなと
予測していたのですが、案の定、行者達は禁酒となりました。
サポートの人たちはどうぞ飲んでください、と生熊さんは言うのですが良さんもShibataさんも飲まないし、
赤井さんも飲まなくても平気なそうで、しかも女性陣の中にはビールが好きな人もいることを知っていて
私一人だけ生ビールのジョッキを注文するのはとてもできず、風呂から上がったあと、自動販売機で缶
ビールを買って外の車のところに行って飲みました。
「リワさんも気を遣うのぅ」と良さんがやってき、後から煙草を吸いに出てきたShibataさんらと団欒しながら
500ミリリッター缶を空けました。
食卓の右手前に置いてあるペットボトルの中身は日本酒です。こっそりと目立たないように湯飲みについ
で飲みましたが何故か一つも美味しくなく、途中から食べることだけに専念しました。

料理は赤井さんが写してくれてました。
サポーターとなって初めて和佐又山ヒュッテに泊まった生熊さんが「女性達は毎回こんなご馳走を食べて
いたのですか?」とその美味しさに舌鼓を打ちながら言うと、「ええ。私たちは毎回ここの夕食が楽しみで
した。鹿鍋が出た年もありましたよ」と今西さんが答えます。

女性陣が寝所に去ったあと、男性だけが食堂に残り、明日の打ち合わせやその他の談笑に時間が過ぎ
ていきます。(赤井氏撮影)

このときは日本酒が美味しく、ぐいぐい進みました。途中から車まで日本酒の補給に走ったくらいです。
男性陣が寝に付いたのは午後9時。
地上では残暑厳しい今年の9月ですが、ここ和佐又山ヒュッテでは布団をかぶらなければ寒いくらい
の気温です。
布団をかぶったらそのままバタンキューで私は熟睡。

3日目

朝、4時半起床、5時に私たちは食堂へ来ておりました。

女性陣も朝食に付く前に身支度を済ませており、食事を終えたあと、すぐさま予定通りの6時に和佐又
山ヒュッテを出発することができたのです。
ウハラさんを除く全員が奥駈のこのコースの経験者であるからこのようにスムースにことが運ぶのだろ
うと思います。

1時間後に五番関の登山口に到着。
ここで今朝未明に那智山を出発した森さんたちと合流します。森さんは私の修験道仲間のキミコさんと
高木導師の奥様をお連れして来たのです。
高木導師の奥様とはカツラさんの結婚式でお会いしたばかりですが、温厚で控えめなこのご婦人に接
して私は心が本当に和みました。

一同、五番関に向かって出発。

五番関までは杉林の中の道を20分ほど上ります。



五番関。

女人禁制の山上ヶ岳に登る登山客のうち、ここから先は女性の入山を禁ずる、という関所みたいなと
ころです。
ところで女人結界門の文字のうち女の文字だけが消えかかってますね?
自然にそうなったというより、女人禁制に反撥する人たちによって意図的に消されたのではないかと
思います。
大峯に深い憧れを抱くウハラさんは「大峯修験道の女人禁制を尊重します。でも西の覗きなどの行場も
含め、切り立った岩場や崖の多い山上ヶ岳の頂上に立つことを夢見る思いがあることも本当なのです」
と言われます。
私は山上ヶ岳の蔵王堂の戸閉めが行われ、山伏らが入山しなくなる9月22日以降に期間を限定して一
時的に女人禁制を解除してはどうだろうかと思っております。

左から生熊さん、高木導師の奥様、キミコさん、森さん。


やがて法螺貝の音がしましたので正式な装束姿に着替えた赤井さんに返答法螺をお願いしました。


そして奥駈本隊が到着します。

勤行を済ませたあと、しばしの休憩を持ち、女性陣を伴って出発します。(赤井氏撮影)

この後、二蔵宿におけるお茶の接待の手伝いに行く良さん夫妻と別れ、私たちは吉野山の金峰神社
に向かいます。

金峰神社に到着する熊野修験団奥駈一行。


高橋さん、


四寸岩山下山口から合流した赤井さんと高木導師のご子息高木智英さん、そして後方に熊野修験団
の総帥の高木導師。


そしてこの若き人こそ、誰でありましょう。
初日に紹介した岩手県から軽自動車で駆けつけた新川徳勝さんです。
高速道路を使わず一般道を走って二日がかりで熊野に到達したのです。


金峰神社での勤行


金峰神社から新たに加わる人たちを入れて隊列を整え、いよいよ吉野の町に向かって出発します。


舗装道路が続き、かんかん照りの下、1時間以上にわたる歩行を私はエスケープさせてもらい、奥駈
隊に付きそうサポートの車の運転手役を引き受けます。

水分神社での勤行。


若い男女のカップルが参詣しているのを見て私はShibataさんに「このシーズンオフにこんな辺鄙なとこ
ろまで来る若い人たちがいるんだね」と言ったところ、Shibataさんは「子授けの神様として知られる水分
神社ですからその関連で訪れたのでは」と答えます。
「え?ではあのカップルは子供に恵まれず祈願に来たのだろうか?」と胸を突かれる思いで言ったとこ
ろ、「いえ、女性はお腹が少し出ているようですから子授けがかない、そのお礼の祈願に来たのでは」
とShibataさんは答えます。
そう言えばカップルは奥駈隊が到着する前に訪れているのに奥駈隊が去るまで神主の鎮座される側
のベンチに座って待機しています。
そうなのか。子供がなかなか授からないのを水分神社にお参りしてそれがかない、そのお礼参りに来
たカップルなのかと知った瞬間、何とも云えぬ胸の奥底まで染み渡るような暖かい気持ちになりました。
それにしてもShibataさんの、いつもこういう状況の観察力と洞察のきめ細かさなのには驚きいります。

ここからの蔵王堂までの画像が無いので2年前の奥駈サポート時の画像で道中の様子をお知らせいた
します。
水分神社から下のつづら折れの急坂を下りる一行。




ここに映る先頭の山上さんの後に続く花井行者が今年は不参加でした。超多忙な勤務の中、この吉野
山の下りだけは参加を決めていたそうですが、急遽避けられない仕事が入り、不参加となったのです。


民家も現れ、吉野山の町中に入っていきます。


吉野山の上千本の中心部に近づきました。


土産物や料理屋が並ぶ吉野山の”商店街”です。


大峯修験道を維持する吉野の修験道の寺、桜本坊における勤行。
このあと、同じく喜蔵院、東南院と訪れ勤行をします。


中千本の繁華街を行く熊野修験団。


奥駈隊の蔵王堂到着です。ここから今回撮った画像です。




(赤井氏撮影)

今回の奥駈の蔵王堂における勤行は金峰山寺のご好意により、内陣でさせていただきました。
奈良遷都1300年祭を記念して公開された蔵王堂の秘仏、蔵王権現像を目の前にしての勤行だった
のです。
一般の参詣だったら千円の拝観料が要るのに我々熊野修験団一行60余名は無料で秘仏を拝むこ
とができたのです。
国内最大の秘仏と言われる蔵王権現像はその巨大さで圧倒するものがありました。
一週間後に訪れたツル姫さんが感想を下記のように記しております。

秘仏は大変見事で美しかったです。蔵王権現さんのお顔は怖いと言うよりも、怖さの中にも優しく慈
悲に満ちた感じがしました。


勤行を終えたあと、記念撮影をして今年の熊野修験奥駈修行秋の峯入りは終了しました。

(完)