医療の歴史〜感染症・3
■「動物の謝肉祭」で有名な、
フランスの作曲家サン・サーンスの曲に、
「死の舞踏」という交響詩があります。
【「Youtube」より「死の舞踏」】
http://goo.gl/1jY8P
グスターボ・ドゥダメル指揮
シモン・ボリーバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネゼエラ演奏
死神・骸骨が踊るという、
あまりいい趣味とは言えない曲ですが、
彼はこの曲を「死の舞踏」という、
詩にインスパイア(触発)され作曲しました。
そして「死の舞踏」の詩を作った、
フランスの詩人アンリ・カザリスは、
15世紀に描かれた「死の舞踏」の絵画を元に、
この不気味な情景を詩にしました。
「死の舞踏」。
これは、実は14世紀にヨーロッパを襲った、
ペストによるパンデミックと深い関係があるんです。
当時、ヨーロッパでは都市でも村でも、
次々とペストに罹患した人が亡くなっていきました。
(同時に方々で戦乱も起こっていた)
あまりの死者の多さに、
「明日はわが身」と人々は絶望します。
ペストは皇帝・王・僧侶・軍人・農奴など階級にお構いなし。
高熱と下痢を発症し、最期には皮膚が黒く変色し、
多くの人が命を落としていく様は、いかに人の命がもろく、
現世での身分、軍役での勲章などが死の前に無力なものであるかを、
当時の人々にまざまざと見せつけることに。
一度罹患すれば、誰であれ死んでしまい虚しくなる。
こんな死生観を抱き死の恐怖と生への執着で、
半狂乱になり、自然発生的に突然狂ったように踊りだす。
まるで踊っていればペストに罹患しないですむ、
そう考えたように、彼らは倒れるまで踊り続けました。
この集団ヒステリー現象を描いたのが、
「死の舞踏」だったのです。
「死の舞踏」が絵画として盛んに描かれたのは、
1420年〜1460年ごろ。
ルネッサンスの初期と重なっていて、
ペストのパンデミックからは既に数十年経過した時代です。
それだけの期間が経たなければ、
落ち着いて絵にする事もできないほど、
ペストのパンデミックは恐怖をばら撒いたんですね。
14世紀に発生したペストのパンデミックは、
この「死の舞踏」だけでなく、
ヨーロッパの文明社会に様々な影響を与えます。
イタリア・フィレンツェは、
ペストに最も激しく打ちのめされた都市の一つでした。
そのフィレンツェの商人を父として生まれた私生児、
ジョヴァンニ・ボッカッチョは、
ペストを避けて避難した男女が物語を語るという内容で、
イタリア文学の名作「デカメロン」を現し、
イタリア・ルネッサンスの魁となりました。
同じイタリアのベネツィアでは、
海路からのペスト侵入を阻止するため、
世界で初めて海上検疫が始まります。
海上検疫とは港に入ろうとする船を接岸させず、
海上に留め、病気が発生しないか確認するための予防措置。
今では常識ですが、この海上検疫も、
ペスト・パンデミックから編み出されました。
現在、検疫の事を英語で「quarantine(クワランティン)」と言いますが、
これは元々イタリア語で40日を意味する言葉。
ベネツィアで国外から入港しようとする船を、
その頃ペストの潜伏期間と考えられていた、
40日間、停泊待機させていた事が語源となったのです。
医学が未発達の当時、ペストの原因は、
当然科学的に解明されませんでした。
が、当時の人々はこの病気が伝染する事は理解していて、
しかもこれだけ大規模な被害を及ぼすには、
何か超自然的な要因があるはず。
そう考えていたようです。
既に開設されていたパリ大学医学部では、
国王の命令で調査が行われ、
水星と木星が並んでおきる「合(ごう)」が、
地上に有害な空気を沸き起こさせたと、
占星術的な結論を公式報告書にまとめています。
当時の医学・医療水準では、これがやっとだったんですね。