「新世界から」と「アニトラの踊り」 辰巳秀一(P) 西宮市ブルーマリンにて 2014.11.30
今年9月に90歳になられた修猷館高校の大先輩、辰巳秀一さんの演奏です。
「アニトラの踊り」はグリーク作曲のペールギュント組曲の中の作品です。
祖母同士が姉妹だった声楽家の長野羊奈子さん(指揮者の故若杉弘夫人)の訃報
に接して喪失感の著しい辰巳さんを私は見てきましたが、その寂寥感を激しい演奏の
中に垣間見るような感じでした。
産経新聞の訃報記事
長野 羊奈子さん(ながの・よなこ=声楽家)
10月20日、肺炎のため死去、81歳。連絡先は東京二期会。告別式は22日午後1時
から東京都文京区本郷3の37の9の本郷中央教会。喪主は弟、一宇氏。
1963年に日本人として初めてベルリン・ドイツ・オペラの正団員になった。日本の
代表的オペラ指揮者、故若杉弘氏の妻。
インターネット上で見つけた元お弟子さんの追悼文。
・・今週は私にとって一つの節目となる出来事がありました。
大学時代からの恩師・長野羊奈子先生がご逝去されました。(享年81歳)
先生は生前、敬虔なプロテスタントであられ、そちらの言葉では「召天」というのだそ
うです。
20日の早朝に息を引き取られたという連絡を、その日の夜にいただきました。
今、先生の記事を書こうとしたら息が苦しく胸騒ぎのような感じがしているので、もし
かすると何かメッセージが来ているのかもしれません。。
(今朝方X級の太陽フレアがあったので、それによる磁場の変化を感じているのかも
しれませんが・・)
これまでの人生で両親や祖父母の死、恩人や知り合いの死を経験してきました。
死の受け止め方は年齢が行くほどにさらに身近になり、その度ごとに親しい人を失っ
た悲しみとともに「限りある自分の命をどう生きるか」ということを深く考えるようになり
ました。
・・羊奈子先生とは一浪して入った東京芸大のレッスン室で始めてお目に掛かりまし
た。スラッと背が高いカッコいい「男前」な先生・・そしてマリア様のように慈悲深い先
生でもありました。
出来のいい生徒といえない私でしたが、先生から離れることなく約40年、先生を師と
仰がせて頂くことが出来ました。
私たちクラシックの音楽を生業(なりわい)とする者にとって「師」というのは特別な存
在で、専門を教えてくれる先生という以上に、師の生き方から沢山のことを学ばせて
もらいます。
それは長きに渡る一対一のレッスンを通して受け取ったり、師の人生を垣間見させ
て頂く中で感じていくもので、ゆるぎない信頼と尊敬が根底にあります。私はその信
頼と尊敬を抱き続けることが出来る師に出会えたことを、生涯の誇りに思っています。
昨日の教会での葬儀には先生を慕う門下生たちも数多く参列し、それぞれに先生と
の思い出を胸にかみしめたと思います。先生との思い出は個人的なものであり共有
出来ないのは寂しい感じがしますが、それぞれの思いは天国に旅立たれた先生に
は必ず届いたと確信しています。
・・長野羊奈子先生は著名な指揮者故若杉弘先生の奥様でもあり、大病を患って歌
の道を断念された50歳以降は大学で教鞭をとる傍ら「若杉羊奈子」として世界的に
活躍する夫を全身全霊で支えてきました。
昨日の葬儀でも牧師さまがお話されていましたが、大病やリウマチによる痛みの中
での壮絶な人生でした。でも私たち生徒にはそれを微塵も感じさせることなく、慈悲
深いマリア様のような愛と光を放たれていました。
・・私が垣間見させていただいた羊奈子先生のエピソードは、私自身の心が収まって
から改めて書きたいと思います。
先生のご逝去の連絡を受けたとき初めて知ったのですが、今年の6月の半ば過ぎに
脳梗塞を起こされていたとのことです。
ちょうどその頃、10年ほど前に先生と勉強したワーグナーの<ヴェーゼンドンクの歌>
を再び勉強しなければ・・という思いが急にやってきたので「もしかして羊奈子先生に
何かあったのでは!」と先生が入居されていた老人ホームの先生のお部屋に電話し
ました。一向に繋がらないのを不審に思いホームの事務所に連絡すると「ご家族と相
談の上お返事します。」とのことでした。
何かあったと直感しましたが、関係者の手と煩わせてはと思い、私からの電話の取り
次ぎを辞退しました。・・
いま思えば、<ヴェーゼンドンクの歌>は先生からのメッセージでした。
先生の亡くなられた日の昼間に次回のコンサートのチラシの入稿をしたのですが、そ
のプログラムに<ヴェーゼンドンクの歌>の最後の二曲を入れることにしていました。
知らずに受け取った師からのメッセージですが、この曲に真摯に取り組むことが先生
への一番のお礼になるのではと思っています。 合掌