年輩女性との一期一会 恩師と50年ぶりに再会した幼なじみのこと。 2024.06.27
次は是非年配の女性との爽やかな一期一会を経験してください、と怪人百面相さんからメールで勧めら
れました。
そこで私は 「談話室」に載せようと思っていろいろ記述しているうちに量がかなり大きなものとなり、画像
も3枚以上となったので「サロン便り」に載せることにしました。
尾﨑恵子先生は私が卒園した舞鶴幼稚園(西南学院舞鶴幼稚園)の先生で、後に西南学院大学児童
教育科の教授を勤められた方です。
教育者としてだけでなく人間的に素晴らしいお人柄で多くの卒業生が慕っており、それについては下記
の卒業生の一人が記したブログの記事をご覧になってください。
初めて見つけたとき、先生が亡くなられた直後だけに涙無しには見られませんでした。
https://tulip-green.blog.jp/
私は舞鶴幼稚園を卒園したあとも、同じ敷地内にあった鳥飼キリスト教会に通ったので、そこのオルガニ
ストを勤められていた尾﨑先生とはその後、高校卒業して福岡を離れるまでずっと身近に接しておりました。
そし40代、50代、60代といい歳になっても福岡に行くときは必ず、仲の良かった同じ卒園生たちを誘って
先生と会食をし続けたのです。
左から2人目の女性は幼稚園ではなく、西南学院大学児童教育科での尾﨑先生の教え子で、同じ寝屋
川市に住むことから先生の紹介で知り合ったのです。
2016年9月 尾﨑先生が亡くなられる1年半前です。当時先生は91歳でした。
前置きが長くなりました。
2013年に、翌年に迎えることになる舞鶴幼稚園100周年のことで尾崎先生と電話のやりとりをしている
とき、「そう言えば、みどりちゃんが今芦屋に住んどうとよ」と言われます。
幼稚園と中学校が一緒で一つ年下だったみどりさんとはキリスト教会で仲良くしていた間柄だったので
すが、彼女が高1のときから離ればなれとなり、以来、二度と彼女に会うこともないのだろうなと、ときお
り懐かしんでいたその女性が芦屋に住んでいるというのですから私は即座に連絡先を尋ねました。
教えてもらった携帯電話に胸がドキドキする思いで架けたら、「ひさおちゃん?うわっ!すっかり大人の
声になっている」と言うのです。
大人も何も、老境に入っている私の声変わりしたことに言及する、少年少女時代のときの感覚のままで
応えてくる彼女に感動しました。
しかし彼女が遠くに引っ越ししていったのは私が高2のときでしたから声変わりしているはずなのに、声
変わり前のときの私のイメージしか覚えていないのでしょうね。
会いましょう、ということになり、私は修猷館高校の当時87歳だった大先輩が夙川駅近くの公民館でピア
ノを弾くことを話し、一緒に聞きに行き、そのあと食事をしませんか、と誘ったところ、彼女は承知してくれ
ました。
そして2013年11月17日、私たちは西宮市夙川で再会したのです。50年ぶりのことです。
私は早めに夙川公民館に行ったところ、エントランス中の待合室に壁に向かってたたずんでいる女性が
おり、ほっそりとしたその姿からすぐに彼女と気がつきました。
私の近づく気配を察して彼女は私の方を向き、まじまじと眺めるので「お久しぶりです」と声を掛けると、
「ひさおちゃん、面影が残っている!」と言うのです。
ひさおちゃん呼ばわりに気恥ずかしさを感じましたが、私も合わせなければと「みどりちゃんも面影が残っ
ていますし、少女時代の雰囲気のままですよ」と言いました。
これはお世辞ではなく、城南中学校で一緒だったとき、スラッとしたスタイルのいい彼女が運動会の徒競
走で走る姿はかっこよかったのですが、そのスタイルと風貌が少女時代のイメージをそのまま残して歳を
重ねた気品ある淑女の姿を見いだし、感銘を受けたのです。
演奏会中、私は隣に座る彼女のことが常に意識され、音楽に集中したとは言えない状態でした。
コンサートが終わったあと、先輩に誘われ10人近くの、いずれも近畿修猷会の人たちと喫茶店に行き談
笑するのですが、並んだテーブルのところには座れなかったので少し離れた席に私とみどりさんは座った
のです。
私たちは皆さんの会話にはほとんど加われなかったのですが、後日、先輩たちから「あのご婦人は誰?」
と尋ねられたものでした。
先輩たちと別れたあと、綺麗な店ではないけれど、と彼女が案内してくれたのは夙川駅の正面のダイエ
ービルの地下にある居酒屋でした。
開店したばかりなので客はおらず、女将らしき人がみどりさんを見るとパッと顔を輝かせ、仕切りのある
半個室に案内し、「どうぞ、ゆっくりしていってくださいね」と言うのです。
みどりさんとの話で解ったのですが、彼女の娘夫婦がこの夙川駅近くでイタリアンの店を経営している
こと、後に夙川に住む友人女性にこの店の名を言ったところ、高級志向の有名な店です、と教えてくれ
たのですが、みどりさんがそこの経営者夫婦の母親であることをここの女将も知っているからなのでし
ょうね。
積もる話に華が咲いてと言いますが、まさに私たちの会話はそれでした。
みどりさんの母親は色々事情があってみどりさんと二人の姉を連れて離婚したのです。
そして親子4人は私が住んでいた公団住宅に住居をさだめたのです。
みどりさんの旧宅は百道浜に近い大きな邸宅が並ぶところにあり、母親が熱心なクリスチャンだったた
め、そこの旧宅で教会の集まりがよくあり、私も何度か訪れていました。
そのころ私は中学生でしたが、あんな立派なお家から3Kの狭い公団住宅に移るとはと胸の痛む思い
でした。
みどりさんは淡々とした表情でそのころのことを話すのですが、一つだけ悲しかったのは姉たち二人は
福岡女学院に行けたのに私は公立の城南中にしか行けず、あの憧れの制服が着られなかったことと
言います。
福岡女学院はお嬢さん学校としても有名ですが、赤の刺繍入りにスカーフと胸には錨のマークが縫い
込まれている制服は女子学生たちの憧れでもあったのです。
京都の平安女学院と共にもっとも古い歴史をもつセーラー服のようです。
私の父はみどりさん一家に深く同情し、決して裕福な身分でもないのに、よくみどりさん一家を家に招い
て会食をしていました。
父はみどりさん三姉妹がお気に入りだったようで、「あの三姉妹はいつ出会っても、たった今、風呂から
上がってきました、という感じの清潔感を漂わせている」と言った言葉を今もよく覚えています。
みどりさんはその会食のことをよく覚えていて、私の母が作る日本料理のときに父が日本料理の作法
を教えてくれたことがとても印象に残っていると話します。
みどりさんは私の父をとても尊敬してくれたらしく、私たちの父ももりわきさんのお父様みたいな人だった
らよかったのに、と母親に言ったらしく、母親から私の母にそのことが伝わったことを覚えています。
娘を一人設けてから離婚したことも教えてくれたのですが、詳しい事情は聞いていません。
ただ、そのときに母親が全面的に支持してくれたことと尾﨑先生が親身になって電話で相談に乗ってく
れたことを話します。
尾﨑先生には姉たちにも話せないような悩み事もすべて相談していたそうです。
尾﨑先生は画家としてもプロ並みの技量を持っておられ、先生の数多い絵柄で一番好きなのがキリスト
誕生を知って東方からやってくる3人の博士を題材にした絵であることに私たちは一致し、彼女もその絵
がデザインされたテレホンカードを大事に持っているとのことでした。
先生のハガキデザイン
先生が亡くなられたとき、彼女は闘病中にもかかわらず、福岡に行き、告別式に参列したことを別の人
から聞きました。
どんなに悲しかったことでしょう。
尾﨑先生は生涯クリスチャンとして生き、クリスチャンとして亡くなられました。
「みどりちゃんは今もキリスト教の信仰をもっている?」と尋ねると微笑みを浮かべながら首を横にふります。
私ももそうであることを伝え、尾﨑先生が知ったら悲しむかな、と言うと彼女は「おおらかな先生はきっと
許してくれると思う」と答えます。
私もそうだろうなと思いました。
彼女は日本酒も好きだそうで私たちは結構、酒杯を重ねたのですが、彼女は強いようでまったく酔う様
子は見られませんでした。
お開きにしたのは午後9時で、5時間もこの店に居続けたのです。
お勘定をするときにみどりさんが「私たち幼な馴染みで、今日50年ぶりに再会したのよ」と女将に告げた
ら「ええっ!」と女将も居合わせた店員さんたちも驚き、私たちをまじまじと見つめるのです。
みどりさんの住むマンションは夙川駅からタクシーで10分ほどの距離とのことで、彼女は駅の改札口まで
見送ってくれます。
美味しい新鮮な魚を出す店を知っているから今度はそこに案内するね、と彼女が言うのを聞きながら私
たちは別れたのですが、それから11年、私たちは一度も会うことは無かったのです。
私たちが再会した直後にみどりさんは乳がん、それも軽いステージではない病に罹り、闘病生活に入った
のです。
放射線療法や抗がん剤治療などの辛く苦しい闘病生活で精神的にも落ち込んだらしく、やがて電話しても
メールを送っても返事を返してくれなくなりました。
まだ生きているのだろうか、と思って何度か電話していたら、3年前に彼女は電話口に出てきて元気であ
ることは教えてくれたのですが、会うことは拒否されました。
ガンの手術をして8年も生き延びたのならもう大丈夫なのではと思って、私もそれ以上は彼女に会うことを
願いませんでした。
以上が私の”年輩の女性との爽やかな一期一会”の話です。