顧客との訣別     2013.01.19
 
高校を卒業してピアノメーカーで3年間の修行を終えて昭和44年に大阪の楽器店に就職し、以後44年
間、外回りの調律師として仕事をしてきました。
私の年齢になると多くの人が引退していく中、自営ゆえに今も仕事に行っている私ですが、さすがに
気力の衰え、今風に言えばモチベーションの低下というのでしょうか、そういうものを感じるように
なりました。

日常従事している調律や弦の張り替えなどの簡単な修理、メカニズムの簡単な調整は苦にならないの
ですが、根気と繊細な注意力を必要とする整音(ピアノの音色を演奏者の好みに合わせて整える作業)
と雑音トラブルの究明といった作業が億劫になってきたのです。
雑音のトラブルについては航空機工学に詳しい怪盗ルパンさんが「雑音のトラブルシューティングほ
ど厄介なものはない」とかつて伝言板でコメントされてましたが、ピアノもまさに同じで、コンサー
トの調律時、ペダルを踏むときに雑音がしていたら、その究明のために場合によっては調律も犠牲に
することもあるほど、究明に時間がとられるのです。

そして私はこの1月10日にこの二つの難儀なトラブルを抱えた顧客のピアノ教師宅に仕事に行ったの
です。
30年以上もお付き合いのある女性で当時、音大生でしたから今は50代になっておられると思うのです
が、ピアノ教師としてだけでなく、演奏家としてもまったく気力を失わずにアタックしていくピアニ
ストだけに、グランドピアノも2回も買い換えているのです。
そして一昨年に買い換えた2台目のグランドピアノが問題を抱えていたのです。納入当初から雑音が
発生し、販売元の超有名な楽器店の調律師がサービス期間中に何度もやってきては調整するのです
が、雑音は消えたり、出たりの繰り返しで完全なる解決は無かったとのこと。有料になる2回目の調
律から従来の如く、私に依頼があり、昨年夏に調律に行ったのですが、それから5ヶ月後に「雑音だ
けでなく、ピアノの音色もとても貧弱なものになってきた」と電話があり、私は1月10日に顧客宅を
訪れたのです。

訪れたとき、予想しておりましたが雑音は出ておらず、雑音が出ていないことにはその原因が究明で
きないことを話し、雑音が出るまで顧客にピアノ演奏をしてもらうことを願いました。
15分ほど、顧客のピアノ教師はいろんな曲を弾いて頑張ってくれたのですがついに雑音は出ずじまい。

ただ、15分間の演奏を聴いていて、顧客が訴える高音部の音質の貧弱さを私も実感し、これは本格的
な整音作業が必要だと思ったのです。
そのときに私よりも優れた整音技術を持っていて、なおかつ師匠の”KYOTO PIANO ART”の新井さんが
「雑音探しの天才だ」と絶賛する女性調律師のS.サトエさんを推薦しようという思いになったのです。
いずれ、引退したときに後を任せる後継者と思っている彼女に、私の手に余る顧客を今の時点から引き
継いでもらおうと思ったのです。
整音と雑音究明については私より遙かに優れた能力をもつ調律師として彼女のことを推薦したら、顧客
は了承してくれました。
そしてS.サトエさんに電話で依頼したところ、やる気満々の彼女は喜んで引き受けてくれたのです。

これで私は30年間、贔屓してくれた顧客ピアノ教師と仕事上の縁が切れることになったのです。
若いときから仕事上だけでなく個人的にも色んな悩みを打ち明けられ、調律師協会のパーティーにも
お誘いするほど親しくさせていただいた顧客でしたからその別れは辛いものもありました。

最後に雑音を発生させるために15分間頑張ったなかで弾いてくれたショパンのノクターンの曲を再度
弾いてもらいました。
暗譜もしていない状態にしてはとても美しい演奏に私には聞こえました。
匿名を条件に動画の公開を承知して下さったのでここに公開する次第です。