最初の行者道「葛城修験」探求 by リワキーノ 2025.09.07
熊野修験団の仲間、カツラさんからLINEで日本経済新聞記事の写真を送ってきました。
それは熊野修験団の重鎮、花井淳也さんの手記でした。
花井さんが葛城修験の修行実践に強く傾倒していることは知っていましたが、その葛城修験の修行の
道を復活させたのが彼であることを知ったのはこの新聞記事ででした。
深い感銘を受けた私は、この手記を多くの人に知って欲しく、画像では読みづらい記事の内容を別途
編集しなおして、著作権侵害の恐れがありながらもテキスト化してここに載せることにしました。
どうか我ら熊野修験団の仲間たちが敬愛し、信頼し、誇りに思っている花井行者の手記をご覧になって
ください。
最初の行者道「葛城修験」探求
◇本職は花王の研究者が「半信半俗」で20年超、進み続ける開祖が開いた道 花井淳也
日本古来の山岳信仰と、仏教や道教などが結びつき、独自の発展を遂げた修験道。開祖の役行者(えんのぎょうじゃ)は、
前鬼てお後鬼を従えた像でおなじみだ。26年前、明治の修験禁止令以降に絶えていた熊野修験の活動再開に尽力した
那智山青岸渡寺の高木亮 英仕職から私はある思いを託された。役行者が最初に修行を積んだ場と伝わり、大阪、奈良、
和歌山にまたがる、葛城修験の復旧と調査だ。
本職は花王で働く研究者の私が、大役を引き受けることになったきっかけは、1998年に遡る。学生まで過ごした京都を離
れ勤務地の和歌山に転居した。地域の活動に携わりたいと考えていたとき、あるシンポジウムで、 吉野と熊野を結ぶ大峯
山を縦走する大峯奥修行のことを知り、4回に分けて踏破した。
豊かな自然を前に人間という存在の小ささを痛感した。同時に歴史的な活動が人の努力で継続されていることへの歌意も
芽生えた。京都に住んだ頃は、歴史は「外から見学する」ものだったが、「歴史の中に入る」ような活動は新鮮だった。
何より、一日中ひたすら歩くという体験から得られるリフレッシュ感は何物にも代えがたいものだった。先達に昔の山伏のよう
にはだしで歩くことを提案され、多くの時間をはだしで歩いた。
後の師匠となる高木住職から葛城修験の行者道の調査を頼まれたのはそんなときだった。役行者が最初に修行を積んだ
場も明治の修験道禁止の影響で、すっかり廃れてしまっていた。
研究者として働く傍ら、休日には地元の方に話を聞き、古い文献をひもときながら、役行者や古(いにしえ)の山伏がどの道
を歩いたかを探す日々が始まった。まず行ったのは、28ある経塚(仏教の経典を埋納した場所)の確認だった。経塚の位置
は「点」としておおよそは分かっていた。参考にしたのが 28の経塚が記された江戸末期の「葛嶺雑記」や、それを基に調査し
た他教団の記録だ。
問題はその点をどうつなぐかだった。当初は、大峯のように「峰沿いを 歩く」という思いにとらわれていたが、様々な文献を読
みあさるうち「経塚なをただつなぐのではなく、里から山、山から里へと往来して歩くのが葛城修験だ」と気づき、一気に見え方
が変わった。 なにも経塚だけが行場というわけでもない。道中で巨石を見つけたら、「ここでお経を唱えたのではないか」「瞑想
をしたのでは」と想像し、地元の人に話を聞く。すると文献にはあるが、場所が分からなかった行場と判明したこともあった。
3年ののち、道筋におおまかな目星は付いた。 しかし、終わりではない。 以来20年以上にわたって毎年歩き、より当時の山伏
が歩いたものに近いル―トを探し続けている。 分かれ道や山から里に下りた辻に地蔵が祭られているのを見つけ、こちらが
より確かな道だと確信することもある。
毎年歩き続けることで 積み上げた知識も多い。流や寺など、地元の方が大事にしている行場なども一つ一つ確認しながら歩く。
すると「また来てくれたね。ここには昔、行者さんがいて・・・・」と心を開いて教えてくれる方もいる。終わりなき探求は続いている。
歩き始めてすぐの頃、「高木住職に「半値半俗」という言葉をいただいた。「社会生活をおろそかにしてはならない」とう戒めも込
められていたかと思う。実際、子どもが小さい頃には、家庭との両立に悩んだこともある。今、55歳。修験で得たものをどう社会
に還元していくか考える日々だ。
(はない・じゅんや=会社員)
※花井行者については下記のページも参照ください。
http://hmpiano.net/riwakino/