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とりげん 記 2024.11.26
妹尾君へ
まったく、11月後半の快晴の穏やかな日は北九州地方は天国のようですね!
近畿以北のような「きりっと真紅の紅葉」にはならないけれど十分抜楽しめ
ますね。
しかし基山にこんなに立派な行基僧正が開いたお寺があるとは知りませんで
したよ!
今朝もありがとう!!!
2024.11.25の下記の記事がきっかけで元寇談義が始まりました。
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白水 記 2024.11.26
基山にこんな古ーいお寺があるって知らんかった。
紅葉真っ盛りか。
基山は小学校で草スキーにいったなあ。
つつじがきれいに咲いてた。
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妹尾 記 2024.11.26
とりげんくんへ
>しかし基山にこんなに立派な行基層状が開いたお寺があるとは知りませんで
>したよ!
我が家から車で1時間弱程の処にある、ツツジが美しいお寺です。
白村江の敗戦以来、太宰府の防衛は国の喫緊の事項だったのは
急遽拵えた「水城」や「大野城」そして「基肄城」などから
容易に想像できますね?
大興善寺もそのエリア内にある事から、今から1300年前に建立の
訳があったのかと勝手に思っていますが・・・
白水君へ 2024.11.26
>基山は小学校で草スキーにいったなあ。
>つつじがきれいに咲いてた。
そうだよ、草スキーしに出掛けたあそこの近くの名刹だよ。
23000坪のツツジ園が此処の「売り」だからね。
きっと満開時期に行って今尚記憶に鮮明?
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とりげん 記 2024.11.26
妹尾君へ
当時は朝鮮と中国が、
・ 博多湾から上陸する
・ 有明海から上陸する
の「どっちからだろう」と考えていたと言います。きっと「防衛祈願」の意味も
あって造営されたお寺なんでしょうなあ・・・
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舩津 記 2024.11.26
とりげんくんへ
有明海を目指したのは知りませんでした。
元寇に関し歴史的に脚光を浴びているのは佐賀県と長崎県県界にある伊万里湾です。弘安の役(1281年)
では元・高麗水軍が湾入り口に位置する高島に集結しました。ところが彼の水軍はいわゆる神風によって
一夜のうちに壊滅したのは、日本人なら小学生の頃から知る、輝ける日本史の一ページです。
でもどうして伊万里湾に集結したのでしょうかね?あそこから唐津まで陸路は山越えです。佐賀平野に出て
背後から太宰府を攻めるなんて考えたのでしょうか?そのルートも武雄市までは山越えです。佐賀平野で
有明海経由の水軍と合流し、背後から太宰府を攻めようと意図した?いやいやそんなことしてたら鎌倉軍鎮
西奉行や太宰府にバレバレですよ。彼らがそんなに詳しく九州の地形、軍や豪族の所在を把握していたとは
思えません。神風は彼らにとって運が無かったの一言ですが、作戦上首をかしげます。
福岡市近郊には元寇防塁跡が幾つも残っています。私たちに一番身近なのは西南学院大学敷地内に今も
残るあれです。穐吉君が活躍する糸島半島のゆずり葉に行く途中にも博多湾に面する松林の中に防塁が
よく保存されています。写真はその、今津の元寇防塁です。
余談ですがちょうど今NHK「光る君へ」で刀伊入寇があるようですが、あれは対馬、壱岐、能古島などで略奪
殺戮を働いたようですが、あれは正規軍ではなく、海賊だそうですね。
大興善寺は神仏混合の聖地ですが、一番有名なのはツツジです。たしか京都のリンダと行ったような記憶が
あります。二番目に有名なのが紅葉。三番目に有名なのが縁結びの聖地です。契山、契園というのが境内に
あります。私も若い頃度々利用しました。
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とりげん 記 2024.11.26
舩津君へ
ええ、そういう説をブラタモリで紹介していました。
大陸軍が目指すはまずは「大宰府」でしょうからね!ここを抑えれば九州全体を
睨めるし、関門海峡にも出られるし、別府湾から瀬戸内海にも出られますから。
しかし有明海に何百層もの軍船が押し寄せたら、干潮時にはヘドロの沼にイボリ
込んでどうにもならなくなったでしょう。
フビライが送ってきたのは初回だけでも1200艘の船に兵員25000人と言
うから、上陸さえすれば「鎧袖一触」で勝てると甘く見ていたのでしょうね。
でも壱岐対馬から博多湾に向かえば全然近いからなあ。
やはり連中は陸の民だから海戦の戦略が分からなかったのでしょう。
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舩津 記 2024.11.26
とりげんくんへ
元・高麗水軍は関門海峡を抜け、瀬戸内海に入りさえすれば、さらに深く侵略出来たでしょうが、それは
彼らの乏しい海の知識と操舵技術では困難度が高すぎた訳ですよ。実際門司または下関の高速道路
パーキングエリアで海峡を見下ろせば、それが解ります。潮流の早さ、西流れ東流れの交代。両岸から
矢を射て届くとは思えませんが、彼らには無謀の領域です。あの時代今の京阪神から、関門海峡を通っ
て直接博多湾に来る水路はあったのでしょうか?聞きません。
瀬戸内に入ればあそこは度々海賊が暴れていましたからね。それが出来る海域でした。元軍が瀬戸内
に到達すれば鎌倉幕府は危なかった。北条時宗は過労で死期を早めたと言いますね。
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とりげん 記 2024.11.26
舩津君へ
これは素晴らしい保存状況ですね!
ブラタモリでは「モンゴル軍の騎馬が乗り越えられないような高さに
作られていた」と言っていましたが、成程その様ですね。
馬を押し上げても、この凸凹では馬は歩きにくかったでしょう。
もたもたしていると弓矢の的になるだけでしたでしょうから。
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舩津 記 2024.11.26
とりげんくんへ
写真右手が海です。現在では左右の路面より石を積んだ防塁の方が低くなっていますが、800年の間の
砂の堆積によるものです。当時は間違いなく海辺の砂面より2メートルは高かったと、案内に書いてあり
ました。恩賞をもらうために売り込みを図った竹崎季長の絵巻が、今となっては貴重な歴史資料になりま
した。
ついでによく解ってない方へ重ねて説明:
大興善寺境内の契山、契園とは、若い男女が将来を共にする契を結ぶところと言うことです。
ですから私もそんないいことないかなと思って度々ドライブに誘ったのでしたが、、
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とりげん 記 2024.11.27
舩津君へ
検索してみたところ、鎌倉幕府が防塁を築かせたのは1276年。つまり文永の
役で侍たちは「防塁を築けばモンゴル軍兵や軍馬の上陸を防ぐのに有効だ」と分
かって大急ぎで築いたわけですね。
13世紀の「史上最大の作戦」みたいなものです。
フビライは膨大な領土を手にしたものの、有価貨幣が不足していては経済運営が
出来ないと気付いて、それで「金銀があふれる程産出する日本」をどうしても必
要だと考えて、朝鮮兵を大量に動員して占領作戦を実施したらしい。
考えてみれば1000艘もの船を集結して停泊させる港って博多湾しか考えられ
ないよね。有明海などでは3~6mもの干満差があるから上陸作戦はムリだと分
かっていたのでしょう。
防塁が無かったら日本の歴史は大きく変わっていたかもしれませんね!
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舩津 記 2024.12.01
元寇のことを正しく知りたくなり、といっても手っ取り早いのはウィキペディアですから、その「元寇」と
「元寇防塁」を読んでみました。軽い気持ちでしたが、これが結構な量があり、丸二日かかりました。
覚えている部分を系統的とは行きませんが、紹介します。
フビライが日本侵略を企てた理由は、とりげんくんが言うように日本にあると言われる黄金を求めたの
が発端だったようです。マルコ・ポーロがフビライ・カーンに拝謁したかどうか定かではありませんが、
映画を作ればそういう設定になるでしょう。フビライは二度の日本侵略が面子を潰すほどの敗退であっ
たにもかかわらず、また臣下達の再三の諫言、例えば倭国人は凶暴で獰猛で無知で無礼、国は山ば
かりで農耕は発達していない、渡海しての戦は補給が困難等々にも関わらず、彼が没するまで10度
前後本気で計画していますから、黄金手に入れたかったのでしょうね。加えて吹けば飛ぶような小国
倭が無視を続けることに、フビライ次第に腹が立ってきた様子です。
第一回目1274年の侵攻(文永の役)
このときは修猷館を取り巻くお馴染みの地名が幾つも出てきます。曰く赤坂(現在福岡城址がある
近辺)、百道原、長浜、祖原(山)、姪浜、今津、早良、鳥飼潟、別府等々。現在の福岡市早良区・西区
の海岸寄りを中心に戦闘があったようです。どっぷり郷土史だから長ったらしいウィキ読んだんですよ。
西新という地名は出てきませんが、この地名が付けられたのは名前の通りずっと新しいからです。
赤坂から東、今の天神や中州は昔は海でした。西から鳥飼潟(現大濠公園はこの中に含まれる)、
草香江があり、櫛田神社あたりは冷泉の津でした。住吉神社の前まで入り江が広がっていました。
草香江と冷泉津の間に海に向かって細く伸びた半島があり、これは今日(こんにち)高宮、平尾、福岡
市動植物園、舞鶴に続く丘陵地です。この丘陵が博多湾に向かってもう少し伸びたところに冷泉津を
博多湾から隔てるように東西に長い砂州があり、長浜と呼ばれていました。今日長浜通りにその名が
残っています。
福岡市西半分に元軍(大半は高麗軍)が上陸し、合戦となりました。戦闘は侵攻軍が強かったのは初
めのうちで、相手の戦法を解析した日本勢が後半は優勢になりました。こちらの武士は一騎打ちで挑
もうとしたが侵攻軍の一斉に放つ毒矢に勝負の前に討ち取られたという劣勢は、初期のことだったよう
です。竹崎季長が描かせた絵巻物では、鎌倉方武士が騎兵集団となって馬上から矢を放って侵攻軍
に挑んでいます。文永の役では高麗が作った軍船約900艘で侵攻してきました。兵士30,000~4,000人
運んだということですが、これに加えて馬5,000~10,000頭を運ぶのは大変だったでしょう。
戦闘は元軍優勢に進み、海沿いに橋頭堡を確保した元・高麗軍は夜、いったん船に帰還して一夜を明
かすことにして、兵を休息させるためでしょうかね、翌朝再び陸に上がって侵攻を続ける予定が、その
夜神風が吹いて侵攻軍は壊滅したというのが定説です。しかしこの説は軍事専門家はあり得ないと否
定しています。やっと確保した橋頭堡は死守するものだそうです。そうしたらその夜大風が吹いて軍船
の大半が沈没したらしいです。総大将と作戦参謀は軍法会議で死刑ですよ。船の居た場所が博多湾
内か湾外か古文書に載ってなく、だいたい元史の中で倭国侵攻に関する記載は殆どないのだそうです。
慣れないから船同士をしっかり結んでいたから、かえって激しく破壊されたのかもと、これは第二次侵攻、
弘安の役1284年松浦湾で、沈んだ元の軍船は綱で互いを繋ぎあったのが失敗だったとどこかに書いて
ありました。
時期は10月だそうです。新暦か旧暦か記載がありませんが、侵攻するに適した季節とは言えませんよね。
元側も日本側も遣唐使や商人などが時々往き来してましたから、全く予備知識がなかった訳ではありま
せん。この当時の朝鮮海峡航行は昼間に限られていた、それだけ航海術も未熟だったということです。
それに何故平戸や松浦を目指すこともあったのでしょうか?イミフです。弘安の役の前に急ぎ築いた元寇
防塁、あれがなんと平戸・松浦半島にも造られたんだそうです。二度の大失敗の結果を総括すれば、季節、
気象、潮流などの研究を含めて航海術が稚拙すぎた、それに対して派兵する軍船、人員、軍馬の数が
多すぎ、補給を軽視したということでしょうか? 高麗はフビライから命じられて数千艘の軍船を建造したが、
その結果朝鮮の山から樹木が消えたということです。
弘安の役では伊万里湾の鷹島に集結した元・高麗・南宋合同艦隊が6月か7月に来週した台風に襲われ、
壊滅しました。現在海底調査で貴重な歴史資料が発見されています。
面白いことが書いてありました。第二次世界大戦前の教科書では日本の武士達が如何に侵略軍を撃退し
たかの記載が主流だったそうです。それが第二次世界大戦後の歴史教科書ではGHQの指導があったの
か、自ら忖度してか、日本の武士は大和魂、武勇に長けて勇ましい云々の記載は控え、代わりに自然災
害で侵攻軍が自滅した話に切り替えられたそうです。いや、逆だったかもしれません。神仏に守られた国
日本は決して負けないと不滅神話を作り、神風特攻隊、人間魚雷回天隊を送り出したってことだったかも
しれません。とにかく、時勢によって武勇の御家人集団を褒め称えたり、天の加護のある大八洲になった
り、歴史教科書もいろいろ変わり、私たちは知らずに振り回されていたのかもしれません。
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とりげん 記 2024.12.01
メール拝読。GHQの方針に従って皇国史観を階級闘争史観に切り替えた歴史学者は掃い
て捨てる程いて、いまだにその連中の論調は排除しきれていませんね・・・
なにしろGHQは国際法で禁じられている筈の検閲とか私信の開封検査とか、いう事を聞
かない新聞社の記事内容のチェックとか発行禁止とか、それでも言う事を聞かない人
物は公職追放(ほんとに遠方に飛ばされる)とか、無茶苦茶の限りをやっています。
GHQが自分らで新しい憲法の草案を作って日本に押し付けたこと自体が国際法違反です。
それにお追従する形で従って、大学や役所や報道機関に居場所を確保し、出世を遂げ
た連中もかなり見かけたものですよ。
貴兄のレポートを見て分かるのは、元寇は「船で強硬上陸して相手国を占領するノウ
ハウを知らないフビライの将軍たちが、南宋や高麗の軍勢を指揮して無理やり実行し
て失敗したという事と、当時日本には「我々の日本国を外敵から守る」という国とし
ての一体感があって、西日本の武士たちが必死に知恵を絞って戦ったらしい」という
事ですなあ。
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舩津 記 2024.12.01
第一次侵攻(文永の役、1274年)の際、日本側は何が何だか訳解らないのが本音だったようです。
清少納言が”香炉峰の雪”で得意になったように、大陸から移入した文化を教養として嗜むことには公家、
武士とも競い合ったでしょうが、リアルタイムの国際情勢については無知無関心でした。外交は朝廷が担
当していましたが、どうしてよいか解らずオロオロするばかり、フビライへの親書を出さなかったのもそのせ
いで、フビライからは「お宅のような世界の端っこの小国はご存じないでしょうけれども」と、慰撫するような
親書も届いています。どうしてよい解らなかったのは鎌倉幕府も同様で、訳解らないまま使者を処刑してい
ます。大陸の情勢を知っていたら、もっと慎重になっていたでしょう。
文永の役で4万人弱派兵は、偵察の意味合いがあったようです。侵略者からすると博多に上陸して白兵
戦になったところ、思いの外手強かったので、いったんは引き上げたのでしょうか?そこで神風。
第二次侵攻(弘安の役、1281年新暦8月)は本気の侵略ですよ。高麗発と南宋発2艦隊で兵士15万人は
ノルマンディー上陸作戦と同規模です。半世紀前「史上最大の作戦」という映画がありました。あれを思い
出しながら元寇を想像するとリアルになるでしょう。
文永の役では対馬、壱岐を侵略したのでその報告が朝廷や幕府に伝わり、ために急いで西国の御家人
達が博多にはせ参じる時間があったのでしょう。博多の守護だけで防戦出来るものではなかった。
後世の私たちが詳しく学べるのは竹崎季長に負うところが大きいです。彼は文永の役では29歳。肥後住
御家人でしたが一目散に馳せ参じた。蒙古襲来絵詞に描かれた自画像?では毒矢が飛んでくる中、馬
の頭を低くして敵に突っ込んでいる。馬は既に出血し、まもなく倒れたことでしょう。彼は日本軍大将の制
止を振り切って敵に突入し、元軍の首級を幾つか取って帰陣したとか。後日褒美恩賞の際にはわざわざ
鎌倉まで出かけ、自分のどこそこでの奮闘の記録がない、あそこではこれだけのことをして元軍を蹴散ら
したと上申し、それが認められて首尾良く恩賞を下賜されています。
この勇気と実行力、言うことは言って、貰うべきものは貰う。凄いです。その後長寿を全うしたらしい。
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春口 記 2024.12.01
秋になり涼しくなっていく頃、福岡では北風や北西風が安定して吹くようになります。
風上に向けて風に逆らい切りあがって行く能力を持ってない古代の船にとって朝鮮半島から日本に向けて
出航するのには最適な風の向きになります。
この時代、長距離航海に必要だったものは風向、安全な泊地、水の確保だったと思われます。
ある程度の夜間航海の技はあったようです。
人類が風に逆らって登っていく能力を持つようになるのはティ・クリッパーのような縦帆を手に入れてからです。
勇壮に見える海賊船も、せいぜい風に対して真横くらいにしか航行できませんでした。
縦帆を2枚、組み合わせることにより風の流れで気圧の差を生み出して揚力を生じさせて前に進む・・
飛行機が上昇するのと同じ理屈で「ベルヌーイの定理」というらしいす。
しかし、このままでは船ごと風下に流されるので船底からバラスト&抵抗板をつき出して船の風下に流される力を食い止める
工夫をしました。
朝鮮半島から日本に向け出航するのには秋口は最適な季節といえます。
元軍は多数船団で押し寄せてきました。
ところが元にとって思いがけなかったのは戦う相手が職業軍人だったことです。
兵農分離後の完全な職業軍人ではないにせよ、立派な職業軍人集団です。
モンゴルが圧倒的な騎馬軍団を東から西までアジアの草原を荒らしまわっていたとき、
勇猛果敢な職業軍人の集団を相手に戦う経験はなかったと思います。
思いがけない激しい抵抗を受けて元軍は戦闘のあと船にひき上げます。
元寇防塁の配置からみて能古島の西側、生の松原お沖あいくらいではないかと思います。
能古島の東側は風や波の影響も少なくて錨泊に適しているのですが、陸地に近くて夜襲の危険もあります。
能古島の西側は風や波の影響もかなり受けます。
激しい戦闘から船に戻った元軍の様子はどうだったでしょうか?
血まみれの仲間、鎧、兜、戦闘服、武器・・・・とりあえず船上に運び上げたと思います。
こんなとき船乗りは血生臭い戦闘服などを船内には運び入れません。かならず、外で乾かします。
ここで僕の忘れ得難い体験を話したいと思います。
40年以上も前の夏のおわりがけのころ、僕は仲間三人と壱岐から福岡に向けてヨットで帆走していました。
艇長はベテラン、もう一人も古いヨット仲間、O氏です。
陽は落ちて月も見えない真っ暗闇でした。
でも風は壱岐から福岡の方向に吹いていてセイリングには絶好の風向きでした。
なので、スピンネーカーという帆を張っていました。
メインセールやジブセールはマストなどでしっかり固定するのに対して、スピンネーカーは
3点で支えるためパワーはあるけど、扱いにくい帆です。
「もうすぐ西の浦岬やね。そろそろスピンを降ろさんと行けんね。」
西の浦岬は博多湾の西端に位置して風と波の状況がとても悪い所です。
博多湾から出るときは引き潮、入るときは満ち潮なら、まだいいのですが逆だったら最悪です。
僕とOさんはコーヒーカップ片手に立ち上がり、スピンを降ろす作業に取り掛かりました。
そのときです、いままで快調に後ろから吹いていた風が突然、真ん前から「バーン」と吹いてきたのです。
多少の明りがあれば雲の動き、海面の変化で予知もできるのですが、このときは全く分かりませんでした。
コーヒーカップは吹っ飛び、ヨットはコントロールを失って傾き、転覆の恐れさえあります。
「こらあー、なんばしよっとかあ、しっかりせんかあー‼」
艇長の罵声が飛びます。
「しっかりするのは、そっちやろがー‼」
こっちも言い返します。
無我夢中で船を安定させ、ホットしたときヨットは福岡に背を向けて壱岐の方に向けて真逆に走っていました。
風の向きに合わせて船をトリムすればそうなりますよね。
その時、僕は「文永の役の神風の正体は、これでないだろうか?」
と思いました。
元の兵士が疲れ切って船に戻ったとき、船上は血まみれの重傷者、鎧、兜、牛馬を大切にする民族なので
家畜も船に引き上げていたかもしれません。
船は重心が高く不安定なトップ・ヘビーの状態であったことには違いありません。
このとき、低気圧が壱岐付近にあって、誘うような甘い南風が吹いてきます。
帰路や負けることなど考えもせず、北風に乗って日本に攻め込んできたけど
この季節、南風が吹くことはめったにない。
「この風を逃したら故郷に帰れない!」
そんな恐怖が軍団を包んだ。
暗闇のなか重量物を船内に格納もせずトップ・ヘビーのまま、西の浦の狭い海峡に突っ込んで行ったと思います。
低気圧は発達しながら壱岐方面から福岡方面に移動して甘い南風は冷たく強烈な北風に代わってひしめき合う船団を沈めた。
神風の記載は博多側の資料にあるみたいです。
それが否定されたのは
①台風は季節的におかしい
②京都で野分(台風)が吹いた資料がない
が、理由みたいです。
局地的な低気圧の情報は必要もなかったし、資料もなかった。
今はコンピューターでその時代の潮汐まで再現できるみたいです。
詳しい解析ができるかもしれません。
歴史家さんたちも風が強い日に小舟に乗って西の浦岬で元寇に思いをはせたら
血の通った歴史史感が生じるかもしれません。
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とりげん 記 2024.12.02
なるほど、文永の役は「強硬偵察」だったのですね。抵抗力の測定に来たんだ。
あれから色々WIKIってみたけど、やはり元帝国みたいな大版図を経営するには
軍事力だけでは限界があって、金や銀を使用した「信用できる通貨」を使わな
いとムリだったみたい。
中国国内は金銀も銅もあまり採れないし、銀は西方との交易に欠かせないから
「じゃあ、日本を征服して金銀をもって来よう」となったんだね。
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妹尾 記 2024.12.07
「刀伊の入寇」と「元寇」は向こうサイドから勝手に
倭国征服企んで、上陸&焼き討ち受けたお話だが・・・
百済の要請に応えたは良いが、白村江で大敗喫した(663年)。
百済の役の後、太宰府防衛に本腰挙げた天智天皇の時代(665年)
急ぎ着手の古代山城が大野城と基肄城と間取り持つ水城!
総延長数十キロの防衛線は今尚しっかと往時偲ばせるに充分な当時のハイテク技!
時代は流れて600年後、鎌倉時代に入って弘安の役に間に合わせた防塁は
国家的事業ではなかったのか、ごく一部の防塁跡がかろうじて残されている。
(本腰予算が工面不可だったし、藩に丸投げ。太宰府の重要性も下降の折柄!?)
当時、戦闘に駆り出されて戦った武士の報酬は、相手方戦利土地や金銀の分前が普通。
しかしながら元いうたら相手国元の当て所もなく広いどうしようもない大草原にチーズ位!?
それでも絵巻「蒙古襲来図」に登場の竹崎季長は偉かった、、、
鎌倉まで出向いて訴え続け、作らせた絵巻まで持ち込む念の入れよう。
呆れた幕府も考え抜いた末、特段の褒賞として「肥後国東郷」の地頭に就任させた。
浪速武士的解決の妙、他の国は真似できませんって!
さてこの写真ですが・・・
曇天だったが雲間に陽光!急げ!!!
志賀海神社上空から望んだ南方面
大和朝廷だったらやりそうな国家的規模の大事業・・・それも百済伝来の工法にて!
暫し往時を偲んでみてください!
妹尾
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白水 記 2024.12.07
妹尾君へ
このアングルからの写真ってみたことないね。
やっぱりドローンの威力。
海も砂浜もきれいだ。
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とりげん 記 2024.12.07
妹尾君へ
那の津から大宰府までは「一本道」が整備されていたら市から、元軍はそこを辿って
大宰府占領を目指したんだろうね。
当時の日割りの戦闘記録が残っていないんだろうか?
でも上陸占領作戦を成功させるには防衛軍の3倍の戦力と充分な兵站が必要だという
から、そもそも無理な作戦だったのでしょう。元に動員された高麗軍はやる気があ
る訳ないし・・・
昼間は敵軍の動きが良く見えるから元軍も戦えたけど、夜になると日本兵がどこから
夜襲を仕掛けてくるか分からないし、馬は夜は使い物にならないしで、結局夜間は船
に戻らざるを得ず、橋頭保が作れなかったのではないでしょうか?
元軍は当然西公園を占拠しようとしただろうけど、日本軍はそうはさせじと死守した
んだろうなあ・・・
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舩津 記 2024.12.30
先日所用があって、太宰府の九州国立博物館に行ってきました。その際ついでだから元寇コーナーも
観てきましたが、多くは私たちの談義で既知となっている事柄でした。しかし掲載した博多古地図はこれ
から先も何らかの参考になりそうなので、撮影してきました。二枚あり、一枚には私が追加記入しています。
元寇当時の博多湾の海岸線と、現在の海岸線が比較できます。最新の海岸線はさらに海に向かって
前進しています。それを緑色の線で示しています。香椎宮の沖合は埋め立てられ、アイランドシティーと
名付けられています。それより内側に残された水面は和白干潟と呼ばれ、貴重な魚、海藻、鳥などの自
然が保たれています。松本清張の「点と線」に描かれた香椎海岸はこの和白干潟がなければ全く消滅
するところでした。
博多湾は現在では大型船を通す航路は浚渫されていますが、本来は比較的浅い湾です。それ故元・高
麗軍は対馬海峡を渡ってきた大型艇から上陸用舟艇に乗り換え、上陸を試みたはずです。九国に木製
の碇が再現展示されていました。本体約4.5メートル、爪2本、石を木枠で囲んだ重しなどからなっています。
写真は九国のサイトに出てきます。説明文には”碇”の字に替えて”椗”の字が用いられていました。
古地図に戻ります。入り江が三つ有ります。東から「那の津」。航海を守る住吉神社は那の津に面してい
ます。現在の博多駅、中州は那の津の中。天神は平尾から続く高台の末端、那の津の西のほとりあたり
でしょう。その西にあるのは草香江。現在の大濠公園はその名残です。
その西の入り江の名は残っていませんが、この周囲は湿地で、人の通る足跡が多く残るので百の足の
道ということだったらしいです。西新町はその名のとおり、後世潟が干上がり、集落が出来てからついた
名称でしょうね。
糸島半島に柑子岳(こうしだけ)というのが有ります。標高240メートル。妹尾くんがやる月一腹一杯昼食
会のすぐ傍です。柑子岳(こうしだけ)の頂上は城趾となっているそうで、先日仲間の一人が登りました。
私は春に登ります。ただ城と言うより見張りの要塞のような小規模なもので、それでもこんなところに城
とは、元軍の侵攻を見張るものにほぼ間違い有りません。もっと北端に蒙古山というのが有りますが、
これは標高120メートル程度。これらの山に文永の役当時見張りの城があれば、元・高麗の軍船が次々
に沈没するのが見えたはずです。それこそ、やったぜ、やったぜの大勝ちどきが沸き起こったことでしょう。
これらの山城は元寇防塁と同時に築城開始されたか、或いは後述のように白村江の戦いに負けた後に
造られた防衛陣地だったでしょうね。
(余談)太宰府天満宮の駐車場は市営でしょうが、どでかくて、一日500円です。その領収書が洒落ていて、
太宰府にまつわる古の名歌が詠まれています。私が頂いたのは、”丈夫(ますらお)と思へるわれや 水茎
の水城の上に 涙払はむ 万葉集 大伴旅人”
はて、元軍再来の防衛に水城を急いで作ったんじゃなかったの?と思った私が浅はかでした。水城はそれ
に先立つこと約600年、白村江の戦いに負けてから構築されたものです。
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春口 記 2024.12.31
僕が疑問を持ったのは1回目の元寇(文永の役)での元軍の船の残存数が少なすぎることです。
志賀島をはじめ壱岐、対馬、宗像にも漂着した記録があるみたいですが全体の数に比べると
生き残った船が少な過ぎると思います。
2回目の元寇(弘安の役)では壊滅の様子が分かっています。
鷹島沖で船を縛りあって縛りあって身動き取れない状態のときに台風が直撃して壊滅状態のときに日本
の掃蕩軍が押し寄せて元軍を全滅させています。
ところが文永の役では「夜が明けたら、キレイさっぱり元軍がいなくなっていた」とのこと。
元軍を襲った大風の正体についての僕の考えは先述の通りです。
では、どこで?
これについても西の浦岬付近と書きましたが、もう少し補足しておきます。
「元軍の船は造りがぜい弱で、博多湾と壱岐との間の海域で強風と荒波に逆らえず転覆もしくは岩礁に
乗り上げて全滅した。」
と、言えばそれまでですが、元軍も転覆・座礁を避けるために必死に作業をしたはずです。
では、何をしたか?
帆を降ろす、最悪の時は帆柱を切り倒す。船の重心を下げる。碇を降ろす。
などです。
玄界灘の水深は40~50メートルで比較的浅く、元軍の碇でも対応できたと思います。
碇を降ろして利き出せば船首は風上に向かい、船首で波を切る形になって船は安定します。
ただし、これは強風に流されながらの作業になるので風下側に広い海域が必要です。
文永の役の元軍の壊滅状態をみると、「船を助ける作業も出来なかった状態」
と思えてきます。
博多湾から壱岐の間には、もう一か所、海の難所が存在します。
唐津と小川島、加唐島、松島の間の海峡です。
ここは潮流が速くて瀬も点在するので現在でも大型船の事故が多いところです。
博多湾から壱岐への海路で、ここは危険を冒して通る必要はありません。迂回すればいいだけです。
しかし、西の浦岬は博多湾から玄界灘に出るときには必ず通過する必要があります。
この付近をグーグルマップで最大してみると西側から西の浦岬、小机島、大机島、玄界島、志賀島と並
んでいます。玄界島と志賀島の間の東側半分は浅瀬のため船の通行は出来ません。
小机島の南東には水深50センチメートルくらいの詩維沈み瀬(干潮でも海に隠れている)が存在します。
撤収を決めて故郷へと急いだ元軍の船団の大群は故郷への最短距離である西の浦岬と小机島の間
の幅1キロメートルに満たない狭い海峡に突っ込んで行って身動き取れない状態の時に強烈な逆風に
襲われた・・・
というのが僕の推測です。
歴史ミステリーを考えるのは楽しくもあります。
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舩津 記 2024.12.31
はるさん
とても興味深く拝読いたしました。
はるさんは自分が知り尽くした海域のことだから、想像豊かに歴史検証したくなるのでしょう。羨ましい限りです。
私も日々生活しているこの地で大戦闘があったことを、ついつい調べてしまいました。郷土史とか郷土愛とか。
この(2024年)春、米国人精神科医がつてを頼って来福しました。その際今津元寇史跡に案内しました。
彼らはもちろんそのような世界史の一ページを知る由もなく、興味を持ってくれましたが、私はちょっと自慢の気持ちでした。
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とりげん 記 2025.01.05
仮に10万人の元軍が上陸して西公園とか南公園とか油山を占拠して砦を構築し、
大濠公園辺りを停泊地と湾内の主力船との連絡船停泊地として確保されたら、これ
を撃滅したり追い返したりするのは大変だったでしょうし、出来なかったかもしれ
ません。
鎌倉時代のご先祖さま方に感謝しなければ・・・
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とりげん 記 2025.01.05
皆さんへ
「取引に関する遠隔地決済が短時間に安全確実に出来る」ということは経済発展に
とって実に必要なことで、征服した版図が広くなり過ぎたフビライはそれに大変悩
まされていたそうです。
しかし純度の高い金銀などがあれば購入だろうが賄賂だろうが自由自在に出来たわ
けですからね。傭兵でもサラブレッドでも先物で取り寄せられるわけですから。
で、当時の日本の金山銀山では実に高純度の金銀が産出したそうですから、フビラ
イは是非ともそれを手に入れたかったのでしょう。政策を打つ範囲が断然広がりま
すから。
家康公は武田をつぶしては直ぐに甲州の銀山を押さえ、関ヶ原で勝利すると一週間
後には石見銀山を押さえたらしい(一体どうやって?!)から、有価貨幣が必要だ
とよくわかっていたのでしょう。
中世~近世にかけて日本の銀山は世界中で必要な銀の1/3を産出したという事です。
金はもっと産出されたらしいので、欧州からみれば日本と取引できればかなり割安
に金銀を入手できたのだから、文永・弘安の役以降もかなりしつこく交易を求める
折衝を仕掛けて来たらしいですね。
日本は近世になると北前船が日本中を走り回り、その情報ははみんな大阪に集まっ
たから「遠隔地決済システム」はベネチアよりも進んでいたそうで。それが300
年間も商都大阪を繫栄させ、それが日本の経済・文化的一体感と作り上げ、江戸時
代にあいだに人口もGDPも識字率も二倍以上に成長したという事ですから、それが
明治以降の発展の下地になったのですなあ。
そういう意味でも、金銀貨をフビライに召し上げられなかったことは正解だったの
でしょう。