『十訓抄』の中の話

九条殿こと藤原兼実公がまだ右大将でいらっしゃった頃、讃岐三位藤原季行公が婿としてお迎えして、
いろいろとお世話申し上げていた。
常日頃のこととして、和歌の催しが行われていたが、ある時、藤原清輔朝臣が参上して、ある話のつい
でにこんな話をした。

「先日、顕昭法師が話しておりましたことですが、土佐大将藤原師長公が流罪に処せられました日、陪
従の維成が師長公のお見送りにやって参りました。その時、師長公は維成に、蒼海波という秘曲を御
伝授あそばして、教えおく、この琴の曲のことを、形見と思ってしのんでおくれ。私はあおい海の波に乗
って、流れ去っていく身であるのだからという和歌をお詠みになったということです。この師長公は音楽
だけではなく、和歌にも堪能でいらっしゃったわけです」と、清輔が話をしたところ、ある人が、「ソウガイ
ハという曲名は聞いたことがありませんが。どういう字を書くのですか」とたずねるので、「蒼い、海の、
波、と書きます」と清輔が答えると、「それは青海波のことではありませんか」といって、大声を上げて笑
うのであった。清輔は、「いやいや青海波を知らない人はありますまい。蒼海波はまったく別の曲ですよ」
というのだったが、誰一人として聞き入れなかった。

その後、主人の藤原季行公は、「もしかして、そういう曲があるのかもしれない。専門家に尋ねてみよ
う」といって、兼実公の琵琶の師で、誰それとか申した人に聞いてみた。その者はしばらくためらってい
たので、「本当のことを答えてくれていいのだ」と、しきりに言い促すと、少し間を置いてから、「その曲は
廃絶してしまったものですから、今においては、無いというのに等しいかと思います」と申し上げた。
「それでは、あったんだ」。「それは昔ございました。掻手、片垂、水羽瓶、蒼海波といって、これらはみな
秘曲でしたが、もう伝わっていなかったので、師長公も琴柱のたて方ばかりをお教えになったと聞いて
おります」と申し上げた。
「琴の曲としても、奏法はあったのでしょうか」と、ある人が聞くと、「全部ありました。琵琶の奏法に倣っ
て、作られていましたが、それも今はすべて廃絶してしまっています」お返事したので、周りの人々は何
も言うことができず、笑い声も止まってしまった。一座の人々は、どんなにか悔やみ、恥ずかしく思ったこ
とだろうか。

さて、その後、清輔朝臣がその琵琶の師匠と、二条天皇の御所で行き合われた時、「蒼海波の時には、
大変お世話になりました。生涯忘れがたく存じます」とお礼を言われたということである。
この蒼海波という曲は、琴の「易水曲」という曲の音を、箏の琴の曲に移調してものなのである。
盤渉調の調べである。