医療の歴史〜感染症・8

■1493年にコロンブスがスペインに帰還した後、
翌1494年、イタリア戦争の引き金を引いた、
シャルル8世の遠征軍によって、
梅毒がヨーロッパ中にブレイク。
同時にヴァスコ・ダ・ガマによって、
1498年、梅毒はインドに上陸しました。
そこから東南アジア・中国に伝播し、
1510年すぎに沖縄・九州に、
梅毒がもたらされたと推測されています。

梅毒をもたらしたのは、
恐らく当時東シナ海から南シナ海一帯で、
暴れまわっていた倭寇だという説が有力でして。
倭寇というのは13世紀から16世紀にかけて、
朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、
及び東アジア諸地域において活動した海賊、
私貿易、密貿易を行う貿易商人らの事。
こんな連中が身持ちが固いわけがない。

梅毒は日本にもたらされた当初、
琉球瘡(りゅうきゅうそう)または、
唐瘡(とうそう)と呼ばれていたようです。
つまりそちらの方面からもたらされたと言う認識があったと。
梅毒が日本本土に上陸したのは、
恐らく1510年後半から1511年にかけてであろうと推測され、
翌1512年には京都から関東まで達してしまいます。
そしてこの年中に全国に広がってしまいました。
特に室町幕府が置かれていた京都では大流行。
幕府もお触れを出して注意を呼びかけています。

当時は応仁の乱(1467〜1477年)から20年以上経ち、
本格的な戦国時代を迎えており、殺伐とした時代。
当然戦乱に酒と女はつき物。
中央政府である室町幕府は衰退していて、
京都周辺を管轄するのが精一杯だったため、
とても統制できませんでした。
この混乱した状況によって、
梅毒はあっと言う間に全国に蔓延したわけで。

それにしてもコロンブスの帰港が1493年で、
京都での大流行が1512年ですから、
ここまで20年かかっていません!
バスコ・ダ・ガマのインド上陸からでは、
たったの4年しか経っていない!
飛行機も新幹線も自動車もない時代に、
これだけ伝播が早いという事は、
人間の性に対する振る舞いの恐ろしさを、
改めて感じさせてくれると思うんですが。

こんな時代でも性感染症の伝播速度は驚異的なんですから、
交通・流通が極度に発達した現在、
どんな事になっているのか、
考えるだけでも空恐ろしくなります。
無論、病気に対する認識やモラル、
衛生・医療環境は当時と比べ物になりませんが、
それでも性感染症をナメていると、
いつか、しっぺ返しを食うんじゃないでしょうか。

話を梅毒がもたらされた時代の日本に戻すと、
この病気はそれから数十年間、全国で猛威を振るいます。
当時の戦国武将でも、
梅毒に感染した人は少なくありません。
というか戦国武将は江戸時代の大名とは違い、
半分山賊みたいな生活をしていた連中ばかりですからね。
しかも戦場には売春婦が付き添ってくるから、
感染の可能性も高かったはず。

梅毒に罹患した戦国武将の有名どころでは
大谷吉継・・・秀吉子飼いの武将。ハンセン病も患っていたという説も。


加藤清正・・・同じく秀吉の部下。虎退治で有名。享年49歳。


浅野幸長・・・同じく秀吉の子飼い。享年37歳。


前田利長・・・前田利家の息子。享年36歳。


結城秀康・・・徳川家康の次男。享年34歳。


このうち大谷吉継は関が原の闘いで戦死しますが、
残りの4人はいずれも梅毒が原因で亡くなっています。
清正以外は人生50年時代にあっても短命だったわけで、
梅毒の恐ろしさがうかがい知れるでしょう。
彼らの発症時期や潜伏期間の関係では、
清正と浅野幸長は恐らく、
1592年から行われた文永・慶長の二つの朝鮮戦役で、
遊女から感染したのではと言う説があります。
また徳川家康はこの病気を極度に恐れ、
遊女に近づく事を戒め、決して手を出さなかったそうで。
この用心深さが天下取りに繋がったんでしょうね。