私の詩吟日記(70) 静御前 詩吟神風流藤が丘支部

 わが教室の女性陣がこの頼山陽作『静御前』の合吟をすることになり、
練習に励んでいる。
 それを聞いていて思うのだが、静御前が頼朝の面前で舞う場面は子供
でも知っているほど有名なのに、今改めて詩吟に出会ってみると私にはわ
からない点が多いのに気付く。

「工藤の銅拍 秩父の鼓って、これどういう意味?」 わが教室の奏風女史
から聞かれて一瞬 答えに詰まった。3〜4句の「一尺の布・・・百尺の縷」
の意味も分からないし、「阿哥の心」とは何だろう。

 これではならじと、早速山陽詩集を当たってみたが、肝心の『静御前』が
どうしても見当たらない。この詩は本当に頼山陽の作なのか?と疑いたく
なる程。 
 しかし奏風女史への回答期限が迫ってきたので、とりあえず中間報告と
いうことで以下に思いつくままを書いて、これを明日彼女に渡すことにしよう。
 
1、静は義経の寵愛を受けた京の白拍子。頼朝の探索から逃れるため義経
と共に雪深い吉野山まで落ちのびたが、そこで発見され、義経は危うく逃げ
たものの彼女は捕まり、母の磯禅師とともに鎌倉へ護送された。 
 以後 頼朝から義経の行方について厳しい尋問を受けたが、彼女は「知ら
ない」で押し通した。

2、しかし静は頼朝から舞いを見せよとの強い要望を受け、やむをえず頼朝、
政子の鶴岡八幡宮参詣の折りに八幡宮の回廊で舞うことになった。いよい
よ当日、彼女は水干をつけ白雪の袖を翻して舞う。

 山陽の詩は第1句を 「工藤の銅拍 秩父の鼓」と詠み始め、工藤祐経が
銅拍子を鳴らし、秩父氏の一族、畠山重忠が鼓を打ったとしている。
 これに対して『吾妻鏡』では「左衛門の尉祐経 鼓たり、畠山の次郎重忠 
銅拍子たり」となっている。 全くの逆ではないか。

 私は念のため『義経記』を調べた。するとこの場面の描写は非常に詳しい
がその内容は又々違う。鼓は『吾妻鏡』と同じく工藤祐経だが、銅拍子は
梶原景時、そして笛が畠山重忠となっているのだ。

少々長いが『義経記』の記述を引用してみようー 頼朝から舞いを強要され
た静は、鼓打ちなどを都から連れて来てないので、後日改めて舞うことにし
たいと婉曲に断る。それを聞いた頼朝は
 「鎌倉にて舞わせんとしけるに、鼓打がなくて、ついに舞わせざりけりと聞
こえん事こそ恥づかしけれ、梶原、侍共の中に鼓打つべきものやある、尋ね
て打たせよ」と命ずる。 景時「工藤左衛門尉こそ殿上に名を揚げたる小鼓
の上手にて候」と答える。頼朝「さらば祐経打ちて舞わせよ」、これに対し
工藤「鼓一拍子にては叶うまじく候、鐘の役を召され候え」と申したりければ
頼朝「鐘は誰かあるべき」、梶原「景時仕りて見候」と答え、「よし、梶原が
銅拍子ぞ」ということになった。
 さらに、音程を整えるため誰かに笛を吹かせて下さいという者あり、「畠山
こそ院の御感に入りたりし笛の名人」という答えに結局畠山重忠が笛を吹く
ことに決まったーー

 歴史学者、頼山陽のことだから当然『吾妻鏡』や『義経記』を熟知した上で
「工藤の銅拍 秩父の鼓」としているのであろうが、その理由は私にはよく
わからない。

 ( なお工藤祐経は関東武者には珍しい歌舞音曲に通じた武士だったが、
頼朝が富士の裾野で盛大な巻狩りをしたとき、曽我兄弟によって親の仇と
して討たれて死んだ人物である )

3、また山陽は「幕中 酒をあげて汝の舞を観る」と述べているが『吾妻鏡』
にも『義経記』にもそのような記述はなく、むしろ八幡宮の回廊という静寂の
中で、天女の舞にも似た静の姿と、工藤、畠山等の見事な音曲に、一同は
粛然とし陶然と見つめるばかり、『吾妻鏡』では「誠にこれ社壇の壮観、梁塵
殆ど動くべし。上下皆興感を催す」と描写している。

 4、静は頼朝の面前で朗々と和歌2首を歌う。

 しずやしずしずの苧環繰り返し昔を今になすよしもがな
   これは伊勢物語の中の 「いにしえのしずのおだまき繰り返し昔を今に
   なすよしもがな」という歌をふまえて、しずと静を引っ掛けて詠んだもの
   で、「静や静・・・といつも私の名を呼んでくださったあの昔のように、
   懐かしい判官様の世に今一度したいものよ」 という願いがこめられて
   いる。
   「しずのおだまき」はそれ自体「繰り返し」の枕詞である。
    なお「しず」は「倭文」とも書かれ、麻の糸を赤や青に染めて縞や乱れ
   模様に織ったもので日本古代の織物。また「おだまき 苧環」は倭文を
   織るための紬糸を巻いた糸巻きのこと。
    
 吉野山みねの白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ恋しき
   この歌は古今集の 「みよし野の山の白雪ふみわけて入りにし人の
   おとずれもせぬ」を踏まえて詠んだもので、吉野山の峰の白雪を踏み
   分けながら、山中深く行ってしまわれた判官様が恋しくてならないと、
   静の心情を歌い上げたのである。

 この歌を聞いて頼朝は「八幡宮の神前では関東万歳を祝うべきところ、
余の面前で反逆の義経を慕い、義経の世になって欲しいと歌うとは奇怪
至極!と激怒し、簾をおろしてしまう。
 それに対し政子は、頼朝が伊豆に流されている時の自らの体験を話し
「君の存亡を知らず日夜消魂す、その愁いを論ずれば今の静の如し、予州
(義経)多年のよしみを忘れ、恋慕せざれば貞女の姿にあらず、形に外の
風情を寄せ、動きに中の露胆を謝す、尤も幽玄というべし、枉げて賞玩し給
うべし」となだめる。頼朝は再び簾を上げて、静に賞をとらせる。(吾妻鏡)

 5、「一尺の布は 猶縫うべし 況や是れ 繰車 百尺の縷」

この句は前の歌「しずのおだまき」を受けており、字義通り「一尺の布でさえ
縫い方次第で衣にできる、まして百尺の布であれば、どうして出来ないこと
があろう」という意味だろうが、これが中国の故事を踏まえたものであった
とは気がつかなかった。

 それを教えてくれたのは神風流機関紙の最新号(142号)に掲載された
静御前の吟符紹介の記事である。
 すなわち、「静が頼朝の再三の厳しい下命により、意を決して舞い始めた
その歌は”しずやしず・・・”と、漢の淮南公獅ェ謀反して死んだ時、その兄
文帝との兄弟愛を諷して歌ったという故事を引いたものであった」との記事。

 調べてみると、淮南公獅ヘ漢の劉邦の末子で文帝の異母弟であったが、
この兄弟二人の仲は悪かった。淮南公は遂に謀反を企て、文帝はこの弟を
蜀へ流罪とした。剛毅な獅ヘ檻に入れられて護送される途中で自殺した。
 民衆の間ではこんなはやり歌が広まったという。

   一尺布、尚可縫    わずか一尺の布でも兄弟二人分の衣服を作る
                 ことができる
   一斗粟、尚可春    わずか一斗の粟でも臼で搗いて兄弟で分けて
                 食べることができる
   兄弟二人、不相容   それなのに兄弟二人が許しあえぬとは

静はこの故事を引いて歌い、必死になって義経の助命を懇願したのである。
しかし「回波めぐらず 阿哥の心  南山の雪 終古えに深し」 ついに静の
願いも空しく、頼朝の心を翻すことはできなかった。「阿哥」とは兄のことで
あり、頼朝を指す。頼朝はますます義経討伐の執念を燃やす。

 義経は奥州平泉へ落ち延び、藤原秀衡に手厚く保護された。しかし秀衡
の死後、息子の泰衡は頼朝の圧力に屈して義経を襲い、観念した義経は
22歳の妻と4歳の女児を殺害した後、自害して果てた。31歳の春だった。

頼朝はそれから約10年後、相模川の橋のほとりで落馬し、あっけない最後
をとげた。53歳だった。

静は鶴岡八幡宮での舞いから3ヵ月後男児を出産した。しかし頼朝によって
取り上げられ、由比ヶ浜に打ち捨てられて殺された。絶望した静は母ととも
に京へ帰った。その後のことは杳としてわからない。ただ静終焉の地なる
ものが全国いたるところにあるのは興味深いことである。
                                  ( 石田俊風