花井淳也 様
寒中お見舞い申し上げます。
大変ご無沙汰しております。
昨年の5月の奥駈峰入り前に丁寧なメールを頂戴しながら、お礼の返信も差し上げず、大変失礼しました。
実はご子息への心痛のことを知り、何かよきアドバイスはできないものかと色々模索しておりましたら、あっという間に月日が経ってしまったのです。
5月の奥駈は直前に車のラジエーターが壊れて交換修理となったため、サポートに出かけるのを断念しました。
高木導師のこと、いつかはそのような日が来るとは覚悟しておりましたが、糖尿病さえなければまだまだ10年は大丈夫だったでしょうから、本当に残念です。
これからは智英さんをもり立てることに私たちは力を合わせて頑張りたく思います。
ご子息のことですが、貴君および奥様のご心痛は痛いほど、伝わって参りました。
私はピアノ調律師として47年間にわたって一般家庭をまわりながら多くのお子様を見てき、子育てで悩む多くの母親に接してきました。
その経験と私の子育ての上で学び、思ったことをお伝えしたく思います。
まず、最初に申し上げたいのは、人間は遺伝の支配を免れないということです。
怒りっぽいとか、心優しいとか、涙もろいとか、好奇心が強いとか、食べ物の好き嫌いが激しいとか、内省的か外交的か等の様々な性格は育ちによる後天的影響によるものではなく、生まれつきに備わった性分であり、遺伝の要素、つまりDNAによって決まっているのではと私は思うのです。
世の中には争い事の多い一族とか、温和で家庭円満の家族が多い一族とか、裕福な家族が多い一族、音楽や絵画に得意な人を輩出する一族など色々ありますね。これらは皆DNAの影響によって偏りができると私は思うのです。
何故私がこのように遺伝のことを持ち出すかというと、ご子息は貴君、淳也さんと奥様、明美さんの間に生まれたお子さんだと言うことを最初に申し上げたいからです。
つまり私から見れば立派な人格と優れた資質をお持ちのお二人の間に生まれた子が優秀でない訳が無い、と言うことであり、両親の遺伝をちゃんと受け継いでいると言うことなのです。
どういうことかと言うと、ご子息は今はその優秀な面が表に出て来なくても、内に秘めており、いつかきっかけがあったときに目覚めて発揮する可能性が高い確率であるということです。
このことをよく踏まえた上で以後の私の記す、私が出会った色んなケースの子供の育ち方について読んでいただけますでしょうか。
まず、私の顧客の話からさせてもらいます。
Iさんはピアノ教師で彼女と私は同じ年に結婚し、その年から彼女は現在に至るまで私の顧客であり続けております。
裕福な家庭に生まれ、神戸女学院のピアノ科を出た典型的なお嬢さん育ちの女性ですが、大変知的で聡明な人であり、その後の苦難に満ちた子育ての人生を見ていると精神的にも大変強い人です。熱心なカトリック信者であったことも踏まえ、私は彼女のことを細川ガラシャのようと表現したことがあります。
彼女は二人の子供が中学生になるとき、姉は神戸女学院中等科、弟は洛南中学に入学させました。まるで絵に描いたような望ましい子育ての進み方のように見えます。
ところが弟の方が中学生になってからすぐに素行が悪くなり、勉強はしない、洛南中の生徒以外の小学校時代の友人、それも柄の悪い連中と付き合うようになり、タバコは吸う、大柄で腕力もあるのでしょっちゅう暴力沙汰を起こし、バイクを乗り回していつのまにかに暴走族の番長みたいになって、他グループとの対立で相手に大怪我をさせたこともあるという荒れた中学時代を過ごすのです。
中学生ですから運転免許は持っていないので、母親はただただ、事故を起こして人をはねないことのみを祈り続けていました。自賠責も任意保険も入れませんから人をはねて死なせたら巨額の補償をしなければならないのですから、どんなに心痛事だったことでしょう。
高校生になって免許を取るまでこのIさんの心痛は続いたのです。ちなみに彼は洛南中学を退学させられ、公立中学校から公立高校に行きました。
Iさんは私のことを大変信頼してくれ、調律に行ったときは勿論、電話や、ときには喫茶店などで会って悩みごとを逐一私に相談するのですが、私に言えることは優秀なIさんの子供なのだから必ず、いつか目を覚まし、持って生まれた良き資質を発揮する日が来ると思いますよ、という遺伝の法則のことしか言えませんでした。
私がその子に希望を持ったのは中学生のときから同級生仲間の紹介で魚市場でアルバイトをし続けるという持久力を持つことと、高校生になってから暴走グループの、親から疎外されている配下の子をたびたび家に連れてきて「何かご馳走を食べさせてやってくれ」と母親に頼む、その優しさと面倒見の良さに、人の上に立つ素養を持っているのではと思ったからです。
そして彼は高校を卒業してフリーターみたいなことをしていたのですが、急に映画監督になることに魅力を感じ、猛勉強して何と、大阪芸術大学の映像学科に入り、卒業後は某新興宗教など色んな団体や企業のPR映画を作ったりなどの仕事をしながら自主作映画を作り続け、若手監督として通の人達の間では有望株視されて今に至っているのです。
私も彼の処女作を十三のミニシアター第七劇場まで見に行ったのですが、大衆には受けないような内容でありながら、何か深いものを感じさせる映画で彼の人間性の奥行きの広さを感じさせるものでした。彼とは映画館で初めて会ったのですが、長身のなかなかの美丈夫で、母親から私のことを聞いていたのでしょう、丁寧にお礼の挨拶をする風貌に、少年時代のすさんだ生活の陰りはまったく見られませんでした。
今でも経済的には自立できる状態では無いようなのですが、6年前にコマーシャル映画の仕事で知り合った女性が彼の映画に惚れ込み、二人は結婚して今、1歳の子供がいるのです。Iさんの話では奥さんは大阪芸大をトップで卒業した優秀な女性で、テレビのコマーシャル制作の仕事をしていて高収入を得ており、今の二人の生活は奥さんの稼ぎに頼っているそうです。Iさんはよくもこんな美人で有能な女性がうちの息子の嫁になってくれたこと、と大変な喜びを示していました。
二人は川崎市にマンションを買ってそこを本拠地にしているそうですが、Iさん宅に逗留するときはIさんは嫁に家事は一切させず、ただひたすら休養することを強いるそうです。
「私にとって嫁では無く、我が家の聖母マリアであり、観音様なのです」と私に言い切るIさんの言葉に私は何か小説のハッピーエンドストーリーを読むような気分にさせられました。
この息子さんの名前をキーワードで記せばネットで出てきますが、このような内情を知らせましたのでそれは伏せさせてもらいます。
Iさんは息子を最初は灘中に行かせようと塾に行かせて頑張らせたのですが、あまりの勉強量の多さに、Iさんのご主人が「そうまでして灘中に行かせなければならないのか」と抗議したにもかかわらず、自身の方針を変えず、灘中が駄目だったとき、合格した洛南も進学名門校なのに母親の示した大きな失望感が息子の心を傷つけ、彼は自暴自棄に陥ったのではないかと思います。
次はこれも私の永年の顧客の話です。
Yさんの次男は小学生のときから勉強が嫌いで、中学生になっても塾にも行かず、ピアノやギターばかり弾いていて、その学区では一番偏差値の低い高校に入ってからは友人たちとバンドを結成し、やがてはプロの道を進みたいと言い出す始末で、母親を嘆かせてました。
私は夏にその家に調律に行くのですが、ある年に丁度その次男坊が出かけるところに出くわしました。大変なイケメンで愛想がよく、とても好感を抱いたのです。
そしてその次男坊が、バンドの練習をするスタジオのレンタル費用を稼ぐために夏休みは毎日アルバイトに行っていること、スタジオに行くときは自転車の荷台にアンプをくくりつけ、ギターを背負って遠い距離をスタジオまで通うことを聞いて、不安を訴える母親に「無責任なことは言いたくありませんが、少なくとも息子さんはたくましさだけは身につけておられますよ。学友たちが進学で一生懸命になっているときにどこ吹く風とばかり、自分の目指す道を目指して、このクソ暑い夏の日の中を自転車を押してスタジオに通うなんて根性だけは並ではありません。何一つ安定した確実な未来というものが望めない、これからの日本の中で、少なくとも息子さんはどんな状況下でもたくましく生き抜いていくと思いますよ」と言ったのです。
そして「子供が望む道を無理矢理変えさせて、安定した道を目指させたはずなのにそこで挫折してしまったら取り返しのつかない大きな禍根を残します」と言い、「こんな立派なお家にすまわれることから優秀な方々と推察されるYさんご夫妻の間に生まれたお子さんなのですから、きっといつかその能力を発揮する日がくるかも知れないと思われては如何ですか」と遺伝の法則を持ち出したのです。
この次男坊は高校卒業後、組んだバンドでインディーズ系の世界で活動していたのですが、やがてバンドを解散し、1人のアイドル系の女性ボーカリストとデュエットを組んで、鳥取や和歌山や三重などの過疎地のライブハウスなどをどさ回りしながら細々と演奏活動を続けていました。
そして今から4年前に調律に行ったとき、アルバイトで行っていた考古学発掘作業を引き受ける会社で、彼の勤勉な態度と丁寧な発掘作業に目をつけた会社の人が、彼にコンピューターによる地質と階層を調べ、図形にする方法を教えたところ、めきめき実力を発揮し、とうとう正社員になるよう要請されて今はそこの会社で働いているのです。
「森脇さんの励ましの言葉をわらにもすがる思いで聞いていたのが本当に実現しました」、と母親の喜びの言葉を聞いて私はどんなに嬉しく感じたことでしょうか。
思うに、この次男坊は学業はおろそかにしたのでしょうが、音楽活動と稼ぎのよいバイトだったら何でもアタックしていくことで様々なことを学び、集中力を身につけて本来身についている能力が発揮されたのではないでしょうか。
次の話は、私の友人の息子のことです。
これは実名を出しても構わないので記しますが、友人の名は井上哲雄。
福岡市のミッション系の大学、西南学院大学の心理学の教授であり、西南大付属舞鶴幼稚園の園長を現在も勤めています。ちなみに舞鶴幼稚園は私が卒園した幼稚園です。
井上さんとは九州では名門校で通っている福岡県立修猷館高校での同窓生仲間であり、一緒に西南大学の付属キリスト教会に通っていましたので彼は私より一学年先輩でしたが、大変仲が良かったのです。彼が高校時代、教会で知り合い好きになった女性のことで相談を受け、私が橋渡しをやって2人が交際するという、そのようなことまで私は関わってきた間柄です。
その彼が今から20数年前に出張で京都にやってきて会食を共にしたときに、中学生の息子が劇団四季のミュージカル「キャッツ」に熱中し、自分もミュージカルの世界に行きたいという強い希望を抱き、その道を目指そうとしていることを話してくれ、代々学者の家の我が家にはそのような人間がいないし、自分もミュージカルの世界は未知なので大変な不安を抱いていることを話してくれたのです。
その当時から宝塚歌劇のファンだった私はミュージカルの世界がどんなものかを説明し、そして息子さんが希望する道を無理に妨げる弊害をも話したのです。
その後、息子の進む道を哲雄さんは許し、高校卒業したらすぐにでもミュージカルの劇団への入団を希望する息子を東京芸大の声楽科に進ませました。(宝くじよりも難しいと言われる狭き門の東京芸大に入ったことも凄いですが)
そしてある年の井上さんからの年賀状に「息子がミュージカルに出ることになりました」という添え書きと共に19世紀末の軍服姿の若者の写真が印刷されていたのです。
一目見て、私はそれがミュージカル「エリザベート」の皇太子役ルドルフのものであるこが判り、すぐさま、哲雄さんに電話しました。
聞けば、宝塚歌劇以外では初めて日本で公演される東宝ミュージカル「エリザベート」の皇太子役を公募したところ、千数百人の中から当時東京芸大の学生だった息子さんの井上芳雄君が選ばれたのです。
オーストリアで作られたミュージカル「エリザベート」を宝塚歌劇が日本で初演したのは今から20年ほど前ですが、大ヒットし、「ベルサイユのばら」と並ぶ人気演目として宝塚歌劇の各組で何度も上演され、それまで日本ではあまり知られていなかったハプスブルク家の美貌の皇后エリザベートが一躍有名になり、関連の催しや漫画にまでなったくらいのフィーバーがありました。
その東宝ミュージカルの初演に哲雄さんの息子、芳雄さんが選ばれたのですから私が大変興奮してしまうのも無理からぬことでして、エリザベートのこともルドルフ皇太子のことも全然知らない井上さん夫妻は、私から聞かされた話で初めて息子がとんでもない幸運を射当てたことを自覚したのでした。
東京の帝劇で公演が始まるや、脇役でしか過ぎないルドルフ皇太子役なのに甘いマスクとこれまた美しい独特の声で女性観客のハートを鷲づかみにしたようで急激に人気が沸騰し、地下鉄で帝劇に通っていた芳雄君は身長181センチに金髪に染めた甘いマスクなのですから、すぐさま口コミでそれが伝わり、終演後の有楽町駅界隈に大勢のファンが待ち受けるという事態になり、そこはプリンスロードと言われるようになったそうです。
勿論、私も大阪公演のときに見に行きましたが、宝塚歌劇のときは影が薄かったルドルフ皇太子役が芳雄君が演じると、脚本の違いもあるのでしょうが、俄然存在感のある目立ちようでした。
彼は後に同じ東宝ミュージカルの「モーツアルト」の主役にも抜擢されましたが、この芳雄君のモーツアルトは素晴らしく、涙無しでは見られない演技で、このときは大阪公演が初演だったのですがそれを見た後、もう一度見たく、12月の下旬という年も押し迫った時期に東京の帝劇公演まで日帰りで見に行き、その後も再公演のたびに3回も見ました。
彼は今や、ミュージカルのプリンスと言われるくらいの有名人となっており、昨年12月にNHK番組「SWITCHインタビュー達人達(たち) 井上芳雄×高橋大輔」に出演し、週刊誌サンデー毎日の12月25日号の表紙に彼の写真が掲載されました。同誌は解散したスマップの特集も編んでいたのです。
祖父も父親も伯父(哲雄さんの兄で国立熊本大学の教授)も妹(後に宝塚歌劇に入団)も皆、名門の修猷館高校に進学したのに彼だけ私学の高校に行くことに何の反対もせず、食べていける補償も無いミュージカル役者への道を許した父親の哲雄さんは偉かったと思います。
次は私の息子です。
息子の小学校の入学時、イトーキの高級勉強机を奮発しました。
家内は、就学前からヴァイオリンを習わせ、情操を培うために親子劇場に入会して生の劇を見せることに努力し、レニングラードバレエが来日したときは独身時代に一度見ているからと私と息子、娘だけ見に行かせるという教育熱心な母親でしたから学業においても多大な期待を息子に抱いていたと思います。
ところが息子、教雄は学校から帰ってくると勉強机の前に腰掛けるのはいいのですが、あくびばかりして勉強はしません。ちなみにレニングラードバレエの演目は「白鳥の湖」で私と小学生の娘は大感激したのですが、息子はグーグー寝てました。
それでいて、物欲は強く、おもちゃでもお菓子でも、お金で手にはいるものは何でも欲しがります。
2年生、3年生、そして4年生になっても勉強しない息子を見て私は家内に言いました。
「僕も幼い頃は落ちこぼれだったから教雄も僕の遺伝を引いているのだろう。いつか落ちこぼれから脱却できたらいいのだけれど、勉強嫌いのままで成長したときのことも考え、教雄には進学の道以外に、調律師である僕のように手に技術をつけさせる技術職への可能性も考えた方がいい」と。
家内はそれに対して何も反対せず、息子に勉強を強いることも、叱ったりすることもしませんでした。
つまり私たち夫婦は息子に過大な期待をいだくのを断念したのです。
その状態が5年生まで続いたときに、ある状況が息子の気持ちを変えたのです。
校区の中学校が少数の不良グループのせいで大荒れし、その中でミロというあだ名で知られた、今から思うと天才的な頭脳の少年によって教師も父兄もいいようにあしらわれて右往左往する状況だったのです。
その状況を友達から聞いて知った息子はすっかりびびってしまい、その公立中学に行きたくないために私学を目指すようになって自ら塾に行くことを望み、近所の塾に通うようになって、やがて我が家に隣接する同志社香里中学校へ憧れ、そこに入るために猛勉強するのです。
「同志社なんかに入れるわけないやろ」と言う担任の言葉に反発しながら睡眠時間も惜しんで努力したのですが、さすがに同志社は駄目でして、啓光学園(今の常翔学園)に息子は行きました。
しかし同志社に行けなかったのがよほど息子は悔しかったらしく、啓光学園は高等部にそのまま進学できるのに、行く気はなくて関西学院高等部を次の目標にして、入学早々、私たちに浜学園に行かせてくれと頼むのです。
浜学園は授業料が高いのでその当時の私たちの経済力では難しく、教雄は5教科を望んだのですが、英数国の3教科だけにして欲しいと言って教雄もそれを了承して浜学園に通うようになったのです。
3年間、親が健康を心配するほど勉学に励んだ結果、関学の判定はA判定だったのですが、結果は関学は不合格で、二次募集があった上宮高校を受験し、息子はそちらに行きました。質実剛健の上宮高校の校風は息子の性に合っていたようで学校生活には満足していたようです。同学年生に昨年広島カープの優勝に大きく貢献し、引退した黒田投手がおりました。
そして息子の次の目標は慶應義塾大学でした。
駿台予備校に通い、最終的には息子が目指した総合政策、法学部の両方でA判定だったのですが、結果は両方とも不合格、そして一浪して再度アタックしましたがそれも駄目でした。
結局、息子は二次募集の関学の法学部に入学することができましたが、息子の挫折感はかなり大きかったことと思います。
関学法学部では法律ではなく政治学を選び、ここで息子はその後、結婚式にも来てもらうことになった優れた先生に出逢います。この先生のゼミでプラトンの「国家」を徹底して研究し、この先生に出逢え、「国家」を学んだだけでも関学に来た甲斐があったと息子は言いました。
息子の話す「国家」の内容に深く興味を持った私も同書を全部読み、「ソクラテスの弁明」「パイドン」などとは趣が随分違うことへの驚きと、キリスト教的ヒューマニズムの影響を受けていないギリシア哲学の新鮮さを感じたものでした。
息子は関学在学中にバイトで浜学園の英語講師を勤めたのですが、ここでも優れた良き先輩たちに鍛えられ、大変有益な影響を受けました。浜学園の多くの講師たちが大学生なのですが、後輩を指導し、良き相談相手になってやるという伝統があり、教雄も先輩たちに授業だけでなく人生における悩み事にも相談にのってもらい、また頻繁にご馳走になったそうです。
息子もその良き伝統に従って後輩たちを教導し、浜学園の講師の報酬は高額で息子は4年間で400万円は稼いだようですが、それらをすべて綺麗さっぱりと浜学園での付き合いに費やしたようで、それを貯金するなんてさもしい根性では駄目だと豪語しておりました。
関学で息子は仲間たちを見つけてロックバンドを結成したのですが、ヴァイオリンで鍛えた運指が役にたったのか、息子のギターの早弾きは学内で有名になり、息子はヘビメタルの世界に没頭しだしたのです。そして2回生のとき、ミュージッシャンの道に進みたいこと、そのためにアメリカのバークリー音楽院を受けてみたいと言い出したのです。
友人や顧客の母親たちには、本人の希望を無理矢理変えさせる危険性を説いてきた私ですが、我が子となるとさすがに動揺しました。音楽業界で生きてきた私ですから、ロックの世界で食べていくことが如何に困難なことか、また息子のギターの技量とか音楽性などは掃いて捨てるほど世界には充満していることも知っているので、正直なところ反対でした。
でも息子の人生ですし、一人前の大人なのですから、状況は絶望的なくらい厳しいことを話して聞かせ、それでも行くというのならお父さんは反対しない、と言ったのでした。そして私は息子がその道を選んだとき、世間並みの安定した人生はしばらくは味わえないだろう、と覚悟しました。
しかし息子は私の忠告をよく検討したのか、また世の中には自分よりすぐれたギター奏者が大勢いることを知ったのか、いつのまにかその話は立ち消えとなったのです。今から思うと、私の人生で一番、自分の言動に迷ったときでした。
そして就職となるのですが、総合商社を目指した息子は最終面接までいいところまで行くのですが、ことごとく失敗し、今まで弱音を吐いたことの無い息子がさすがに自信喪失ぎみになっているのが見受けられたころ、ふと入った進学塾の募集説明会で、係の職員が教雄を見て教雄だけ別室に連れて行き、別の職員もやってきて「模擬授業をやって欲しい」と言うので、関係代名詞についての解説をやったところ、即座に内定が決まり、是非ともうちに来て欲しいと言われたのです。
しばらく考えさせて欲しいと言った息子ですが、結局その塾に入社することになりました。
息子はそこでめきめきと実力を発揮し、灘中、灘高の英語専任の講師をやりながら、順調に出世コースを上がっていくのですが、同社がやがて事業を拡張し、もうけ主義の兆候が色濃くなったとき、それに疑問を抱いた息子は10年目に仲間と二人で退社し、芦屋市に塾を立ち上げたのです。
二人の幼い子供をかかえながら安定した職場を捨てることに家内や娘たちは反対したのですが、私は息子がよく考えて判断したことであり、息子の嫁も反対しないので一切口出しはしませんでした。
一つには毎日帰宅が深夜になる大手塾の激務のなかで息子はTOEIC930点とったことも大きく関係し、それほどの努力と根性があるのならたとえ独立が失敗してもきっとまた別の生きる道を探すだろうという思いがあったのです。
芦屋の塾は大成功で開塾から募集はすぐに埋まり、繁盛しました。
塾は繁盛したのですが息子は共同経営者との経営理念で根本的に違いがあることが判り、新しい道を模索しました。前の大手塾よりも高収入を得ているのに自分のポリシーに反することは続けたくないという息子の意志は強く、5年目にここを退社し、ここで勤め上げて貯めたお金で2014年、家族を伴って英国のブリストル大学院に1年間の留学をしました。
勿論、このときも家内や娘たちは心配しましたが、わずか5年間で家族4人が1年間英国留学ができる資金を貯めた息子の努力を大変買った私は反対はしませんでした。
そして息子はブリストル大学院でTESOLの資格を取りました。
TESOLとは、Teaching English to Speakers of Other Languagesの略で、英語が母国語ではない人々向けの英語教授法に関する資格のことをいいます。要するに英語を教えるための資格のひとつで、国際的にも通用する資格だそうです。
2015年9月に帰国した息子は国庫から一千万円の融資を受け、半年間の準備を経て2016年3月に阪急神戸線の西宮北口駅近くにLEGLABOという英語塾を立ち上げました。受験英語と英会話を同時に身につけさせるという、息子が理想としていた英語塾です。
一人一人の個性を把握するため、募集人員は6クラスで54名のみ。当然授業料は高額になります。
果たしてこの高額授業料でどれだけの生徒が来てくれるかと予測が難しかったのですが、蓋を開けてみると応募は8名だけ。
しかし息子は動じることなく、徐々に生徒を増やしていくと平然と構えており、息子の授業を受けた生徒達の口コミで少しずつ生徒は増え、夏期講習や冬期講習に参加した生徒がそのまま残ってくれ、現在20名になっております。
それでも今のところは経営は赤字であり、息子の嫁はパートで仕事に行くようになりました。息子の蓄えた資金がどこまでこの塾の赤字経営が好転するまで持ちこたえられるか未知数ですが、私は息子の不屈の闘志と努力を信じ、どんな事態になっても息子は家族を守って生き抜いていくだろうという信頼感を持っています。
そして最後は私のことを話させてもらいます。
一度、親しい顧客の女性に私のおいたちを話したところ、大変な驚きを示し、彼女からその話をきいた別の顧客女性は「あの森脇さんが幼少時代、そんなだったなんて信じられない」と言ったそうです。
私は最初にも記しましたが、ミッション系の幼稚園で育ち、優れた園長先生の指導を受けた諸先生方の愛情深く、優れた対応のおかげで生涯忘れることのできないくらい、幸せな2年間の幼稚園生活を過ごしました。このときの先生だった尾崎恵子先生とは卒園後も同じ教会に通ったこともあってお付き合いが続き、現在91歳になられるのですが、福岡に帰る度に会食を共にしています。東大名誉教授の政治学者で「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」のメンバーである御厨 貴氏は私の4歳下の後輩であり、東大教授になったとき、舞鶴幼稚園の尾崎先生の元まで報告にきたそうですから、如何にこの尾崎先生が慕われたかがお判りだと思います。
ところが小学校進学時に、校区の違いもあって幼稚園時代の友達のほとんどいない小学校に入学してから私の生活は一変しました。1年、2年と担任になった女教師は決して悪い人では無いのですが、怒りっぽく、生徒のしくじりを無神経な言葉で厳しく叱ったり、平手打ちをする人で、幼稚園時代、先生に暴力はおろか、乱暴な言葉で叱られたことのなかった私は完全にこの教師に背を向け、宿題はしない、忘れ物はする、そして朝になるとお腹が痛くなって下痢もするため、家を出ても学校に行かず、近所の昔火事で廃墟となった家の中で一日過ごして3時ころに帰宅するということもしたり、教師に問い詰められるとすぐにばれる嘘をつくなど、典型的な落ちこぼれの生徒となったのです。
性格もすさみ、近所の年下の子をいじめたり、野良の子犬を見つけるとその廃墟の井戸に放り投げて殺したりと陰湿な悪童となったのです。
あまりにも忘れ物が多いので、担任はボール紙に「忘れ物の横綱」とマジックペンで書いて紐を通し、私の首にかけさせるという、今では人権問題になりかねないこともありました。勉強も全然しませんから引き算も判らず、テストのときに適当に答えを書いていた私をたまたま背後で見ていた担任はいきなり私の頭をバシッとしばき、「この子は算数が全然判っていない!」と大きな声でクラス中の皆に告げるのです。
屈辱感というものは全然覚えていませんが、このときの後ろからしばかれた衝撃と、怒鳴るような大声で叫んだ担任の声は60数年経った今でもありありと思い出します。
そんな私が立ち直ったのは、ベビーブームの世代のため、マンモス校化した小学校に分校ができ、小3の新学期にそちらに移っていってそこで素晴らしい男の先生に出逢ったのです。
「森脇は頭が悪いのでは無い、勉強しないから成績が悪いだけであり、努力すれば必ず成績は良くなる。その証拠にお前は相撲取りのことや歴史には詳しいではないか。先生も知らないことをお前は知っている」とこの教師は私に言ってくれたのです。
私の家系は歴史好きが多く、私も父の影響だったのでしょうね、幼少のころから源平合戦の話が好きで、「源義朝は風呂場で殺された」といったエピソードを小2の子から周囲に語っており、また何故か大相撲が好きになって、当時一般家庭にテレビが普及していなかったころ、本場所が始まると電器店の前に設置されたテレビの大相撲中継を大人に混じって一生懸命観戦し、やがて幕内全力士の名前はおろか所属部屋まで全部そらんじて言えるくらい熱中していたのです。
ちなみに私は実際の相撲の勝負をやるのが好きで、それが嵩じて中学生時代、全校で相撲が一番強い存在となり、そのために不良グループからも一目置かれて、脅されるようなことが無かったです。
そんな私を父母は勉強しろ、とかの強制的なことは一切言わず、父も男性教師と同じく、私の歴史に対する年不相応な知識と大相撲に関する博識を見て「頭の悪い子では無い、いつかその能力を開花するときもあるだろう」と思っていたことを後年、私が大人になって父と酒を酌み交わすようになったとき、聞かされたのでした。
父が教育に関することで私に干渉してきたのは2回だけでした。その一つは小3のときに「九九の声」を覚える必要が生じたとき、私を呼んで目の前に座らせ、「今から九九の声の暗記の練習をする。これを完全に覚えたらお前の欲しいものを買ってやろう」と言い、実際にそれをやったことぐらいです。後にも先にも父が物で子供を釣ったことはこのときだけでした。「九九の声」だけは理屈抜きに身につけさせなければならない、と思ったからなのでしょう。
次は、劣等生からは少しマシになった私ですが、小6になったとき、父はこのままでは大学にいくのも難しいかも知れないと思い、中高大と一貫してエスカレート式に行ける西南学院大学付属中学校の受験をする気はないかと私に尋ねたことでした。
私は西南学院のミッションスクールの制服に憧れていたので二つ返事で受験したい、と言いました。
そしてその後は、こうと思ったら熱中する私の性分が、我が息子、教雄と同じ経緯をたどらせたのです。
私学の受験を受けるころになると私の成績はクラスのトップクラスになっており、私の姉婿の弟で西南学院大学の教授だった人から、私の成績を思ったら何も中学から私学に行く必要は無く、公立中学に行くことをアドバイスされ、急遽、私は私学の受験を断念したのです。(いえ、断念させられたと言った方が正確で、内心、私は憧れの私学に行けなかったことにがっかりしましたが)
そして公立中学に入学してから最初の実力テストで私は600人の生徒数の中で上位50番の中に入っていたのです。
小学生5年までは勉学については劣等感のかたまりだった私が、人生で初めて受けた全校生による実力テストでいきなり、努力次第では名門修猷館高校に入れる可能性もある範囲の成績であることを自覚したときの戸惑いと信じられない気持ちは今でも覚えております。この後、私は劣等感から解放され、人生の表街道を歩く人間となって現在に至っています。
私は勉強に精だし、2年生に進級するとき、またもや分校で新設された城南中学校に移っていくと、ここでは常に学年で10番以内の成績を取るようになったのです。(ちなみにソフトバンクの孫正義もここの卒業生です)
そしてめでたく福岡県立修猷館高校に入学します。
修猷館高校はもとは黒田藩52万石の藩校で創立220年の伝統を誇り、敗戦後、修猷館の名を変えるようにというGHQの指令にも同窓会も一団となって抵抗し、ついに修猷館の名を残し、今に至るのです。
GHQの指令のもと藩校の名を変えたのが広島の修道館(現在の私立修道高校)、久留米の明善館(現在の福岡県立明善高校)です。
私が在学中の各大学の進学率ですが、東大が30名前後、京大が20名前後、東工大が10名前後、一橋大学が10名前後、九州大学が120名前後、早稲田、慶応なども入れると席次が200番以内に入ると名門の大学に入れる可能性が大でした。
そして私の入学直後に実施された実力テストでは600人中、180番だったのです。 これだったら真面目に勉学に励めばどこかの名門大学に行けると思ったのですが、私は県下の秀才が集まる高等学校ですから授業のレベルが高いという名門校に入ったデメリットのことを認識していなかったのです。
現代国語、古文、日本史、世界史はついて行けましたが、英語はついていくのが精一杯、そして理数音痴の私にとって数学は難しすぎで、数学の予習復習に要する時間が膨大なものとなり、他の教科までそのしわ寄せがきて、結局、どの教科も成績は落ちる一方でした。物理なんかは欠点を取る恐怖に何度もおびえたくらいです。
そして文系の私が望む学部は文学部か社会科学部(歴史学)なのですが、就職での有利さを考えると法学部か経済学部、商学部が望ましいと教師も父も言うのですが、そのいずれにも私はまったく興味が無く、情熱も湧きませんでした。私の成績はテストごとに落ちていき、卒業間近には下から数えた方が早いくらいの席次でした。
そんな中の高校2年生のときにピアノ調律師のことを知るに及んで私は俄然、この道に進むことを決めたのです。舞鶴幼稚園でピアノの伴奏のもとにホールに入場し、ピアノの伴奏で賛美歌を歌ったり、遊戯をしたこと、また若い幼稚園の先生たちが弾いてくれた「エリーゼのため」や「乙女の祈り」「トルコマーチ」などでピアノが大好きになった私はこれこそ私の天職と思ったのです。
「大学を卒業してからその道に入っては」という担任の助言も「修猷館に入ったのに大学に行かないなんてなんてもったいない」という周囲の声も、大学生活を少しは味合わせてやりたいと思った父の「せめて教養学部だけでも行ってはどうか」の親心にも耳を貸さず、私は調律師の道を選んだのです。
ちなみに私の学年の男子学生で大学に進学しなかったのは私一人だけだったそうです。
大学に行かなかった私ですが、修猷館を卒業して以来付き合いの続く友人たちはいずれも現役時代はステータスの高い立場にいた者ですが、私に対して分け隔ての無い付き合いを続けてきてくれ、私は大卒で無いことを一度として引け目に感じたことはありませんでした。
私なりに自分が興味を抱くことに強い集中力をもって追求していったこと、その分野が歴史、文学、音楽、詩歌、舞台芸術、登山など多岐に及んだこと、そしてどの分野でもその追求を徹底させたことが、大学に行かなくてもそこそこの教養を私に身につけさせ、友人たちの注目を引き寄せたからだろうと自負しています。
長々と記させてもらいましたが、これらはすべて良い方に結果がでた話ばかりですから、これだけで花井さんの心を安心させるとは思っておりませんが、こういった事例があるということだけでも知ってもらえたらと思って記しました。
花井さんはお父様が京都大学の名誉教授であり、ご自身も京都大学の理数系の学部を卒業という輝かしい学歴偏差値エリートの道を進んでこられましたから、それが標準と思われる世界に生きている感があるかも知れず、それが我が息子への意識せずしての過大なる期待があるのではないかと推察しております。
息子さんが勉強を全然しないと言うのは息子さんには息子さんなりの理由があるはずです。結婚式の披露宴で「三国一の孫娘です」とお祖父様に言わしめた明美さんと私の敬愛する淳也さん、お二人の間の子供がくだらない理由で勉強をしないということは考えられません。ご子息には年少者なりの苦悩があると思います。
そのことを強く意識してご子息を見守ってみては如何でしょうか。
私の父は「最善を尽くすのは大切なことだが、もし精一杯努力して最善の結果が得られなかったら次善の結果に甘んじることも大切であり、次善が駄目だったら三善に甘んじるということが大切だ。それが最善ばかりを追い求めて招く不幸や悲劇を避けることになる」と常々言っていたのですが、私はそれをいつも意識したために、それが我が息子にも伝わり、今の息子の精神を鍛えたと思っています。
最後に私の父が私に常々言っていたもう一つの言葉を紹介させてください。
「恥を知ること、信義を重んじること、何事も美意識をもって行動することを心がけよ。、それがすべての悪徳や醜聞からお前を守る」
私はこの父の言葉を息子の結婚式での親族代表のスピーチで我が家の家訓として語ったところ、来賓の息子の関学におけるゼミの教授から「信義を重んじると言う言葉は本当に久しぶりに耳にしました。森脇君はこんなお父様に育てられたのですね」と感想を言ってくださったのです。
花井さんが息子さんに対してなすすべが見つからないとき、この私の父親の教えを参考にしていただければ有り難いです。
この長文の手紙を受け取った花井さんに強くお願いします。
この手紙への返信や礼状の類いは一切無用にしてください。
花井さんや雑賀桂さん、そして松本良さんは器用にエチケットに則った私信のやりとりをできる類いの人間では無いことを私は気づいております。
これだけの長文の手紙をもらうとそれなりの返信をしなければとプレッシャーを感じ、なかなか返信が書けないことは私自身が今までに多くの非礼を重ねてきたことで骨身に染みるほど知っております。
桂さんがその筆頭で、彼女は滅多に返信をくれないのですが、くれるときはこの私の手紙のようにA4十数枚の手紙として送ってくるのです。
桂さんはいつも気軽にメールやハガキでの簡潔なやりとりができない己にいつも焦燥感を感じているようなのですが、それがまた桂さんの真心の表れとして私はとても彼女を好ましく思い、高く評価するのです。
花井さんもそうですね。去年の5月に頂戴したメールがまさにそれでした。高木導師のことをことこまかく記されたのは桂さんに比べると文章は短いですが、花井さんの真心がこもっており、そこへご自身のご子息への悩みを打ち明けられたら私は気軽に返信が記せず、9ヶ月も経った今頃に返信をしるす始末でした。
花井さんも私のこの長文の手紙について感想を述べたいと思われたら、奥駈のときか、実際にお会いしたときにお伝えください。
それではどうかご子息様が健やかに育たれることをお祈りしております。
明美さまにもどうかよろしくお伝えください。
追記:添付の手紙は娘の大学受験時におきた事件に対しての学校当局に宛てたものです。学歴重視社会に苦しむこどもたちがヘルマン・ヘッセの『車輪の下』のような状況に陥りやすいことを実感した私の手記としてご笑覧いただけたら有り難いです。
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