平洋丸

記録に残っている中では、大東亜戦争(太平洋戦争)で最も多くの魚雷を受けて撃沈された日本の商船である。

(中略)

1943年(昭和18年)1月11日、平洋丸は乗組員114名、トラック諸島の基地建設要員(軍属)1753名、東京市の
南方慰問団11名の計1878名と食糧や武器弾薬4000トンを乗せて、トラック島に向かって横須賀を出港した。
この時の航海は護衛艦なしの単独航海であったため、平洋丸は平均15ノットの高速で航海し、見張員を増員し
て潜水艦の監視にあたらせた。そのため航海は順調で、1月16日にサイパン沖を通過し、1月17日にはトラック
の北約400kmの地点にさしかかった。

1月17日午後2時5分、厨房では入港祝いの赤飯が作られている最中、左舷船首附近に米潜水艦ホエールが放
った魚雷が命中した。1本目の魚雷命中からすぐ2本目と3本目の魚雷が機関室に命中し、機関室から火災が発
生しただけでなく、平洋丸のエンジンは完全に停止した。これを聞いた船長は総員退船命令を出し、乗組員に救
命艇の降下を命じた。乗組員はすぐに救命艇の降下作業を始めるが、その途中立て続けに3本の魚雷が左舷の
船体中央部から船尾にかけて命中した。この時の3本の魚雷は主に居住区に命中したために、爆発の衝撃で多
くの人が命を落としただけでなく、左舷側の救命艇が全て使用不能となってしまった。このため残った救命艇は右
舷側の8隻のみとなったが、乗組員は降下作業を続ける傍ら、甲板に積上げてあった予備の救命筏や木材などを
海に投げ落とした。その後午後7時に平洋丸は左舷側に傾きつつ船首を上にして沈没するが、乗組員の懸命の
努力により、8隻の救命艇の降下作業は沈没前に完了した。

平洋丸からの脱出に成功した生存者たちは、海中にいる人と救命艇や筏に乗っている人とで助け合い、交代で
救命艇や筏に乗って体力の消耗を防いだり、乾パンや飲み水を分け合った。しかし、最初は固まって行動してい
た生存者たちも潮流のために散り散りとなり、浮遊物につかまっていた人たちは海中に引きずり込まれた。

遭難から4日目の1月20日朝、平洋丸からの救難信号を受けて周辺海域を捜索していた海軍の飛行機のうちの
1機が救命艇を発見し、翌1月21日には貨物船朝山丸、安宅丸と海軍の掃海艇が現場に到着して救助を開始した。
この救助作業により、乗組員70名と便乗者951名の計1021名が救助された。

なお、1月21日早朝に平洋丸のものと思われる救命艇がヤップ島に漂着した。艇内は無人であったが、衣服や靴
救命浮標や航海燈などの航海用具などはそのまま残っていた。このことは1943年(昭和18年)2月23日付の高松
宮日記にも記されている。