私の「大峯奥駈道縦走記」よりの抜粋。
この釈迦ケ岳は、都はおろか吉野や熊野からもはるか遠く離れた辺鄙なところにあるにもかかわら
ず、古来、修験者以外の者にもよく知られていたようで、源平の昔、源義経が鎌倉の追討を逃れて
奥州に落ちていくときに山伏姿に変装するとき、もし途中で他の山伏に出会って山伏問答で葛城、山
上ケ岳、釈迦ケ岳の様子などを聞かれたらどう返事するのだ、と義経が心配するくだりが義経記にの
っているし、江戸時代の上田秋成の紀行文に、大峯詣でしたときに話に聞く釈迦ケ岳や三重の滝ま
でも分け入りたく思ったが一人では心細いのであきらめたと書いてあることが前登志夫氏の吉野紀
行に記されている。
源義経と聞くと心がうずく私などは、このような心配までする義経に、タイムマシンでもあればすっ飛
んでいって教えてあげたいような心情にかられる。
「九郎判官殿、それがしは河内の国は寝屋川の住人、森脇の某と申す者でござるが、大峯のことは
いささか存じそうらえば、御教え申さんと存ずる。左様、山上に立ちたるときに南に見える峰が弥山と
申して‥‥」