私のマンガとの付き合い   怪人百面相

 私は昭和22年生まれのいわゆる団塊の世代である。
 子供時代の娯楽の中心と言えば、テレビが普及するまで何と言ってもラジオとマンガであった。私もご
多分に漏れず熱心なマンガ 少年であった。
 当時は「少年」「少年クラブ」「少年画報」「冒険王」などの月間少年雑誌を舞台に様々な作家が活躍し
ていた。『鉄腕アトム』の手塚治虫、『鉄人28号』の横山光輝、『赤胴鈴之助』の武内つなよし、『まぼろし
探偵』の桑田次郎などの面々である。
 その中で私の贔屓は漫画の巨匠・杉浦茂であった。『猿飛佐助』、『太閤記』、『少年西遊記』などを主
に集英社のおもしろ漫画文庫で、表紙が破れるまで愛読していた。 『猿飛佐助』に登場する「コロッケ
五円の助」 という奇妙な名前の侍を今でもよく憶えている。マンガ好きの友達の中では、真面目な奴が
手塚治虫派、私のような不真面目な奴は杉浦茂派に分かれていた。
杉浦茂・絵「猿飛佐助」から

 その後、小学校も3、4年になるとそれまで 少年マンガでは物足りなくなってきた。 そこで出会ったの
が貸本マンガである。普通の書店には置いてなく、貸本屋でのみ見ること ができる本であった。一泊
借りると10円。学校から帰ると10円玉を握って貸本屋まで走るのが日課だった。
 私がよく借りていた「影」「街」「摩天楼」 などの月刊本は探偵ものを中心とした男子向 き。その他に
はオカルト、戦記、時代劇、少女もの等多数あった。私の友人の中では貸本 マンガを読んでいる者は
少なく、マイナーな存在であったようだ。
 ここで出会った作家たちには、まだ売り出 したばかりで新人だった さいとうたかを (後に『ゴルゴ13』
で大物作家となる)、水島新司(『ドカベン』で有名に)、緻密な描写で戦艦や戦闘機を描いていた戦記物
の水木しげる(後に『ゲゲゲの鬼太郎』でブレイクした)、 恐怖漫画の楳図かずお、残酷武士道物の平田
弘史などがいた。その後あまりブレイクしなかった作家たちに辰巳ヨシヒロ、山森ススム、 K・元美津、
石川フミヤスなど数多く思い出すことができる。
 「劇画」という呼称は、この時代の貸本マンガの作家たちが言い出したのが発祥である。 ユーモアを表
に出す「漫画」ではなく、自分たちが描くものはストーリー性を中心とした「劇画」であるという主張であった。
 その中で小学6年の時に出会ったのが、白土三平の『忍者武芸帖』である。戦国時代を背景に大名と
百姓の闘争を描いた長編マンガで、約3年をかけて17巻まで続いた。くの一忍法、土一揆、百姓一揆、
一向一揆などを知ったのはこのマンガからである。
 この作品は、その後に大島渚監督の手により映画化されたことでもよく知られている。 白土三平はその
後『サスケ』や『カムイ伝』 向などの作品で大きくブレイクしていく。
 小学校を卒業した私は、その後、内外のミステリー小説に傾倒していき、マンガの世界からは離れていった。
・・・そして8年が過ぎ・・・
 大学3年になった私は再びマンガを手にすることになる。友人から「ガロという雑誌に凄いマンガが載っ
ているぞ」と言われ、早速その雑誌を購入。それは巻頭数ページの短編であったが、不気味で現実感の
ない作品であった。辻褄の合わない場面展開、夢の中を彷徨っているような落ち着きのなさ、意味不明な・・。
一読後、これは何なのだと衝撃を受けたことを鮮明に覚えている。これがつげ義春の傑作前衛マンガ『ねじ
式』との出会いであった。
 マンガはついにこんなシュールな世界を表現するまでに至ったのかと感慨に耽った。この作品に出会っ
たのを最後に、私は完全にマンガを卒業した。
 70年代以後、マンガはそれまでの陽の当た らなかった存在から脱却し、表舞台で市民権 を獲得して
いった。さらに活字メディアをも凌駕するまでに発展し、アニメと共に世界に誇る日本文化の代表へと成長した。
 しかし、表舞台で活躍を続けるマンガは私 にとって魅力のある世界ではなくなった。
 私の中でのマンガの世界は、杉浦茂に始ま り貸本マンガを経て、前衛マンガ『ねじ式』 で完結している
のである。
つげ義春・絵「ねじ式」から