滋賀道中記

 私は今回の滋賀の旅ほど、心に残る旅は今までしていなかったように思う。そんな感動を忘れたく
ないという想いから、この道中記を書くことを決意した。

  ついに行ける事になった
 2日前(3月17日)の晩、母の兄である雅和さん(まかちゃん)の1本の電話から、それは始まった。
 「お母ちゃんが危ない状態なんや。お前のことばっかり言うて、逢いたがってるんやけど来てくれへ
んか」
“そんな言われたかって・・・”当時の母の心境とすれば、こんなものだったに違いない。今までも滋賀
に遊びに行く話はチョロチョロと出ていたが、その度に「車もないし・・・遠いしなぁ」の母の一言でおじゃ
んになっていた。しかし、今回はわけが違う。なんせ<ハハキトク、スグカエレ>なのである。
この非常事態に「車がない」「遠い」だのと、うつつをぬかしている場合ではない。電話を切った後も、
母は行くことをとても悩んでいた。
周りの皆は一斉に「こんな時に行かなくてどうする」と母に滋賀行きを促した。しかし、母はいまいち決
断に踏み切れないようだった。
 「なんなん?何がそんなに不安やねんさ」
私はなかなか首を縦に振らない母に苛立ちを覚え、少し荒っぽい口調で尋ねた。
 「う~ん・・・、なんちゅうか、行きづらいわな・・・。何年逢うてへん思ってんねん。25年やで。せやさ
かい、皆の目が怖いなぁ・・・。それに店どないすんねん」
 「・・・明日が日曜やから、明日の晩に出て、で、次の日が月曜やから休み取ればいいし、俺が運転
したるで」
 黙って話を聞いていた師匠が口を開いた。“明日の晩?そらまた急な話でんなぁ”と私の方が昔の
大阪の商人口調で驚いてしまった。でも、ずっと滋賀行きを希望していた私は今まで漠然としていた
滋賀行きの話が少しずつ「決定」という方向に進み始めているのを感じ、ドキドキしていた。
“あ~お母さん、早くオッケーサイン出してくれないかなぁ”ということだけを願いつつ、胸は期待と緊張
と不安のブレンドした、何とも気持ちの悪い状態を保っていた。こんな時ばかりは、普段はテレビに出
ているとチャンネルを変えるくらい苦手な<Ok伊東>に出てもらい、“ンン~オッケェ~イ、ベ~イビィ
~”といつもの甘い声で囁いて欲しいくらいであった。
 その後も5分程平行線の話し合いが続いたが、「今しか行ける時ないんやから」の誰かの一押しで、
母はついに重い首を縦に振った。“やったぁ!!ついにこの<吉野鮨>から一歩、いや350km外へ
出ることが出来る!<魚元>の大豪邸を拝むことが出来る!おばあちゃんやまかちゃんやじろちゃん
や従姉に逢うことが出来る!”私の心のなかでサンバが鳴り響いていた。あの時、魂だけは“お先に
~”とばかり既に滋賀へ飛んでいってしまっているような気がした。それから先のことは記憶が途切れ
途切れになっているからだ。気づけば私はオイオイ泣いていた。家族の前で泣くのはいつものことで
あったが、その日は向かいのマンションに住むお兄ちゃんもいたため、かなり恥ずかしいやら情けな
いやらで、なんともやるせない気分だった。泣いた理由は、ここではあえて伏せておくが、この時の私
の<泣き>は単なる序章にすぎず、滋賀に到着してからが本番だった。

妊婦の出発
 その後の会議の結果、滋賀行きメンバーは母、師匠、私の3人。兄には留守番をお願いすることに
なった。そして当初の予定では日曜の晩に出ることになっていたが、昼にはもう出発することになった。
またも私のサンバのリズムに心が弾んだ。そして驚いたことに、母は<魚元>にお邪魔するだけでなく、
泊まらせてもらうのだと言い出した。なんということだろう!<魚元>の敷居をまたげるだけでも光栄な
のに、その上一泊できるなんて!サンバとロックとラテンにまみれた私の心はどうにも止まらない、リン
ダ状態だった。(天にものぼる心地)を体験した私は、天ではなくそのまま2階へとのぼった。
 自分の部屋に戻った私は、さっきまでの会議の模様が夢か現か判らなくなっていた。
もしここで、(ドッキリカメラ)などと書かれた看板を誰かが持ってきたら、この心の中のサンバをどうして
くれようか。ここまで舞い上がった私の気持ちを、もう誰もひっぱりおろす事なんか出来るはずがない。
その一方で、2階に上がってきた母が「さっきの話なぁ~おじゃんになったでぇ」なんて事を言い出すか
もしれないと不安を抱き始めた。ので、さっさと寝ることにした。結局、母が2階に上がってくるまで寝付
けず、少し話をしたが、さっき心配していたおじゃん話が出ることはなかった。
 翌日、母は朝から忙しかった。洗濯物やら、会議やら、神社やら、予定は沢山詰まっていた。私はい
つもどおりの時間にいつもどおりのまぬけ面で目覚め、いつもどおりの仕事を始めた。さっき、魂だけが
八日市に向かっている事を話した通り、普段以上にボケーっとしていた。<心、ここにあらず>とは今
の私の為に創られたような言葉だと思った。しかし、それではいけないと反省し、残された肉体だけでも
酷使しようと心に決めた。(矛盾)
 昼のお客さんというのは普段あまり来ない。しかし、滋賀にいくのならお金はいろいろと必要になる。
なんとかして一稼ぎしたいものだ、と考えていた。
 ミヤちゃんから予約の電話が入った。私は徐々に商売モードに転換していった。山崎さんの相手をし、
ミヤちゃんの話相手をしていると、オーチャンが入ってきた。これはいい調子だ。私は内心ニヤリとした。
そうこうしているうちに、3組目の甘利さん。これは満塁だ!さっきのニヤリ、がニヤニヤに変わってい
くのを心の隅で察知した。
 母も用事を全て済ませ、家路に着いたのはもう1時半。私は行く準備を整えながら、早く行きたくてム
ズムズだかウズウズしていた。
 2時半近くになり、少し憂鬱な気分になっているのを感じた。なんだろう、このなんとも気怠い椎名林檎
のような脱力感は。ん~これがマタニティブルーというものなのか・・・と、してもいない妊娠のせいにして、
妙に納得していた時、母の「もう出るよ~」との声が聞こえた。私は“そうか・・・もう赤ん坊が出るのか”と
想像であったハズの妊娠気分を引きずりながらワゴンRにいつものように背を丸めながら向かった。きも
ち、お腹をさすりつつ。

夢にまで見た八日市
 さて、気づけば小黒川SAである。この地が何県であるかなど当然分かるはずもなく、なんとな~く、
<小黒川>なのだ。SAは小さい頃から何故か好きだ。高速に乗る楽しみを二つ挙げるなら、ひとつは
早いスピードが楽しめる、とすれば、もうひとつは当然、SAに寄れるというものである。もうとにかくあの
雰囲気が好きで、何時間でも居たくなってしまう。SAというものは基本的には広いトイレがあり、自販機
がズラリとならび、食堂と土産屋のドッキングした建物があり、タコ焼き・ゴヘイモチ・きりたんぽなどの屋
台が並んでいるだけであるが、都会寄りのSAにはモスバーガーがあったり、31アイスクリームがあった
りして、ブランドや肩書きに弱い私は、それだけでクラクラと来てしまい、“さすが都会は出す店が違うわぁ
~”などオバサンのようにしみじみ感じてしまう。小黒川は、と言えば、前者のいたってシンプルな田舎の
香り漂うSAであった。そして小黒川で初めてハイウエイカードを5.000円分買うと5.200円付いてきて、
200円のオトクになることを知った。
 小諸を出て6時間半、ようやく八日市に辿り着いた。と書いてしまえば一瞬だが、道中は本当に長いも
のだった。思えば私はこの6時間半もの間、ずっとモンキーズを聴いていた。陽が照っていようとも、陽が
沈んでいこうとも、強風に煽られてワゴンRが傾こうとも、そうまでして片時もモンキーズを耳から離さなか
ったのは、あの1960代サウンドがその当時の私の気分にピッタリだったからに違いない。
(滋賀道中記というくらいなのだから、3頁目にしてここからが本番である)
 八日市1Cをおりて、はて、病院はどの辺にあるのだろうか?こんな夜に面会はできるのだろうか?
まかちゃんはもう来ているのだろうか?たくさんの「?」が3人の頭の中を駆け巡った。とりあえず車を停
めてみた。そして師匠が煙草を吸いに車を降りた。師匠が何やら前に止まっている車の中を覗いている
のが、暗い暗い車内からほんのりと見えた。“あれ?師匠誰と話てんねんやろ?”と思っている間に前の
車から一人の男性が降りてきて、うちの車の方に歩いてきた。鈍い私でもそれが誰なのかすぐ判った。
“まかちゃんや!!”私は靴のストラップもそのままに、転がる様にして車から出た。母が何やら喋っている。
私も何か喋らなければ・・・。モジモジを通り越して挙動不審になっている怪しげな私にまかちゃんは気づ
いたようだ。「初めまして・・・」ドキドキしながら挨拶を交わしたのをハッキリと覚えている。「これ(車)に付
いてきぃや」とだけ言い残し、挨拶もそこそこにまかちゃんはすぐ車に乗ってしまった。病院に向かう車の
中で、私は今さっきのことをおさらいしていた。“え~と、さっき八日市1Cおりて・・・今まかちゃんに逢った
ばかりで・・・これからおばあちゃんに逢いに病院にいって・・・”なんだか色んな出来事が猛スピードで駆け
抜けてゆく感じ。頭のなかで全然整理ができていない。
 ICから病院はあっという間だった。話には聞いていたが実際走ってみると本当に近い。それにしてもお
っきな病院だ。そもそも病院なんてこんなに間近に見ることなんて小諸にいればなかっただろうに。病院
の敷地内に入るのは多分初めてなんじゃないかと思う。それくらい、私にとってここは生活するのに無関
係な場所であった。
 師匠を車に残し、私達3人は足早に病院に向かった。みんな、殆ど無言だった。昨日まで普通に自宅
で暮らしていたのに、急遽入院することになったおばあちゃん。突然具合がわるくなっちゃったのかな。
この偉大な母を産んだおばあちゃんって、一体どんな人物なんだろう。まだ・・・元気でいるよね。私は色
んな事を考えておばあちゃんのいる部屋を目指した。部屋の前まで来た時・・・私の足は何故かすくんで
しまった。急に逢うのが怖くなってしまったのだ。逢うために来たはずなのに、今は無性に逢いたくなくな
っている。部屋に入った瞬間、全てが止まったような気がして、なかなか一歩が踏み出せないでいる私を
まかちゃんは「ほら・・・」と軽く、入るよう促した。

初対面
 部屋に入ってまず目に飛び込んできたのは、まかちゃんの娘さん2人、つまり私の従姉妹達だった。
「初めまして」と私は何度も深く頭を下げた。“今までずっとおばあちゃんの事を見ていてくれてありがとう”
という気持ちで一杯だったからだ。ベッドに横たわるおばあちゃんがいた。母は「おかあちゃん・・・」と、今
にも泣きそうな声でおばあちゃんに話し掛けた。私は、といえば・・・ひたすらくうくう泣きじゃくるだけだった。
初めて見るおばあちゃんの姿は、しわしわで、点滴をしていて、酸素マスクを着けて、うつぶせ気味だった。
とってもとっても、小さく感じた。別に死んでしまったわけじゃないのに・・・なんでこんなに泣けてくるんだろう。
それはきっと、おばあちゃんに寄り添う母の姿が、何十年か後の母と自分の姿と重ねて見ていたからなん
だろう。母もいつかは、今のおばあちゃんのような姿になってしまうんだろうな・・・。そう考えると泣かずに
はいられなかった。
 「おかあちゃん、元子がなぁ来てくれたんやで」そう言ったまかちゃんの目にも涙が溢れていた。
 「おかあちゃん、おかあちゃん。来たよ。ずっと帰れへんかったんやけどな・・・。30年も逢うてへんもんな
ぁ~」母は一所懸命に話し掛けていた。
 「おかあちゃん、分かるか?この子がみっちゃんやでぇ、久里ちゃんとよう似てるやろ」まかちゃんは、そう
言うと私を指差した。私はまだ涙が止まらない状態で、化粧の崩れたグチャグチャの顔でニコリと笑ってみ
せた。多分、すごい形相をしていたに違いない。今もし、その顔を写真に撮ってあるから見てみたら、と言
われても絶対見たくない。おばあちゃんは口にこそ出さなかったが、たいそう気味悪がったことだろう。
 私はおばあちゃんに「初めまして・・・美智子です」と言うのがやっとだった。とにかく喋ろうとすれば、先
に涙が流れて邪魔をされてしまうのだから。おばあちゃんは何度も何度も「よう来てくれたねぇ・・・」と言っ
てくれた。私はその言葉を聞く度にくうくう泣いてしまうのだから始末に終えない。母はおばあちゃんに「また
明日もくるからね」と言うと、私達は病室を後にした。

和風ベンチ
 病院の駐車場まで戻ると、まかちゃんは俺の車に乗っていかないか、と提案した。私は、母はてっきり断
るものだと思っていたが、数分後には私はまかちゃんとの2きりの束の間のドライブを楽しんでいた。
 話したいことは山ほどある。しかし、なんといって切り出してよいのかサッパリ分からない。このまま沈黙
通しでドライブ終了はいくらなんでも悲しすぎる、とうな垂れていると、まかちゃんが何やら話し掛けてくれた。
それからはずっと途切れる事無く色んな話をした。と言っても、餃子の王将がなんちゃら、とか、なんとかフク
ロウというお店が全国的に有名だとか、走っていて目についた物や店について話していた程度なのだが、
それでも私はとっても幸せな気分だった。まかちゃんとこうやって話していることをまるで夢のように感じていた。
 「ここやで」というまかちゃんの言葉とほぼ同時に<魚元>の看板が目に飛び込んできた。私はなんともい
えない感動に、再び胸がサンバのリズムを刻んだ。正確に言うならば、少し大人の落ち着いた雰囲気のある
ジャズといったところだろうか。とにかく、もう、どうしようもないくらいの嬉しさに、“看板が拝めただけでもい
いや・・・このままUターンもありだなぁ・・・”とバカバカしい考えまで浮かんだ。しかし、もちろんそんなことは
<現実的な自分>が許すはずがなく、“今考えた事は嘘で、もう一人のバカな私が、勝手に考えたことやか
ら本当になりませんように・・・!!”と、<夢うつつの自分>の勝手な想いを慌てて訂正した。
 ついに<魚元>の玄関に足を踏み入れてしまった。胸が一気に高鳴った。これは翌日発覚したことなの
だが、玄関が驚くほど素晴らしいのだ!入ってまず目を奪われるのが立派な棚に並んだ立派な置物達。
これは見るからに景気が良さそうである。置物達にウットリした後にふと右後に振り向くと、昔の団子屋に
ありそうな・・・まるで水戸黄門だか暴れん坊将軍だかの甘味処のワンシーンで実際に使われていたような、
そんな趣さえある和風ベンチがしっくりと<魚元>に馴染んでいる。ウチにもこんな風情漂うベンチがあった
らいいのに・・・と羨ましく思ったが、もしこのベンチが我が店へやってきたところで、しっくりと馴染む保障は
何処にもない。この真っ赤な敷物が店の雰囲気に馴染まず浮いてしまえば、逆効果もいいとこである。私は
“お前はこの<魚元>さんに一生ついていって、生涯このお店に来れたことを感謝しつづけて尽くすんよ、
いいね”とベンチを諭した。私は本当にそう思ったのであり、これを単なる強がりととって欲しくないのである。
 荷物を置いて、もう寝るのかな?と思ったのも束の間、まかちゃんが「行くで」と、これから何が起こるのか
サッパリ分からない私達を外へ出るように促した。時計は午後10時を回っていたが、私はまだまだ寝たくな
かったので、楽しみでしょうがなかった。

関西で有名なココス
 一同、まかちゃんの新車であるマークⅡに乗り、どこかへ向かった。何だろう?観光名所を案内してくれる
のかな?それは楽しみだ!あれ、そういえば<魚元>を出るときに何か言っていたような・・・などと考えてい
ると、母が子供のようにはしゃぎだした。「ココ!○○さんやん!懐かしいわぁ~。あ!○○紙店変わってへん
やん!この商店街のアーケードは前からこうやなぁ。伊田歯科!この隣がうちとこの家やったんでぇ~!ノノ
ミヤ神社!よう遊んだねん、毎日行ったなぁ」などと、私と師匠には全く判らないディープな会話が次々と繰り
広げられていった。早口でまくしたてる母を最強だと思っていたが、所詮井のなかの蛙、上には上がいるもんだ。
さすが母の兄、まかちゃんは母に輪を掛けて早口だった。これは灯台下暗しであった。この方こそ真の早口
チャンピオンと言えよう。
 チャンピオンが決定した矢先、目的地に着いたようだった。車を降りると大きなファミリーレストランがデンと
構えていた。そうか、まかちゃんは私達のお腹を案じて連れてきてくれたのか!玄関先で言われたのも、ご飯
のことだったような気がする。まかちゃんの細やかな気遣いに、それだけでも胸もお腹もいっぱいになってしま
った。
 ファミレスなんて何年ぶりなんだろう。最後に行ったのがいつだったか忘れてしまうぐらい、私達はファミレス
とは無縁の生活をしていた。まかちゃん自身もそうだということを言っていた。それにしても<ココス>というフ
ァミレスは、初めて聞いた。私が呪文のように「ココス、ココス、ココス・・・」と連呼していると、「ココス知らんの?
関西じゃ有名なんやでぇ」というまかちゃんの声が聞こえてきた。そうだったのか、ココスは関西にしか手を広
げていないのか・・・餃子の王将みたいなものなのか・・・、王将といえば、聞いた話によれば店内のテーブルは
いつ行っても汚れているらしいぞ・・・しかし餃子は大きくて美味しいらしいな・・・、などと話が全くくだらない<餃
子の王将>の方に行ってしまった。
 先程、まかちゃんの気遣いにより満タンになったお腹は、メニューのティラミスを見るなり、早くも空っぽになっ
てしまっていた。なんという現金なお腹なんだろう。さっきの感動はどうしたのだ、と自分のお腹を責め立てた。
しかしお腹は何処吹く風といった調子で、私の話なんか聞いちゃいない。言うことを聞かないお腹に少々腹を
立てながら、私は再びメニューに目をやった。
 ドリアにグラタンにティラミス。これはあまりにも食べ過ぎだろうか?まかちゃんに支払ってもらうのに、そんな
に食べていいはずが無い。しかし脳がそれらを注文するように命令しているのだ。総司令官の命令を無視する
わけにはいかない。都合のいい私は、こんなに食べることを全て総司令官である脳のせいにしてしまい、自分
は何事もなかったように♪フンフンなどと鼻歌を交えつつ涼しい顔をしてやりすごした。しかし、総司令官も、言う
ことを聞かないお腹も、きれいに平らげてしまった胃腸も、全部ひっくるめて私なのだ。こんな夜遅くにこんなに
食べたら1キロ増は確実に違いなかった。私は帰宅したら、早速ダルマに目を入れてやろうと決心した。

二郎ちゃん
 <ココス>を出る車の中では、何故か母の弟である<二郎ちゃん>の話題で持ちきりになった。「二郎ちゃん
に逢ってみたいなぁ」私はまかちゃんに聞こえるように咳いてみた。もし近くにいるのならばゼヒゼヒ逢ってみたい。
まかちゃん、たのんます!という心境であった。それが通じたか「二郎のバイトしているところ行ってみようか?」
と素晴らしい提案をしてくれた。母は少しためらっていたようだが、そんなことはおかまいなしだ。ココまで来てじろ
うちゃんに会わずして小諸に帰れようか。志半ばにして倒れるなんてことは私にはできまい、と滋賀にきてから私
の心はいつのまにかにタフになっていた。
 <スナック結城><居酒屋ユウキ>と2軒のお店が一つの敷地内に建っていた。経営者が同じ人なんだろうな、
とすぐ分かった。こんな鈍い私でも見破れるくらい安直なネーミングに戸惑いすら感じた。余談だが、居酒屋の方
は、元は<貴鳥>という名前だったということを後で二郎ちゃんから聞いた。経営者も他の名前を考えるのが億
劫になって、“スナックが結城なんやから居酒屋の方もユウキでええかぁ”くらいの考えで決めてしまったに違いない。
それが経営者の<結城さん>(多分)が大の藤子不二雄ファンで漫画「ミキオとみきお」にちなんでつけたと思わ
れる。まぁ、前者の方が有力といえよう。
 「二郎、元子が来たで」それくらいの軽い紹介だったと思う。奥から気の良さそうな背の高いお兄さんが出てきた。
“この人が噂の二郎ちゃんなのか?”私は自分の目を疑った。こう言ってしまうのは失礼にあたるのかもしれないが、
私はもっとヤクザ風味満載の怖~いあんちゃんを想像していた。でもこの人が二郎ちゃんで本当に良かった。
二郎ちゃんは目をまんまるくして驚きを隠せないといった様子だった。そして私の方を見て「この子は・・・?」と母に
尋ねた。私は例によってペコリと頭を下げて軽く自己紹介をした。滋賀に来て何度目の自己紹介だろうか。
 店先に立ったまんまの私達を見かねて、まぁ、上がって、と言ってくれた。玄関で靴を脱ぐ居酒屋は初めてだった。
無論、居酒屋なんてものは19年生きてきたけれど、殆ど利用したことがない。未成年だからだろうか。来年成人
式を迎えるが、成人した途端に足繁く通うことになるとは考えられない。もしかしたら最初で最後の居酒屋になるか
もしれないから、ゆっくり大人になった気分でくつろいでみたい。
 それにしても全席堀りごたつ式とはこりゃまた珍しい。小上がりもスッキリサッパリしており、見ていてすがすがし
いものがある。居酒屋というものは、客の吸いまくった煙草の煙がそこら中にプンプン漂っていて、壁はそのヤニ
で黄ばんでいて、カウンター後ろの棚にはわけの分からない趣味の悪い置物なんかがあって、旅行に行ったとき
に買ってきた数々のペナントが所狭しと貼られていて、おまけにマスターというのか、オヤジさんの不精髭が気に
なって料理を味わうどころではないような、そんな所だと思っていたが、こんなにキレイなものか。私はキョロキョロ
と、獲物が見つからない間抜けなハイエナのような顔で辺りを見渡していた。時間は11時を過ぎていた。

太郎坊の山
 いや、それにしてもすごい居酒屋だった。店の造りといい、雰囲気といい、文句なしの素晴らしさ。たまに二郎ちゃ
んの後ろを横切るオジさん(ミニマムな彼、とでも呼ばせてもらおう)は通るたびにヘコヘコしていて、なんだか可笑
しかった。相当腰の低い人なのか、関係のない私の方を見てもヘコヘコしていた。ミニマムな彼に「もっと胸を張っ
て人生いきなはれ」と変な関西弁で、心の中で叱咤した。それにしても食べ物屋さんで甘納豆とポテトチップスの顔
を見ることになるとは本当に驚いた。二郎ちゃんが「ポテトチップス持ってきて」とミニマムな彼に頼んでいるのを見て、
まさかとは思ったが本当に出てきた時は卒倒した。居酒屋って何でもありなのか。
 明日また逢う約束をして、二郎ちゃんとは別れた。居酒屋でまかちゃんが、しきりに「この子(私)はええ子や」と言
ってくれたことが、とても嬉しく、印象深く心に残っている。
 <魚元>に向かう車中で母が何かを発見した。「あ!太郎坊山ちゃう?珍しいなぁ」母は<珍しい>と<懐かしい>
を滋賀にいる間、ずっと間違えっぱなしであった。初めの1、2回は「珍しい、ちゃう!懐かしい、の間違いやろ」とそ
の都度訂正していたが、あまりにも間違い過ぎるため、訂正するのが面倒になっていった。早口2位の母が言うと<
太郎坊>という単語が、たらぼ、か、たろぼ、にしか聞こえないので“はぁ~ん、この山はタラボ山っちゅうのか”と間
違えたまま覚えていた。この辺りではきっと太郎坊山はかなりメジャーな存在なのだろう。街の至る所で太郎坊の看
板?を見かけた。それが本当に半端な数ではない。清水町の辺りでは、太郎坊はみんな同じ顔をしていたのに、八
日市ICに続く国道か何かの大きな道にヒョロリと立っている太郎坊は地元の幼稚園の子か小学生が描いたもので
あろういびつな顔をしていた。目の大きさが全く違っていたり、鼻があらぬ方向へ曲がっていたりして“これでええの
か?太郎坊”と心の中で呼び掛けた。
 母の言葉に「今から行こうか?太郎坊山」とまたしても、まかちゃんは嬉しい提案をしてくれた。まるで私の心の内を
見透かしているかのように、色んな所へ連れていってくれる。時は既に0時に近くなっていたが、興奮しているのか全
然眠くならないし、寝るくらいなら一晩中八日市を探検してみたいと思っていたのだ。
 山は頂上の方まで灯りがついていた。こんな夜遅くまで?と思ったが、私達の他にも山を訪れている人が何人かいて、
妙に納得してしまった。
 山の途中に夜景が一望できるところがあり、そこに車を停めて景色を満喫することになった。「うわぁ~~~~!!」
キレイ!本当にキレイすぎて思わず叫んでしまった。この夜景の前では名古屋の夜景だって、ラスベガスの夜景だって
どんなにキレイと騒がれている夜景だって霞んでしまう。ひとしきり感動した後、この夜景を知人にも見せたくなり、
写真に収めようと思ったのだが、この綺麗さはウチのカメラでは到底再現しきれないだろうと思って、折角の夜景を台
無しにしたくなくて、シャッターをきれなかった。知人には申し訳ないが、こればかりは自分の眼で堪能してもらうしかな
い。この夜景で、今まで私を含め何人の人が惚れ、ウットリしたのだろう。ここから一歩も離れたくない!そう思わせる
太郎坊山はかなりのやり手だな、とひとり感心していた。

まさかの地獄
 山をおりた後、もうそろそろ帰らねば、ということになり今度こそ<魚元>を目指した。私としては先程も述べたように、
まだまだ力も有り余り、もっと見たいぞ~ヤァ~ッ!などと雄叫びをあげるくらい、いっぱい探検してみたかった。しかし、
そのことを母に告げる勇気などはびた一文とてない。それにこれ以上、まかちゃんに迷惑をかけちゃいけないなぁ・・・
私の欲望はアッサリと理性に負けた。でもそれで良かったのだろう、と今思う。
 私は八日市に来たときからずっと気になっていた例の太郎坊を写真に収めたくてウズウズしていた。が、いた!と思っ
ても車でシュン、と通ってしまうので、なかなかシャッターチャンスがない。勿論、それだけのために「今の太郎坊を撮り
たいので車を停めてください」とお願いするのは、あまりにも非常識すぎるため、またも「太郎坊を撮りたい」という欲望
より「そんなことは自分の勝手にすぎないから、後で歩いて一人で撮ってこい!」という理性に軍配が上がった。いつも
そうである。私の欲求なんてものは却下されまくりだ。裁判で言うなら(敗訴)という感じだ。しかし、被告側も原告側も私
自身なのだから、誰かを責め立てることはできない。そこが独り相撲の悲しい性である。もうそろそろ<魚元>に到着し
ようかという時に、一筋の光が差したように思えた。信じられないことに太郎坊は<魚元>の駐車場近くのゴミ捨て場の
橋につつましく立っているではないか!私は一刻も早く太郎坊の元へ走って行きたくなった。車が停まると同時に、私は
一目散にダッシュした。しかし、その数秒後、私はドサリと倒れこんだ。その瞬間「ギャー!」と心の中で叫んだ。それが
声になっていたかは定かではないが、激しく地面に叩きつけられたカメラを助けてやることもできず、ただただ有刺鉄線
に絡まっているだけであった。これじゃ毒グモの巣に、いとも簡単に捕まった間抜けなトンボじゃないか。自分の情けない
姿に、おいおい泣きたくなった。これでは太郎坊どころではない。堪え難い足の痛みに撮影は泣く泣く諦めた。「別に今
撮らんでもええやん。明日の朝撮れば?」・・・いたって冷静な師匠の意見はごもっともだった。確かに夜にわざわざフラ
ッシュをたいて撮らなくても、明るくなってから撮ればいい話じゃないか。別に太郎坊が逃げるわけでもない。翌朝もいる
んだから。「はぁ~・・・」私は全身の力が抜けていくのをうっすらと感じた。なんて私はこうなんだろう・・・。自分の馬鹿さ
加減にほとほと嫌気がさしてきた。その間も足はズキズキと疼くのであった。傷に密着する細身のズボンを今日ほど恨
めしく思う日はないだろう。その傷は今も完治していない。膿んだ所をフーフーと息で吹いて乾かしながら、こうしてキー
ボードを叩いているのだ。いつかこの傷が治ったとしても、跡は残ってしまうだろう。そして、その跡を見るたびに滋賀で
の事を思い出すだろう。しかし、それは忌々しい過去とかではなく、「痛かったけど、皆が心配してくれたし、何より楽しか
ったからいいや!」と良い思い出だけが残るに違いない。

減塩食パン
 何という目覚めのいい朝なのだ!!私は昨夜Tシャツで寝たのだが、全く寒くなかったし、この部屋の日当たりの良い
ことといったら!滋賀は町並みは小諸と多少似ているかも知れないが(それも滋賀が100歩譲った話)気候の点では、
小諸なんぞ滋賀の足元にも及ばない。気持ちのいい日差しが<魚元>の至る所から浴びることが出来る。特にそれを
感じたのは、床をホウキで掃除させていただいた後、ホウキを元の場所へ戻しに、厨房にある裏の戸?から出た時だった。
目の前には私の兄(大ちゃん)が好んで遊んでいたという川が広がり、日差しが暖かく、“あ~幸せやなぁ・・・”としみじみ
感じた。小諸にいては、あの気持ち良さは味わえないだろう。そう考えると、ここに来て本当に良かったなぁ、とつくづく思う。
 それにしても広い厨房だ。大きな冷蔵庫がいっぱいある。一部屋が丸ごと冷蔵庫になっているのもあり、あれにはさすが
に驚いた。夏はあの中で昼寝したらさぞ快適だろうに・・・などとバカらしい考えまで思いついた。
 昨晩、寝る前にまかちゃんから「パンを用意しとくから、食べや」と言われていたパンを早速焼いて食べてみた。母はま
かちゃんのお手伝いをし、師匠はホタルイカと格闘している。私だけがノホホンとパンを食べているが・・・良いのだろうか?
それにしてもこのパンはなんて美味しいのだろう!袋には<減塩食パン>と書いてあり、実際はどの辺りが減塩なのか、
このパンを作った工場の人に説明してもらわないと分からないのだが、そう銘打ってるからには、減塩してあるのだろう。
なるほど、減塩するとこんなにもパンは美味しくなるものなのか?まてよ、それとも<魚元>の厨房で食べているから、
美味しく感じるのだろうか?もしこのパンを小諸に持って帰り、同じように焼いて食べても、このパンの美味しさは変わら
ないのであろうか?結局、真相は分からないままだが、何しろ、美味には変わりないのだから良いではないか、という結
論に達した。
 気づけば厨房に二郎ちゃんの姿があった。いつの間に現れたのだろう。しかし、昨日交わした約束どおり、しかも早朝
からちゃんと来てくれた彼に好感を覚えた。聞けば、二郎ちゃんはアパートで一人暮らしをしているらしい。子供とも一緒
に暮らしていないの?一人で寂しくないんですか?・・・色々聞きたいことはあったけれど、そのあたりの質問はタブーなの
かもしれない、と思い、自粛した。こういった質問は、もう少し仲良くなってから聞いてみようと思った。仲良くなれるという
保障は何処にもないのだが・・・。
 まかちゃんが手際よくチャッチャと皿に盛り付けていく姿は、見ていて「おーっ」と歓声をあげたくなる程であった。私もあ
んな風に出来たらなぁ・・・と思いながらずっと見ていた。
 皆がせっせと働いている間に私は写真を撮りにいった。母のバカチョンと、自分の昨晩負傷したポロライドと、まかちゃん
の立派な高価そうなカメラの3台を担ぎ、プロになった気分で悠々と歩いた。<魚元>の門構えを数枚撮っていると、チャ
リンコに乗ったおばちゃん2人組が「ちょう、先通らしてな」と、<魚元>の前を足早に去った。再びシャッターをきろうとする
と「これ<魚元>撮ってどうするの~?新聞にでも載せるの?」といきなりおばちゃんに聞かれ、「え?あ、いや・・・」としど
ろもどろになった。「はい、そうなんですよ~」とでも言えば面白かったのかもしれないが、初対面の人に嘘をついてしまうの
に抵抗があったのと、新聞というマスコミュニケーションを使い嘘をつくことに恐怖感があったのだ。うまく説明できないのだ
が、テレビ局に時限爆弾などを送り付けたりする事件が昔あったが、それてお同じくらいの罪悪感を感じてしまう。
 その後も私は3台のカメラをとっかえひっかえ、沢山の写真を撮った。どの写真をどのカメラで撮ったのか、もはや分から
ない状態になった。左の写真は、まかちゃんのカメラを拝借し撮影したものだ。これは、今日送ってきて戴いたものであり、
私もこれを早く完成させ、送らなくてはならない。滋賀から帰ってきたその日の晩から書いているにもかかわらず、3日経
った今でもまだ出来ていない。自分の文才の無さと頭の回転の悪さにはほとほと呆れてしまう。でも、いくら遅れたって良い
から絶対最後まで完成させたいものだ。私は小説などを書くのが好きで、これまでに10作以上書いてきたのだが、完結さ
せた試しがない。どの小説も3日坊主ならぬ、3ページ坊主である。折角ワープロ検定で2級を取得したのだから、是非とも
何百枚という原稿を超スピードで書いてみたいものだ。今のところ、2級の腕前は宝の持ち腐れと化している。
 厨房に戻ると、既にお客さんに出す料理は出尽くしていた・・・。私の大馬鹿!!これでは何をしにきたのか分からないじ
ゃないか。肝心なときにホロホロと外へ出て写真を撮って喜んでいる自分が本当に情けなかった。
 そして何もお手伝い出来ぬまま、昼食の時間となった。その日のお客さんと同じメニューが食べられるということで、私はか
なり舞い上がっていた。運よく5000円の料理を注文したお客さんに巡り合えたお陰で、私達も誠に豪勢な昼食を頂けた。
<魚元>さんに感謝すると同時に、そのお客さんにもチップをはずんであげたい気分になった。
 
心の料理
 料理を見てまず驚いたのは、それぞれの素材の色が存分に生きているということ。春満開、といった料理に私は胸を躍ら
せた。どうしても濃い味付けに合わせ、濃い色になってしまう小諸の料理ではこういった事は不可能かも知れないと思ったが、
それは単なる言い訳にしか過ぎないのだろう。そして、薄味ながらもしっかりとした味がついていてフキなら、ちゃんとフキの
味がするのだ。フキの味が調味料に負けていないくらい、主張しているところがとても気に入ってしまった。きっと調味料は最
小限度しか使っていないのだろう。とにかく、美味しいのだ。この一言に尽きる。実は私は日本料理が苦手で、自分から好ん
で食べることはまずなかった。しかし<魚元>の料理は絶対食べてみたかったのだ。
 今まで絶対に食べられなかったアン肝を食べられた時は自分自身は勿論のこと、母まで驚いていた。アン肝ってこんなに
美味しいものだったのか。ウチで食べたときは一口で「もう結構」という感じになってしまったのにこの違いはなんだろう。初め
て完食したアン肝はチーズのような味がした。こんなにも洋風な味だとは知らなかった。いや、もしかしたら、<魚元>流にア
レンジしてあるのかもと思い、まかちゃんに尋ねてみたが、何にも手を加えていないという驚くべきこたえが返ってきた。それ
では何故、ウチのアン肝とああも味が違うんだろう・・・。アン肝、アン肝、アン肝・・・。夢に出てきそうである。
 豪華なお膳に、天ぷらまでついていて、さらにはデザートまでご馳走になり、私の心の中でクラシックが上品に鳴り響いた。
曲名は定かではないが、さしずめビバルディの「春」といったところだろう。デザートが出てきた瞬間、早くも私の目には涙が
溜まっていた。こんなんによくしてもらったのに、何もお返しになるようなことが出来ない自分に歯痒さと苛立ちを感じた。こん
なことなら、さっきカメラで遊んでいないで少しでもお手伝いをすれば良かったのに・・・。
 <魚元>の料理一品一品に心がこもっていて、それがすごく感じ取れる。もし全く同じ料理を他の店で出されたとして、果た
して私はどれだけの料理を食べることが出来たろう。<魚元>の心の料理だからこそ、こんなに美味しく頂けたんだと思う。も
うこの味を知ってしまったら、他の店には入れないなぁ・・・と思った。
 部屋の中でまかちゃんはいろんなお話をしてくれた。まかちゃんは何事に於いても「やる気の問題や」と言った。本当にそう
だと思った。吉野鮨での自分の行動を振り返ってみた。思えば、動きはダラダラとして鈍いし、楽をしようとばかり考えて生活
していた気がする。この料理とまかちゃんの言葉によって私は今までの生活を改め、生まれ変わることを決意した。何事も一
所懸命に頑張るぞ!もう朝寝坊はしないぞ!仕事中あくびなんかしないぞ!グラスはあんまり割らないようにするぞ!ヤァー
ーッ!気分が最高潮に達した時、我に返った。そうかぁ・・・もう帰らなきゃいけないんだ。もっともっと色んな話をしたかったの
に・・・。あまりの居心地の良さに、帰ることをすっかり忘れそうになっていた。気を抜くと流れてしまいそうな涙をぐっと堪えて昼
食の後片付けをした。

帰ることになった
 荷造りを終えた母が玄関に立つ。私はお尻のポケットに細心の注意を払った。ポケットにはさっき部屋にひとりでいた私にま
かちゃんが渡してくれたものが入っていた。「5千円やから」といって渡された封筒は、本当に申し訳ないような気がして受け取
れなかった。こんなによくしてもらった上に、お金なんて頂けるわけがない。「これでまた滋賀に来てな」まかちゃんの優しい言葉
にまた号泣、である。封筒をしっかり受け取り、ポケットに入れたはいいが、落ちたらどうしよう・・・と気が気ではなかった。
 “5千円なんて大金、どうしよう・・・”といいつつ、これでまた滋賀に行けるんだ~!とワクワクしながら帰りの車中で封筒の中
を覗いてみて卒倒した。5千円でも十分な大金なのに、それの10倍ってアンタ、これじゃ大企業の社長夫人のお小遣いだよ・・・
なんて訳の分からない事を口走り、即座に母に預けた。この方が安心だと思ったのだ。渡す際、私は何度も母に念を押した。
「これで滋賀に行くんやからね!!」
 玄関口で文子さんに挨拶をし、ついに<魚元>と別れる時が来た。どうしようもないくらい、涙が出てくる。こんな泣き虫の自分
は大嫌いだ。本当はもっと笑顔で軽やかに別れたい。最後のマークⅡに乗る時が来た。初めてマークⅡに乗ったのは病院か
ら<魚元>に向かった時、私ひとりで。緊張している私にまかちゃんは沢山話してくれた。車にテレビがついているのが珍しくて
驚いたのを覚えている。2度目はその直後、ココスに連れていってもらった時に全員で。そして3度目。病院に向かっている。
乗っているのは母と私。もうマークⅡに乗れないのか・・・そう思うとやっぱり泣けてくる。
 病院にはあっという間に着いてしまった。二郎ちゃんは車の中で昼寝をして待っていてくれた。病室に入るとおばあちゃんは元
気そうで、まずひと安心だ。私も涙が出る気配はく、好スタートを切れた。
 数分話した後、看護婦さんが入ってきた。大柄な看護婦さんだが、とても美人である。おばあちゃんと看護婦さんのやりとりが
少しあって、母はおばあちゃんに滋賀を出る話を切り出した。「ほなな、おばあちゃん。もう帰るさかいな」おばあちゃんは泣いて
いた。おばあちゃんだけでなく、まかちゃんも、二郎ちゃんも、母もみんな泣いていた。私にいたっては、目を覆いたくなるような
形相で大号泣していた。私も折角おばあちゃんに逢えたのに、もう帰らなきゃいけないのはすごく悲しかった。「ほんまに来てくれ
てありがとう」そういったおばあちゃんは、おもむろに両手を合わせた。私は本当に涙が止まらなかった。“私もおばあちゃんに逢
えて嬉しかったです。ホンマにありがとう”と言いたかったけれど、喋ることすら出来なかった。
 病院を出れば、本当にお別れなんだ。胸がキューッと痛くなった。帰るのが本当に辛かった。今度こそ笑顔で・・・と思っている
のに、涙のせいでうまく笑えない。最後、まかちゃん、二郎ちゃんとギュッと握手したらすごくホッとした。2人の手はとても温かか
った。病院を離れ、小さくなっていく2人をじっと見ながら、またすぐに逢えるように心の中で願った。

☆ 18、19日の2日間で、小諸から出て八日市で過ごして私が感じたことを全て文章にしてみました。当初、誰にも見せずに自分
だけの記録にしておこうと思い、書き始めたのでありますが、母にこれを少し見てもらいましたところ「まかちゃんに送って読んでも
ろたらええやないの」と言われました。“こんな訳の分からない文章をまかちゃんに見てもらうやなんて失礼にあたらないかなぁ?”
と思い始めるようになりました。初めは5枚くらいにおさまるのかな、と思って書いていたのですが、書き終えたら13枚になってい
ました。文中にもあるとおり、私には本当に文才が無く、読み返すのも恥ずかしいくらいの酷い出来になっているとは思いますが、
19歳の無知な若人が書いたと思って、お許しください。私の、どうしようもない道中記に最後までお付き合いくださいまして本当に
ありがとうございました。心より感謝申し上げます。共に後書きの挨拶とさせていただきます。
3/23/2001 みちこ