医療の歴史〜感染症・7

■現在最も有力と考えられている、
梅毒の伝播経路は1942年にスペインを出発、
西インド諸島を発見・上陸した後、
1983年に帰還したコロンブス一行が、
現地から持ち帰ったのではと言う説です。
いや、つまり、現地の女性だか男性だかわかりませんが、
一行の誰かが関係しちゃったと。
そう言う事。

コロンブスの帰着は1493年3月15日。
バルセロナでイザベラ女王に謁見しますが、
前回も書いたとおりルネッサンス初期のこの時代、
どの街にも売春婦がいて、
バルセロナも例外ではなかったんですね。
同年中にバルセロナ中に梅毒が広まってしまいます。

翌1494年、フランス国王シャルル8世陛下が、
イタリア征服を企て遠征軍を組織しました。
当時の軍隊は金目当ての傭兵で編成されており、
フランスは勿論イギリス・ドイツ・スイス・
ポーランド・ハンガリーなどからの傭兵に混じって、
スペインの傭兵もいましてね。
当然その中には梅毒の患者がいただろうと。
また、大体軍隊というのは男所帯で女っ気がない。
なので遊女がこれ稼ぎ時とばかり群がる。
シャルル8世陛下の遠征軍がどんな事になったか、
おおよそ見当が付きますよね。

シャルル8世陛下の遠征軍は、
フィレンツェ、ローマ、ナポリを席巻しますが、
同時にそれは梅毒が、
それらの都市に侵入した事も意味するわけで。
しかも遠征軍そのものが、
梅毒患者の続出で機能マヒに。
さらにローマ教皇や神聖ローマ帝国皇帝、
アラゴン、ヴェネツィア、ミラノが同盟を結び、
包囲網を狭めてきて、遠征軍は大打撃を受けます。
内外憂慮を抱えたシャルル8世陛下は、
遠征軍を解散しアルプスを越えて、
這う這うの体でフランスに逃げ帰りました。

当然、遠征軍を構成していた、
フランス・イギリス・ドイツ・スイス・
ポーランド・ハンガリーの傭兵達も、
ちりじりに故国へ逃げ戻ります。
という事は・・・。
1494年から1495年にかけて、
ヨーロッパ全土で一気に梅毒がブレイク!
傭兵をはじめ関係した売春婦、
さらにそこから庶民・僧侶・貴族に至るまで、
見事に梅毒が広がってしまったのです。

このパンデミックのきっかけを作った、
シャルル8世陛下も漏れなくこの病に冒され、
イタリア遠征から帰って4年後に、
梅毒が元になり(不慮の事故とも重なって)、
27歳で不名誉な最期を遂げてしまいました。
梅毒はコロンブス帰還から、
僅か3〜4年程度で全ヨーロッパを制圧。
性感染症の恐ろしさを見せ付けます。

そして事態はヨーロッパだけでは済みません。
大航海時代の波に乗って、
東方世界へも梅毒が急速に広がります。
コロンブスが1493年にバルセロナに戻ってから、
5年後の1498年、ヴァスコ・ダ・ガマが、
インド航路を発見しカルカッタに上陸。
彼の一行も梅毒にしっかり感染していたようで、
インドが汚染されてしまいます。

その後インドと通商している、
フィリピンやインドネシアの商人や船乗りによって、
マレー半島を中心とする東南アジアまで運ばれ、
ここでも大流行を引き起こす。
さらに東南アジア各地から中国南部の商人によって、
1500年には広東(カントン)に上陸。
泉州(チェンジュウ)・福州(フージョウ)・
寧波(ニンポー)と海岸伝いに北上し、
遅くとも1510年には現在の北京に到達します。
そして同時に日本にもやってくるのですが。