大徳寺拝観組は4月4日午前9時45分に大徳寺の西側、紫野高校近くのグランド前に集合。
 寝屋川を朝8時過ぎに出た私が京阪電車→京都市営地下鉄→バスと乗り継いでバスを降りて今宮門
のところから北に走る通りを歩いているとホテル組が乗ったタクシーが次から次へと追い抜いて行きます。
 降りてくる皆さんに次々と挨拶をすると新井真理子さんが、今日の大徳寺拝観は清楽寺の檀家の人た
ちを連れて行くということになっているのでそのつもりでいて欲しいと言われます。ホテルを出る際に武藤
君から言付かったそうで、つまり、私語は慎み、厳粛な雰囲気を保ったまま、行動して欲しいというわけで
す。和尚ご本人は荷物を預けに知り合いの塔頭に寄っているとのこと。
 檀家に化ける件は承知したのですが、塔頭のお坊さんが懇切丁寧に案内、解説してくれるのに一同一
言も喋らずに沈黙を守るというのも不自然だし、案内するお坊さんも気詰まりなんではないだろうかと疑
問を口にすると、それもそうですね、と新井さんをはじめ皆さんも頷きます。
そこで解説や講話に感銘をうけたときに「ほう〜」とか「へぇ〜」とかの感嘆詞くらいは口にしてもいいこと
にしようということになり、やがてやってきた武藤君にそのことを話すと、「まあ、よろしいでしょう」と了解し
てくれたのでした。
「それでは和尚の助手である私が檀家代表ということで参りましょう」と言うと一同笑います。
〔ムー注 実は、檀家の人達だから厳粛にして欲しいといった訳ではなく、今回のように女性が多いとお
喋りが多くなり(失礼!)、説明が聞き取れなかったり、印象が薄れたりすることを危惧して、あのようなお
願いをしてみたのでしたが、効果は如何に?〕


武藤君の袈裟装束を初めて見る女性たちから「よく似合っている!」「すごく立派な感じ!」と賛嘆の声が
あがりますが、確かに武藤和尚は高僧の雰囲気がありました。上背もあるので僧兵の衣装を着込んで長
刀を持たせたら相当迫力あるだろうなと、その姿を想像したのですが、険しさのある悪相ではないところが
僧兵向きではないなとも思いました。ですから武蔵坊弁慶のイメージは湧きません。
【動画添付】mvi1470 
http://www.youtube.com/watch?v=PmKWostmxys



 全員そろったところで武藤君の大徳寺についての大雑把な解説があります。
 武藤君の用意してくれた資料を読んで初めて知ったのですが、後醍醐天皇の厚い帰依を受けたことがあだとなって足利尊氏以降の室町幕府から大徳寺は冷遇されたことから座禅修行に専心し、それが結果的に時の政府権力に頼らない在野的気風を生じさせ、貴族、大名、商人、文化人など、幅広い層の指示を得て、そこから茶道を代表とする大徳寺独自の文化が醸し出され、保ち続けられたそうです。

孤篷庵
最初に武藤君が案内してくれたのがこの塔頭。「こほうあん」と呼びます。孤舟という意味だそうです。
集合場所から紫野高校を通り過ぎてさらに西に行ったところにあり、大徳寺境域から外れたところにあるように思えるのですが、昔の大徳寺はもっと広大だったため、そのときは境域内だったようなことを武藤君は解説します。
【動画】mvi1473、1474、
11.04.04daitokuzi_edi_1
http://www.youtube.com/watch?v=bsah1Oh1D-k
http://www.youtube.com/watch?v=bsah1Oh1D-k



門を入り、玄関に入るところまでは撮影できましたが、建物内部は撮影禁止。
小堀遠州による創建だそうで小堀遠州独特の趣向を凝らした茶室「忘筌(ぼうせん)」で有名なのだそうです。茶室と聞くと普通四畳半くらいの狭い部屋を連想しますが、ここは全部で十二畳。素人目には茶室というより書院造りの部屋に茶室が同居している感じです。
庭園に面した西側には広縁を設け、添付画のように上から半分のところまで明かり障子で閉ざして、庭の景色を限定したものにしており、それでいて外の明かりが広縁に反射して室内の一番奥まで届くように設計されているそうです。室内は結構うす暗いのに一番奥に座っている黒宮時代さんの顔が明るく見えるのですからその効果は如実に表れてました。
 小堀遠州さんはこの部屋がとても気に入ってたらしく、客人が来れば茶を点て、一人の時は和歌をたしなんだり、書を表したりして日がな、多くの時間をここですごしたとのこと。
【画像】11.04.04kohouan
 印象深かったのが庭の石灯籠が切支丹灯籠と呼ばれていること。幕府禁制の切支丹の名を灯籠につけるとはといぶかしく思い、「ほう〜」や「へぇ〜」の感嘆詞以外は口にしないという申し合わせでしたが、質問ならかまうまいと思って副住職さんに尋ねたところ、江戸時代前期に流行った灯籠でそのころから切支丹灯籠の名称で呼ばれていたそうです。

さてその茶室の説明が終わって皆が移動しかけたときに、伊達君夫妻がしきりに床間の上の土壁の部分を指さして副住職に話しかけています。土壁の下の木の部分(何て呼ぶのか私は知りません)が添付画のように段違いになっていないことを指摘しているようで、それについて副住職はそれも小堀遠州独自の趣向から来ている旨のことを話しているように聞こえたのですが、私はそんな差異に気付く伊達君の日本建築への造詣の深さにびっくりし、後でどうしてそんなに詳しいのですか、と尋ねると彼は茶道に深く傾倒しており、何と、近々自宅に茶室も建てる予定(奥様に言わせるとあくまで予定であって確定ではないとのこと)があることを聞いたのです。だからあんなに詳しいのかと私は納得の思いでした。そう言えば市山陽さんも柴田由紀子さんも、そして今回ご一緒して交わした会話の内容から察せられたのですが黒宮時代さんも藤島牧子さんも茶道に詳しいようですね。
【画像】11.04.04kohouan_2
 孤篷庵を後にして門から出るときに女性達が「あのお坊さん、一人でここに住んで塔頭の維持作業を全部やっておられるそうよ」と話しているのを聞いてびっくりしました。建物内の掃除からあの広い境内の維持も全部一人でやっているということでしょうか。
 次の塔頭に向かう途中、「年齢層の同じような人たちばかりの檀家さんたちだな、とあの副住職さん、怪しまなかったかしら」と言うとそばにいた井上夫人も垂水夫人も笑います。
〔ムー注 龍翔寺の門前で私がくっちゃべっております。ここが、大徳寺の所謂雲水道場です。丁度二年前に入門する小柳小和尚をここで見送ったのでした。鐘のような音が聞こえておりますが、雲板(うんぱん)と云って食堂(じきどう)に懸けられて食事の案内をする鳴らし物です。これに触発されて、下のような噺をしたのでした。〕
武藤君が門前で何か語っているが聞き取れないです。
チラシ寿司を作れと先輩から言われてたらいを使って作った話の披露。
【動画】mvi1477、1478
11.04.04daitokuzi_edi_2
http://www.youtube.com/watch?v=Jg0auocO8iQ
http://www.youtube.com/watch?v=Jg0auocO8iQ



聚光院
ここも孤篷庵と同じく、武藤君がいなければ見ることの出来ない塔頭です。
【動画】mvi1480
http://www.youtube.com/watch?v=LE5aBP_NmM0

聚光院で有名なのは狩野永徳の「聚光院障壁画」(国宝)と千利休の墓。
若い雲水さんが狩野永徳の作品について解説をしてくれます。
狩野永徳の作品は残っているものは少なく、それも作品のほとんどが永徳のものと言い伝えられるだけで確証はなく、真作と専門家のお墨付きがあるのは「聚光院障壁画」と他には「洛中洛外図」(国宝・上杉博物館)と「唐獅子図屏風」 (宮内庁三の丸尚蔵館)だけだそうです。
【画像】11.04.04jukouin_2
永徳は安土城と大阪城、聚楽第にも壮大な障壁画を残したことが記録に残っていますが、いずれも炎上と解体で作品は消滅しています。
 この三つの建築物、今も残っていたらその壮大さだけでなく、その中の美術工芸品のことを考えてもどんなに凄い観光資源となったことでしょうね。姫路城や東照宮の比では無かったことでしょう。
なお、今聚光院にあるのは複製で、原作は京都国立博物館に寄託されているとのこと。

聚光院のもう一つの有名な場所、千利休の墓に詣でました。
伊達君夫妻は今回の大徳寺拝観で一番楽しみにしていたのが千利休のお墓に詣でることだったそうで、案内の雲水さんが「普通はお断りしているのですが、今日はかまいません」と写真撮影を許可してくださると、もうお二人は嬉々として様々な角度から撮影を始めます。
 茶をやらない私は千利休に対する格別の思い入れは無いのですが、私が崇敬する北条氏康、小早川隆景、細川ガラシャのことを思うと、伊達君夫妻の気持ちは痛いほど解るのですよね。
【動画】mvi1481、1482
11.04.04daitokuzi_edi_3
http://www.youtube.com/watch?v=WNRGlM7yKgM

利休は死後、さらし首にされたことを雲水さんの話しで私は初めて知りました。
打ち首ならともかく、切腹を命じておいてその首をさらすとは、秀吉の利休に対する憎悪を強く感じましたね。秀吉という武将はむやみに人の命を奪わなかったと普通思われ、司馬遼太郎などが描く秀吉像では相当に好人物な面が表現されていますが、そんな単純な人ではなかったと私は思います。もっとも後からこの利休の切腹事件をウエブ検索で調べたところ、利休の木像の首を晒したという記事もありました。
みんなが墓地を後にしたあとも伊達君がしつこく居残り、黒宮さんをモデルにして写したりしているのを見ると彼の思い入れの深さが推察されます。黒宮さんも相当な利休ファンなのでしょうね。ファンという言葉は茶道にはふさわしくない表現ですが。
【動画】mvi1484
http://www.youtube.com/watch?v=7GlWOyzyr7o


なお、今回訪れた大徳寺のどの塔頭も廊下が歩くときゅっきゅっと鳴るうぐいす張りとなっているのですが、本来外部侵入者の探知を目的とするためのうぐいす張りが何故僧院の廊下に仕様されるのだろうと不思議に思いました。
これについては武藤君の語った、大徳寺の塔頭が戦国武将の創建によるものが多い理由と大いに関係しているのでしょうね。
では、武藤君の話を。
〔武藤和尚談話〕
「うぐいす張りが、曲者除けだってのは後から付け足したヨタ話だと思いますヨ。
まず、下記を参照して下さい。 
               http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/nijo-castle_uguisu-bari.htm
上のサイトに書いているように、木造建築は年が経つに連れてどうしても隙間やゆるみができて、ああいう音がするようになるのは仕方がないのでしょう。ネジ釘等でがっちり固定すると木材が乾燥し縮むとかえってひび割れたりすることも想像がつきます。逆に今の縁甲板のようにほぞがあると一部分だけ取り替えるのは困難ですが、上の工法ならそれがやり易いとも考えられます。要するに、あの音のするのは古来の伝統的な工法で造られている証なのです。
 私の勝手な想像ですが、どこぞの知恵者が曲者除けに有効だと言い出したのが、通説になったのではないでしょうか。人はそんな意味ありげな噺を喜ぶものですしネ。さっきの龍翔寺でもそこらじゅうがうぐいす張りになってしまっていて、夜行(やこう、夜間こっそり忍び出ること)するときに音がして困りましたから、その意味では曲者除けになっているわけですが。
 ついでに此処で云っときますが、方丈前の白砂が侵入者の察知云々というのも全くの思い込み。あの白砂は光を反射させて室内に明かりを導くため。細かい砂よりあのくらいの大きさの粒の方がつけた型が崩れ難くいのです。だいいち、そんな曲者が音のするようなとこ通りますかいナ。」

大徳寺の方丈
 そして次ぎに案内されたのが大徳寺の核心部、方丈です。
庫裏から入っていきます。
【動画】mvi1485
http://www.youtube.com/watch?v=14N-kzfrU_E
庫裏の入り口は巨大な玄関という感じで、入ったすぐ左手の壁には竈のようなものがいくつかあるのですが、鍋とか釜とかを載せる部分がなく、上がってその壁の裏に行くとそこが広い厨房となっていて壁に釜や鍋を載せる巨大な竈がいくつもあります。壁の向こう側の入り口に面したところは焚き口だったのですね。
【動画】mvi1486
http://www.youtube.com/watch?v=X32A8nqRh2A
玄関を上がって次の部屋が食事をする場所のようです。
修業時代、食事をした武藤君の話を聞いてみましょう。
〔ムー注 実は、森脇君から送っていただいた、動画の音声が不調でよく聞き取れません。あれから一ヶ月経って何を語ったかもうろ憶えで、それぞれの動画の中で私が語っていることと、ここで談話として書いている内容が一致しないかもしれません。〕
〔武藤和尚談話〕
「こういう通り抜けの板の間の両壁側に畳が敷かれている所が食堂(じきどう)です。今では、ここに雲水がいるわけではないので、普段は使いませんが、形として残っています。年に一度、開山忌の支度の加担(手伝い)の折に此処で食事を出された憶えがあります。鴨居から天井にかけて長い飯台がいくつも懸けられているのに気がつきましたか?」
広い庭に面する方丈に案内されたとき、廊下に面した方丈の入り口の壁に大徳寺に所属する僧侶の名札がずらっと掲げられた掲示版のようなものがありました。
何段にも分かれており、最上段三分の一右側よりのところに武藤猷巌の名があるのを見て「おお!武藤君は大徳寺ではかなりの高位の位階にいるんだ」と一同がどよめきます。
そりゃ、修猷館卒の僧侶なのですからそのくらいの位置にいるのは当然だと私は思いましたが。
 そして最下段ではあるけれども同窓生仲間の小柳宗延の名前を見つけたときも一同は大いに湧きました。
 「天下の名刹、大徳寺に小柳君の名前が載っている!」
 みんな嬉しかったのでしょうね、武藤夫人はこっそりカメラで証拠写真を撮っておられました。
※ 小柳君の掲示された場所が最下段だったというのは私の勘違いだったようです。
〔武藤和尚談話〕
小柳君は下から2列目の中程。
彼の僧名は宗延、位階は侍者、禅僧は死んでから戒名が別につくことはなく、
彼の場合なら、位牌には「宗延侍者禅士」と印されることになります。
ついでに私は、「前住大徳当山(清楽)猷巌紹生和尚大禅師」と。

武藤君にうながされて廊下から広い部屋の中に入って畳敷きの上に左右二手に分かれて座り、武藤和尚による、よいよい会物故者と東北大震災の犠牲者の供養の読経みにみんな瞑目します。
読経みを終えると武藤君は立ち上がり、「皆さんは今、国宝の中にいるわけです」と言い、方丈の解説をしてくれます。
【動画】mvi1489
http://www.youtube.com/watch?v=j9fPGThERys
〔武藤和尚談話〕
「禅宗の方丈建築は、中央奥の仏壇がある内陣、その前室の室中(しっちゅう ここのように廻りに畳を敷いた板の間になっているのは古い形式、地方では全部畳敷きが多い)、内陣の右手が上間(じょうかん)、左手が下間(げかん)、各々の前室という六室で構成されるのですが、ここだけは八室の造りになっています。普通、大きな禅寺はお堂を建てて開山和尚を祀るのですが、大徳寺の開山、大燈国師は遺言で自分の開山堂を造ることを禁じたのです。それで、内陣、室中の右側にそれぞれ一室を設け、内陣右奥を雲門庵と名付け開山堂の代わりとしているのです。奥には大燈国師の木像が祀られ、右手に帰依者だった花園、後醍醐両朝の位牌壇があります。」

大徳寺は花園、後醍醐の二朝の帰依を受けたそうですが、この二朝の朝は天皇さん個人のことを指す称号だそうで、武藤君がここ大徳寺で修業していた若き日に、南北朝の朝かと思ったと口にしたところ、「バカもん!」と師匠から叱られたそうです。
〔ムー注 大徳寺内では「両朝」と称されるので、南北朝の両朝だと早合点したのです。普通「?朝」というと「プランタジネット朝」「アッバース朝」等同じ家系の国王の系列のことですから、日本で両つの王朝といえば南北朝と思うじゃありませんか、ネェ?今現在、漢和辞典で知りましたが、「朝」は「一人の天子の在位する期間」であるそうです。〕
 花園天皇は後の北朝となる持明院統、後醍醐天皇は後の南朝となる大覚寺統ですから武藤雲水がそう思うのは無理からぬところで、歴史の知識に詳しい故の勘違いであり、いわゆる教養が邪魔しちゃった、ということですね。もっとも、北朝初代は花園天皇の子、光厳天皇ですから花園天皇は北朝とは言わないと思いますが。

方丈内周囲の障壁画(ふすま絵)は狩野探幽作とのこと。

武藤君の話が終わってから一同は廊下に出、枯山水の庭を一列に並んで腰掛け、武藤君の説明を聞きながら見学します。
正面の門は唐門といい、聚楽第のものを移築したという言い伝えがある国宝です。
近年に修復されて金装飾や塗り絵の部分はぴかぴかに輝き、色鮮やかですが武藤君の修業時代には古ぼけて色も褪せていて有り難みが感じられず、武藤君は無関心だったとのこと。
【動画】mvi1487
http://www.youtube.com/watch?v=c-2s-XKbUPU

武藤君の清楽寺の庭はこの庭を意識して造ったとか。
【動画】mvi1488
http://www.youtube.com/watch?v=G5woI70mjnI
武藤君の話。
これは私の勝手な想像ですが、竜安寺で有名な枯山水の様式はうぐいす張りと同じように部外者の接近を察知するために採り入れられている面もあるのではと思いました。この石と砂だけの庭を足音を立てずに歩くことは不可能ですからね。
〔武藤和尚談話〕
「右手へ廻り込んでこちらの東庭は小堀遠州作だそうです。往時は比叡山、東山を借景にしていたのでしょうが、現在は無粋な景色が見えないように木立で目隠ししています。東庭に面して右手の奥の部屋が、昭和41年に放火されて重文の狩野探幽の障壁画が焼かれたのですが、昨年修復されました。当時はこの方丈も普段に拝観させていたのですが、その観光客に放火されたのです。詳しくは、
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/08/news0806/news080610/news080610_04.html
を参照して下さい。
 事件以後、一日一度の定期観光バスで縁先のみに限られています。また十月第二日曜に、曝涼(ばくりょう;虫干し)と云って寺宝をこの方丈内に展示しますので、興味の有るかたは是非どうぞ。国宝、重文クラスの絵画、墨蹟がずらりと並んで、それは壮観ですよ。
 裏に廻り込んで、塀の向うに檜皮葺きの屋根が見えるのが一休さんの寺、真珠庵の本堂です。」
〔ムー注 私事ですが、上の記事で始めて事件が昭和41年7月20日だと知りました。私の誕生日!その日の未明、私は家を抜け出してヒッチハイクで名古屋に向い、知り合いの山岳会のメンバーと合流。1週間程、穂高や屏風岩で岩登りをしたのでした。浪人中で大手を振って山へ行くとは云えず、家出同然にでかけたのです。〕

 方丈をぐるーっと回って武藤君が裏庭みたいなところに案内してくれます。
 ここは動画をご覧になってください。
うぐいす張りの音がキュッキュとなるのが聞こえますね。
【動画】mvi1492、1493
11.04.04daitokuzi_edi_4
http://www.youtube.com/watch?v=o5_IuGe85JI

〔武藤和尚談話〕
「雲門庵(開山堂)の下をくぐり抜けて、その向うの庭の中、生け垣で囲まれたところが、開山大燈国師の墓所です。さっき聚光院で雲水さんが、利休の首が大燈国師の墓の傍らに祀られていると云っていたのは、此処のことです。」

 方丈を出、庫裏の外に出て法堂(はっとう)のすぐそばを通り抜けて唐門のちょうど外部に面したところに案内されます。
【動画】mvi1494
http://www.youtube.com/watch?v=veiqDBp-kdI

 ここで記念撮影。

次は法堂の前に連れて行かれ、屋根のひさしの裏側を見るように武藤君が一同を促します。下段のひさしの裏は並行に桟が並んでいるが上段のものは放射状になっていることに注意を向けます。大徳寺法堂独自の様式なのでしょうか。
【動画】mvi1499
http://www.youtube.com/watch?v=Wch1PKxdmDE

〔武藤和尚談話〕
「あれは垂木(たるき)と云います。上層の放射状の扇垂木と下層(実は軒下を堂内に取り込んだ裳階(もこし)の平行垂木が禅宗様(ぜんしゅうよう)と云う禅宗建築の特徴の一つです。和様、大仏様、禅宗様と高校の日本史で教わりましたよネ。大徳寺だけでなく、禅宗の大寺の法堂(奈良のお寺の講堂に当る)や仏殿(おなじく金堂に相当)は大体この様式です。詳しくは、例によって下記参照」
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/tarukinooha.htm
法堂の次ぎに案内されたのが深い池とも堀ともつかないような大きな縦穴の見えるところです。
【動画】mvi1500
http://www.youtube.com/watch?v=UVgZklmsxR0
動画に写っている武藤君の話を聞きましょう。
〔武藤和尚談話〕
「この池を官池(かんち)と云います。掘るのに当時のお役人が労働奉仕したとかでこの名前があります。池の中(実際は三面のみ)の建物は経蔵(きょうぞう)です。大事な教典を火から守る為にこのような池を掘ったのでしょう。」
http://www.kyokenro.or.jp/bunkazai/1997/05/post-3.html

山門
仏殿のそばを通ってやってきたのが山門(重要文化財)。三門とも言います。ここでは狭くて急な階段を上っていくのです。
動画をご参照ください。
【動画】mvi1502、1503、1504(前半)
11.04.04daitokuzi_edi_5
http://www.youtube.com/watch?v=QbYjmjTAnzA


実は私は金毛閣といわれる二階に上がるまで、この三門が千利休を切腹に追い込むきっかけとなった有名な木像事件の場所とは知らなかったのです。
大徳寺を訪ねる自称歴史好き人間としてはうかつな話しですが、知らなくて良かったです。歴史上有名な舞台と知るとワクワクしてしまう私はきっといそいそと階段を登って頭をぶっつけるか足を滑らせたかも知れないからです。そのくらい、階段は急で狭く、頭をぶっつけた人が二人もいたくらい。柴田さんが今日の大徳寺参詣を断念したのは彼女は以前にこの三門を登ったことがあり、今回の膝を痛めた状態では無理と思ったことも一因だったようです。
階段を上りきって回廊をぐるっと回ると金毛閣の内部に入れます。
【動画】mvi1504(後半)、1505
11.04.04daitokuzi_edi_6
http://www.youtube.com/watch?v=tDA17YgtVcc

天井には長谷川等伯の筆による龍の絵が描かれています。迫力あるなと私は想ったのですがそれ以上の感慨を受けなかったのに較べ、武藤君のお嬢さんは大学時代にここを訪れてこの龍の絵を見たとき、感動のあまり、涙が溢れたとのこと。その話を武藤夫人から聞いたとき、まあ、何という感受性の違いだろう、と思ったものでした。
〔ムー注 いえいえ娘ではなく、その友人のことです。国文科のゼミ旅行で京都に行くとのことなので、便宜を図り此処へ行かせた時のことです。担任でなかった教授が行けなかったので「何故うちのゼミに入ってくらなかったのか!」と悔しがったとか。〕

【画像】IMG1511_S
有名な利休の木像も開帳されており、すぐ側で拝見しましたが、穏やかそうな風貌でありながら、何と表現したらよいのか、聖でも俗でも善でも悪でもない、という何か得たいの知れぬ迫力を感じさせるものがありました。利休の奥深く、底の知れぬ人間性が垣間見られるような木像です。
 さてこのレポートを記すにあたって武藤君から下記の内容のメールを頂戴していますので、ここで撮影された皆さん、この利休木像の画像は決してネット上に公開しなようお願いいたします。
(武藤君のメール)
他の方々のスティールも交えての、リポートになるかと思いますが、金毛閣内の利休の像だけは公開を差し控えたいと思います。
利休の像はネット上で、1件だけありましたが朝日放送の「歴史街道」なるサイトでしたので、
大徳寺から撮影許可をもらってのことでしょうが、今回の金毛閣拝観は私への好意と信頼の上での内々のものという意味がありますので、それなりの遠慮は示したいと思うのです。

三門を出て、精進・懐石料理の泉仙大慈院店で昼食休憩となります。朱塗りの丸い器で料理を出す「鉄鉢料理」が有名だそうで、丸い朱塗りの器は少しずつ大きさが違っており、食後にそれらを重ねると1つになります。一般の懐石料理では高価な漆器茶碗を保護するために器を重ねることはマナー違反となってますが、僧院の食事作法はそれが逆のようですね。
胡麻豆腐や生湯葉、生麩などを中心に、京の食材を使った四季折々の料理は薄めの味付けで、素材のそのものの旨みがよく出ていて大変美味でした。(ただし、本音を言えば、三切れほどでいいから刺身が添えてあったらもっと美味しかった・・・。精進料理ですから仕方ないですが)
日本酒は1本だけついていてそれ以上注文する場合、勘定はめいめいで払うことになりました。正月でもないのに真っ昼間から公然と酒が飲めるとは有り難かったですね。私が日本酒を追加注文したのは言うまでもないことです。

【動画】mvi1515
http://www.youtube.com/watch?v=ZsjxN-ZdIzo

養徳院
食後に案内されたのが養徳院。
山門のそばを通り、勅使門のそばで平家物語で鬼界ヶ嶌に流されて後に許されて帰京した平康頼の塔を見て、養徳院に向かいます。
【動画】mvi1518、1519
11.04.04daitokuzi_edi_7
http://www.youtube.com/watch?v=Kchjh_UcFI8

 平康頼の塔のところで談笑するのは左から中牟田君、天野夫人、井上夫人、市山(森)陽さん、垂水夫人。中牟田君と市山さんを除くと皆よいよい会メンバーの奥様たち。たった一日一緒に行動しただけでこんなに和気藹々の雰囲気。いいですなぁ。

やがて黄梅院の門前に来ます。小早川隆景と蒲生氏郷の墓があるところです。
【画像】IMG1535-S
普段非公開の塔頭ですが、その日は特別公開の日とかで受付が門のところに設けられ、女性が番をしています。清楽寺一行はここは拝観しないそうで、小早川隆景の墓参りをしたかった私としては大変残念な思いで、解散後、私は一人で黄梅院に行ったのですが、小早川隆景の墓は一般の檀家たちの墓も一緒にあるため、非公開となっているという受付の女性の話に拝観は断念しました。
【動画】mvi1519
http://www.youtube.com/watch?v=3P1r891Hm8c

  さて、養徳院です。
愛想もくそもない住職だがなぜか私はここが気に入っている、という武藤君の言葉に、つまり、彼と養徳院の住職とうまがあうんだろうな、と私は想像したものでした。
ところがいざそのご住職、神波東嶽(かんばとうがく)師にお会いしてみると無愛想どころか、飾り気がなく、巧まざるユーモアを感じさせる率直な物言いとで大変面白く、楽しくお話を聞かせてくだるといった感じの気さくなお坊さんでした。
もうこのころになると、「ほう〜」や「へぇ〜」の感嘆詞以外は口にしないという当初の申し合わせなどどこかに吹っ飛んでいて、皆、住職の話に笑ったり、私語をしたり、実にリラックスし、やがてお茶とお菓子が運ばれてくると、お菓子の美味しさに女性達はそのお菓子の味付けのことや売っている店はどこだろうか、とか、やがては庭のカヤの大木についてなど口々に語り合う有様でした。
【動画】mvi1522(前半)、1523、1524などを合成
11.04.04daitokuzi_edi_8
http://www.youtube.com/watch?v=zyG7f5Euas4

 写真も動画も撮ってもかまわないと言われるので写真係の定直君や私やその他の女性も皆、もう一度方丈内に入り、室内を撮影し、特に地袋のふすま絵の「瑞兆の図」を皆、何枚も写しまくるのでした。
【動画】mvi1522(一部)
11.04.04daitokuzi_edi_9
http://www.youtube.com/watch?v=i94-qOGuQ8g

「瑞兆の図」は日本の伝統工芸作家であり、「ユネスコ・アーティスト」としても知られる十二代藤林徳扇(ふじばやし とくせん)、及び長男である宏茂、二男の徳也等各氏によって作成され、奉納されたものです。
 藤林徳扇氏の作成する絵の生地は時が経っても変色のない本金糸や本プラチナ糸を使用し、ダイヤモンド、パール、エメラルド、サファイヤ、ルビーなどの五大宝石をパウダー状にしたものを絵の具として使用しているのです。
 養徳院は大徳寺の塔頭の中でももっとも地味な存在と言われた神波東嶽師でしたが、このふすま絵を説明されるときの同住職のひょうひょうとされた表情のなかにも嬉しそうな色合いがかいま見えるように感じたのは私だけだったでしょうか。

 みんなが歓談する中、伊達君夫妻がつっかけを履いて庭に降り、建物の裏方に行くのが見えたので廊下伝いに後を追ったら裏手に茶室があることを知ってそこに行ったようでした。
伊達君が造る茶室の参考にするのでしょうか。口ぶりから茶室造りにそんなに積極的には思われなかった奥様も熱心に見ています。お二人とも茶道が本当に好きなんなあ、と思いました。
【動画】mvi1529
http://www.youtube.com/watch?v=DdYCtls0lbI

 「武藤君がこの養徳院を最後にとっておいた理由がよく判る」と神波東嶽師の動画を撮りながら私が言うと武藤君は大きく頷いてました。
【動画】mvi1522(後半)
11.04.04daitokuzi_edi_10
http://www.youtube.com/watch?v=apFYa9pAThw

 養徳院を出たところで今日の集まりは解散となります。
 銘々、別れの言葉を口々にしながら三々五々に散っていきます。
 武藤君のおかげで普通は入ったり見たりすることが出来ない場所、増築物、障壁画、仏像などを色々見ることができ、本当に充実した大徳寺の拝観でした。