日本郵船の質の高いサービス (「二引の旗のもとに」からの抜粋)

日本郵船では、浅間丸などの就航に先立ち、これらに乗船させる船長、事務長、司厨長を欧米に
特派して、船客の接待について実地に研修させた。
英国では、客船の事務長は一流大学出のインテリもいた。これに負けてはならじと、こちらは東
大、一橋大、早大卒などを当て、本場の空気を吸わせた。日本の代表的なホテルである帝国ホテ
ル、万平ホテルなどの宿泊研修も参考になったが、ホテルビジネスはさすがに米国が進んでいる 。
船内での催し物の企画、運営、そのころ日本ではまだやっていない立食パーティーの要領も勉強
した。浅間丸などの船客は恐らく三分の二が外国人である。船長、一等航海士、事務長、それに
一等船客係のボーイは英語を話せなければならない。夕食のテーブルにすわれば、英語でジョー
クをいえるくらいでありたい。徹底的に英語が叩き込まれた。
船のサービスで一番大事なのは、食事である。長い旅でお客の最大の楽しみは食事となる。
司厨長を世界の有名ホテル、レストランで研修させるだけでなく、パン焼きコックをロンドンに
派遣した。
料理の王はやはりフランス料理だから、同国から高級をもってシェフを招き、横浜支店内にコッ
ク養成所をつくった。当時、日本郵船社長の月給は総理大臣より多いといわれ、だいたい120
0円。講師に呼んだシェフのそれは1000円だった。この養成所で数百種にのぼる料理のつく
り方をマスターした者でなければ、客船に乗せなかった。
船は出帆するとき、最上級の材料を仕入れた。「こればかりは予算に枠がなく金に糸目をつけず
に買い込みました」と、秩父丸の事務長は述懐している。事務長は客船のマネージャ
ーであり、経理の責任者だ。
かくて陸上の高級ホテルでもお目にかからない豪華なフランス料理のフルコースが、手を変え品
を変えて毎日の夕食に出る。もちろん、スキヤキやテンプラなど日本料理も出される。一等船客
の中には、天下の食通を自任する口うるさい名士もいる。こんな客が乗るときは、横浜で教える
フランス人シェフに乗船してもらったこともある。
こうした努力によってNYKの船内料理は「帝国ホテルよりもうまい」という評判になった。食
事の魅力で、他船をキャンセルしてまでNYKの船に乗船した人も多かったという。
昭和7年(1932)、映画『街の灯』を完成したチャップリンは、欧州、バリ島などで遊んで
日本に寄り、横浜から米国に帰国するとき、日本郵船と競争相手の米ダラー汽船、カナダ太平洋
汽船が争奪戦を演じた。チャップリンが乗船すれば大変な宣伝になるからだ。このとき日本郵船
のシアトル航路、氷川丸に白羽の矢が立ったが、彼の側近が日本郵船の食事をほめたのが決めて
となった。
米国の富豪ロックフェラーも日本郵船の食事を礼賛した名士の一人である。当時、日本郵船では
毎週の配船表を新聞に載せ、それには船長の名前を書いた。客はその名前を見て自分の船を選ん
だものだが、ロックフェラーの秘書は司厨長の名前を問い合わせたという。それほどの食通であ
った。
乗組員の教養やマナーについても厳しく訓練した。急用だと呼ばれて、つっかけのまま部屋にや
ってきた機関員は、「お前は客船には不適だ」と下船させられた。船客に会うことのない機関員
の服装ですら、この厳しさである。マン・ツー・マンで客に接するボーイについては、時間をか
けてしつけを身につけさせた。

(中略)

事務長が食事のさい気をつかったのが席順。頭の堅い将軍などは、とりわけ席次にうるさい。メ
ーンテーブルには船長の左右に6人ずつすわることになっているが、宮中席次を参考にして、船
長の右手を一番、左手を二番と交互に決めていったという。
当時の浅間丸の一等航海士はこういっている。
「日本郵船の船客サービスの基本は、パッセンジャー・オールウェーズ・ライトで、お客のいう
ことは無理なことでも正しいこととしてサービスしました。この誠実さが旅慣れた外国の知名士
たちに評判を高くした」