第6話『海の匂い』  (by O.ようこ)

 「人間の身体の大半は、海でできているのではないかと思う。だから、涙も汗も血液も、み
んな塩辛いんだ。」
 昔、そんな事を教えてくれた人がいた。

 何年前か忘れたが、若い頃海辺の町に住んでいたことがあった。
 私は家から歩いてほどない距離にある、浜辺が好きだった。
 夏の夕暮れ、松林を歩きながら、海のかなたに黄金色の光芒を放って沈んで行く太陽をよ
く眺めた。そして防波堤の先端まで歩いていき、そこで暮色に染まる海を、星が輝くまで眺
めるのだった。
 真っ赤に染まった空を、黄昏の太陽に金色にふち取りされた雲が次第にシルエットを濃く
しながら漂っていく。海は太陽が沈んでいく辺りだけを金色に照り返して、次第に海よりも
濃い藍色に沈んでいく。
 時折、モータの音がして、船が目の前を通り過ぎる。ふと、漁船が向かう方向を見ると、
小さく港の明かりが瞬いている。薄闇の中に瞬く明りは、やけに奇麗で、はかない。
 私は、この体の中まで黄昏に染め抜かれるような時間が好きだ。そうしていると、さまざ
まな事が心に浮かんで、通り過ぎる。
 この間受けた、資格の試験の結果、ここへくる途中に出会った、化粧品のしつこいセール
ス、深夜に電話してきた友人の別れ話、
「お見合いしたら」とうるさい叔母…
 あまりにも美しい時間の前に、そのような日常の出来事はいつか流れ去り、後には静けさ
だけが残る。
 私は独り、その静かな時間を楽しんでいた。

 その日も、私はいつものように防波堤を先端に向かって歩いていた。しかし、間近に来て
脚を止めた。
 誰かがいる。私の気配に気がついたのか、防波堤に仰向けに寝転がっていた人影が身体を
起こした。
「ごめんなさい。」
 私は慌てて引き返そうとした。
「いいんだ。君も夕焼けを見にきたんだろ。」
 寝転がっていたのは、私とそう年は違わない青年だった。
「君、イルカ座を知ってる?」
「知らない。」
「もう少ししたら、星が出る。教えてあげるよ」
 私は初対面の人間に不思議な質問をされ、戸惑っていた。
「寝転がったほうがよく見える。君も寝転がったら。」
 妙なことになったなと思いながら、私も防波堤の上に寝転がった。既に夏の夜空は星が瞬
き始めていた。ぼうっと天の川が煙って見える。
「ほら、真上に天の川を挟んでわし座のアルタイルと琴座のヴェガが光ってる。アルタイル
から少し離れた所にちょっと暗いけれど、小さなひし形に星が並んでる。それがイルカ座だ
よ。見える?」
「よく分からない」
「こっちへ来て」
 突然腕を引っ張られて彼の近くへ身体を寄せられた。見知らぬ男の体温と筋肉の感触を身
近に感じて、私は緊張した。
「僕の指先を見て。」
 その指先にほのかに輝く小さなひし形が浮かんだ。
「見えた!」
「あれが昔ギリシア神話でポセイドーンがアムピトリーテーに求婚した時に、彼を運んだイ
ルカさ。それでトリトーンが生まれた。」
 彼が何か話すたびにその振動が、彼の胸に触れている私の片頬に伝わった。
「良く知ってるね。」
「イルカに教えてもらったんだ。」
 不可解な彼の返答に少し困惑しながらたずねた。
「でもイルカ座って目立たないじゃない。イルカはどうやってそれを見つけるの?」
「イルカにとってはイルカ座は故郷の星だよ。どこの海にいたって彼らは見つけるさ。」
「イルカって星から来たの?」
「そうさ。彼らの星から来たんだ。」
「地球の海に遊びに来て、そしていつかは彼らの星にかえるのさ。」
 私は彼の相変わらず不可解な言葉を黙って聞いていた。体温が穏やかに伝わってきて、彼
の鼓動がうっすらと分かった。いつのまにかまどろむような気分で夜空を見つめていた。私
たちの上に夏の星が降るように輝いていた。

「ごめん、遅くなったね。送ってくよ。」
 突然彼は身を起こした。私もはっと我に返った。
「乗って」
 私は不器用に400ccの後ろにまたがった。彼はバイクを飛ばして家まで送ってくれた。
「ありがとう」
 私があまりにもバイクから降りにくそうなので、彼は手伝ってくれた。
「じゃあね。」
 バイクにまたがった彼に思いがけない言葉が口をついて出た。
「あ、あの…」
「何?」
「また会える?」
「明日の夕方、防波堤で待ってるよ」
 軽く微笑んで彼は行ってしまった。私は熱に浮かされたように頭がふらふらした。心臓が
激しく鼓動していた。
 その夜、私は千匹のイルカの夢を見た。

 それから、私とイルカの君との夕方のデートは続いた。最初に出会った時のように身体を
寄せ合って星を眺めた。彼の胸に頭を寄せて心臓の鼓動と呼吸の音をきくと懐かしい気持ち
になって安心した。
 彼の呼吸に合わせていると、時々自分の体の中から海が溢れてくるような気がした。そし
て決まって夜寝る前、彼に電話した。
「ねえ、何か海の話をして。」
「うーん、そうだな…」
 そして彼はいつも海やイルカの話をしてくれた。彼の話はいつも海の匂いがした。受話器
から聞こえてくる彼の言葉に耳を澄ましている内に、私はいつも心地よい眠りの海に船出し
てしまうのだった。
 そこで私は眩しい太平洋の太陽の光や潮風を身に浴び、あるときは海底深く体が沈んで、
そこで何十年も真珠を宿しているという大きな貝になったりした。夢の中では波はいつもや
さしかった。私の身体を皮膜のように包んで、私は水棲生物のようにその中でたゆたってい
た。
 私は彼と出会って満ち足りていた。

 ある夜、いつものように寝る前に電話をした。ところがどれだけ待っても、彼は出なかっ
た。留守なのだろうか。何度も電話したが、彼は出なかった。その事が、ひどく私を不安に
した。
 夜中どこに行っているというのだろう? 私に何も言わなかった所をみると、何か秘密で
もあるのだろうか? だれか別の女と逢っているのだろうか?
 嫌な考えが頭を占拠して、私は息が苦しくなった。蒸し暑い夜で、気持ちの悪い汗で身体
がべたべたした。その夜、私は眠れなかった。

 次の日、私は防波堤の上で彼におそるおそる聞いた。
「ねえ、昨日の夜、どこに行っていたの?」
「暑かったから、眠れなくて、海を見に行っていた。」
「一晩中?」
「うん。一晩中。」
 彼は何かを隠している様子もなく、弁解する様子もなかった。いつもと同じように穏やか
に答えた。私は安堵と寂しさが吹き出して、彼に飛びついた。
「昨日、何度も電話したのに出ないから、心配しちゃった。」
 いつのまにか涙が出て、声が震えた。
「ごめん。急に一人になりたくなったんだ。」
 震えている私の身体を彼の腕がやさしく抱きしめた。彼は何も変わっていない、最初に出
会った時と一緒なんだと、私は自分に何度も言い聞かせた。

 それからも私は以前と同じように夕方にデートをし、寝る前に電話をした。彼は以前と同
じようにやさしかった。私はそのやさしさに満足し、安心して甘えていた。しかし、たびた
び彼は黙って不在になった。それはいつも蒸し暑い夜だった。その度に私は激しい不安にか
られた。何度か不在の理由を彼に繰り返し尋ねた。しかし返ってくるのは「海を見に行って
いた」という悪びれない返答と、その度に泣きじゃくる私を慰める抱擁だった。
 私の心の隅に巣食った不安と疑いの思いは、もはや彼に理由を尋ねることでは解決できな
くなっていた。彼の私への態度さえ、不安のために素直に受け取れなくなっていた。疑惑の
棘が、私の身体を串刺しにしていた。別れようかと思ったが、それはできなかった。どんな
に疑っていても、心のどこかで、そんなことはない、と一抹の希望にしがみついていた。

 その夕方も蒸し暑かった。きっと今夜も寝苦しい夜になるだろう。私は彼と一緒に防波堤
を歩きながら、ある決意をしていた。いつもと変わらない彼の態度を確認して、彼と別れた

 私はうちに帰ると、そのまま車に乗り込んだ。そして、彼の家へと向かった。
 彼の家の玄関先が確認できる場所に見つからないように車を止めた。そして、車に乗った
まま、私は待った。
 何をしようとしているのだろう。今自分のしている行為に対する疑問がふと頭を持ち上げ
た。自分の行動を監視されていたと知ったら、彼はどう思うだろうか。後ろめたい気持ちに
わしづかみにされたが、不安と疑惑がそれに勝った。確かめなければ。本当の事を確かめな
ければ…汗でぬめった手でハンドルを握りしめた。

 真夜中を過ぎた頃、誰かが家から出てくる気配があった。彼だ。400ccにまたがり、
海の方へ走り出した。私はバイクに気付かれないよう、距離をとりながら後を追った。
 彼は凄いスピードで海岸道路を西へ走っていく。どこへ行くのだろう? この方向だと、
やはり海しかない。彼の言葉は本当だったのだろうか? 何故海へ? 一晩中何をしに? 
私たちがいつも夕方に来る防波堤を過ぎ、さらに西へ走っていく。すると、美しい渚が見え
てきた。今まで来たことがない場所だ。彼のバイクはそこへ降りていく。
 やがて彼はバイクから降り、渚へ向かって砂浜を歩き出した。私は少し離れた所に車を止
め、ガードレールに身を隠すように歩いて彼の後を追った。静かで、清らかな渚だった。砂
がほの白く夜の光に反射している。波の音しかしない渚を、彼は海の方へ誰かを探すように
歩いていく。
 私は海辺の小屋に身を隠すようにして彼を見つめていた。突然彼が立ち止まり、服を脱ぎ
捨てた。そして、海の中に入っていく。一体何をするつもりだ? 私は目が離せなくなった

 その時、渚に近い波の中で何かが光った。波を跳ね上げた飛沫が飛んだ。彼は手を伸ばし
、その何かを抱き寄せた。とたんに、それは彼の身体をしがみつかせたまま、泳ぎ出した。

 イルカだ…夜の明りの中で海水にぬれた人間の身体と、イルカの身体が光っていた。鍛え
られた人間の体が優美な曲線を描くイルカの身体と戯れている。あのイルカは女性なんだろ
うか。イルカの身体があれほどセクシーだとは思わなかった。イルカは岸近くにいる彼を誘
惑するように沖まで緩やかに泳いでは、波を跳ね上げている。そして彼の側へ戻ってきて、
身体にまとわりつく。彼が観念したように沖へ泳ぎ始めると、イルカはぴったりと側を泳い
でいる。やがて二人は抱き合い互いの体温を確かめるように海面を漂っていた。それは、人
間の男女の抱擁よりもはるかに官能的で、美しかった。

 なんということだろう。彼は暑い夜にこの清らかな浜辺でイルカと愛を交わすために家を
空けていたのだ。私の身体を火柱のように熱い衝動が突き抜けた。
 違う! あそこに彼といるべきなのはイルカじゃない! あそこに彼といるべきなのは私
なのだ! 激しい嫉妬の感情で身体ががくがく震えた。何故人間でもない生物にこんな感情
を覚えるのか分からなかった。しかし彼とイルカの間に交わされていた甘美で美しい感情は
、彼と私だけに許されるべきものだった。
「返して!彼を海へ連れて行かないで!」
 私は物陰から飛び出し、海へ向かって叫んでいた。
「連れて行かないで!」
 渚へ走りより、海へざぶざぶと入りながら、まだ叫んでいた。
「お願い!連れて行かないで!」
 もう彼とイルカの姿は私の目には見えなかった。ずっと沖へ行ってしまったのだろうか…。
私は彼が脱ぎ捨てた服を抱き寄せて泣いた。彼の服からは海の匂いがした。とり返しのつか
ない事をしてしまった感じがした。もう、戻れないだろう。あの優しい日々には…。
 しばらく泣いた後、私はとぼとぼと砂浜を引き返した。私の服はぐっしょりと海水を含ん
で重かった。

 それから、私は二度と浜辺には行かなくなった。あの夢とも現実ともつかない夜の海辺の
光景から逃れるために、私は海辺の町を離れた。あの記憶を忘れるために新しい町を探し、
仕事に没頭した。そして結婚し、別れた。
 それから、不思議なことにまた海辺を転々と旅して回るようになった。何故そうなったの
か、自分でもわからない。再び一人になったとき、不思議に彼の言葉が胸によみがえってき
たのである。
「人間の身体の大半は、海でできているのではないかと思う。だから、涙も汗も血液も、み
んな塩辛いんだ。」
 涙と同じ塩辛い水を満々と湛え、生き物のように呼吸する海が、突然恋しくなった。そこ
に、かつて彼に抱かれたのと同じ優しい匂いを感じるからだろうか。そんな事を考えながら
、私は今回の旅先の砂浜に立っていた。
 なんとなく、昔彼とであった浜辺に似ていた。もしかしたら、と妙にどきどきしながら防
波堤の先端に座った。丁度日暮れ時で、美しい夕焼けが海の上に広がっていた。かつて、二
人で眺めた時と同じ、美しい黄昏が訪れていた。それを私はひとり眺めた。もしかするとあ
の過去が戻るかもしれないと期待した私の願望は叶えられなかった。
 私は帰り道を歩き始めた。ふと、私の横を顔立ちの奇麗な高校生くらいの少女が通り過ぎ
た。セミロングの髪が潮風にゆれ、どこか毅然とした面差しの少女だった。一瞬、若い頃の
自分を思い出したが、彼女の方が数段美人であろう。思わず彼女の後を見送っていると、彼
女は左に歩いていった。駅まで行くのだろうか。近くでエンジンの音がして、今度は右手か
ら一台の車が走り去った。日が暮れた浜辺にはもう人影はない。
 私はこうしていくつもの浜辺を彼の面影を追って歩くのだろう。彼はどこにいるのだろう
か、とふと思った。