カラヴァッジョに魅了された友人    by リワキーノ  2012.07.09

フラウ香さんは私の顧客の娘さんです。
その顧客宅に調律に行ったとき、テーブルの上にトーマス・マンの研究書が置いてあったので、どなた
が読まれるのですか、と奥様に尋ねたら「娘です。大学院でトーマス・マンを専攻しているのです」
と言われます。
『トニオ・クレーゲル』、『ヴェニスに死す』、『選ばれし人』等を読んだことをお伝えしところ、そのことを
母親から聞いたフラウ香さんはトーマス・マンを読むピアノ調律師に興味を持ち、次ぎに調律に伺っ
たとき
にはご本人が待ちかまえていたのでした。
今から二十数年前のことです。
お話しているうちにお互い意気投合し、それからは居酒屋でお酒を一緒しながら文学や映画や現代
思想などについて語りあうことがしばしばあり、彼女の彼氏や友人たちも紹介してもらったりしたもの
でした。
ところが10年前から彼女は香里園の実家を離れ、独り住まいするようになってから私たちは会って
いなかったのです。
それが今年の彼女からの年賀状に「今年こそ、久しぶりにお会いしたい」と記されているのを機に、
私は彼女に連絡し、そして2月3日にお会いしたのです。
10年ぶりにお会いするフラウ香さんは全然変わっておらず、相変わらずお洒落でした。
彼女は関西の複数の大学でドイツ語の非常勤講師をしていますが、大学の生き残りが厳しい今の時
代に、しかもドイツ語という日本では需要の少ない言語でコマ数を減らさず、大阪府の某市の市民講
座のドイツ語教室担当は14年間も続いているくらい高く評価される講師であり、悠々自適の生活がで
きる年収を得ています。

写真は10年前のもの。娘が撮影

彼女の話はいつも本当に面白く(私の娘は10年前に彼女との飲み会に参加したのですが、いっぺん
に彼女の話術に魅了され、今回の再会も関東に居るため一緒できないのをとても残念がったくらいで
す)、私は彼女の了解を得てICレコーダーに会話を録音しました。
そこでカラヴァッジョについて語るフラウ香さんの話しは実に興味深く、先日のk.mitikoさんのカラヴァッ
ジョのレポートを見て、フラウ香さんの話しもここに紹介したくなったのでICレコーダーの会話を書きつ
づって対話体で掲載する次第です。
添付画像はk.mitikoさんのレポートとダブりますが、フラウ香さんの語る絵がすぐに判るよう添えました。
各画像はクリックすると拡大されます。

香  「カラヴァッジョという人は日本で言うと戦国時代から江戸時代初期にかけて生き、最初はローマで
   活躍した人なのです」
リワ 「イタリア人ですか?」
香  「そうなんです。知ってはいたのですけれど、ちょっとしたことがきっかけとなって好きになって追っ
   かけをしだしたのです。今のイタリアの一番の高額紙幣は10万リラですけれど、この高額紙幣に
   印刷されているのは彼の肖像画なのです」
リワ 「へぇ〜」
香  「面白いでしょう?イタリアなんて、いわゆる天才画家たちをたくさん生んだ国じゃないですか?」
リワ 「ええ」
香  「それがダヴィンチとかミケランジェロではなく、カラヴァッジョを一番の高額紙幣に選んだのです」
リワ 「そうなんですか!」
香  「それほどイタリア国民は彼に一目をおいているんです。彼は人を殺してしまって、そこからマル
   タ島っていうところに逃げるのですが、ほら、あそこってヨハネ騎士団(マルタ騎士団)があるじゃ
   ないですか」
リワ 「はい」
香  「カラヴァッジョはヨハネ騎士団にかくまわれたのですね。そしてそこで『ヨハネの斬首』というのを
   描くのです」
リワ 「サロメの物語ですね?」
香  「ええ、そうです。その絵が今もマルタ島にあるって知って私はマルタ島まで行ったのです」
リワ 「へぇ!」
香  「そしてダブリンで1999年代に見つかったという『キリストの捕縛』というカラヴァッジョの作品を見
   たくてダブリンにも行ったのです」
   キリストの捕縛
リワ 「何とまあ、すごい行動力ですね」
香  「ゲッセマネの園でキリストが捕縛される、まさに追っ手に捉えられるその瞬間を描いたものなん
   ですが、それが実物の迫力が凄いんですね!リワキーノさんは聖書にお詳しいし、カラヴァッジョ
   の作品は題材を聖書からとったものが多いですから是非、見てほしいのですが・・・」
リワ 「多分、カラヴァッジョの作品はそれと意識せずして画集や映像で見ていると思いますね」
香  「絶対、見ていると思います」
リワ 「ヨハネの斬首って、サロメがお盆に載せられたヨハネの首を見つめる構図じゃないですか?」
香  「そこの場面と違ってヨハネが処刑される場面です。
   ヨハネの斬首
   そのヨハネの斬首とは違う作品でもっとマイナーなので、え〜と、何て名前だっけ・・・そうそう、
   『マタイの召命』という作品がありましてねぇ。マタイって収税人でしたよね?」
   マタイの招命
リワ 「マタイは共観福音書の作者の一人ですが、収税人だったかな・・・」
   (相当酒が入っているリワは思い出さない)
香  「マタイってキリストの一番弟子でしたよね?」
リワ 「いえ。一番弟子は確かペテロです」
香  「あれ、じゃ、ペテロかな?いや、違う。確かにマタイの召命には収税人とされいたような記憶が
   あります」
リワ 「失礼!そうでした。収税人かも知れません。マタイかルカかのどちらかが収税人のはずです」
香  「そのマタイの召命という絵がもしかしたらカラヴァッジョの作品の中では一番有名なのかもしれ
   ないのですけれど、キリストが税事務所のようなところで、お前は私とともに来なさい、とマタイ
   に言うのですが、それがもう信じられないほど上手に描かれているのです。もし彼、カラヴァッジ
   ョがいなかったらあの、えーっと、誰だっけ、えーっとあのゆうめいな、誰だったけ、ああ、私った
   らもう名前も出えへんようになってきてる、えーっとデンマークでなくって、ルーベンスでなくって、
   ルノワールでなくって、ああ・・・」
リワ 「レンブラント?」
香  「そう、レンブラント!カラヴァッジョがいなくしてはレンブラントもいなかったと言われるくらい、光
   と影の使い方が独創的だったのです」
リワ 「へぇ、光と影のレンブラントに大きな影響を与えたわけですね」
香  「そうなんです。しかしカラヴァッジョはそのころの有力者の枢機卿などにも贔屓され、時代の寵児
   でもあったのですが、その後、長いこと忘れ去られたときがあったのです」
リワ 「ほう〜」
香  「再び評価されたのは20世紀に入ってからなのです」
リワ 「え、そうなのですか!」
香  「ええ。彼は30いくつくらいで若死にしているので・・・」
リワ 「え、それじゃ、作品数は少ないのでしょうね?」
香  「多くないと思います。ただ、彼は注文を受けるとどんどん描いたらしく、行方不明になっている作
   品が結構あるようなのです」
   (1999年代にダブリンで見つかった「キリストの捕縛」もその一つ)
香  「でも彼の作品はどれも素晴らしく、私は好きなんです」
リワ 「私、今日久しぶりにフラウ香さんにお会いしたけれど、フラウ香さんがこんなに西洋絵画に造詣
   が深いとはまったく知りませんでしたよ」
香  「私、絵画は好きなのですよ」
リワ 「でも、二十数年のお付き合いだと言うのに映画の話しや文学の話しはたくさん聞かされましたが、
   一度として絵画のこと聞いたこと無かったですよ」
香  「そうでしたけ?私、自分では全然描けませんけれど絵画を見るのは昔から好きだったのですよ」
リワ 「でもね、フラウ香さんが好きなのがそのカラヴァッジョというところが、ものすごくユニークと思いま
   したよ。多くの人が西洋絵画を語るときに出てくる画家たちとはちょっと趣が違うのですから」
香  「いや!カラヴァッジョを好きな人は多いと思いますよ」
リワ 「多いとは思いますけれど、ふつう世間一般の人は世に広く知られる巨匠とか評価の定まった
   絵画について関心を示し、話題性の高いものに飛びつくではないですか。その代表的なものが
   フェルメールです。フェルメール展が日本にやってきたときのあの騒ぎは異常でしたよ」
香  「S君(フラウライン香さんの彼氏)がフェルメールが好きなんですよね・・・」
リワ 「勿論、フェルメールの素晴らしさを否定するつもりは無いですが、あそこまでフェルメール、フェル
   メールと騒ぐほどみんなは己の審美眼でフェルメールを評価しえたのだろうかと意地悪な気持ち
   になってしまうのです」
香  「私はわかんないですけれど、日本人にはフェルメールの色調、雰囲気が好みにあうのでしょう
   かね」
リワ 「私の友達で日本画をやっている女性(マリーゴールドさん)がね、フェルメール展が日本で初め
   て催されたとき、フェルメールなんてそれまで日本ではまったく知られない画家だったと言うので
   す。しかし、彼女はさらに言うのです。フェルメールは凄いですよ。あの凄さは絵を描く者だったら
   誰もが圧倒されます、とね」
香  「凄いですよ!私もそう思います。でも凄いけれど好みとしては私の好みではないです。日本人
   はあのような淡い彩色が好きなのでしょうかね」
リワ 「大多数の人は話題性に飛びついたのじゃないでしょうか?」
香  「それもあるかも知れませんが、S君がね、十年ほど前に、そうそう、フェルメールって本当に作品
   数が少ないんですよね、それをオランダのどこだったかな、フェルメールの作品を一箇所に集めた
   んです。それを見にS君はオランダに行きました。やはり好きな人にとってははまるものがあるん
   でしょうね。
リワ 「ふ〜ん、Sさんがねぇ・・・しかし、フラウ香さんのおかげで私は今日、カラヴァッジョに対して並々
   ならぬ興味を持つようになりましたよ。このカラヴァッジョに端を発した絵画論は今日の飲み会の
   ハイライトとなりましたね」

   (ところが、この後に語り出したフラウ香さんの話しはそれこそ、今日のハイライトの核心部となるよ
   うな内容です)

香  「カラヴァッジョの作品で敵の大将というのでしょうか、敵将の寝首をかく女性の、その名は、えー
   っと、そう、ユディット、そのユディットが敵将の首を切るシーンをカラヴァッジョは描いているのです。
   グワっと敵将が目をむくのを眉をひそめながらも冷然と首を切るシーンなのです」
   ホロフェルネスの首を斬るユディト
リワ 「また、何ともグロテスクなシーンですね。
   (そんな絵を見た記憶があるリワはその絵を思い出そうとする)
香  「そう、とても正視に耐えないグロテスクな絵なのです。私はフィレンツェの美術館でそれを見た
   のですが・・・」
リワ 「フィレンツェまで行ったのですか?」
香  「ええ、フィレンツェは20回くらい行っているんですけれど・・・」
リワ 「ええっ!フィレンツェに20回?凄い!まるで京都や奈良に行くみたいですね?」
   (リワは一度も外国に行ったことがない)
香  「ええ、あそこの美術館でその作品(ホロフェルネスの首を斬るユディト)の実物を見たとき、鳥肌
   が立つような感動を覚えたのです。カラヴァッジョは敵将の首を掻き切るときのその女性を描くの
   に乳首を立たせているのです!」
リワ 「えっ!乳首を立たせるというのは乳首が勃起しているということですよね?」
香  「そうなのです。薄い衣服の下からそれが判るのです」
リワ 「ひょえー!それは何ともセクシーな情景ではないですか」
香  「そうなのです。その女性は本当に興奮しているから乳首が立つのですよね。筋骨たくましい男
   性の首を切るときに異常な興奮を覚え、乳首が立っているところを描いているところなんか同性と
   してとてもうなづけるところがあり、カラヴァッジョって本当に凄いなぁと思ったのです」
リワ 「う〜ん・・・・・凄い話しですねぇ・・・カラヴァッジョの凄みをますます感じさせられました。しかしそ
   んな凄い話しを淡々と語られるフラウ香さんも凄いです。ゼミに学生が殺到するはずです」
   
 ※「ホロフェルネスの首を斬るユディト」はフィレンツェの美術館ではなく、ローマのパラッツオ・バルベ
リーニ国立古代美術館所蔵であり、フラウ香さんの勘違いのようです

こうしてこのカラヴァッジョの話から三島由紀夫論、音楽論と話題は移っていったのですが、フラウ香
さんと会話する魅力を本当にしみじみと堪能したのです。
10年間も続いた彼女との空白期間がとても惜しまれました。

そしてこの会食を終えて数日を経て、フラウ香さんは私にカラヴァッジョの絵画集を贈ってくれたのです。
画集が届く前に既にネットで彼の絵を見ていたのですが、その画集の全部の絵を見て私は愕然とした
のです。
私が見覚えのある絵は「ホロフェルネスの首を斬るユディト」と「キリストの捕縛」だけで、その他の絵
は初めて見るものばかりだったからです。
私が生まれたときから我が家にあった世界美術全集(姉のk.mitikoさんの記憶によれば全14巻、k.miti
koさんが処分したので今は無い)を物心ついたときからしょっちゅう眺めていましたので世界中の有名
な美術作品はたいてい見覚えがあるのですが、カラヴァッジョの作品は上記の2点しかないのです。
ユディットも聖ヨハネの殉教もキリストの捕縛もメドゥーサも他の画家の作品は多く見知っているのに
カラヴァッジョのだけが欠落していることに私は驚いたのです。
そしてはたっと思ったのが、フラウ香さんの「カラヴァッジョは長い年月忘れ去られていて再評価された
のは20世紀に入ってから」という言葉でした。
我が家にあった美術全集が制作されたときはまだカラヴァッジョは世に知られていなかったのではと
思ったのです。
早速、k.mitikoさんに電話で問い合わせました。
そしたら私よりも13歳年上のk.mitikoさんが物心ついたころから美術全集は家にあったそうで、制作さ
れたのは大正時代ではないかということが判ったのです。
制作時にはカラヴァッジョの再評価が一般には広がっておらず、それでカラヴァッジョの作品はまったく
掲載されていなかったのだろうと思いました。
「ホロフェルネスの首を斬るユディト」と「キリストの捕縛」は我が家の美術全集以外のところで私は見
たのだろうと思いました。
「キリストの捕縛」なんかはわずか13年前に発見されたのですから新聞やテレビでも報道され、それを
私は見たのだろうと思います。

フラウ香さんの話の影響が大きく働いたのでしょうが、私もカラヴァッジョの絵に惹かれるものがあります。
何か異様な、妖しいエロティシズムというものを感じるのです。
「ホロフェルネスの首を斬るユディト」はその代表的作品と思いますが、他にも「エジプトへの逃避途上の
休息」や「聖マタイと天使」がそうです。
  エジプトへの逃避途上の休息

特に「聖マタイと天使」なんかひどく惹きつけられます。中性の天使と老人の組み合わせに何か不思議な
エロティシズムを感じるのは私だけなのかも知れませんが、多分、澁澤龍彦なんかもきっと私と同じ印象
を抱くのではと思いました。
 聖マタイと天使(第1作)  (第2作)
「聖マタイと天使」は注文した教会が受け取りを拒否したため、カラヴァッジョは第2作を制作し、それを
教会は受け取るのですが、贈ってもらったカラヴァッジョの絵画集の編集者は「無骨で粗野な中年男の
汚い足が祭壇の方にぬっと突き出していることや、男と天使の若者が近づきすぎて淫靡な雰囲気を感
じさせたためであろう」と教会に拒否された理由を推測し、「無知な男が霊感や神の声のみに頼って執
筆するという奇跡が力強く表現された革新的な傑作」とも評価しています。
私も第2作より第1作の方に遙かに惹かれます。
第1作はある貴族に買われ、後にベルリンのボーゼ美術館の所蔵となるのですが、第二次世界大戦のソ連軍
の占領下、消失するのです。
だからモノクロ画像しか残っていません。
この第1作がもし見つかったら大変なセンセーションを起こすでしょうね。是非、見つかって欲しく思います。
一方の第2作は今もサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会の祭壇に設置されているそうです。

フラウ香さんとはまた近いうちに再会し、カラヴァッジョについて語り合いたいと思ってます。