ところが断線率は「メフィスト」にくらべてかなり低くなりますが、ラベルの「夜のガスパール」はその曲相
の豪華絢爛、怪しい魅力、そして実に見栄えのよい演奏スタイルゆえ、ピアニストの間で非常に人気が
高く、頻繁に演奏されるのです。特にこの曲集の最後の曲「スカルボ」が非常に危険な要素を持ってお
り、断線はこの「スカルボ」の最後の方でいくつかの和音を機関銃のように打鍵する箇所に集中して起
きるのです。
「夜のガスパール」が始まると、私はもう舞台そでの暗い空間を行ったり来たりしながら、演奏が無事
に終わることを祈ります。演奏の出来映えが素晴らしからんことを祈るのではなく、とにかく断線せずに
持ちこたえてくれ!少々狂っても良いから断線だけは‥‥ああ、そんなに強く打鍵しないで!調律師の
ことも考えてくれ!と祈り願い続けるのです。そばにはいつでも舞台に飛び出せるように弦張り替え用
の工具と予備のミュージックワイヤーを用意してあります。
やがて終曲「スカルボ」が始まりますと、いたたまれなくなった私は、もうカーテンのすぐ境目、演奏す
るピアニストを真後ろから見るところまで行って立ちつくし、「弦よ、切れるな!切れるな!」と呪文をつ
ぶやくように心の中で叫び続けるのです。舞台の装置や仕込みを担当するホールの係員達も事情を良
く知っておりますので、固唾を呑んで私の肩越しから覗いています。
そしていよいよ問題の連打箇所が近づいてくるともう極度の緊張のあまり、般若心経を小声でぶつぶ
つと唱え続け、神仏の加護を祈る有様になります。いや、大げさに言っているのではなく、本当に般若
心経を唱えてしまうのです。
ピアノの弦が切れる音はホールに響きわたるような大きなものでは無いのですが、そのバチッと切れ
る音は演奏中の音の洪水の中でもはっきりと聞き取れるほどに異質でショッキングなもので、本当に
心臓に悪いんです。
もし弦が切れたら、切れた箇所にもよりますが、直ちに演奏を中断させて、突然のアクシデントに興奮
したピアニストやいぶかしげにざわつく聴衆の前で弦を張り替える作業をしなければなりません。ギター
やバイオリンの弦のように柔らかいものではない、刃物のような強靱さをもつミュージックワイヤーの
張替はどんなに慣れていても神経を集中する作業で、このような異様な雰囲気で行うには相当の沈着
さを必要とします。
ですから、もう連打が始まると私の呼吸は完全に止まり、体は硬直したようにただひたすら嵐の過ぎ
去るのを待つ感じになっています。そして無事通過してすぐに最後の終止符が打たれてピアニストの
両手がそうっと鍵盤から離れて立ち上がり、万雷の拍手が鳴り響きだしたときの私の深い安堵感と
いうものは形容のしようがないくらいのものがあるわけです。
※「ピアノ調律師の雑話①」より抜粋
http://hmpiano.net/piano_tuner_zatsuki_1.html