戦後の日本郵船の受難   (「二引の旗のもとに」からの抜粋)

昭和20年9月7日、GHQ(連合軍総司令部)から郵船ビルの摂取の通告がきた。東京の目ぼしい
ビルはぞくぞくと摂取され、占領軍の事務所や宿舎に使われていったが、郵船社員にはとりわけ
日本海運に対する苛酷な報復と感じられた。暑いさなか、明日をも知れぬ不安を抱いて社員たち
は兜町 の南洋海運ビルに移った。
たしかに占領軍の海運政策は苛酷であった。日本海運を根絶やしにする意図かと思えた。日本の
商船は財閥と結びついて世界に跳りょうし、その軍事力増強に大きな役割を果たしたというのが 、
米英など連合国の認識であった。だから占領政策は他のどの産業よりも厳しかった。

その最初の現れがボーレー賠償案だ。
占領直後来日したボーレー賠償委員長は、日本の軍需、産業施設の資料を調べ、20年12月に
極東委員会あて報告書を提出した。「ボーレー報告」は数次にわたって改訂されたが、最終案と
してトルーマン大統領に出した内容は、まず日本に残っている5000総トン以上の船舶114
隻を全部賠償に取り立てるというものであった。
狭く、薄暗い事務所に押し込められた日本郵船の社員たちは、このニュースを読んで戦慄した。
だれも口を利かなかった。明らかに外航船の根絶やしである。「ボーレー報告」はつづけていう 。
将来にわたって日本海運が持てる船腹量は、鋼船150万トン以下、一隻5000トン以下、
速力12ノット以下、航路は日本沿岸と南北朝鮮・台湾・中国らとの間に限る、と。
すでに社名も社旗も使うことを禁じられていた。終戦直後全船ストップ令は解除されたが、沿
岸を航行するにも船名、出港地、寄港地、目的地、積荷など一切をくわしくGHQに報告したう
えでなければ、許されなかった。

(中略)

そのころ日本郵船の幹部、社員は食べるための副業に汗をながしていた。海運の将来、郵船の明
日がどうなるか皆目わからないが、とにかく今日を食べていかねばならなかった。これがメー
カーなら壊れた機械をつなぎ合わせてフライパンやバケツなど日用品をつくるという手がある。
現に、そうして生きつなぐメーカーが多かった。商社なら、それらを仕入れて売り、口銭をかせ
ぐこともできる。
だが船会社には、工場もなければ国内の販売網もない。売るべきものは何もなかった。わずかに
残った船は船舶運営会から使用料が入るが、ごく低い公定価格で抑えられているから、社員を食
べさせるのは到底おぼつかない額である。
事業部長の麻尾新甫は、牧場や農地をさがしに千葉、茨城のあぜ道を歩き回った。その部下の児
玉忠康は水産会社をつくろうと静岡県の漁港を訪ねた。地下室の印刷機を使って印刷屋はどうか
大型の船用洗濯機でクリーニング店はできないか、木材はもうかりそうだし、喫茶店もはやるだ
ろう。手当たり次第に、客船時代のかかわりを掘りおこして商売を始めた。
その間にも復員の社員たちが、見るも疲れ切った格好で荒廃の街に帰ってきた。

(中略)

8月になると一大衝撃が経済界を走った。戦時中に発生した損害に対して、政府は一切の補償を
しないという発表である。
海運の場合でいえば、戦時中に喪失した船の戦時保険金、御用船契約に基づく補償金など、それ
までに受け取らない分はもちろん、今後の交付は一切打ち切り、これまでに受け取った分は特別税
という形で徴収する。
戦争で丸裸にされたうえ、なお肉を削り、血を流せというものであった。海運は船舶のほとんどを
戦争の犠牲に供した。多数の人命も含めて、全産業を通じて最大の損失率であった。一般の産業
では、たとえば工場や機械が破壊されても土地は残る。くず鉄は残る。船は大洋深く沈没して一
物も残さない。だからこそ高率の保険をかけているのだ。
後年、吉田茂元首相はさすがに「船会社にはすまないことをした」ともらしたそうである。米英
ソなど連合国が、日本海運の息の根を止めようとする底意の表れであった。

海運業界が受け取るべき戦時補償は25億円に及んでいた。当時の海運企業全体の払い込み資本
金の3倍にあたる。日本郵船の戦時補償額は3億4617万円であった。貨物船が100万円から200
万円で新造できた時代である。戦後の再建に必要な資金であった。それが一片の通達によって一朝
にしてふいになった。これほど理不尽な話しは外国にも例を見ない。
英国は大戦中に874万トンを失ったが、これに対して2億6860万ポンドの政府補償金が出
ている。かつ、代替船の新造費用が保証金を超えるときは、その分を追加して補償した。
米国は戦後も、建造補助・運行補助を惜しみなく支給し、また国有船を時価の半額で払い下げた。
フランス、イタリアも運航と建造に直接補助金を支給するほか、利子補給や減税までして、戦後海運
を再興させるのに懸命である。
そうした世界の大勢とは裏腹に、日本海運は壊滅に近い打撃を加えられたのであった。明治以来 、
粒々辛苦して蓄積した資産は文字どおり海のもくずと消え果てた。

しかも占領政策の圧力は、これだけではなかった。ぼう然自失、もはや明日への望みも絶えなん
とする郵船経営陣に、さらに厳しい試練が襲いかかる。
秋になると公職追放令が経済界に広がった。代表的な船会社の社長であり、船舶運営会総裁とい
う戦時中の要職も兼ねた寺井久信社長に及ぶのは、確実であった。11月15日、寺井はみずか
ら責任をとって辞任した。
在任4年間は戦時下であり、寺井らしく大きく舞台を回す仕事のないままの退陣は、いかにも無
念であった。のちに郵船の背骨となる浅尾新甫も児玉忠康も有吉義弥も菊池庄次朗もひとしく、
寺井の薫陶を受け、骨太の経営者に育った人たちである。

(中略)

寺井は立場上、いくつもの公職につき、大の軍部ぎらいになっていた。船舶運営会総裁をわずか
5ヶ月で辞めたのも、船員の待遇をめぐって軍部と対立したためである。『寺井信久』によれば
、船員を軍の管轄下に置くという軍部案に対し、一歩もひかず、さっさと辞表を出した。
軍部とけんかした自由人の寺井が、軍部に協力したかどで追放される。歴史の皮肉だ。

(中略)

占領政策はますます厳しさを強めた。22年7月には三菱商事、三井物産の解散命令が出た。世
間では早くから「物産と正金銀行(後の東京銀行)と郵船が狙われている」などとうわさしていた。
いつ解散命令が出るかと、浅尾ら幹部も社員も眠れぬ夜がつづいた。第一次吉田内閣が倒れ 、
片山連立内閣が誕生したある日、GHQ財閥担当課長から「社名を変えろ、本社をはじめ土地 、
建物を処分しろ」といってきた。三菱商事、三井物産の解散命令が出た矢先だから、いよいよ
日本郵船とり潰しかと思われた。
浅尾はGHQに担当課長をたずね、社名は会社の大切な財産である、どうか、そのままにしても
らいたい、また本社の建物をいま売るのは困ると事情を説明した。するとウエルシユという名前
のその課長は血相を変えて、拒絶した。
ウエルシュは権力を持っているので、浅尾は潮流の変化が至るのを待つしかないと思った。
浅尾を委員長とする会社再建委員会が社内にでき、改組案を作成した。日本郵船を解散し、第二
会社として海運業を主とするA社(日本汽船会社)と、ホテル業などを主とするB社(日本観光
興業会社)を設立するという内容である。
60年にわたる栄光の象徴、誇りの寄りどころである日本郵船の社名、二引の社旗がこれで消え
るのかと思うと、情けなかった。
「わが社はいまや存立の関頭に立っている。われらは、わが社の光輝ある歴史と伝統を死滅させ
てはならない。許される限り、なんらかの形でこれを保存し、やがて発展させて、もって新しき
日本のため、さらにすすんで世界文化のために、貢献せんことを祈願する」
という浅尾社長の言葉を、全社員は深くかみしめるのだった。

GHQ財閥課は、この案でもなお文句をつけた。B社の設立は認められないという。指示に従う
しかない。どんな形であれ、会社の歴史と伝統を守らねばならないのだ。何度かのやりとりのす
え、資本金5500万円、保有船舶30隻12万トン(日本全体の10%以内)の「日本汽船」 案が
できた。これでGHQの解散命令は一応回避できる見通しとなった。
ほっとしたのも束の間、こんどは過度経済力集中排除法(集排法)が公布され、日本郵船はその
指定会社となった。これもウエルシュ課長の指示だ。一難去ってまた一難とはこのことで、いよ
いよ日本郵船が名実とも分割されるときがきたかと、思われた。三菱商事や三井物産の、床に投
げつけたガラスのように粉々に分割されるのと同じ運命が、近づいてきた。

ここからその後のあらましをリワキーノが簡単に記します。
風前の灯火だった日本郵船に大きな味方がアメリカからやってきたのです。
GHQの政策を変えるため、昭和23年に米国政府が調査団を送り込んでき、実業家も混ざった
調査団は、集排法はあまりにも行き過ぎだと考え、産業の実体に即した修正案をつくり、政府に進
言したため、事態は180度転回しました。
このため、日本郵船をはじめ多くの会社が指定から外されただけでなく、日本郵船はその社名の
まま再スタートすることが認められ、戦後の日本の復興と高度成長に大きく貢献する船会社とし
て生き残ったのです。
日本との死闘を演じて心底恐怖した軍部は徹底した日本の脆弱化を狙ったのでしょうが、日本の
復興に大きな障碍となるような法の成立を許さなかったアメリカ政府のシビリアンコントロール
が日本郵船を初めとする日本の企業を守ってくれたかたちでした。