新宮山彦ぐるーぷの山上皓一郎さんがご逝去。     2020.12.31   

私が心から敬愛し、私淑していた新宮山彦ぐるーぷの重鎮、山上皓一郎さんが12月15日に亡くなら
れました。
享年92歳。
12月18日に仕事先に和歌山のカツラさんから電話で知らせがあったとき、かねてからいつか訃報を聞く
日があると覚悟はしていましたが、いざ、あの山上皓一郎さんがもうこの世にいないという思いになっ
たとき何ともいえぬ寂寥感と悲哀感を感じ、顧客宅を出た後、しばらく呆然としました。

何から語れば私の山上さんへの想いを正確に伝えることができるのか途方に暮れる思いですが、す
ぐに思い出すことから山上さんへの追悼の思いを記したく思います。

初めて山上さんにお会いしたのは昭和61年12月の新宮山彦ぐるーぷの団体登山に初めて参加した
ときでした。
日暮山という三重県熊野市の内陸部にあるとても雰囲気の良い山で、そのときにご一緒したグルー
プの玉岡憲明会長と副会長のお二人の暖かい人柄にいっぺんに魅了され、それから私の新宮山彦
ぐるーぷとの34年間にわたるおつきあいが始まったのです。

右側の三角峰が日暮山

そして私にとって生涯忘れられないことは、私が大峯に魅了されるようになってずっと願い続けていた
大峯奥駈道の全縦走の実現に山上さんと玉岡さんが手助けしてくださったことでした。
このときは宿泊地の野営設定と食事の用意を玉岡さんがして下さり、最初の二日間のコースを山上さん
が縦走を道案内して下さったのでした。

大森山にて


持経宿小屋
このときの様子は下記のレポートをご覧になってください。
http://hmpiano.net/riwakino/1962year/okugake_juusouki/okugake_juusouki_indx.html 

山上さんは玉岡会長の補佐役に徹してこられ、ご自分が表に出られるということ決してされない方で、
その分、玉岡さんのようには知名度が高くはなりませんでした。
しかし団体登山だけではなく、同グループが大峯の奥駈道の整備をやっていくとき、また奥駈修行にや
ってくる修験団の接待をするとき、常に的確なサポートをされ、ときには優れた判断や決断をされてきた
のです。

忘れもしない、こんな事件がありました。
平成4年10月に岳人の間では有名な京都の登山家Mさんが大峯で遭難したのです。
Mさんは奥駈の道を玉置山から前鬼まで単独の縦走を試みられ、宿泊予定地の竣工したばかりの行
仙宿小屋に到着することなく消息を絶ったのです。
行仙宿小屋で待ち受けていた玉岡さんは午後8時になっても到着しないMさんが82歳という高齢であ
ることと、小雨も降ってきたので険しい笠捨山の手前で縦走を断念して上葛川の村落に降りたものと
判断して翌朝小屋を去って新宮市に戻ってきたところ、それを聞いた山上さんが「絶対に遭難してい
る!すぐに警察に捜索願いを出すべきだ!」と断言し、玉岡さんもすぐさま家族に連絡を取って捜索活
動に入ったのでした。
新宮山彦ぐるーぷと京都山岳会の大勢の人たちが参加した大がかりの捜索活動もむなしく、Mさんの
姿を見つけることはできなかったのですが、玉岡さんから聞いた山上さんの険しい言葉のことが後々ま
で印象に残っています。

山上さんのことでいつも思い出すのは料理の腕前です。
奥駈修行をする修験団一行の人数は40人から90人。
それを山小屋で夕食と朝食、弁当の世話まですべて玉岡さんや山上さんの采配のもと数人のスタッフ
でやるのです。





私も何度もその食事にありついているのですが、一度として炊きすぎや堅いご飯にぶつかったことは
ありません。

山上さんは食材にこだわられ、山の中を探し回って山菜を採ってきて天ぷらにして夕食の食膳に出す
こともあるのですが、その美味なこと。


しかも美意識の高い山上さんは盛り付けにも気を配り、いかにも見た目が美しい盛り付けを各皿にす
るのです。




私もサポート隊に加わって持経宿小屋で弁当のおにぎりを握っていたら、形が全然そろわない私のお
にぎりを見て「おにぎりはいいから炉の火の守をしてくれ」とお役御免を言いわたされたこともあるくらい
山上さんは美意識が高いのです。
(何か窓際族の悲哀感を漂わせているような私の画像ですが・・)・



車で近づくことのできない大峯の深山の小屋で山菜の天ぷら料理にありついた行者たちは驚き呆れ
てました。
(画像は持経宿小屋でのもので、このときは天ぷら料理は無かったです)

行者さんたちが寝て、食事の後片付けを済ますとスタッフたちはテントに行ってそこで打ち上げをやり
ます。これがもう大変楽しいのです。



今、こうしてこの画像を見ながら記録文を書いていると、山上さんと一緒だった宴会がどんなに楽しく、
心和むものだったかが想い出され、胸がいっぱいになります。
山上さんの訃報は複数の人たちから届いたのですが、その一人の小西陽子さん(写真奥)は父のよう
に慕っていた山上さんの死をどんなに悲しい思いで受け止められたのでしょうか。


熊野奥駈サポート隊の長年の仲間である松本良さんと邦子さん夫妻。
常に山上さんと行動を共にされていました。

持経宿小屋は狭いのでサポート隊はこのようにテントで寝るのです。


修験団が出発していったあと、奥駈道の整備のために資材を運ぶ山上さん。
実は奥駈修行のサポートよりももっと山上さんが長い年月の作業に従事してきたのが奥駈道の整備
でした。
これについて語り出すとあまりにも膨大な量になるのでここでは省きます。
下記の新宮山彦ぐるーぷホームページ
ttp://syamabiko.web.fc2.com/  
の下記のページの元世話役代表の玉岡憲明さんの手記をご参照ください。
http://syamabiko.web.fc2.com/karimine_1000.html 


山上さんたちは私の知る限り、和歌山の青岸渡寺、滋賀の三井寺、京都の聖護院、吉野の東南院、
桜本坊、竹林院等修験道のお寺の奥駈修行のサポート全部に携わってこられました。
特に青岸渡寺の熊野修験団の、30年近くにわたって毎年行われる奥駈修行のすべてを山上さんはサ
ポートしてきたのです。

画像は熊野修験団が奥千本の金峰神社に到着したとき、途中の補給所でサポートをし続けてきた山
上さんが初めて山伏装束に着替えて修験団に加わり、熊野修験の団旗をかかげて先頭をきって吉野
の町中に入っていくところです。
山上さんが目立つ立ち位置にいる数少ない場面です。


吉野の町中を行く熊野修験団


大峯奥駈修行に赴いたお寺のすべての行者さんたちに山上さんの訃報を知って欲しかったのですが、
新型コロナ過の中、密やかに行われた葬儀のため、それが叶わないことが残念で仕方無かったです。

2015年に93歳で死去された政治家の”しおじい”の愛称で親しまれた塩川正十郎さんは私の所属する
山グループ、新宮山彦ぐるーぷにとっては恩人とでも言える人です。

1988年~1990年にかけて一千数百万円の浄財を集め、玉岡憲明リーダーのもと新宮山彦ぐるーぷの
総勢が展開した大峯の行仙宿山小屋建設の運動に多大なる応援をしてくださったのが塩川さんでした。
当時、宇野首相の女性問題スキャンダルでテンヤワンヤの騒ぎにあった政局の中、自民党官房長官
という超多忙な立場の状況下、玉岡さんに励ましやアドバイスの毛筆の手紙をたびたび送ってこられ、
営林署や熊野の市町村などとの折衝にも便宜を計ってくださったことを私たち新宮山彦ぐるーぷの者た
ちは決して忘れることができません。
2011年10月にこの塩川さんの卒寿(90歳)のお祝い会を吉野の新宮山彦ぐるーぷが竹林院で開催し
たときに司会をしたのが山上さんでした。




このときの山上さんの写真が少なく、これしかないのです。


左端の堂田さんは山彦のサポートなどで大峯にやってきたときに「堂田君!よく来てくれたね」と呼ば
れるたびに山上さんの暖かさを感じていたそうですが、訃報を知らせたところ、「もう一度お会いしたか
ったです」と悲しみの返事をくれました。
塩川さんとの間にいる長田正さん、久美子さん夫妻は相次いでこの世を去っておられます。
山上さんよりずっとお若かったのに。


熊野修験団のサポート隊の一人である柴田雅和さんは関東からジープで駆けつけました。
穏やかで上品でおしゃれな山上さんご夫妻を心より敬愛している男でして、電話で訃報を伝えたところ、
しばらく絶句してました。


この祝賀会の時、私が小田原の修験道寺・大乗院の役淳光さんから紹介された神田さんをお連れし、
彼女が踊りを披露して座を盛り上げてくれたのですが、
彼女が山彦ぐるーぷと接触したのは山上さんたちが大乗院の節分会に訪れたとき、彼女から「森脇さ
んが所属している山グループの方たちですよね」と山上さんに声を掛けたことからでした。


これが縁で彼女をこのお祝い会にお連れすることになったのですが、彼女は熊野修験再興25周年祝
賀会(那智・勝浦温泉)のときも来てくれたのです。


このとき彼女が祝宴前に有志たちを募って歌に合わせて踊るパフォーマンスを急ごしらえで練習して
披露したのですが、これが大変喜ばれたのです。

動画は下記を。
https://youtu.be/PaFdC5FcfNM


そして2015年11月の新宮山彦ぐるーぷ創立40周年祝賀会(於いて勝浦温泉)のときには山上さんの
リクエストにより、急遽舞台上で打ち合わせをやり、再び神田さんの音頭取りでダンスをやったのです。






この時も歌は山上さんが歌ってくれました。

動画は下記を。
https://youtu.be/LIEjs4ijy5k  

山上さんの資質で忘れられないのがその人間的暖かさです。
山上さんが亡くなられた直後にくださった熊野修験の先達の花井淳也さんのメールに下記のように記
されていました。

ご高齢なのはもちろん分かっていましたが、昨年の奥駈でもお出迎えくださっていたし、それも単にお
出迎えというよりハグして
くださる温かさで、本当にこのように多くの方に愛情を注いでくださる方、また
みんなにも愛された方も少ないのでは、と思います。
お書きの通り、これが最後かもしれない、という
思いは薄々はあっ
たのですが、本当だと思いたくはなかったですね。

悲しい誤解から新宮山彦ぐるーぷから去っていった前川勝巳さんのことをいつも気にかけられ、前川さ
んが新宮市の神倉神社が鎮座する山の中で転落死するという不慮の事故で亡くなられたとき、松本良
さんの知らせで知った私とカツラさんが新宮市に駆けつけると、良さんと一緒に転落事故現場まで案内
してくださり、葬式に行けなかったカツラさんと私のために山上さん夫妻と松本良さん夫妻が追悼会を一
緒してくださったことがとても有り難かったです。
h



人との交流を大切にされ、紀州松煙工房を経営する堀池雅夫さんの大塔村の山奥の四阿屋での蛍を
見る宴会にはいつも山上さん(時には奥様も)参加され、楽しいひとときを過ごさせてもらったものでした。



左端は今は亡き、絵本作家の松下千恵さん、その隣は私の妹分のカツラさん、隣は関東からやってき
たS.マホさん(東大出の才媛なのですが、ノーテンキな人柄が皆に親しまれている)、その隣は今はカ
ナダのバンクーバーにすむO.ミホさん


残念なことに山上さんが写っている写真は私のパソコンの一部データーが消えてしまったために過去の
ホームページ上に載せたのしか残って無く、それを掲載します。


清楚で品のよい奥様は若い女性の間でも崇拝の的でした。
私は熊野のマドンナと密かに名付けております。


左端は松煙工房のオーナーの堀池さん、隣が私のホームページではお馴染みのI.リエさん、右端は
修験道のマスコットガールと私が呼ぶマスミさん。




2005年のときは熊野に在住していたイーデス・ハンソンさんも来られました。


そして山上さんの腹心の娘、私の妹分を自認するカツラさんが30歳半ば過ぎても結婚しないのが山上
さん夫妻、松本良さん夫妻の気がかりごとでしたが、何と彼女が40歳で結婚したときは私たちは歓喜の
声をあげたものでした。






山彦ぐるーぷや熊野修験などの活動で多大なる貢献をしてきている山上さんが表だって顕彰されない
ことに山上さんを愛する仲間たちは心を痛めておりました。
そんなときに熊野修験の高橋康信さんが「山上さんを慰労する集まりをやりたいのだが」と私に相談し
てきたのです。
彼は熊野修験では比較的新しいメンバーで私が先達をやっていた最後のころ(21年ほど前)に奥駈に
参加してきたのですが、初めて青岸渡寺にやってきたとき、サングラスに派手なアロハシャツ、いがぐり
頭のごっつい顔の彼を見た修験団の高木導師は危ない人ではないか、と危惧したくらいのイメージの
人でした。

猪突猛進で言葉遣いも丁寧ではないのですが、同じ寝屋川市に住んでおり、表も裏も無い真っ正直
な性分、そして私と同じ年齢と干支、AB型血液ゆえ私は彼に親しみを覚え、とても好ましく思ってい
ました。
その彼が奥駈に毎回参加することになってからサポートの山上さんに接していくうちにひどく山上さん
を慕う気持ち沸いてきて、仲間内でも「新宮のお父ちゃん」と呼ぶくらい、山上さんを慕っていたのでし
た。
その彼が山上さんご夫妻を寝屋川市まで来てもらって大阪在住の人たちだけでもいいから慰労会を
やりたいと言うのです。
「やろう!やりましょう!よくぞ思い立ってくれた」と私はすぐさま賛成し、そしてこのことを山上さんに
伝えたら、「ありがたいよ。是非、夫婦で寄せてもらうよ」と返事してこられました。
料理屋の手配や宿の手配まですべて高橋さんがやってくれ、意外ときめの細かい配慮ができること
に驚きと頼もしさを感じたものでした。

山上さんの右隣が高橋さん



このときは新宮から山上さんの運転で来られたのですが、帰りは当時、大阪在住だった娘さんが新宮
まで送られたのでした。

そして2012年に熊野修験団が葛城山の修験道の道を踏破したとき、参加しなかった私は、皆さんに
会いたいから是非、大阪で打ち上げをして欲しいとリーダーの花井さんに頼んだら、彼はそれを快諾し
てくれ、大阪心斎橋のビアレストランで実現したのです。

この時に1年前に山上さんの慰労会をやったことを話すと、「なぜ知らせてくれなかったのだ。我々も行
きたかった」と皆さんから言われ、その場で高橋さんと相談してもう一度山上さんご夫妻に寝屋川まで
お出でいただこうということになったのです。

それは翌年の正月に実現しました。


この時は山上さんの希望で古くからの友人である京都山岳会の宮川さんご夫妻も駆けつけてください
ました。


青山さんと。




N.マリコさんと一緒に写っている原田直己さんはお医者さんなのに多忙ななか、来てくださいました。


N.フクコさんと一緒の高橋さんは二度も山上さんが来てくださったのがよほど嬉しかったのでしょう、
この夜は飲み過ぎて最後は完全に酩酊。
山上さんご夫妻を見送れなかったとひどく反省しておりました。


最後はホラ貝の吹奏で締めとしました。
ここの料亭でホラ貝が響きわたるのは前代未聞のことだったでしょうが、苦情は出ませんでした。


翌日、ホテルまで山上さんを見送りに行ったらお孫さん二人が車で迎えに来ておられました。
祖父母を新宮から寝屋川まで送迎してくれたのです。
どちらもイケメンの若者たちでした。


下記はもうだいぶ以前に山上さん宅に泊めてもらったときに壁に飾ってあった写真を撮らせてもらった
ものです。
息子さん、娘さん、そして大勢の孫たちに囲まれて、絵に描いたような幸せなご一家の雰囲気に魅了
されました。


ただ、悲しいことに二度にわたっての山上さんご夫妻の慰労会を設定してくれた高橋康信さんは、これ
から4年後の2017年に病気のために亡くなりました。
このときも山上さんをはじめ熊野修験の人たちが寝屋川市に駆けつけてくれましたが、とくに出棺で車
が出発するとき、ホラ貝で送りホラを吹いてくれた花井さんの姿が印象深かったです。
何か用事があると「あんね」と電話してくる高橋さんは、松本良さんが私の兄貴分で、カツラさんが私の
妹分としたら、私にとって弟分のような存在でした。
彼が亡くなってから前の方で載せた山伏装束の写真を私のデスクの上の棚に飾っています。
きっとあの世で「新宮のお父ちゃん!やっと来てくれたね」と言いながら山上さんを迎えられたことでし
ょう。

2019年、カツラさんに誘われてカツラさんの娘れいちゃんと3人で新宮の山上さん宅にお邪魔し、一泊
させてもらって楽しい交流を果たしたのですが、これが山上皓一郎さんにお会いする最後となりました。


カツラさんの娘れいちゃんと遊ぶ山上さんのYou Tube動画をご覧ください。

https://youtu.be/D47bELswz6k

そして2020年12月17日、仕事の顧客先でカツラさんからの電話で山上さんの訃報を聞いたのです。
亡くなられたのは2日前の15日。
17日が告別式だそうですが、家族だけの密葬をされるとのこと。
あれだけみんなに慕われた山上さんの葬儀に誰も参列できないこと、そのことがとても残念でしたが、
それはいつかコロナ過が収束したときに有志で追悼会を開けばよい、という気持ちになり、少し気持ち
を静めることができました。

山上さんと知り合った当初から心筋梗塞の持病を持っておられることを聞いていたので、登山や奥駈
修行、またはそのサポートでお会いして別れるとき、もしかしたらこれが今生のお別れになるかも知れ
ないという思いで、いつも心の中で密かに別れの挨拶をしてきたものでした。
しかし山上さんが90歳近くになったとき、「心筋梗塞って誤診なのと違いますか?心筋梗塞で90近く
まで生きられないと思いますよ」と言ったところ、「そうかも知れんな」と山上さんは答えられたのです。
でも山上さんはいつも心筋梗塞であることを自覚して死を間近に感じながら生きてこられたゆえ、ひだ
の多い深みのある人間性を身につけられ、それが接する多くの人に強い印象を残したのだと思います。
山上さんが亡くなられる10日前の12月5日、カツラさんは虫でも知らせたのでしょうか、紀州松煙工房
の堀池さん、山の作家の宇江敏勝さん、そして小倉悦子さんを誘って山上さん宅を訪れたのです。
そのときに撮った写真を送ってくれたのが下記のものです。
恐らく山上さんの最後の遺影だろうと思います、


山上皓一郎さん
私は貴方のことを決して忘れることはなく、何かにつけ貴方のことを想い出すことでしょう。
貴方は私の心の中で私の生ある限り、生き続けています。
心よりご冥福をお祈りいたします。

                                        新宮山彦ぐるーぷ 森脇久雄