映画「日本海大海戦」

過日、”無料動画Gyao!”で表記の映画を見つけ、ダウンロードして見たのですが、今から43年前の
作品というのに海戦のシーンも迫力があり、至近のNHKドラマ「坂上の雲」をも含めて私が今まで見
た日本海海戦を描いた映画の中では一番良かったという印象でした。
5月27日から28日にかけて戦われた日本海海戦と奇跡的とも言える日露戦争の勝利を映画を通して
振り返りたく思いました。

ロシアとの開戦を決めた御前会議。


松本幸四郎演じる明治天皇は実に品格がありましたが、やや柔和過ぎるかな、という思いがなきに
しもあらず。


旅順港の閉塞作戦に赴く広瀬中佐は加山雄三が演じます。凛々しかったですね。


旅順要塞攻撃で編成された決死隊、白襷隊(しろだすきたい)。
夜襲攻撃だったのでこの昼間の画面は事実と違いますが、映像映えさせるために仕方なかったの
でしょう。

夜襲のときに敵味方を識別するためにつけた白襷ですが、ロシア軍の照灯照射によって反射して目
立ったため大損害を受け、夜襲は失敗します。
愚かな策だと後世の人間は言うかも知れませんが、硬直状態に陥った旅順攻撃のせっぱ詰まった
状況の中ではそれが最良の策と作戦参謀は判断したのであり、それを後世の人間が後知恵で否定
的に断じることを私は承伏できません。
撤退の命令が出るまで止むことの無かった、死を恐れない白襷隊の猛攻はロシア将兵に激しい精神
的屈服感をもたらした、と言うロシア将官の証言があるそうで、旅順陥落への大きな要因ともなってい
る、と西村眞悟氏が自身のブログで記してます。

後世の人間としてその事実を知っている私は、出発していく白襷隊の映像を見ていて、胸をこみあげ
るものがありました。


実際の白襷隊の写真。


私の母方の祖父は日露戦争に従軍しましたが、生きて帰ってこられたために今の私が存在します。
(我が家の古いアルバムに明治38年撮影と記されている)


それにくらべ、白襷隊の多くの若者は子孫を残すことなく戦場に散っていったのです。
そのことを思うと私は落涙をとめることができないのです。
日清戦争、日露戦争、大東亜戦争を経て今の日本の繁栄と平和があります。
繁栄の方はいささかかげりが出てきていますが、それでも私たちは日本人であることの恩恵を満喫し
ていると私は思います。
そのことを思うと戦争で死んでいった日本人たちのことに私たちは常日頃、鎮魂の想いを寄せるべき
ではないかと思います。
西村眞悟氏の下記の書き込みを読んでください。
http://www.n-shingo.com/jijiback/389.html
彼らの霊はどこをさまよっているのだろうか、と異国の人は思うかも知れませんが、我々日本人は
彼らが靖国神社に祀られ、手厚く追悼鎮魂されているのを知っています。

旅順をなかなか落とすことができずに、苦悩する乃木将軍を東郷元帥が慰問に訪れます。
このエピソードは私は聞いたことがないので創作の可能性あり。


司馬遼太郎の「坂上の雲」で旅順攻防戦を指揮した乃木大将と伊地知参謀長が徹底的に無能あつ
かいされたために、その後、乃木大将愚将論が幅をきかせました。
しかし、その後の研究成果を踏まえると、偏った視点でしか描かれておらず、大いに問題のある「機
密日露戦史」に沿って書かれた「坂上の雲」で司馬氏が描いたことは事実に反したものが多く、乃木
将軍が不当に貶められたというのが大方の意見のようです。

そして203高地への総攻撃が始まります。
砲撃戦から始まり、


そして突撃。


ロシア陣地からの機関銃の連射攻撃にもひるまず日本軍は203高地を目指します。


ロシア将兵も陣地を出て闘いに挑みます。


ロシア将兵の抵抗も英雄的な勇敢さを示したそうです。


日本軍はついに敵陣地に到達。


そして悲願の203高地占領。
この25日後、旅順要塞は陥落します。

※乃木将軍の武士道的美徳が各国の従軍記者によって世界中に喧伝されることになった敵将ステ
ッセル中将との”水師営の会見”の場面はありませんでした。

一方、ヨーロッパを出発したバルチック艦隊はウラジオストックに向かうのに対馬海峡を目指すのか、
それとも太平洋側に大きく迂回して津軽海峡を目指すのかが日本海軍の最大の関心事でしたが、そ
の消息が日本の諜報網と日本艦船の必死の探索にもかかわらず、ようとして判らないため日本海軍は
焦ります。


もし取り逃がしてバルチック艦隊を無傷でウラジオストックに入港させては万事休す、と東郷元帥
(三船敏郎)は危機意識を深め、苦悩します。


その海軍首脳部の苦悩とは別に日本海軍の将兵はバルチック艦隊との対決にそなえて訓練に明け
暮れます。


魚雷を発射するのは駆逐艦でしょうか、それとも水雷艇?


標的を引く船。
訓練用の弾薬1年分を10日で使い果たすほどの猛訓練だったそうです。


日本は日露戦争でインテリジェンス(諜報活動)にも力を入れ、明石元二郎大佐に100万円(現在の
時価で400億円)の資金をもたせ、ヨーロッパで対ロシアの諜報活動に専念させます。


一人の軍人の諜報活動に400億円もの巨額を持たせたのは山県有朋の英断だそうです。
明治の元勲のなかではとにかく人気の無かった山県ですが、戦争をするときに絶対におろそかに
できない諜報活動をこれほど重視したとは、やはりただ者ではない政治家だと思います。
ドイツを統一した鉄血宰相ビスマルクはこの諜報活動に、取り潰して没収したハノーバー王家の資
産をあてがい、巨額の出費をしております。

明石大佐はレーニンやフィンランド、ポーランドなどの、反ロシア帝国の革命家や活動家に資金を提
供し、ロシア帝国の軍人を買収して得たバルチック艦隊の情報を本国に送ったりする活躍をします。


ちなみに明石大佐は修猷館の大先輩です。
仲代達也演じる明石大佐は実にかっこいいですが、実際の明石大佐は小柄で風采もそんなにあが
らない人だったらしく、同じく修猷館出身だったロシア公使勤務時代の上司、栗野慎一郎も最初は
低い評価しか与えなかったとのこと。



そして、明治38年5月27日未明、五島列島沖合を哨戒していた信濃丸がバルチック艦隊を発見する
のです。
ちなみに信濃丸は日本郵船が海軍に供出した貨物船です。


消灯命令を守らなかった病院船の灯りが信濃丸の乗組員の注意を引きつけ、


すぐ側を航行するバルチック艦隊の存在を確認させるのです。
これは日本海軍にとっては大変な幸運だったと思います。


「敵艦見ゆ!」の報は連合艦隊司令部に無線で打電され、連合艦隊が出動します。


やがて対馬沖で両艦隊は遭遇。
日本の連合艦隊はバルチック艦隊の前を横切るという、海戦史上有名な東郷ターンを開始。


格好の標的となる艦船の横っ腹を露出する非常識ともいえる作戦に「東郷は狂ったか!」と驚喜する
バルチック艦隊は攻撃を開始します。




しかし、着弾距離の違いや砲兵の技量の稚拙さから、日本艦隊に大きな損傷を与えることができま
せん。


バルチック艦隊との距離が7000メートルを切った時点で、東郷提督は「撃ち方始め!」の号令を出し
ます。


連合艦隊の正確無比、かつ、呵責無い苛烈なる砲撃が始まります。


バルチック艦隊は次から次へと被弾し、炎上。




30分で海戦の大方の帰趨が決まり、その後の二日間における掃討戦でバルチック艦隊は壊滅した
のです。


バルチック艦隊の損害は被撃沈16隻(戦艦6隻、他10隻)、自沈5隻、被拿捕6隻。他に6隻が中立
国へ逃亡し、ウラジオストクへ到達したのは巡洋艦、駆逐艦など3隻のみで、兵員の損害は戦死4,8
30名、捕虜6,106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていまし
た。
世界最強レベルと思われていた巨大艦隊が日本海海戦で忽然と消滅した事実は、日本の同盟国
イギリスや仲介国アメリカすら驚愕させ、また、欧米列強によって植民地化されていたアジアの各国
の国民に希望と勇気を与え、多くの独立運動への道を切り開いたのです。

画像は降伏するバルチック艦隊乗組員たち。中央はネボガトフ提督か?


それに対する連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみで、戦死117名、戦傷583名とロシア軍の損失
に比べて圧倒的にわずかな数字であり、大艦隊同士の決戦としては史上に例を見ないパーフェクト
な勝利となりました。

バルチック艦隊の総帥ロジェストヴェンスキー提督は海戦中に重傷を負い、駆逐艦で戦場離脱を計り
ますが追跡した日本海軍に捉えられます。


日本国内で手厚い看病を受けるロジェストヴェンスキー提督を東郷大将と幕僚が見舞いに訪れます。

遠いヨーロッパのバルト海から日本海まで、あれほどの大艦隊を、艦隊としては史上最長と言える
航路を無傷で日本海まで引き連れてきたロジェストヴェンスキー提督を讃える東郷大将の言葉に
ロジェストヴェンスキーは十字を切って「閣下のような提督と戦って敗れたことを私は恥とは思いま
せん」と深い感謝の意を表します。
ロジェストヴェンスキーはこの敵将の礼節行き届いた対応に感激し、終生東郷を尊敬したそうです。
映画「日本海大海戦」はロシア将兵の名誉も丁寧に扱った作品でした。