リワキーノの関東行き・その4

息子ファミリーと日帰りで上京した後、娘婿が出張ということなので、私だけ9月8日から10月2日まで娘
のところに手伝いに行きました。
29日土曜日は一日中、孫の世話をしました。

9月30日
日曜日は婿どのが出張から帰ってきて家にいるので私は昼から外出です。
和歌山の日本酒の蔵元に嫁いだカツラさんが商品売り込みのためにスカイツリーのそらまち商店街で
キャンペーンをやっていると知ったので陣中見舞いに行きました。
午後9時に店が閉店してから軽く一杯飲もうよ、と昨日誘ったのですが、手伝ってくれたお店の若い衆
をご馳走しなければならないのでそれは無理、と言われ、それなら短時間でもいいから励ましの言葉
をかけに行こうと思った次第です。

行き交う人達に自社製の酒や柚子ジュースの試飲を勧めるカツラさん。


来たことを告げずに行列に並んでカツラさんの前に立ったとき、「カツラさん、僕にはお酒を」と言ったと
きに私を見たカツラさんのびっくり仰天した顔は見ものでした。
「アニキ!」と言ったきり絶句。
「一目会いたかったから陣中見舞いに来ましたよ。あなたの奮闘姿も写真に撮ったから十分満足。
お客さんも多いし、これで失礼するね」
と言ったら彼女は素早く盆をそばに置いて私をハグ。(他のお客さんは何と思ったでしょうね)
私はお店の人にカツラさんへの差し入れのお菓子をことづけ、キャンペーンの日本酒4合瓶を一本購
入して店を後にしました。

翌日、彼女からもらったメールの一節です。
「まるで千手観音のように伸びる手の中、アニキどのの声にびっくり。まるで神さまの声のような。あれ
だけの人に口上して振る舞っても、誰も買ってくれない時も多く、消耗しますが、アニキどのの笑顔に
あれからずっと元気で幸せ気分持続しました」
3日間、昼前から夜の9時まで店頭に立っての営業活動で、いささかやつれ気味のカツラさん。
彼女はこうやってたった一人で何度も東京に営業に来ているのです。
次は10月半ばに東京駅リニュアールオープンに合わせて東京駅でキャンペーンをやるとか。
蔵元の女将は大変なことを実感しました。

彼女と別れてスカイツリービルを撮影するために外に出たとき、今夕会食を約束していたピアノ調律師
の森田さんから電話が入りました。
台風が夕方には関東に接近し、暴風圏内に入るようだから無理して八王子市まで来られない方が良
いのではと言われるのです。
森田さんには是非ともお会いしたかったので、それではこれからそちらに向かいますから台風の様子
を見ながらお会いしましょう、と言うと森田さんも了承してくれました。
押上付近はこんなに良い天気なのに本当に台風が来るのかしらという感じです。


押上から八王子までは1時間ちょっとの距離。午後3時前に八王子駅に着くと森田さんが改札口で待っ
ていてくれました。
10年ぶりの再会です。
早速駅ビルのレストラン街に行き、和風料理の店に入りました。


森田勝彦さんは調律顧客の獲得と販売で際立った業績をあげる調律師としてこの業界では有名な
調律師なのですが、10年前に調律師協会関西支部・大阪地区の研修会に講師としてお招きしたとき
に講演の話しとその後の会食の席で親しく接した私はその人柄に深く惹かれ、長文の手紙を書いた
ことから森田さんとの交流が始まったのです。
販売で多くの実績をあげる調律師というのはかなり商売気の多い人というイメージがあるのですが、
森田さんの場合は誠実で実直な性格と醸し出す穏やかな雰囲気が多くのピアニストや教師の心を惹
きつけ、それが顧客獲得や販売の実績に繋がったのだろうと私は思いました。
森田さんは5年前に肺ガンの手術をし、今もその治療に通っていますが10年前とまったく変わらないお
人柄と元気いっぱいのご様子に時間の立つのも忘れるくらい、話しに熱中しました。

5時ころに予報通り、風雨が強まってきましたので名残惜しかったのですが、森田さんと別れました。


森田さんより優れた腕の調律師はたくさんいるでしょうが、人格的にも優れた面を併せ持っている調律
師はそういないと思います。
横浜線で十日市場駅まで行き、そこからタクシーで娘宅にもどりましたが、それから間もなくして東急田
園都市線は不通となったそうです。
森田さんの配慮によって早めに会いに行ったので無事、帰ることができたのです。

10月1日

8月24日にお見舞いに行った寮母さんのN.てつ子さんが一月後の9月23日に亡くなられました。
享年92歳。またお会いできると思っておりましたので訃報には本当に落胆しました。悲しかったです。
この日、こちら方面での友人との会食を予定しておりましたので、そのついでと言っては大変申し訳
ないのですが、ご自宅に焼香に上がりました。
遺影は卒寿の祝いのときのものだそうですが、8月24日にお会いしたときもまさにこのようなご風貌
でした。
また一人、私は母親代わりになる女性を失ったという思いです。
ご冥福をお祈りいたします。

一之江からマスミさんとShibataさんとの会食を約束している清澄白河へ向かいます。
臨月を迎えているマスミさんが電車に乗らずにすむ家の近くだったらお会いできるのですが、と言わ
れるのとShibataさんの家にも近いので清澄白河となったのです。
清澄白河は一之江から18分。
迷路のような東京の地下鉄をこのように自由自在に乗りこなせるのはiPhoneのおかげ。

マスミさんは熊野修験団のマスコットガール的存在でした。
いつも笑顔を絶やさない彼女の存在は厳しい修行中の修験団の面々にとって心和むものでした。


かつてはこのように瀧行も実践していたのです。

その彼女も結婚して一児の母親。
二人目が今月生まれます。

待ち合わせたマスミさん推奨のイタリア料理の店「オステリア デル ブオン チーボ」
民家を改造したような小さなお店です。


マスミさんがやってきました。大きなお腹!


マスミさんは少しも変わっていません。
12年前の写真と比べても全然年取っていない。
むしろ垢抜けしてきたという感じです。
そりゃそうでしょう。十数年前は山では奥駈、熊野の河川ではカヌーをやっていて常に陽に焼けてい
たのですから。


Shibataさんとはときたま会うそうです。


料理はマスミさんが推奨するだけあってとても美味しかったですが、話しに熱中して料理を撮影する
のを失念。

このときの動画を。


そしてこの動画の中に私が話題にしたShibataさんとルーメイさんの会話もここに紹介しましょう。
新宮山彦ぐるーぷの活動に多大な貢献をして下さった塩爺こと、塩川正十郎さんの卒寿の祝いを吉
野の竹林院で行うに際して、玉岡さんの依頼を受けてルーメイさんが舞踊を披露することになってい
たのですが、それについての言及がしきりにされる内容です。


午後9時にお開き。今度はマスミさんのお姉さんのマホさんも一緒に再会を約束し合いました。
マホさんは明日早くにタイ出張を控えていたため欠席だったのです。


娘宅に戻ったら「お義父さんはまあ、沢山の友人が関東におられるのですね」と婿どのが驚いてお
りました。
翌日の10月2日に私は大阪に戻りました。