「顧客宅での調律師のマナーについて」   調律師協会会報掲載 1997.05.12

ピアノ調律師はまず、技術の向上に精進することが本分であり、顧客への対応というのは
その次の問題として捉えられているように思いますが、顧客に信頼されるには技術以外に
も接客対応の面も重視しなければならないと考えますので以下、私が常々思っていること
を記させていただきたいと思います。

顧客に信頼される接客対応ということを考えていく上で、まず頭のなかで強く認識しておか
なければならないのは顧客層の9割以上が女性であるということです。
昼の日なか、女性一人でいる場合の多い顧客家庭の中に入っていって調律作業やその
後の対話などで1時間以上も滞在するわけですから、女性に対する正しく適切な対応を常
に心がけなければならず、十分にそのことを注意した上でのマナーを我ら調律師は守らな
ければならないと思います。

私自身の経験としてこんなことがありました。我が家の台所の瞬間湯沸かし器の調子が悪
く、ガス器具保全会社から点検修理に来てもらったとき、目つきのあまり良くなく、視線をキ
ョロキョロさせる技術者がやってきたのです。彼は点検作業をしている間、絶え間無しに独り
言をブツブツつぶやき、時折、同じ部屋で新聞を読んでいる私に作業とはまったく関係ない
世間話しを話しかけてきます。私はそれが鬱陶しく、しまいには薄気味悪くなってきたので
すが、その時、男の私でもこうなのだから、これが女性たった一人だったらどんな気持ちに
なるだろうと思ったものでした。このことからも一般家庭に入っていく私達調律師は女性客
にそのような不安感を持たせないよう十分に気をつけるべきではないかと思いました。

女性客に不安感を与えずに良い印象を与えるために心がけることは、
@ 身だしなみに気をつけること
A 立ち居振る舞いに気をつけること
B 会話の内容に気をつけること
の3つに要約されるのではないでしょうか。

@については清潔な着衣は当然のことで、女性は身体の清潔さもひどく重視するので髪の
毛や背広の肩にフケがついてたり、汗くさい臭いを発散させるようなことはかなりのダメー
ジを与えることについてはどなたでもお気づきでしょうが、頭髪につける整髪料の臭いのき
つさに辟易して調律師を換えた客を私は知っておりますので、そういった点も十分に考慮し
た方が良いと思われます。

Aについては、人品骨柄を誉めてその様を表現するときに、立ち居振る舞いの優れた人、
という言い方を昔の人はよく使ったものですが、折り目正しい挙措は女性客に「キチッとした
人」=「堅実で真面目そうな人」という好ましい印象を与えるようです。立ち居振る舞いと言っ
てもなにも能楽師や武士のような完璧なものを言っているのではなく、たとえば挨拶一つに
しても腰の所からキチッと折るようにおじぎし、顧客宅に入ったら無闇やたらにキョロキョロし
ない、顧客の尋ねることには饒舌過ぎずにキチッと答える、といったそういう落ち着いた物腰、
物言いが女性客に好ましいイメージを与えると思うのです。女性は人の表情に非常に敏感で
あり、男性の目つき、ちょっとした仕草から相手の考えていること、どんな人柄の人かを鋭く
見抜くようです。
また、訪問約束時間を厳守することも立ち居振る舞いの一つとして大切なことで、時間に正
確なことは顧客の男女問わず、真面目なキチッとした人としてのイメージアップに大きくプラス
するようです。私の場合、約束の時間に15分以上遅れそうな時は必ず電話で遅れる旨を伝
えるよう若いころから心がけてきておりましたが、それは同じ遅れるにしても顧客に与える印
象は随分と違うように感じました。

Bは大変大切なことでして、調律を終えたら挨拶もそこそこにさっさと顧客宅を後にする、
という忙しい調律師たちもいるでしょうが、顧客とのしばしの雑談も私はたいへん有益なこと
と思いますので、これについて少々駄弁を弄させてください。

まず、最初に心すべきことは、決して喋りすぎないこと。これは技術屋は寡黙であるべし、と
言っているのではなく、自分ばかり喋らない、客の話を良く聞くこと、という意味です。
話好きの調律師も、一日4台、5台の台数を稼ぐ多忙な調律師でも必ず出くわす客との対話
はピアノの保管上の注意、質問、クレームのたぐいのことがらではないでしょうか。客からピ
アノの技術的な面で質問や要望を受けた場合、想像力をたくましくして十分に客の話を聞き、
答えるときはなるべく専門的用語は使わずに説明することが肝要だと思います。ハンマーが、
接近が、ユニズンがどうのこうのと言った業界用語で語ってもそれは調律師の間でのみ通
用する会話であり、一般の客には何のことかイメージしにくいことをよく認識して語らないと
すれ違いの対話になって一つも客に満足感を与えないからです。響板とか共鳴とかいう言
葉でさえも音で聞いたら何のことか解らない客はたくさんいるのです。しかも、説明してくれ
ている意味がもう一つよく解らないのでもっとかみ砕いて解りやすく説明して欲しい、と口に
出して言う女性客は少なく、専門家のまくしたてるような説明に圧倒されて口を閉ざしてしま
うけれど決して納得したわけではなく、この調律師では話にならないからといともあっさりと別
の調律師にとって換えられることがしばしばあるのです。

顧客との会話では技術的な話以外に世間話のような雑談をすることもよくあると思います。
コーヒーをご馳走になりながら雑談しているうちに結構話に花が咲くということも調律師でし
たらよく経験することですね。しかし、ここでも決して話のイニシアチブを調律師がとるような
ことは極力控えるべきだと思います。
人間というのは自分が話すことは楽しいのに他人の話を聞くことに喜びを感じるなんてこと
はよほど話術にたくみな人が話し手でない限り少ないものでして、誰だって対手がおれば
相手の話を聞くより自分が喋りたいと思うのは人間の自然の欲求だと思います。
興味の抱けない話なんかを一方的にしかも長時間、聞かされることは苦痛以外の何者で
もありません。ところがそれは相手も一緒であり、それがお客様ときた場合にはこれはもう
絶対にこちらが控えめにするのが礼にかなっている(商利益にかなっている、というと実も
フタもないのでこういう言い方をしますが)というものではないでしょうか。客の話したがって
いることはたとえそれがつまらない退屈なものであっても辛抱強く聞くべきであり、この忍耐
と努力はとても良い結果をもたらすと私は信じております。

しかし、相手の話に上の空で単調子にうなずいていたのでは鋭い直感力を持つ女性には
簡単に見破られ、対話も即座に打ち切られて努力も忍耐も水の泡と帰する恐れがあります
からそこはなかなかのテクニックを要します。相手の話に打てば響くような合いの手を入れ
て相手をますますいい気分にさせて話を白熱化させれば客はいつまでも楽しく語り続けるの
ではないでしょうか。(もっともあまり長引かせると、次の仕事に差し支えることもありますが)
元来、技術屋という人種はそういうのが苦手な人が多いと思うのですが、別に小細工を弄
さなくても語り続ける顧客の心を掴む話の聞き方というものはあると思います。それは私が
長年意識して実践してきたことでして、これは顧客だけでなく、友人、知人たちとの交友関
係でも大変プラスになったことでした。

私の実践してきたこと、それはいとも簡単なことです。つまり、同じ時間を費やすのなら、こ
の客の話を自分の知識のデーターとして取り込もうという意欲を持つことです。どういうこと
かと言いますと、話し手の内容が興味を持てないものであろうと、下らないものであろうと、
それはそれで自分の世間知の蓄積を増やしていくものであり、それは必ず自分にプラスに
なるという信念を持ち、この一見浪費としか思えないような時間の経過をただでは過ごさ
ないぞ、という強い意志を持つことなのです。つまり客の話を自分の新しい見聞体験として
真剣に聞くという態度を自分に強要するのです。そういう気持ちで聞いていれば、客の話
の中に論理性を欠く場合や理解し難い点を見出したとき、即座にその整合性ある説明を
求めたり、質問をしますから客は驚くと同時に、この調律師さんは真剣に私の話に興味を
持っていてくれる、という認識を抱いてくれるのです。こういった姿勢で人の話を聞いてお
れば、そこから出てくるこちらの対応発言は真実味のあるものに聞こえる訳なのです。
このような対応は一朝一夕で身に付くものではありませんから、ある程度の忍耐、継続は
必要ですが、辛抱強く努力し続ければピアノのお稽古と一緒でいつかそれが自分の身に
付くようになると私は思ってます。私はこれを長年、自分に強制してきたおかげで、最近は
どんな話でも退屈することなしに人の話を聞くことができるようになりました。

調律師は常に顧客の話ばかり聞かされるというわけでもなく、顧客によっては家に来る調
律師に好感を持ち、その人となりに興味を持つ人もいますから、そんな場合は調律師が
自分のことを語ることはいっこうに構わないと思いますが、それも先方から問われてこそ
初めて自分のことを語るべきだと思います。聞かれもしないのに自分の腕前の自慢や趣
味のことをペラペラ喋ったり、ましてや自分の家族の自慢談などは慎むべきではないでし
ょうか。
また、顧客との親密度によってはずいぶんと立ち入った話をすることもあるでしょうが、
常に忘れてならないのは、昼の日なかに女性と男性が家の屋内で対峙しているというこ
とです。ずばり言うと、よほどの高度なユーモアとスマートな話術を持つことに自信を持っ
ていなければ性的な話題は避けた方が無難だと思います。ちゃんとしたご婦人だったら
そう親しくも無い男性とそのような話題を口にすることはかなり抵抗感があり、警戒心を
起こさせることを知っておくべきでしょう。

顧客女性の容貌を誉めることは、美しい、綺麗と言われて喜ばない女性はいないでしょ
うけれども、誉められて喜んだからそれを言ってくれた相手に好印象を抱くかと言えばそ
れは別の話でして、誉められた当の本人が相手に対してこの調律師さん、何か下心が
あるのでは、と警戒心をも同時に抱いていることを知るべきです。女性の容貌をあから
さまに誉めることは避けるべきであり、ましてや「奥さん、色っぽいですね」なんて世辞は
もっての他だと思います。
顧客女性当人にお世辞を述べるのなら、人柄が温かいとか、品がいいとか、聡明なご婦
人といった人格的な面で誉めるのが無難であり、有効的ではないでしょうか。顧客女性
の子供さんたちや顧客女性の打ち込んでいる趣味のことを話題にし、それに興味を示す
ことは私の経験上大変有効でして、たいがいの場合、顧客は嬉しそうに熱を込めてそれ
らのことについて語ってくれることが多かったです。しかもそれは私にとっても大変ため
になる話が多かったのです。

初めての顧客のピアノを調律した時、前任の調律師の悪口を言う人がときたまいる
ようですが、顧客の前では人の悪口、特に別の顧客の悪口や同業者の悪口は絶対に
禁物だと思います。悪口に迎合する客もいるでしょうが、ちゃんとした見識を持った女性
はそのような人の悪口を言う人間を信用したりはしません。調律師の技術の良し悪しを
一般の客は判別しにくい面があり、思慮深い客はそれをその調律師の人柄をよりどころ
に推し量ろうとするものです。人間性重視で調律師を選ぶ見識の高い女性は、調律料
金の値段の安さなどに惑わされることなく、いったん信頼した調律師をひいきし続ける
ものでして、そのような客こそ長続きする上質の顧客なのであり、また、こういった顧客
から紹介される新しい顧客も同じ様なタイプの人が多いということを思えば良質の客に
信頼されるよう努力すべきではないでしょうか。

口幅ったいことを色々書き連ねましたが、たいした技術力も持っていない調律師が30
年もの間この業界で何とか仕事にあぶれることなく生き延びられてきた経験を基にして
若い調律師さんたちのアドバイスにでもなればと思い記しました。

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