○○先生

拝啓
 まず冒頭に、このお手紙をワープロ文で記すご無礼をお許し下さい。私は、ピアノ調律
師という職業に起因すると思われます書痙という持病がありまして、長文の筆記をする
と手のひらが痙攣を起こすため、どなた様にもワープロ文で文書をしたためております。
どうかご了承下さい。
 日頃は娘がいろいろとお世話になっております。おかげさまで大学への推薦入学も決
まりまして、本人も私も一安心している次第ですが、これもすべて○○先生を初めとする
△△女子高校の諸先生方の日頃のご指導のおかげと深く感謝しております。有り難うご
ざいました。
 ただ、親として子供の意志を尊重したためとはいえ、Bコースに在籍していながら四年
制大学を受験しなかったことで先生方のご期待に沿えなかったことが大変心苦しく、申し
訳ないことをしたと思っております。どうかお許し下さい。
 さて、このような先生へのお礼とお詫びの気持ちは本来、卒業までに先生の元へ参上
し、直接に申し上げるべき筋合いのものでしてまた改めてお礼に参りますが、今日、この
お手紙を差し上げるのは別の用件がございまして、時節柄、大変ご多忙の中とは存じま
すが、このお手紙をお読みいただくことでしばらくお時間をとらせてしまうことをお許し下さ
い。
 先日、娘から聞いたのですが、この前に実施された期末試験の世界史の試験中に一
人の生徒が不正な手段を使って受験したことが発覚し、以後の受験を打ち切られて現在
無期停学の状態になっていることを知りました。カンニングのような恥ずべき手段をとった
ことは決して許されることではございませんが、この生徒のおかれている状況を娘の口か
らつぶさに聞き知るに及びましてからは、私はこの生徒に対して深い哀切の念を感じざる
を得ず、まことに差し出がましいことではございますが、こうして先生にお手紙を書きした
ためる次第でございます。
 まず、この生徒は通称準Bコースという進学クラスに属しているそうで、B、準Bという
進学クラスは、少しでも偏差値の高い大学に進学させて世間における当私学の評価を
高めるためのモデルクラスであり、先生方が総力をあげて日夜指導に励んでおられるこ
とは常日頃の娘の学生生活を観察し、その話を聞いてきている私はよく承知しておりま
した。
このような偏差値重視の教育に対する批判も世間には多くありますが、今後ますます
厳しくなっていくと思われる私学経営を成り立たせていかなければならない立場として、
学歴が重視される日本社会において、生徒の父兄がもっとも関心を向ける私学の判断
基準が、偏差値の高い大学への進学率である今の世の中の現状を鑑みますと、偏差
値尊重にウエイトをかける私学の経営方針は当然のことと私は考えております。     
私の娘をふくむ生徒達もそのことはよく認識しており、○○女子高校における三年間、
夏休みも冬休みも無いような高校生活を大きな不満も口にせずに黙々と受け入れてき
た娘とその口から聞き伝わるクラスメートの様子を知るとき、B、準Bの生徒らは十分に
とは言えなくとも先生方の熱い思いに応えようとそれなりに皆、努力してきたことであろ
うと私は推察しております。
 しかし、彼女らの多くは元来からして勉強が好きで頑張っているのではなく、この豊か
な日本に生を受け、その繁栄を少しでも多く享受するためには高学歴、すなわち高偏差
値の大学を出なければならないという漠然とした事実を認識し、それを願う親の希望に
沿いたい、先生の期待に沿いたいという義務感に近いような気持ちから黙々と頑張って
きているのではないかという思いを私は常々抱き続けておりまして、それは、娘が二つ
の短大の推薦入試を受けた直後に見せた心情の吐露を見たときに深く確信するにいた
ったのです。
そのとき「この二つの推薦入試が駄目だったとき、春の一般入試に向かって私はこれ
以上努力していく気力がもう無い」と娘は私に訴えました。そして最初の合否が判明す
る武庫川女子短大の合格の通知を見たときに娘が声をあげて泣いたとき、私はホッと
する気持ちと同時にまだ年端もいかぬ若者達にこのような重圧を学歴社会は強いてい
るのかと暗澹たる気持ちにさせられたものでした。それでも娘のように行く大学が決まっ
た子はまだ救われますが、その後、推薦入学にあずかれなかった学友たちの話を次か
ら次へと聞くと、彼女たちは今どんな気持ちで春の一般入試を待ち受けているのだろう
と切ない思いでした。
 私は、人間は、人間として平等に扱われるべきだが、人間個々の資質としては生まれ
つき平等であるとは思っておりません。容貌の美醜、知能の優劣、感受性の鋭敏さ鈍感
さ、心情の暖かさ、冷たさ、どれもが遺伝的要素が濃いものばかりで、本人の努力で随分
と変化していくこともありますが、生まれたてのスタートラインにたった時点ではかなりの
差が生じているものです。それに育った環境的要素なども加味しますと、本人の努力に
よってそれらの差が大きく縮められると信じるのはあまりにも楽観的考え方と思っており
ます。努力できるということ自体が、本人の責任を問えない一つの遺伝的、環境的にも
たらされた資質ではないでしょうか。ですから同じ努力しても大きな成果を得る者もあれ
ば、そうでない者がでてくることは当然のことだと思うのです。
 このように人間には生まれつき資質に様々な差異があるにもかかわらず、学歴社会で
ある日本では、知能の優劣が大きく有利に働くわけですから、多くの親たちは我が子の
能力の限界を無視してでも知能を磨くことを期待し、要求することになり、それが子供た
ちに大きな負担となってくるのではないでしょうか。知能に優れた子はそれなりに親や
先生の期待に応えられる成果をあげるからまだ救われますが、知能に恵まれなかった
子は同じように努力しているつもりでも成果をあげられず、その子は報われない思いと、
親にも失望させたという自責の念に深く傷つき、追いつめられた気持ちになるのはこの
年頃の子たちでしたらごく容易に想像できます。
 そしてくだんの生徒のことなのですが、娘から聞きましたところでは、彼女も推薦入学
に漏れたそうでして、しかも普段の成績も決して芳しくなく、特に世界史などは過去のテ
ストの成績がかなり悪いので、今回、よほど良い成績をとらないことには単位がとれない
ような状況下にあるそうで、世界史で短期間に急激な力を身につけることは容易でなく、
本番の大学一般入試を控えて学期末の試験のための勉強をする時間も心の余裕もな
い状況下で、大学進学どころか高校卒業も危ないのではないかという恐怖に悩まされな
がら思いあまって今回のような振る舞いに及んだに違いないと娘は話してくれました。
 「その追いつめられた気持ちが私には痛いほどよく解る」と申します娘が、やったことは
良くないことなのだから、それなりにつぐないをしなければならないけれど、それが期末
試験も受けられず、必然的に卒業できないような事態になるのはあまりにも厳しすぎる
し可哀想で見ていられないと私に訴えますのを聞きますと、私もその生徒への学校側の
処分の行方に強い関心を抱かざるを得ません。
 これらの話はすべて娘の話だけを聞いて記したことですから、もっと違った状況下に事
態はなっているのかも知れませんが、もし事態の推移が娘の話のとおりでありましたら
私には見るに忍びないものがあり、たいへん僭越ではございますがお願いがございます。
 その生徒のやった不祥事へのけじめは何らかの処分できちっとなさるべきだと思います
が、卒業に関してはどうか今一度、その生徒に機会が与えられるよう、○○先生から学校
当局にお働きをかけてもらえないでしょうか。何と言っても彼女は未成年ですし、現在、い
かに苦しんでいることかを想像しますと、不正行為への償いは十分しているように思われ
ます。その後の大学進学の可否についてはこれはもう彼女の今までの努力の結果が出
ることであり、それがどのような結果であろうと彼女が自分で責任を持たなければならな
いことですが、そこへいたる道を閉ざすようなことだけは是非避けていただきたいと願っ
ております。
 娘とその友人たちが、その生徒への寛大な処分を願う嘆願を学校当局にしようという動
きを察知しましたので、その前に娘の担任である○○先生に、一父兄としてお願い申しあ
げるのが筋と思いましてこのようなお手紙を差し上げました。ご無礼の段は平にお許し下
さい。                        敬具

   平成9年1月30日                                                             森脇 久雄