私の祖母方の祖先は尼子氏     リワキーノ  2014.04.20


勝林寺の住職との話の内容を聞きたくて9時頃に電話したけれど、圏外とのこと。余程の山奥か、
と思って編集長の記述をよく読むと

> 今、島根県のスキー場近くの宿から発信中!
>
> 博多⇒広島までは何てなかったんですが
> 広島北⇒浜田道⇒瑞穂は今まで経験ない雪中ドライブ・・・

瑞穂は現在の島根県邑智郡邑南町。そこの市木は私の祖母方の祖先が戦国時代に毛利氏と
の戦に敗れて落ち延びていった地です。
邑南町の景色も撮ってもらえたら嬉しいですね。


                                                        リワキーノ  ++.. 2014/01/19(日) 09:37 [18214] [引用]

 
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>邑南町の景色も撮ってもらえたら嬉しいですね。
こちらスキー場近くの温泉から眺めた雪山・・・
希望の町のではないでしょうがすぐ近くの山々である事は間違いありません。


                                             編集長  ++.. 2014/01/19(日) 22:29 [18215] [引用]

 
早速の写真の掲載を有り難うございます。
編集長の泊まった旅館の住所、もしくは旅館名を教えてもらえますか。
Googlemapで検索して市木からどのくらいの位置にあるのか調べてみたく思います。

                                          リワキーノ  ++.. 2014/01/20(月) 08:03 [18216] [引用]

 
宿名:Villa 季節風(ヴィラ きせつふう)
電話番号:0855-85-1034
所在地:〒697-0631 島根県邑智郡邑南町市木6268−23

上記住所から、正に市木だったと判明!?


                                              編集長  ++.. 2014/01/20(月) 09:05 [18217] [引用]


Capt.Senohがスキーに行った島根県邑智郡邑南町のスキー場が私の祖母の実家があるところの
近くらしいので、スキー場の詳しい住所を尋ねたところ、驚くべきことに祖母の実家がある市木とい
うことが判明。
祖母の祖先は、戦国時代の初期から中期にかけて山陰8カ国を領有した大名、尼子氏の一族で、
毛利氏によって尼子氏が滅ぼされた時に祖母の祖先は島根県邑智郡邑南町市木の地に逃れて
きて、名も尼子から尼川と変えて現在に至っているということを私は父母から聞いていたのです。
市木の尼川本家には刀剣甲冑類が保存されているということを聞かされていたので一度は訪ねて
みたいと思ったのですが、まだ一度もその地を訪ねたことがなく、長い年月、憧れの地でも有り続
けたところなのです。
その地に私の最も古い友(4歳のときからまる62年の付き合い)が友人に誘われて行った無名の
スキー場が私の祖母方の実家がある在所とは、偶然以上のものを感じます。

尼子氏は近江源氏佐々木氏の末裔で、平家物語の宇治川戦陣争いで有名な佐々木高綱の兄の
信綱の血を引く系統であり、南北朝の争乱のときには足利尊氏に仕えたバサラ大名として有名な
佐々木道誉の孫、高綱が尼子氏を名乗ったのです。

今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の上月城攻めに家臣、山中鹿之介と共に尼子勝久という人
物が登場しますが、これは本家尼子氏が毛利氏によって滅ぼされたあとに再興の戦いをおこした
一族の一人で、歴史上では最後の尼子氏の当主となります。
山中鹿之介は、三日月にむかって「我に七難八苦をあたえたまえ」と祈り続け、負けても負けても
尼子氏再興の兵を起こし、最後は非業の死を遂げたことで、二君に仕えずの忠節を全うした武将
として戦前は修身の本にも載せられ、知らぬ者がいないくらい有名な存在でした。



尼子勝久と山中鹿之介については下記のサイトがとてもよくまとめて紹介しています。
http://samuraiworld.web.fc2.com/anecdoteofhistoricsite_story09.htm

下記のサイトは小説風ですが、上月城開城のようすをよく表していると思います。
http://ncode.syosetu.com/n3266a/93/

他にも吉川英治の『新書太閤記』にも上月城攻城戦の様子が記されています。

上月城 右側の平たいところが本丸 2003.10.26リワ撮影 


上月城麓にある尼子勝久と山中鹿之介(右)の追悼碑


本丸と、秀吉によって攻め滅ぼされた城主赤松政憲の追悼碑。
ドラマ「軍師官兵衛」ではこの時の城主は官兵衛の妻の姉婿である上月氏となってますが、上月
氏説と赤松説の両方があるようです。


そこで我が祖母の実家、尼川家の話です。
我が家に伝わる話以外、尼川が尼子氏の子孫であるという傍証は無いので、私は半信半疑でそ
のことを受け止めていたのですが、Capt.Senohの出会った偶然のできごとがあったことから「尼川
 尼子氏」のキーワードでWEB検索をしたところ、”Yahoo! 知恵袋”に下記のやりとりがあるのを見
つけました。

投稿者 m5195202さん
flumpoolベースの尼川さんは戦国大名尼子氏の子孫と聞いたのですが本当ですか?
質問日時:2010/5/1 19:12:42 解決日時:2010/5/3 14:38:45
閲覧数:544回答数:2.
.
ベストアンサーに選ばれた回答
投稿者 flower08172さん
本当らしいです。
fourbondには18か19代目と書かれていましたが、
実際は21代目だと(親に訂正されたと)本人でブログに書かれていました。
回答日時:2010/5/2 15:08:30 編集日時:2010/5/2 15:15:1


尼川元気というミュージッシャンの家が邑智郡邑南町市木の出身なのかは知ることはできません
でしたが、尼子氏の子孫を名乗るからにはかなりの確率で市木の出身ではないかと思われます。
また森脇家は代々海辺近くの江津市に居住してきたのに広島県との県境近い、きわめて辺鄙な
ところの尼川家と縁が結ばれたのは、古くからの両家の交流があったのではとも推測され、「尼子
 森脇」で検索したらニコニコ大百科というサイトに下記の記事を見つけたのです。

森脇(もりわき)とは、日本の苗字、地名である。
苗字としては中国地方から関西地方にかけて多く分布している。とくに島根県には非常に多く分布して
おり、邑智郡邑南町で4番目、江津市で9番目に多い苗字となっている。旧八束郡美保関町(現松江市美
保関町)では最多姓であった。島根県に接する鳥取県境港市でも多くみられる。
戦国時代から出雲国には尼子氏家臣の森脇氏が存在したことで知られる。


尼川の在所、市木は邑智郡邑南町、そして我が家の森脇は江津市。
出雲月山城で尼子本家が滅んで尼子一党のものが離散したとき、出雲から岩見の国という、か
なり離れたところに落ち延びた尼川と森脇はその後も連絡をとりあっていたのではと私は推察す
るのです。

私が修猷館高校に在学したころに尼川大録という生物学の教師がいました。
苔の研究で高校教師で博士号を取ったことで新聞にも記事が載ったことがありますが、この尼川
大録氏は我が祖母の兄の息子です。
父が祖母の実家の当主から「息子が福岡の高校教師となって赴任しました」と便りをもらったこと
を私は覚えているのですが、その後、尼川大録氏と我が家はまったく交流が無く、私が修猷館に
入学しても生物は別の教師だったので尼川大録氏とは遠くから姿を見るだけで言葉も交わした
ことはありません。

(リワ家の古いアルバムから)
真ん中に座るのが尼川家から嫁いできた祖母ミネ。
私の母は若き日と祖母の晩年に祖母と同居しているのですが、大変祖母を尊敬しており、祖父母
のエピソードはほとんどが母から聞いたものです。
右は祖父の姉。左は曾祖母(祖父の母)、膝に乗るのが私の父。
後方右は祖父忠市。左は祖父の妹。
前列左は父の長兄。右は父の従兄弟。
祖母から私の父と姉k.mitikoと私は尼川家の風貌をしていると聞かされたことがありました。
母から聞いた話ですが、私の次姉は祖父の母(姑)と妹(小姑)に似ていたために祖母の愛情が
薄かったようで、父は徴兵されて出征するときに母親の前で平伏して、次姉もk.mitikoと同じよう
に可愛がってください、と願ったそうです。


祖母の兄。修猷館高校教諭尼川大録氏の父。

なお、家内と知り合って間もないころに家内の郷里、八日市市(現・東近江市)から彦根に行くの
に近江鉄道に乗ったとき、八日市駅から5つ目の駅名が尼子であることを知った時は大きな驚き
を感じました。
冒頭でも記したように尼子氏は近江源氏佐々木氏の系統であり、尼子の初代は住んでいた在所
の知名を姓としたであろうとすぐさま思い至ったからです。
私の祖先発祥の地が家内の生家から17キロのところとは、これも偶然以上のものを感じました。

●尼子氏の発祥
近江佐々木氏は宇多源氏・近江源氏と称され、鎌倉幕府創業に功があり各地に守護・地頭職を
得て おおいに勢力を拡大した。嫡流は六角氏と京極氏に分かれ、六角氏が江南六郡を領し、
京極氏が江北六郡を領して互いに勢力を競い合った。 京極氏で有名なのが足利尊氏に仕えた
高氏(道誉)で、南北朝時代の典型的守護大名でそのバサラ ぶりは世に知られたところである。
道誉は康安四年(1345)四月、戦功の賞として足利尊氏から犬上郡甲良荘を与えられた。 この
甲良荘のうちに尼子郷があり、この地を孫の高久(秀久)に与えるように置文を遺した。この置文
は道誉の 後家尼留阿や惣領によって守られ、尼子郷は応永五年(1398)六月高久に給与された。
高久はこの地に住し、 在地名をとって尼子氏を称した。これが、佐々木氏流「尼子」の名字の発
祥である。
(「出自と家系」より)