伊丹市の「自衛隊第三師団創立50周年」に思う  by リワキーノ

8月3日、仕事で車を走らせていて伊丹市の自衛隊第三師団の前を通りました。
創立50周年だそうで「守り続けて50年 強い絆と新たな飛躍」と看板に記されています。


戦後最大の大災厄に見舞われたわが国で、多くの国民が”守り続けて50年”の言葉に強い実感を、
そして”強い絆と新たな飛躍”に深い共感を感じることだろうと思いました。
天皇陛下もお言葉の中で「自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々」と
自衛隊の名前を各救援組織の冒頭に挙げておられます。

かつて「税金泥棒」「殺人集団」「日本の恥部」と罵られた自衛隊が徐々に国民の支持を得られるように
なったのは水害、震災などの災害のたびに出動して汗まみれで黙々と復旧作業に従事する姿が偏った
マス コミの隠蔽操作にもかかわらず、隙間から漏れ伝わって否応なしに国民の目に入ってきたからです。

国民の自衛隊に対する意識を大きく変えたのは日航ジャンボ機の墜落事故ではないでしょうか。
真夏の猛暑のなか、登山路無き御巣鷹山(正確には高天原山)に道を整備し、520人の遺体を麓へ運
び下ろし、4人の生存者を救出したのです。
こう記すと簡単ですが、自衛隊員と言えども戦場で敵と戦った経験のない彼らが死体を見ることにそ
んなに慣れているはずがありません。
そんな彼らが航空機事故で無惨にも損傷した遺体を次から次へと収容し、担ぎ降ろしたのです。
どんなに気が滅入り、嘔吐を催す辛い任務だったことでしょうか。
目撃した遺族の人たちは異口同音に自衛隊員への深い感謝、称賛の言葉を報道陣に語りました。

湾岸戦争をきっかけに自衛隊が海外に派遣されることになったとき、自衛隊の海外派遣の是非に国論
は別れましたが、おおかたの国民の心情は「無理しないで!どうか無事に帰ってきて!」と身内を危険な
任務に送り出すときのような切ないものだったと私は推察しました。

そして今回の東日本大震災です。
自衛隊の八面六臂の救援活動、そしてその恩恵を多くの国民が痛感したと思います。
以下は保守系の月刊誌Will 6月号に記された記述です。

地震発生後から一ヶ月後の4月11日段階で、自衛隊の派遣規模は人員が約十万六千四百五十名、航空
機四百九十九機、艦船四十九隻。
(中略)
大規模震災災害派遣でも、累計九十四トンを超える糧食等の輸送に加え、約二百万食の給食支援、一
万八千トンの給水支援、約二十四万名の入浴支援、一万二千五百十九名の患者への医療支援、二百
八十五キロに及ぶ道路の啓開、膨大な瓦礫の除去など、重要な役割を担う。
救助した被災者の数は二万名に近い。遺体収容・搬送数は八千四百四十四体。史上最大の作戦を遂行
している。


多くのマスコミ関係者、識者、論客が戦後最大の厄災を前にして、今一つ頼りない政府の対応に危機感を
抱き、自衛隊は「日本の最後の砦」という表現を使いました。
「税金泥棒」「殺人集団」「日本の恥部」という罵りから「日本の最後の砦」という称賛に変わったこと、そし
て将来自衛隊になりたいと言う子供達が増えてきたとのこと。
隔世の感を感じるリワキーノでございます。