源三位頼政の辞世   2016.05.03 リワキーノ

私の卒業した修猷館高校の同窓生であるTHさんという女性の宇治平等院訪問記が小春ページと
いうホームページに掲載されました。

「京のお花見旅行 (1)平等院」・・・・・T.H.

優れた内容であり、修復後の平等院の様子を余すところなく知ることができ、感銘を受けたのです
が、同時に彼女が手記に触れている源頼政の名に刺激を受け、その辞世の歌に私がかつて抱い
た思いを記したくなりました。

源頼政は昇殿を許される従三位の位をもらった源氏の初めての武将と言うことで源三位(げんさん
み)頼政と称されます。
八幡太郎義家や左馬頭義朝、鎮西八郎為朝、悪源太義平、木曽義仲、九郎判官義経、右大臣実
朝などの清和源氏の武将と同じ通称です。

頼政も前述の7人と同じ清和源氏なのですが、義朝の代から数えると6代前に枝分かれしていて別
系列の源氏として扱われ、居住地から前者7人の系列は河内源氏、頼政の系列は摂津源氏と区別
されています。

頼政の摂津源氏の祖は大江山の鬼退治の伝説で有名な源頼光です。
ちなみに頼光の四天王といわれる家来に渡辺綱という武将がいるのですが、この渡辺党の一族は
代々河内源氏の郎党として続き、綱、省、授、競と一文字の名を名乗ることを特徴としております。
綱は渡辺党の初代ですが、150年後の子孫の省、授、競の3人は頼政と共に平等院で討ち死にし
ます。この長い年月にわたる武家の一族郎党の結束の強さは凄いものがありますね。

私が初めて平等院を訪れたのは息子が小学校3年生のときでした。
源平の争乱に深い関心をいだく私は平等院と言えば、平家打倒の旗頭を最初に挙げて失敗し、奈
良に逃走する途中、平氏の大軍に追いつかれて頼政一族が全滅した地という印象が一番強いの
で真っ先に扇の芝に向いました。

境内の扇の芝というところが頼政が自害して果てたところです。
確かに扇の形に囲われています。
能楽の「頼政」(世阿弥)で亡霊となった頼政が「扇を敷き自害し果て給ひぬ されば名将の古跡な
ればとて、今に扇が芝と申し候」と謡うそうですが、これが扇の芝の由来だそうで、そう言えば平家
物語にも源平盛衰記にも扇の芝の名は出てきません。
芝が扇形に囲いされたのは後世のことなのでしょうね。


源三位頼政の討ち死にのことを話して聞かせたところ、息子は学校の作文で平等院に行ったこと、
源頼政が討ち死にした場所を見てきたことを記し、担任の先生を驚かせました。
そして私は扇の芝で息子に語り聞かせるとき、立て札に記された有名な辞世の句

「埋(うも)れ木の 花咲く事もなかりしに 身のなる果ぞ 悲しかりける」

を目にしながら、ふと思ったのでした。
乱戦の中での討ち死にした頼政にこんな辞世の歌を作る余裕があったのだろうかと。

帰宅後、私は所蔵の「平家物語」の原文で頼政自害の箇所を探したのです。
そして頼政の死に至るまでの様子を知ることができました。

下記はネット上から入手した『平家物語』の中の頼政自害のところの原文と現代語訳の一部です。




頼政は乱戦の中、膝頭を矢で射貫かれたため、これ以上戦うことはできぬと死を覚悟し、一族の息
子や郎党たちが防いでいる間に扇の芝で念仏を唱え、辞世の歌を残して自害したのです。渡辺党
の一人、唱が頼政の首を切り、宇治川に沈めたとありますから時間的にもかなりの余裕があったの
だろうと思います。
10回念仏を唱えたと平家物語に記されていますが(源平盛衰記では300回!)、歌人としての自負
心も強かった頼政は辞世の歌も高らかに唱えたのではないでしょうか。

「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄っては目にも見よ。源三位頼政が自害に際して辞
世を歌う様を」

互いに名乗りをして戦ったというおおらかな源平時代の戦です。
歌人として高名だった頼政の辞世の歌を聞けるとはまたとない貴重なチャンスとばかり、敵味方に
かかわらず、耳をすませたのではないか、それがそれぞれの記憶に残って源三位頼政の辞世の歌
は残ったのでは、と私は想像力をたくましくしたのでした。

この時代の77歳と言ったら現代では90歳くらいではないでしょうか。
その高齢で絶大なる権勢を誇る平氏に刃向かって叛旗の旗をあげるとは、頼政はどんな精神構造
の人だったのかなと興味深く感じます。
これについてはいつか機会があれば触れたいと思います。

血筋というのかDNAのなせるわざなのか頼政には近い血縁の女流歌人が二人います。
一人は頼政の娘の二条院讃岐(にじょうのいんのさぬき)。
千載和歌集や新古今集に多くの歌が収録され、千載和歌集の「わが袖は塩干に見えぬ沖の石の
人こそ知らね 乾くまもなし」の歌は百人一首にも採られたたのですが、涙するありふれた表現の
「わが袖は乾くまもなし」に「沖の石の人こそ知らね」を挿入するという、当時の歌人たちからすれば
あっと言わせる予測もつかない手法を見せて二条院讃岐の名を不動のものとし、以後、二条院讃
岐は”沖の石の讃岐”とあだ名されるようになりました。

そしてもう一人は、頼政の姪にあたる宜秋門院丹後(ぎしゅうもんいんたんご)。
頼政の弟の娘で従姉妹の二条院讃岐と共に女房三十六歌仙の一人に選ばれるという一流の歌
人です。
彼女が歌った「忘れじな 難波の秋の 夜半の空 こと浦にすむ 月はみるとも」(新古今集)の「こと
浦にすむ」の句が大変もてはやれ、以後宜秋門院丹後は”異浦の丹後”とあだ名されたのです。
源三位頼政の身近な二人の肉親女性がどちらもその作った和歌にちなんだ異名をつけられたとい
うことに私は大変興味を覚えます。

父親であり、伯父である頼政が平家に反旗を翻し一族郎党全滅したのに、二条院讃岐と宜秋門院
丹後の二人にはなんのとがめも無く、二人ともそのまま官位にとどまり、二条院讃岐は後に父頼政
の遺領まで継いでいます。
源平の合戦から鎌倉、南北朝、戦国時代と戦がつづいても女性の罪は問われない、問われても殺
されないという日本のこの風習は素晴らしいと私は思っています。