北のまほろば・蝦夷の矜恃
 
〜 阿弖流為・母礼の想いを歩く 〜

 
                            全国歴史研究会 八巻 実

○延暦8年5月
 いまから千二百十余年の昔、延暦八年(789)の夏、まつろわぬ民という謂れなき名分のもとに、征東
大使 紀古佐美に率いられた五万二千人の朝廷軍が、〃水陸萬頃(すいりくまんけい)〃と称された胆
沢平野に押し寄せ、 衣川を越えて布陣した。


 胆沢平野は北方七時雨山を水源として南流する北上川の中流域に位置し、盛岡市から一関 市辺まで、
雫石川、和賀川、胆沢川、白鳥川、衣川など大小の支川を擁する南北90キロメートルほどの沖積低地と
扇状地からなる奥六郡の穀倉地帯であり、五世紀末から六世紀初頭の造営と考証される前方後円墳
(胆沢町南津田角塚古墳)が証明するように、於呂閇志神社という式内社も現存する 歴とした農耕集落
である。儒教的モラルや稲作、養蚕を生業とする文化レベルを善とし、それを押付けるこ とが王化である
とする考えは、現地住民にとって迷惑この上もない。まして王化への帰順は俘囚として の差別であり、
原住民は族長阿弖流為・母礼に率いられて、敢然と干戈をとって立ち 上がった。

 が、衣川を越えた征討軍は、三カ所に布陣したまま一カ月たっても動かない。たまりかねた朝廷は
5月12日督促 の勅を下し、ついに征討軍は腰を上げた。敵の本拠を北上川東岸の黒石、羽黒堂付
近と索敵、全軍を三軍に分けて 各軍から二千人を選抜して前、中、後軍を編成し、中、後軍は前沢町
白鳥付近から渡河して東岸を北進、前軍は西 岸を進んで巣伏(江刺市愛宕付近の四丑)辺に渡河し
て、敵を挟撃殱滅する作戦である。

 中、後軍は難無く渡河し、迎撃する三百名ばかりの胆沢兵を追って北上すると、前軍は伏兵に阻ま
れて渡 河を阻止され、八百名ほどの騎馬本隊が敗走する囮兵を収容して中、後軍に反撃してきた。
あわてて後退 すると、背後の山中から新たに四百名ばかりの伏兵が現れて退路を断つた。

 征討軍の作戦は逆転し、退路を断たれた中、後軍はわれ先に河に飛び込み、甲冑を着けたまま溺死
する者数知れずという有様になった。

 結果、別将丈部善理(はせつかべ)、進士高田道成ら中堅将校を含めて25人が戦死、負傷者 245人、
溺死 1,036人 、裸で逃げ帰った兵 1,257人という惨澹たる敗戦である。その戦果は賊首89、焼亡14村、
居宅 800余戸とある。

 加えて征討軍は、反撃に転ずるどころか、兵士の軍粮一日二千斛になるからと、決裁を待たず、独断
で征 討軍を解散してしまった。胆沢軍の完勝である。このときはじめて阿弖流為の名が、賊首として
朝廷の 記録に現れる。
 
○母礼(もれ)の根拠地

 もともと阿弖流為にしろ母礼にしろ、現住民の漢字表記は朝廷側の当て字であり、氏名を含めて
阿弖流為側の記 録は何一つない。戦闘経過も彼我の損害も、朝廷側の記録の断片から類推する
のみで、特に延暦11年以降の『日本 後記』は欠本が多く、以後の阿弖流為らの行動は『類聚国史』
や『日本紀略』からの補完に頼らざるを得ないが、 幸いに延暦八年の戦闘は、『続日本紀』の完全
本が残っており、ある程度の状況は復元できる。

 ここで疑問となるのは、衣川を越えた征討軍が布陣した三カ所の位置である。北上川西岸の東か
ら前軍は前沢町 の陣場に、中央軍は衣川村中心の古戸に、左陣は衣川支流の北股川上流、同村
石生の古館に比定される ことである。

 胆沢軍本軍の阿弖流為本隊が、北上川東岸の山中にあるとするならば、征討軍は北上川に沿って
布陣しなければ ならない。何ゆえに北方の支川胆沢川を意識したような戦線を展開したのか。

 つぎの疑問は、五万二千を動員したとする征討軍の実数は、敗戦後の実態から約3万人と推定でき
るが、なぜ手 元に二万四千を残したまま、六千の選抜兵、それも別将丈部善理、進士高田道成ら下
級将校に率いさせて渡河作戦 を実施したのか。しかも、敗兵を含めて二万数千の兵力を手元に擁し
ながら、なぜ反撃せずに解兵してしまったの か。この時点での阿弖流為側の兵数は、迎撃の囮隊
300に本軍 800騎、奇襲隊 400の:計 1,500人で、前軍の渡河 阻止迎撃隊を 500としても、2,000 人
弱の兵力である。

 『歴史研究』第四一八号(平成八年三月号)に、神奈川県藤沢市の会員江本好一氏は「母礼の根拠
地」という論考を寄せて、胆沢町若柳の大歩・小歩地区に母礼の根拠地があり、 この討伐が征討軍の
本名であり、朝廷の督促を受けた小佐美軍は、大歩・小歩への備えを残したまま、擬態として 一部を
東岸へ渡河させて大敗したと考証する。母礼の根拠地として東岸の前沢町の生母を比定する説もある
が、そ こは事実上中・後軍の渡河地点であり、敵の本拠へわざわざ敵前上陸する愚策はない。

 以下延暦二十一年の阿弖流為・母礼の投降までの十三年間、征夷大将軍は坂上田村麻呂に代わっ
て胆沢軍と攻防 をくりかえすが、その詳細は『日本後紀』の欠落でわからない。前記江本氏の考証を敷
衍すれば、母礼 の根拠地胆沢町若柳の大歩・小歩は、執拗な征討軍の攻撃に晒され、ついに放棄を
余儀無く され、母礼は東岸の友軍阿弖流為に合流したが、やがて胆沢城の築城を目のあたりにして
回復不可能と知り、阿弖 流為とともに無念の投降を決意したのではなかったかと考える。
 
○巨星陥つ!無念の選択

 延暦21年(802)、「阿弖利爲、母礼等、種類五百余人ヲ率ヰテ降ル」という坂上田村麻呂の上奏が、
四月十五日 平安京に届いた(『類聚国史』)。抗戦二十余年、ついに阿弖流為は田村麻呂の軍門に
降った。七月十日、田村麻 呂は降将阿弖流為らを従えて平安京に到着した。

田村麻呂は 「此の度は願いに任せて返し入れ、其の賊類を招かむ」と具申したが、公卿僉議は、
「(蝦夷は)野 生獣心、反復定まりなし。たまたま朝威に縁りて此の梟帥を獲えたり。たとえ申請により
奥地に放還するは、いふ ところの虎を養ひ患を遣すなり。即ち両虜を捉へ、河内国社山にて斬る」
(『日本紀略』)。

「…たまたま朝威によりて此の梟帥を獲えたり…」と、田村麻呂の功績をも無視する長袖公卿たちの
思い上がりは 、後年、楠木正成の献言を退けて南朝を自滅させた坊門清忠の妄言と同じ痛恨事と
言えよう。

 雲霞の如き征討軍を迎え撃って幾星霜、謂れなき侵略に不屈の抵抗を続けた蝦夷の領袖は、遥か
胆沢の〃まほろ ば〃を偲びつつ、八月十三日(新暦九月十七日)、河内社山(大阪府枚方市)の露
と消えた。

 星移り歳代って、一人の老婦人が枚方市役所を訪れた(昭和55年頃)。
 曰く、「…夢に、長い白髪とあご鬚の人が出てきて地中から半身を乗り出し、何かを訴えるが、意味
    がわからない。昔この辺で何かありましたやろか」
 A…さあ、むかしエゾの酋長が斬られた話がありますが…。
    「きっとそれです。恨みのため成仏できずにいるに違いありません。市のほうできちんとお祀りし
    てあげてくだ さい」
 A…いや、市ではそういうことは出来ません…。
    「…それではせめて私がその場所を、犬や猫の大小便からまもります」
  と、老婦人は勝手に柵を立てて縄をはりめぐらし、曰くありげに飾りはじめた。その地はもと近くの片
 埜神社の 神域で、市が管理するようになっていた。この段階では一市民の酔狂として放置したが、
 やがて時の経過とともに 雑木が繁茂し、柵も強化されて、一帯は妙な存在感を漂わせはじめた。

  その後牧野公園として整備するにあたり、その場所をマウンド状に残して植樹したため、いつしかそ
 こに信者らしい人々が碑を建てて祠(るようになった。

  その頃、枚方市の市史編纂室を訪れた北上新報大阪支社の記者が老婦人の話を知り、片埜神社に
 取材して、「大 阪にアテルイの墓発見」と報道した。しかし、「牧野公園内のマウンドを処刑地あるいは
 首塚とする歴史的根拠は まったくない。行政自らが、根拠のない史跡を捏造して誤解の元を作ることは、
 後世に大きな禍根を残すためやる べきではない」と言うのが、枚方市社会教育課の見解である。
  が、賊将とはいえ、六国史の一級史料に「…河内国社山にて斬る」と明記された史実を、探索の努力も
 せずに否定 するのはどういうものか。まして阿弖流為・母礼は賊将にあらず、朝廷軍こそ謂れなき独善
 的な侵略者ではなかったか。

  平成六年、岩手県の地元水沢市では、延暦八年から 1,200年を迎えることから、街の大通りに「阿弖流
 為の郷」 広場を造成して阿弖流為のシンボル像を建立し、佐倉河の跡呂井地区には、延暦八年巣伏の戦
 い戦跡碑も建立され た。

  また同年、坂上田村麻呂の創建と伝えられる京都清水寺には、関西アテルイ・モレの会が、広く浄財募
 って「阿 弖流為・母礼之碑」を建立し、更に平成十五年二月には、「蝦夷の首塚」と語り継がれる枚方市
 牧野地区に、「行 政主導の街から住民参加の街へ」を合い言葉に、枚方市長を招いて阿弖流為を顕彰す
 る牧野歴史懇話会が発足した 。

 阿弖流為よ、母礼よ。貴下らの戦いの決断と矜恃は、決して無駄ではなかった。安らかに眠りにつかれよ。  
                                                              ―合掌
                                            (大衆文学研究会会員・やまきみのる)